表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰が描いた?【マンガ・アニメ制作のリアルを描く業界ドラマ】  作者:
ARC III — 読んでいる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

48/52

第45話 「日常」

 それはいつも、あまりにも唐突にやってくる。ただ、それだけのことだった。

 午後三時十二分。平日の、どこにでもあるコンビニエンスストアの店頭。

 一ノ瀬直哉は、ガラスの向こうで冷気に晒されている飲料コーナーの前に突っ立っていた。整然と並んだアルミ缶、幾何学的な美しさすら感じさせるペットボトルの列。特別に目を引くものなど何一つない、大都市の日常を構成する退屈な記号の群れだ。

 だが、彼が微糖の缶コーヒーに手を伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。

――網膜の裏側を、奔流のような記憶が掠めていった。

「……あ」

 喉の奥から、乾いた小さな声が零れ落ちる。

 脳内を過ったのは、ある物語の、とある断片だった。

 その時、彼の掌にスマートフォンの重みはなかった。当然ながら液晶の画面も開いておらず、読者たちの熱量が渦巻く感想欄とも、完全に断絶された空間にいた。それなのに、どういうわけか、その物語は直哉の意識の特等席へと強引に割り込んできたのだ。

 思い出したのは、極めて短い、何でもない一幕だった。

 物語の核心に触れるような重要なプロットでもなければ、世間一般の読者が「最高の名シーン」と絶賛するようなドラマチックな場面でもない。もし仮に、公式で人気エピソードのファン投票などが行われたとしても、おそらく上位のランキングには掠りもしないであろう、取るに足らない一コマ。

 それなのに、今、直哉の頭の中を占拠しているのは、その些細なインクの欠片だった。


 直哉は手を止めたまま、視線を缶コーヒーのラベルへと彷徨わせた。

 なぜ今、このタイミングで甦ったのか、合理的な理由は見当たらなかった。

 目の前にある缶コーヒーの色彩がトリガーになったのか。あるいは、店内に有線で流れているひどく退屈なポップミュージックのメロディのせいか。ガラス越しに差し込む、少し傾きかけた午後の光の温度がそうさせたのか。何らかの微細な環境のノイズが、彼の脳の奥深くで眠っていた記憶の回路を接続したのかもしれない。

 あるいは――現実の世界とは、最初から何の関係もなかったのかもしれない。

 人間の記憶というシステムは、つくづく気まぐれにできている。必死になって思い出そうと足掻いている時には冷酷な沈黙を貫くくせに、とうに忘却の彼方に追いやったと思い込んでいたものが、こうして何の前触れもなく、日常生活のど真ん中に牙を剥いて飛び出してくる。

 直哉はアルミ缶を一つ、棚から引き抜いた。指先に伝わる金属の硬質な冷たさが、彼の意識を緩やかに現実へと引き戻していく。


 レジへと向かう短い歩行の間にも、直哉の思考はまだ、あの物語のワンシーンに囚われたままだった。

 不思議なものだ。彼がその作品を読んだのは、もう数週間も前のことだ。

 昨日今日に投稿された最新話でもなければ、興奮冷めやらぬ状態で脳に焼き付けられたばかりのエピソードでもない。それなのに、その記憶の断片は、数週間という時間の濾過ろかを通り抜けて、未だに直哉の頭の中に居座り続けている。

 直哉が思い出したその場面には、大層な美辞麗句など一文字も存在しなかった。世界を揺るがすような急展開も、涙を誘う演出もない。

 ただ、画面の片隅に描かれた一人の登場人物が、ほんの少しだけ、寂しげに口元を緩めた。

 ただ、それだけのことだ。本当に、それ以外には何もない。

 それなのに、その微小な引力が、どうしようもなく直哉の胸の奥に残響として響き続けていた。


 自動ドアが開き、直哉はコンビニの外へと踏み出した。

 西日に照らされたアスファルトの照り返しが、一瞬だけ彼の視界を白く染める。

 ここは深夜の静寂に守られた六畳間ではない。青白い光を放つ液晶の画面の中でもない。他人のノイズと、せわしない現実の時間が容赦なく流れていく、至って凡庸な昼下がりの街頭だ。

 それなのに、物語は場所を選ばずに現れる。

 テキストの境界線を越え、画面の硝子を突き破り、人間の泥臭い日常の隙間へと、それは静かに侵入してくるのだ。何の脈絡もない、全く重要ではない瞬間に。

 その時、直哉は歩みを止めずに、ふと考えた。

 きっと、物語が人間の内に「住み着く」というのは、こういう現象を指すのだろう。

 お気に入りの名シーンを完璧に暗唱できることや、感動的な台詞をノートに書き留めることではない。とうの昔に忘れてしまったはずの、あるいは見落としていたはずの些細な断片が、現実の退屈な風景と重なった瞬間に、不意に、そして鮮烈に色を帯びて甦ること。

 虚構が現実の血肉に混ざり合うというのは、きっと、そういうことなのだ。


 交差点の歩行者信号が点滅から青へと変わり、直哉は再び足を前に進めた。

 周囲を行き交う人々は、それぞれの生活の速度で、それぞれの目的地へと向かって歩いている。直哉もまた、その無名の一人として、冷えた缶コーヒーを片手にアスファルトを踏みしめていく。

 見上げれば、薄い雲が午後の青空を頼りなく漂っていた。特別なドラマなど何一つ起こらない、ありふれた平日の午後。

 しかし――数週間前に見知らぬ誰かが紡ぎ出したあの物語は、今もなお、一ノ瀬直哉という人間の歩幅に合わせて、この街の雑踏を静かに伴走していた。

 ほんの少しの、名付けようのない温度として。だが確実に、彼の日常の隣に、それは寄り添っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ