第28話 「既視感」
どこかで、見た記憶があった。
しかし――それがいつ、どこのアーカイブから引っ張り出された映像なのか、記憶のインデックスがどうしても噛み合わない。
午前二時十一分。
YLSスタジオ。
レイは数インチ先の液晶モニターを、穴が空くほど凝視していた。画面に展開されているのは、現在進行形で手を動かしている二十七ページ目の作画データだ。デッサンが狂っているわけでもなければ、コマ割りのテンポが破綻しているわけでもない。視線の誘導も滑らかで、物語の流れとしてはむしろ美しい部類に入るはずだった。
それなのに、喉に引っかかった極小の魚の骨のように、得体の知れない違和感だけが意識の表層をザラつかせていた。
「……どうかした?」
デスクの脇で缶コーヒーのアルミの肌を指先でなぞっていた直也が、怪訝そうに声をかけてきた。レイはスタイラスを握ったまま、数秒間の沈黙を挟んでから答えた。
「なんかね、見たことがある気がするの」
「何を見ただって?」
「このコマの、構図」
直也は身を乗り出し、レイの視線の先にある液晶画面を覗き込んだ。数秒、あるいは数十秒。システムエンジニアの理性を総動員してピクセルをスキャンしたものの、やがて諦めたように首を横に振った。
「……俺には分からないな。どこかの漫画のオマージュか?」
「それも分からない。だから気持ち悪いの」
そして、それこそが真の不条理だった。見た記憶は確かにあるのに、その記憶の『出所』が完全にブラックボックスに隠されている。
床の底辺、二脚連結されたパイプ椅子の隙間から、眠気を含んだ平坦な声が這い出してきた。
「あるある。それ、クリエイターズ・デジャヴの典型症状だよ」
ひよりだ。今夜の彼女は毛布の繭を一段と強固に巻き付けており、もはや輪郭だけでは人間なのか単なる布の塊なのか判別がつかない。
「典型、なの?」
「そう。自分では世界初の大発明だと思って引いた主線がさ、脳の奥底に沈殿してた十年前の深夜アニメのモブの背景のコピペだったりするわけ。探しても絶対に元ネタは見つからないシステムになってるから。諦めなよ、レイちゃん」
ひよりは毛布のなかで、予言者のような冷淡さで言い放った。
レイは自嘲気味に唇の端を上げた。確かに、彼女の脳内には、これまでの人生で消費してきた膨大な視覚情報の残骸が堆積している。
無数の漫画、映画、小説、イラストレーション、街角の広告、あるいはSNSのタイムラインを無機質に流れていった出所不明の画像たち。それらの数え切れない断片が、脳という歪なミキサーのなかでドロドロに攪拌されているのだ。
そして時折、その混沌の底から、一個の明確な形を持った泡のように、奇妙な既視感が浮上してくる。誰かの模倣をしたわけではないという確信はある。けれど、表現者という人種は、その微小な「不確かさ」に対して、病的なまでに神経質にならざるを得ない生き物だった。
レイはクリップスタジオの画面を最小化し、ハードディスクの奥深くに埋もれた古いフォルダを次々とクリックしていった。
数年前の没ネーム、過去のラフスケッチ、乱雑に集められたロケハンの資料、Webの海から拾い集めた画像のアセンブリ。どこかにその『答え』が転がっているのではないかという、強迫観念に似た探索。
カチ、カチ、カチ。
マウスの乾いたクリック音だけが深夜の密室に響く。ウィンドウが開き、閉じられ、また別のディレクトリが展開される。しかし、どれほど地層を掘り返しても、彼女の喉に刺さった骨の正体は現れなかった。
「完全に、迷子だねえ」
ひよりが連結された椅子の軋み音に声を混ぜる。
「誰が?」
「レイちゃん。自分が何を探してるのかも分かってないでしょ、それ」
言葉のナイフは正確にレイの核心を抉っていた。その通りだった。彼女は何かを探しているが、その何かがどんな色をしていて、どんな名前を持っているのかさえ、当人には分かっていなかった。
直也は手持ち無沙汰そうに、レイの散らかり放題のデスクを見つめた。
山積みのクロッキー帳、剥がれかけの付箋の群れ、開かれっぱなしのパースの参考書、そしてモニターのなかで迷走を続ける無数のフォルダのウィンドウ。
彼は冷えきった缶コーヒーを小さく揺らし、ぽつりと呟いた。
「でもさ」
「ん?」
「その、見覚えがあるっていう感覚は、必ずしも悪者じゃないだろ」
レイはフォルダを閉じる手を止め、直也のほうを振り返った。直也は少しだけ視線を彷徨わせ、自らの言葉の論理を組み立てるようにして続けた。
「だってさ……」
彼は、青白い光を放つモニターの画面を見つめた。
「俺、ほぼ毎日のようにこのスタジオに来てるけど」
「うん」
「いつも同じ不格好なデスクでさ」
「うん」
「同じ不味いインスタントコーヒーを飲んでさ」
「うん」
「同じ変わり映えのしない部屋にいるわけじゃん」
「……うん」
「でも、一回も退屈だと思ったことはないよ」
スタジオの空気が、不意に静かな停滞へと収束していく。椅子の下のひよりさえも、その不条理な告白を遮ろうとはしなかった。直也は少しだけ決まり悪そうに唇の端を掻き、苦笑を混ぜた。
「だって、その見覚えのある風景が、一番居心地がいいからさ」
レイは促されるように、暗いガラス窓の向こうの夜を見つめた。
液晶モニターの残光。黄色い付箋のモザイク。カオスを湛えたワークデスク。耳の裏側でループ再生されるアンビエント。そして、すっかり温くなった珈琲の苦味。
すべてが、何百回、何千回と繰り返されてきた、圧倒的な既視感の集積だった。毎日同じ風景を見ている。
それなのに――この空間は、どうしようもないほど退屈とは無縁だった。
不思議なパラドックスだと、レイは思った。
昨日と同じ風景に見えて、実際には世界の歯車はミリ単位で確実に前へと回り続けている。昨日の原稿より、先週のネームより、ほんの僅かだけ物語は前進している。その微小な、他人には決して気づかれないレベルの変化が積み重なっているからこそ、彼らはこの歪な日常のなかで、溺れずに歩みを続けることができるのだ。
レイは再び、先ほどまで自分を苛立たせていた二十七ページ目のコマへと視線を戻した。
結局、その既視感がどこの誰の記憶から盗まれてきたものなのか、最後まで答えは出なかった。けれど、彼女の胸の奥を占めていた焦燥は、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
既視感は、必ずしも排除すべきノイズではない。
それは時として、その表現が、その風景が、どれほど長い時間をかけて自分という人間の細胞に寄り添ってきたかを示す、無言の証明書なのだ。創作において。そして、ただ生活を消費していく日々において。その二つの境界線は、本質的に同じものなのかもしれない。
椅子の下の暗がりから、ひよりの地を這うような呟きが聞こえた。その声は、今度こそ本格的に深い眠りの淵へと引きずり込まれかけていた。
「人間なんてさ……ただの、お気に入りのルーティンを繰り返すためだけの、精巧な機械だよ……」
その不条理な定義に、反論する者は誰もいなかった。
窓の外の夜は、どこまでも平坦な静けさを保っている。時計の針は午前二時二十八分を指していた。プレイリストのトラックは変わり、マグカップの底にはまだ、僅かに黒い液体が残されている。
レイはスタイラスを正しく指の間に挟み直した。新しい一本の線を、白いキャンバスの上に刻み込む。続いて、もう一本。
あの得体の知れない既視感は、今も消えずにそこにある。けれど、もうそれを追い出す必要はなかった。
モニターの放つ青白い光は、昨日と何一つとして変わらない。それなのに、今夜のこの閉鎖的な世界は、昨日よりもほんの少しだけ、解像度が高くなっている気がした。
Ctrl+S。
保存完了の電子音が、いつものように静寂へと溶けて消えた。




