第44話 「伝播」
伝えるべきか、あるいは黙っておくべきか。ただ、それだけのことだった。
午前一時三十六分。一ノ瀬直哉の部屋。
彼はスマートフォンの液晶画面をじっと見つめていた。開かれているのは、どこにでもあるチャットアプリの画面。画面の向こう側にいる友人からの、他愛のない問いかけがそこに残されていた。
『最近なんか面白いもの読んでる?』
短い一文。深夜の退屈を紛らわせるための、至ってありふれた、日常的な質問だ。
直哉の脳裏には、即座にいくつかのタイトルが浮かび上がった。現在進行形で追いかけている作品。自分がどうしようもなく惹かれ、夜な夜なその更新を待ち侘びている物語。
しかし――そこで彼の親指はピタリと動きを止めた。
「難しいな……」
誰もいない六畳間で、ぽつりと呟きが零れる。
他人に何かを「薦める」という行為は、考えてみればひどく不条理で、繊細な作業だ。自分がどれほど熱狂し、魂を揺さぶられた作品であっても、それが他人の胸にも同じように突き刺さる保証などどこにもない。
人間は一人ひとり違う。生きてきた背景も、心の形も、その夜に求めている救いの種類も、すべてが異なっている。自分が「最高だ」と信じるものが、他人にとってはただの「退屈なノイズ」に過ぎないかもしれないというリスク。それは、至極真っ当な現実だった。
それなのに――どうして人間は、自分が愛したものを誰かに教えたくなってしまうのだろう。
直哉は、ここ数日何度も往復した例の作品のトップページを開いてみた。
簡潔な粗筋、独特なフォントのタイトル、そして無数の読者たちの熱量が堆積した感想欄。もう何度も、それこそ網膜が擦り切れるほど見つめてきた光景だ。
直哉は画面を眺めながら、自らの内側にある動機を静かに因数分解していった。
なぜ、この物語を他人に教えたいのか。面白いからか? 当然だ。だが、理由はそれだけではなかった。
彼はこの作品の続きを渇望し、深夜の静寂の中でただ二行の感想を書き残し、過去のログを幾度も読み返し、更新のない日であっても我が家へ帰るようにこのページを訪れてきた。物語を消費する過程で、彼自身の「生きた時間」が、この作品のインクの隙間に地層のように積み重なっている。
つまり、その作品はもう単なる他人の創作物ではなく、一ノ瀬直哉という人間の輪郭の一部になってしまっているのだ。
だからこそ、彼は誰かに伝えたかった。自分がここにいるという事実を、物語という媒体を介して、ほんの少しだけ世界の向こう側へと拡張したかったのかもしれない。
直哉はチャットの入力欄に指を走らせた。
『これを読んでる』
送信。
送ったのは、作品のタイトルとURLだけだった。
熱烈な推薦文を添えるわけでもなければ、キャッチコピーのような美辞麗句で飾るわけでもない。ただ、無造作にその記号を放流した。
数秒の沈黙の後、画面の向こうからすぐに既読がつき、短い返信が戻ってくる。
『面白いの?』
直哉の指が、再び止まった。
数秒、さらに十数秒。暗闇の静寂の中で、彼は微かに口元を緩めた。
難問だった。面白いのか、と聞かれれば、一も二もなく面白いと答える。だが、そんな「面白い」というありふれた三文字の器には、彼の胸の中にある熱量は到底収まりきりそうになかった。
もし単に「面白い」だけの作品なら、この世には五万と転がっている。この物語が、どうして自分の心の最も深い場所に居座り続けているのか。その理由を説明しようとすればするほど、言葉は具体性を失って霧散していく。
直哉は諦めたように、しかし最も嘘のない言葉をゆっくりと打ち込んだ。
『なんか、読み終わった後にずっと残るんだよね』
送信。
批評としては、完全に落第点だろう。何の説明にもなっていないし、作品の魅力をこれっぽっちも言語化できていない。
だが、これ以上に正確な言葉を、直哉は持っていなかった。
友人からの返信は、今度は少しのタイムラグの後に届いた。
『何それ。意味わかんないんだけど』
画面を見つめ、直哉は思わず声を立てて笑ってしまった。
至極当然のリアクションだった。自分だって、他人にこんな曖昧な薦め方をされたら同じように返すに違いない。「意味わかんない」。本当に、その通りだ。
直哉はスマートフォンを机の上に置き、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
窓の外を見やると、夜の底は変わらずに平穏を保っている。向かいのマンションの、たった一つの窓から漏れる黄色い光。
時計のデジタル表示は午前一時四十九分を指していた。
誰かに作品を薦めるということは、その作品の「構造」や「技術」を論理的に解説することではないのかもしれない。
それは、物語を読み終えた瞬間に自分の胸の奥に取り残されてしまった、あの名付けようのない「温度」や「残響」を、そのまま誰かの手のひらに手渡そうとする、ひどく不器用で、一方的な祈りのような営みなのだ。
直哉はゆっくりと目を閉じた。
画面の向こうの友人が、あのリンクをタップするかどうかは分からない。それを読んで、自分と同じように心を動かされるかどうかも、知る由はない。
しかし――もし万が一、いつか彼が同じ物語の荒野に足を踏み入れる日が来たとしたら。その時、彼の胸の奥にも、直哉とはまた違う、新しい「何か」が不発弾のように埋め込まれることになるのだろう。
そして、そのまだ見ぬ可能性を想像すること自体が、深夜の孤独に沈む直哉の心を、どうしようもなく幸福な温もりで満たしていた。




