第29話 「未完の地層」
確実に、減っているはずだった。
少なくとも、彼女の脳内にある進捗のタイムラインではそうなっていた。そして現実は――ただの都合のいい錯覚に過ぎなかった。
午前一時五十九分。
YLSスタジオ。
レイは液晶モニターの隅に表示された、やるべきタスクの箇条書きを死んだ魚のような目で見つめていた。
『背景 修正』『セリフ チェック』『絵コンテ 再考』『資料 整理』『返信』『確認』『再確認』『あとでやる』『あとでやるタスクの確認』。
いつの間にか、そのリストは単細胞生物のような恐るべき繁殖力で、勝手に増殖を繰り返していた。
「……一ミリも減ってないねえ」
ソファーの沈没地帯から、毛布にくるまれた平坦な声が響いた。
ひよりだ。今夜の彼女はソファーのクッションの間に深く埋もれており、生体反応のある人間というよりは、考古学の未発掘遺跡に近い佇まいを醸し出していた。
「減ってる。確実に減ってる」
「本当に?」
「たぶんね」
「クリエイターの『たぶん』は、不渡り前提の小切手と同じくらい信用ならないからね、レイちゃん」
レイは再びリストに視線を戻した。確かに、完了した項目もあるにはある。三つ、あるいは四つ。問題は、消え去ったタスクの背後から、倍以上の新手が湧き出してきていることだった。
創作の世界には、ある種の不条理な数学が存在する。
一つ終わると、二つ増える。二つ終わると、三つ増える。
因果の計算がまったく合わない。まるで誰かが夜中に忍び込み、嫌がらせのようにリストの末尾に新しい仕事を書き足しているのではないかと疑いたくなるほどだ。
トントン、と深夜の密室に律儀なノックの音が響いた。
ドアを開けて入ってきた直也は、パイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。キィ、という乾いた軋み音。今やこの嫌な高周波は、スタジオの環境音として完璧に溶け込んでいた。
直也はレイのデスクの上に堆積したカオスに目をやった。剥がれかけの付箋、開きっぱなしのパース本、クロッキー帳、発光し続けるPSDファイル。そして――それらの隙間に埋もれた、無数のメモ書きの山。
「……なんか、えらいことになってるな」
「何が?」
「やることがだよ。終わるのか、これ」
レイは自嘲気味に唇の端を上げた。反論の余地はない。多いのだ。眩暈がするほどに。
まだこの業界に本格的に足を突っ込む前、彼女は創作という営みを、もっと潔癖でシンプルなものだと誤解していた。
絵を描く。終わる。投稿する。完結。
現実の構造は、そんなに優しくなかった。
描いて、修正して、確認して、また修正して、再確認して、さらにミリ単位の微調整を施して、業務の連絡に返信して、ファイルのディレクトリを整理して、保存して、確認して、そして再び最初の修正に戻る。
生み出される「作品」はたった一つなのに、その周囲に付着する雑務の質量は、いつだって本体を飲み込まんとするほどに膨大だった。
「タスクの山ってさ……」
椅子の下の遺跡から、ひよりがぽつりと呟いた。
「……クリエイターの部屋にある、新種の観葉植物なんだよ」
直也が缶コーヒーをデスクに置きながら、こらえきれずに吹き出した。
「またその植物シリーズかよ」
「第二弾。今夜の理論は深いよ」
「で? 今回はどういう不条理なんだよ」
「放置しておくとさ、水も肥料もやってないのに、勝手にグングン育つじゃん? あの生命力、完全に熱帯雨林のそれだよ」
スタジオに、一瞬の静かな沈黙が流れた。
そして不条理なことに――その解説は、今の二人の脳には奇妙な説得力を持って響いてしまった。レイにとっても、直也にとっても。
タスクの地層は、確かに増え続けている。彼らは一度としてそこに水をやった記憶はないし、栄養を与えた覚えもない。それなのに、リストは自律的な生命体のように、夜の深まりとともにその枝葉を伸ばしてくるのだ。実に不可解極まりない怪奇現象だった。
レイはモニターのベゼルから、一枚の黄色い付箋を剥ぎ取った。
そこに書かれていた作業は、先ほど完全に完了している。もはやこの四角い紙切れに存在価値はない。レイは指先でそれを小さく丸めた。
クシャ、という微小な紙の摩擦音が静寂に弾ける。
そのまま、足元のゴミ箱へと放り投げた。ポスン、と軽い音がして、付箋はゴミの山のなかに沈んでいった。ただそれだけのことだった。
けれど――なぜか胸の奥が、ほんの少しだけスカッとするのを感じた。
「お」
それを見ていた直也が言った。
「一つ、討伐完了だな」
「うん」
「おめでとう」
床の遺跡からも、毛布に遮られてほとんど音のしない、覇気のない拍手が送られてきた。
「……大袈裟だよ、二人とも」
「いいえ、大袈裟じゃありません」
ひよりが毛布の中から大真面目なトーンで言い返す。
「タスクが一つ死んだときは、サバトを開いて祝うべきなんです。なんでか分かる?」
「さあ?」
「すぐに次のタスクが生まれてくるからですよ。束の間の平和を噛み締めなきゃやってらんないじゃん」
レイは言葉を失った。ひどく後ろ向きで、しかし完璧に核心を突いた現実主義。
彼女は再びモニターの箇条書きに目をやった。相変わらず長い。やるべきことは、依然として視界を圧迫するほどの質量でそこに並んでいる。
このリストが、完全にゼロになる日は訪れるのだろうか。
――きっと、訪れない。レイは心のなかでそう結論づけた。
なぜなら、一つの仕事が終着点に辿り着いた瞬間、そこには次の新しいページが、新しい修正が、そして新しいプロットのアイディアが、すでに牙を剥いて待っているからだ。創作の世界とはそういう場所だった。
常に終わっていて、そして常に続いている。
完璧な矛盾。しかし、その歪な永久機関こそが、彼女たちの日常を回すエンジンそのものだった。
窓の外の夜は、相変わらず穏やかな水平を保っている。雨の気配はなく、いつものプレイリストが耳の裏側で静かにアンビエントを奏でていた。モニターの青白い光が、カオスを湛えたワークデスクを等しく照らし出している。
レイは再び、スタイラスを正しく指の間に挟み直した。
この箇条書きを一晩で全滅させる必要なんてない。すべての仕事を完璧に片付ける必要もない。
ただ、次の、目の前の一歩だけを進める。一つのタスクを、泥臭く潰していく。今の彼女には、それだけで十分だった。今日すべてを終わらせる必要はない。
昨日よりも、ほんの一枚だけ付箋が減っていれば。昨日よりも、ほんの一行だけリストが短くなっていれば、それを世間では「前進」と呼ぶのだ。
そして、その微小な、他人には決して理解されないレベルの微速前進こそが、人を次の夜へと歩ませる唯一の燃料だった。
レイは新しいレイヤーを作り、白いキャンバスの上にペン先を滑らせた。一本の線が刻まれる。
モニターの隅のタスクリストは、相変わらず長い。
けれど、先ほどよりも、ほんの数ピクセル分だけ、それは確実に短くなっていた。
そして午前二時のYLSスタジオにおいて、その些細な事実こそが、何よりも確かな救いだった。
Ctrl+S。
保存完了の電子音が静かに響き、消える。彼らの長い夜の終わりは、まだ、どこにも見当たらなかった。




