42話 社畜さんの辛い過去
――桃華視点
喫茶店を急いで出て和夫さんのお店へ向かった。梓先輩も一緒に付いて来てくれている。でも最後まで店長さんの姿は見えなかった。ほんとに何処に行ったんだろう……。
「あら~、梓ちゃんと桃華ちゃん! 今日は美女が沢山来る日ね~」
「えへへ、もう、カズリンさんって正直なんだから!」
「あ、あの、梓先輩?」
完全に美女という言葉にのせられてる……確かに嬉しいんですけど、今はそれどころじゃなくて!
「すみません、さっき課長さん来ませんでしたか!? あと葵先輩も!」
「課長さんならさっき来たわよ~。葵ちゃんは来てないけど。そうそう、課長さん今日は久々に『飲ま飲ま』に顔を出すって言ってたけどね」
もう嫌な予感しかしない。だって、葵先輩が消えた方角には『飲ま飲ま』があるから……。
「ありがとうございます!」
居ても立っても居られなくてその事だけを聞き、挨拶をして大将さんのお店、居酒屋『飲ま飲ま』へと足を運んだ。それにしても和夫さんには冷やかしもいいところ……今度商品買わせていただきますので!
赤い暖簾の焼き鳥屋さん。この前葵先輩達に歓迎会をしてもらったお店で独特の声色を持つ大将さんが居る。
「桃華ちゃん、ちょっと不味い予感がしてきた……私、ちょっと行って来るね」
「ありがとうございます……」
私も同じく不安な思いでいっぱいだった。店先で祈るような仕草をして梓先輩が戻るのを待っていた。
しばらくするとお店の扉が開いて梓先輩が出て来たんだけど、その表情は芳しくないものだった。
「……桃華ちゃんの胸騒ぎってほんと的中するんだね。さっきまで二人で飲んでいたみたい」
悔しかった、寂しかった……さっきの告白を聞いた上で、課長さんと二人切りになるなんて……。
葵先輩は勘違いしてたみたいだけど……。
「でもまだよ! 大将から聞いた話だと最初一人で来ていた葵の後から課長が来たんだって。偶然会った可能性もあるから。それよりも厄介なのは、大将のドクターストップがかかっている課長だね……」
少しばかり血の気が引いた顔をしている梓先輩が居た。お酒に飲まれるタイプなんですか? しゅ、酒乱なんですか!? それとも、え、エッチな人になるとか!?
「とりあえず、今の課長は危険よ! まだその辺りに居る筈だから探しましょう!」
鬼気迫る顔で私の腕を掴み駅に向かった。あの梓先輩がそこまで恐れる課長……お願い、無事で居て! 葵先輩!
駅前に戻って来て辺りを見回していると不意に梓先輩が近くの茂みへと引っ張った。口元に人差し指を置き、もう片方の手で噴水の前のベンチを差していた。
「桃華ちゃん……あれ……」
指を差す先には、少し足元がおぼつかない女性を支える男性が映った。課長さんと葵先輩だ……こうして見ると、お似合いの後ろ姿だ。私とじゃ身長差があり過ぎてひいき目にもお似合いとは言えない。そして密着している二人はカップル以外には見えない。
そのまま二人はベンチへと腰かけた。どうやら課長さんは酔っているみたい……。
そんな二人を見て気落ちしていると、微かに二人の会話が聞こえて来た。
「今日はあお君のお家で寝るぅ~」
「ダメです。帰って下さい」
即答ですね! そうです! いいですよ葵先輩! そんな女性を軽々しく泊めるなんてよくありませんから!
あれ? わ、私、泊まったよね……女性として見てくれていないとか無いですよね?
そんな過去の事に自問自答していると梓先輩から小さな声が漏れたような気がした。その声に再び二人を見ると、合わさっていた……唇が……キ、キスだ。
「あお――んむううううっつ」
「ダメだよ、流石にそこで大声出しちゃ! それに大丈夫だから」
咄嗟に口を押えられた。
何が、何が大丈夫なんですか! 目の前で好きな人が女性にキスされ――
「んっ!? ちょっと課長!? もう! やめて下さい!」
明らかに嫌悪の気持ちが混ざった声が聞こえ、そのまま課長さんを突き放した葵先輩が居た。課長さんを……拒否した……? しかも相当嫌がったてた感じ……。
「ね? 言ったでしょ。ただ……これは桃華ちゃんも同じハンデなんだ……」
その後、二人はボーナスを下げるなどの妙に生々しい話をしている間に、梓先輩から先程の葵先輩がキスを嫌がる事情を聞いた。
「葵はね……キス恐怖症なの……。私はなんとか克服出来たんだけど……」
良く分からない。潔癖症とかそういう類なんでしょうか……でもキスが嫌なんですか……。まあ、私はした事無いですけど。
「課長って酔うとキス魔になっちゃってさ。それにお酒も強くないのに結構飲むんだよね。そしてある一定のラインを超えると私や葵にぶちゅぶちゅしちゃうんだよ……」
うう、それはちょっと、いや、かなり嫌ですぅ……。そうですか、梓先輩も被害に……さっきは『私は』と言ったのはそういう意味だったんですね。
「はじめは鼻の下伸ばしていた葵だったんだけど……そこで事件が起こったの……」
葵先輩、最初は嫌がってなかったんですね。なんか無性に気持ちが高ぶってきました。どんな形であれキスはキスじゃないですか! 私は経験無いんですよ!?
そんな私の気持ちとは裏腹に梓先輩は少し険しい顔をして私を見た。すごく遠い目をしてますけど……。
「葵と課長の唇が合わさって繋がって一つになったんだけど……」
聞きたく無いです! そんなお話!
声に出そうとした瞬間だった。
「……そのままリバース。あれはまるで滝のようだったよ……端から見てても引いちゃうぐらい。というかそれを直接被弾した葵は……もう……」
やっぱり聞きたく無かったですぅ! どっちも嫌ですぅ! でもキス中のリバースの方が嫌ですぅ! ただの拷問じゃないですか!
「そして、葵はキスを怖がるようになった……」
なんて辛辣な過去……完全にトラウマになってるんですね……。そっか、この前の間接キスですら危なかったのかも知れない。
そうこうしている内に二人は立って歩いて行った。駅の改札とは反対にある葵先輩の自宅へ。
「まさかのお持ち帰りなの! 葵っ!」
驚きを隠せない梓先輩だったけど葵先輩の仕草を見て、妙に引っかかるものがあった。多分……。
「これ以上は流石に見逃せ無いね。私が止めて――」
「大丈夫……です」
飛び出そうとする梓先輩の手を持ち、そう伝えた。今までの私なら、この街の人の事を知らなかったら確実に妨害していたと思う。でも、何故だか大丈夫な気がした。
「いいの!? 二人がゴールインしちゃうかも知れないよ!? 肉体的に!」
「多分、しないと……信じています。あの光景、知ってますので……」
葵先輩は優しい人、酔ってふらふらしている人を放置する事なんてしない。私を含め、清音ちゃんや梓先輩にだってそういう風に接して来た人。物凄く面倒見がいい人だから。
それに私は一応は告白した。梓先輩から聞いた通りなら葵先輩も私を好きだと思ってくれている、両片想い……かも知れない。もうさっきまでのような子供染みた事はやめる。好きな人なら信じる事も大切だと思う。
辛いし、怖い、でも……信じます!
「もう……どうなっても知らないからね。でも何だろう……かっこいいじゃない、桃華ちゃん!」
頭を撫でながらにやりと笑ってくる梓先輩。正直不安はあるんですけど、あの状態の課長さんを襲うとは思えない。ただ不安としては葵先輩は大丈夫だけど、課長さんは分からない事……。
「そ、そんな事無いですよ……私なんて……」
それでも、葵先輩を信じたい……。
葵先輩を追いかけずに梓先輩と電車に乗り、自宅の最寄り駅に到着した。梓先輩と分かれた後にホームのベンチに腰掛け、スマホを操作し、葵先輩に一通のメールを送っておいた。
『今度、おでかけしませんか?』と。
その文面を打つのにこの前のような迷いはもう無かった。




