第26話 「深夜徘徊」
午前三時二十七分。
彼らの珈琲は、完全に底を突いていた。
あるいは正確に言うならば、最後の一缶のアルミの底が、今しがた虚しい音を立てて空になった。レイは気休めにスチールラックの備蓄棚を開けてみたが、そこにあるのは埃をかぶったスチールの格子だけだ。引き出しの奥を指先で探ってみても、出てくるのはなぜか大量の輪ゴムの束だけだった。出所も用途も不明な輪ゴムはあっても、彼らが今もっとも求めている黒い液体は、どこにも見当たらなかった。
「これは、一刻を争う人道的大危機だよ」
ソファーの隅で、毛布の繭から顔半分だけを覗かせているひよりが言った。冬眠を目前に控えた、ひどく怠惰な大型猛獣を思わせる構えである。
「大袈裟。そこまでじゃない」
「クリエイターにとっての主燃料が枯渇したんだよ? プロットのエンジンが焼き付いて死んじゃうじゃん」
「昨日も同じこと言ってたでしょ」
「私は歴史の証人として、何度でも言い続けるよ」
ひよりは毛布のなかで、わざとらしいほど神妙な表情を作ってみせた。
「これは、のちにYLSスタジオの崩壊の端緒として、歴史教科書に太字で記録されるべき事態なんだから」
「……記録されないから、絶対に」
レイは空っぽの棚を見つめ直した。確かに、たかが珈琲だ。それが切れたからといって、彼女の指先が即座に壊死して作画が止まるわけではない。
けれど、何かが決定的に欠落しているという感覚だけは、じわじわと室内の空気を侵食していた。いつもそこにあるはずの「背景」が消失しただけで、見慣れたスタジオの風景が、どこか現実味を欠いた歪な空間に見えてくる。
トントン、と深夜の防音壁を律儀なノックの音が叩いた。
ドアを開けて入ってきた直也の姿を見て、スタジオの二人は一瞬、同時に言葉を失った。
なぜなら、彼の手には、もはや彼の右腕の延長線であるはずの、あの白いコンビニのポリ袋が握られていなかったからだ。数年間のルーティンが崩れたその瞬間、スタジオ内の気圧が僅かに狂った気がした。
「……珍しいね、直也くん」
ひよりが毛布の隙間から、まるで未確認生物でも見るような目を向けた。
「何がだよ」
「手ぶらじゃん。直也くんがコンビニの袋を持ってないなんて、梅雨時に雨が降らないくらい不吉な予兆だよ」
直也は数秒間、自分の右手をまじまじと見つめ、それから得心のいったように首を振った。
「ああ……。今日は会社から直接こっちに車を走らせたから、途中で寄るのを忘れてたんだ」
「なるほどねえ」
ひよりは深く頷き、それから毛布の繭を勢いよく跳ね飛ばして立ち上がった。
「じゃあ、決まりだ。行こう」
「どこにだよ」
「コンビニ。深夜の聖地巡礼さ」
スタジオに、一瞬の奇妙な沈黙が流れた。三人は無言のまま、互いの視線を交わし、そして一秒後には完璧に同じ結論へと辿り着いていた。
行こう。言葉にするまでもない、深夜の逃亡の合意だった。
五分後。
彼らはスタジオの外、冷徹な静寂が支配するアスファルトの上にいた。
深夜特有の、鋭利な刃物のような夜風が容赦なく肌を刺す。昼間の喧騒が嘘のように引き剥がされた道路は、どこか見知らぬ異国の街のようにひっそりとしていた。忘れた頃にだけ通り過ぎるタクシーのテールランプが、暗闇に赤い軌跡を残して消えていく。交差点の信号機だけが、誰も見ていないというのに、馬鹿正直な規則性で色の点滅を繰り返していた。
午前三時の都市というものは、実に奇妙な相貌を持っている。すべてが呼吸を止めて眠っているように見えて、その実、世界の歯車だけは無機質に回り続けている。
目指すコンビニまでは、徒歩で約三分。目と鼻の先だ。だからこそ、彼らはこの数年間、幾度となくこの道を往復してきた。
ネームが行き詰まった最悪の夜も。締切を無事に乗り越えた解放感に満ちた朝方も。あるいは、特に何の理由もない、ただ部屋の空気に息が詰まりそうになっただけの夜も。
気づけばこの短いアスファルトの道は、彼らの創作活動という営みの、不可分な外縁部として組み込まれていた。
自動ドアが軽快な電子音とともに左右に開くと、容赦のない蛍光灯の白い光と、人工的に管理された冷気が彼らを迎えた。そのあまりにも日常的な空間の質感に、麻痺しかけていた五感が強制的に覚醒させられる。
レイは迷うことなく、ドリンクコーナーのガラス扉へと直進した。
いつもの珈琲。いつものスチール缶。いつもの配置。彼女の身体は、脳が思考のプロセスを挟むより早く、完全に反射の領域で特定の製品へと手を伸ばしていた。
「本当に、迷わないんだな」
背後から、直也が感心したような、あるいは少し呆れたような声をかけた。
「うん」
「いつもそれ、一択?」
「大体、ね。これ以外を買う理由がないから」
横から、スナック菓子の棚を物色していたひよりがニヤニヤしながら首を突っ込んでくる。
「直也くん、クリエイターって人種はね、私生活において冒険を極限まで嫌うの。脳のメモリを作画以外に使いたくないから、選択っていうコストを徹底的にカットするシステムになってるわけ」
「人によると思うけど」
「レイちゃんに関しては、百分の一の狂いもなくこれ。自覚ないでしょ」
レイは言い返そうとしたが、現に自分の両手に収まっている同じ缶の重みを見つめ、静かに口を閉ざした。反論の余地がない。
新製品のポップが躍り、季節限定の奇妙なフレーバーが並ぶ棚のなかで、彼女はそのカオスを完全にスルーしていた。修羅場の真っ只中において、不確定要素を増やすことほど愚かな選択はない。いつもの味、いつもの苦味だけが、彼女の精神を現実の座標に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
直也はチルドスイーツの棚の前で足を止め、ひよりは相変わらず新作のジャンクフードの森で迷子になっている。
レイは数缶の珈琲を抱えたまま、深夜の店内の風景をぼんやりと見つめた。
整然と並んだ商品棚、雑誌コーナーの静けさ、無表情な店員が叩くレジの電子音。すべてがどこまでも平坦で、どこまでも普遍的だった。
そして、その「変わらなさ」こそが、今のレイにとっては不気味なほど心地よかった。
原稿の修羅場の途中でコンビニに赴くという行為は、いつも独特の浮遊感を伴う。物語という名の密室から一時的に脱出し、現実の世界へと足を踏み入れているはずなのに、完全にその世界から切り離されているわけではない。
なぜなら、脳の最も深い領域において、あの二十七ページ目のキャンバスは依然として発光し続けているからだ。
パースの狂った背景の処理、吹き出しのミリ単位の位置修正、未だに白いままの四角い余白。店内のBGMを聴きながらも、彼女の思考の指先は、常に液晶画面の上のカーソルを動かし続けていた。表現者という生き物は、世界のどこにいようとも、その脳内の檻から完全に脱走することなど不可能なのだ。
「レイ」
不意に、隣にいた直也が低い声で名前を呼んだ。
「ん?」
「……顔」
「私の顔が、どうかした?」
「スタジオでモニターを睨みつけてるときと、完全に同じ顔になってるぞ」
レイはパチパチと瞬きをした。
「そんな、特殊な顔、してないと思うけど」
「してるしてる。完全に『立花怜・修羅場モード』の顔じゃん」
スナック菓子の袋を抱えたひよりが、我が意を得たりとばかりに助手席から口を挟む。二対一。レイはそれ以上の抗議を諦めた。
思考が内側に引き籠もっているときの顔。目の前の現実ではなく、脳内のネームを凝視しているときの目。自分では決して見ることのできないその歪な自画像が、直也やひよりの目には、恐ろしいほどの解像度で映っているのだろう。それは少しだけ気恥ずかしく、同時に、奇妙な安心感を伴う事実でもあった。
会計を済ませ、ポリ袋のずっしりとした重みが直也の手へと戻った。
コンビニの自動ドアを出ると、再び濃密な夜の空気が三人の身体を包み込んだ。ポリ袋のなかで、冷やされたアルミ缶同士が触れ合い、チリンと微かな金属音を立てる。その冷たさが、指先の皮膚を通じて、昂ぶっていた脳の熱を適度に冷却していく。
彼らは再び、夜の底を歩いてスタジオへの帰路についた。
何か特別なものを手に入れたわけではない。劇的な事件が起きたわけでもない。ただ、三分歩いて、缶コーヒーを買い、また三分歩いて戻る。それだけの中身のない移動だ。
けれど、彼らの精神の傾きは、その些細な徘徊によって、確実に緩やかな水平を取り戻していた。それだけで、深夜の逃亡の目的は十分に達成されていた。
前方に、見慣れた雑居ビルの窓が見えてくる。
YLSスタジオ。その四角い硝子の向こう側で、二台の液晶モニターが放つ青白い残光が、夜陰に浮かび上がっていた。
散らかり放題のワークデスク。未だ完成に至らない物語。それらが、冷徹なまでの誠実さで、主人の帰還を待っている。それは彼女たちにとって、逃れられない戦場であり、同時に、この世界でもっとも安息できる「家」そのものだった。
レイは唇の端を僅かに釣り上げ、鍵を開けてドアを押し開いた。
さあ、作業を再開しよう。
物語の続きが、インクの渇きを求めて待っている。
だからこそ、この果てしない夜は、まだまだ終わるわけにはいかないのだ。
Ctrl+S。
データが更新される。カレンダーの数字は変わらない。けれど、彼女のペン先は、再び迷いなく白いキャンバスの上へと滑り出していった。




