#4
日暮れと同時に、雨が降り出した。
村の男たちは『豆笠』との差別化の為に笠や蓑を纏う事もなく、秋雨の冷たさに震えながら見張りに就いていた。辺りを照らす松明は雨を避けて軒下へと移され、微かに灯る火種を燻らせている。視界は悪く、雨風によって周囲の物音も聞き取りにくい。この様な天候の時に《マガツタマ》の襲撃を受ければ、初動は確実に遅れ迎撃は困難なものとなる。村人たちの顔にはいずれも緊張感が漂っていた。
お絹と綾の家。白百合と茶々は《黄泉比良坂》の探索に出たっきり未だ帰らない、愛と阿国を待ち続けていた。白百合は半分だけ開けた戸の前に綾と並んでしゃがみ込み、雨垂れが流れ落ちる暗闇をただじっと見つめている。茶々は囲炉裏の横で種子島を磨き、お絹は黙々と夕食の支度に勤しんでいた。会話は無く、静かな時間だけが気怠く流れ過ぎる。
出来る事ならば今すぐにでも二人を探しに行きたい。だが、留守にしている間に《マガツタマ》が村を襲ったらどうする?ひとりを残して行く?追いかけたひとりも帰らなかったら?村に残ったひとりでどれだけの状況に対応出来る?
悔しいが、白百合と茶々には待つ事しか出来ない。少なくとも夜明けを待って動くべきだろう。鉄砲玉の様な性格の白百合にだってさえ、迂闊な行動は却って事態を悪くするだろう事が容易に理解出来た。だからこそ、歯痒くて仕方が無いのであったが。
「さ、食いなっせ」
お絹が出来たての夕げを並べ微笑む。彼女とて短くない期間を愛や阿国と過ごしてきた。二人の事が心配だったであろうが、寧ろいつもより気丈に振舞って見せる。お絹は鉄鍋だけでなく、お櫃をその細腕に持って囲炉裏の前に置いた。
「お米だぁっ!」
お櫃の中身を見た白百合と綾が顔を輝かせる。元々高貴な生まれであった白百合や茶々であるが、各地を旅する《歩き巫女》になってからは当然贅沢など出来ようはずもない。それは雑穀の混じった古米であったが、白く艶やかな見た目と立ち昇る甘い匂いは、自然と少女たちのお腹の虫を鳴かせた。
よろしいのですか、と訪ねた茶々に、お絹はもうじき稲刈りが始まるから、と笑ってお椀を差し出す。
「二人の分も残してあっから、遠慮すっこたねぇ」
いただきます、と手を合わせるやいなや、白百合は勢い良くそれを口の中に運んでいく。茶々は伏し目がちに一口食べると、溜息と同時に箸と茶碗を置いた。
「アンタ、こんな時によく食べられるわね。二人が・・」
茶々の言葉に白百合は別段箸を止める事なく、頬を一杯に膨らませたまま頷く。咀嚼を終えた彼女はごくんと音を立てて飲み込むと、不安を覗かせる茶々の顔を真っ直ぐに見据えた。二人に何が起こったのか、そしてこれから何が起こるのかはまるでわからない。
「だからこそ、ちゃんと食べて体力付けなきゃ」
「・・・あ・・」
白百合という少女は天真爛漫なお転婆でありながら、時にハッとさせられる事をさらりと言う。茶々は年上である自分の方が戸惑っていた事を自覚し、それを少しだけ恥じながら無理矢理食事を再開した。お絹はそんな茶々の横顔を微笑みながら見つめ、綾は白百合を真似て元気良く器の中身を平らげていく。
そして、白百合と茶々がまだ食事の途中でお椀を置いたのは、ほぼ同時だった。
《マガツタマ》の気配を感じた白百合と茶々は母娘の家を飛び出し、降りしきる雨の中を村の入口の柵の前まで駆けていく。あっと言う間に髪は顔に張り付き、水分を含んだ巫女装束は重く、そして跳ねた泥が足元を汚していった。
雨風は視覚や聴覚だけでなく、気配を感じる感覚すら鈍らせてしまうのか。二人が柵の前に辿り着いた時には既に、《マガツタマ》と見張りの男たちによる戦いは始まっていた。
相手は『豆笠』で数もそう多くは無く、現に村人とて遅れをとってはいなかった。だが闇夜に紛れた奇襲は効果的で、何人かの男は水溜まりを朱色に染めながら地面に突っ伏している。勿論、全てが見知った顔だった。
走りながら祝詞を唱えた白百合は《鬼降ろし》によって『黒曜』を呼び出すと、勢いそのままに『豆笠』の中央に突っ込んでいく。
彼女を援護しようと火縄を構える茶々。雨によって火種が消えないよう基部に意識を向けたその先には村の青年が事切れていた。度々茶々に声を掛けてきた若い男衆のひとり。確か、花をくれた事もあった。そんな彼が、今は魂の抜けた瞳で茶々を見上げている。
目が合ってしまった。茶々は彼の亡骸を見た事で頭が真っ白になり、しっかりしなければ、と自分に言い聞かせるも身体は言う事を聞かない。彼女の呼吸は荒くなり、震える腕は遂に種子島を地面に落としてしまう。雨に濡れ、火種はジュっと音を立てて消えた。
「おらたちには巫女様たちが付いてる!怯むんでねぇっ!」
前方で繰り広げられる白百合の戦いに男たちは沸き立ち、柵を守りながら次々と『豆笠』たちを駆逐していく。後ろで蹲ってしまった茶々には誰も気付いていない。
白百合は『黒曜』の右腕の杭だけでなく、空いた左腕でも『豆笠』の頭部を掴み上げそれを握り潰す。数こそ以前より少ないかもしれない。だが暗闇から突如として現れる『豆笠』たちの強襲は、白百合の集中力をじわじわと削り取っていった。
そして『豆笠』だけでなく、『百目』までもが出現。猪の様に村を守る柵に突っ込むと、その全身を自ら串刺しにした。しかしその巨体は柵を倒壊させ、しかも『百目』は一匹だけではなく後続が殺到する。『豆笠』を踏み潰しながらもそれを一顧だにせず、力押しによる《マガツタマ》たちの戦術の前にとうとう村は柵による防御を失った。
場は乱戦に陥り、両軍は被害を増していく。白百合は巨大な『百目』の排除を優先し、男たちは特に合図をする訳でもなく『豆笠』たちを受け持った。
雄叫びを上げながら一匹の『豆笠』を竹槍で貫いた青年が、雨で霞むその先で口元を押さえた茶々の姿を見る。更にその後方で、鉈を振りかざし彼女に迫る『豆笠』をも。
「茶々さんっ!!」
青年は『豆笠』に刺さったままの竹槍を放り投げ、彼女を押し倒す様にして凶刃から救い出す。そして傍らに落ちていた茶々の種子島を掴むと、思いっきり『豆笠』の頭部を横振りに殴りつけた。銃床部分がこめかみにめり込み、頭蓋の折れる感触が生々しく手に伝う。『豆笠』は頭の中身を派手に撒き散らしながらその場に崩れ落ち、辺りは一瞬の静寂に包まれた。
我に帰った茶々は慌てて立ち上がり青年に駆け寄るが、果たして青年の胸から腹は袈裟斬りに引き裂かれており、彼は茶々にもたれ掛かる様にして静かに息を引き取った。
「何を・・してるのよ。何を・・してしまったのよ、私は・・っ」
いったい何度繰り返せば気が済むのだ。目の前で人の命が消えていく経験を重ね、それでも尚震えてしまう自分の弱さよ。結果として、それがより多くの人命を失わせてしまうと言うのに、私は未だ、性懲りも無く足踏みばかりしている。
「ごめんなさいも、ありがとうも言えずに・・っ」
土砂降りの雨の中で、茶々は大粒の涙を流しながら天に向かって吠える。
それに呼応する様に、彼女の背中からは《鬼》、『火冠』が現れた。
「あ~あ、ダメだったか」
『百目』の頭部を頭上から穿ち、雨靄の向こうから聞こえた茶々の悲痛な声に白百合はボソリと呟く。
出来る事ならば茶々を、普通の人間が居る戦場に立たせたくはない。それは彼女の過去と、それによる精神的な脆さを慮った彼女以外の三人による総意だった。白百合は可能な限り自分だけで事を処理するよう努めたが、どうやら叶わなかったらしい。
度胸は自分に劣り、冷静さは阿国に劣り、思慮深さは愛に劣る。白百合から見てもわかる茶々の客観的な分析だ。しかし《鬼降ろし》の能力、ひいては彼女の操る『火冠』は攻撃力と制圧力に秀でた非常に優秀な《鬼》だった。
共に《マガツタマ》を討伐するようになった当初は、その不安定さから頼りない彼女を疎ましく思った事もある。それでも同じ時間を過ごせば情も湧くというもので、今では茶々は大切な仲間。何者にも代え難い存在だった。
普段はツンケンしているクセに、人見知りがちでちょっとした事で涙を流す。年下の白百合でさえ庇護欲をそそられる、そんな茶々を少女たちは皆が愛した。
簡単な話だ。彼女には、これ以上傷ついて欲しくはなかったのに。
「みんな伏せてっ!」
白百合が絶叫し、男たちは反射的に身体を地面に投げ出した。その頭上を無数の火線が間断無く横切っていき、直撃を食らった《マガツタマ》たちの肉体が次々と爆ぜていく。辺りは火の海となり、だがそれでも命知らずな《マガツタマ》の猛攻は続く。
遠距離型で懐の隙が大きい茶々の『火冠』を支援する為、白百合は『百目』の死体を飛び越えて彼女の横に立った。連装銃の発砲炎に照らされた横顔は、雨と泥と、流れ止む事のない大粒の涙で最早ぐしゃぐしゃだ。そんな状態ですら、むしろそれらがより彼女の魅力を引き立てているかのような美しさに、白百合はどうしようもなく悲しい気持ちになる。
「白百合・・っ、わたっ・・私・・っ」
堪えきれない嗚咽にむせる茶々に、白百合は優しく微笑みながら目前に迫った『豆笠』を貫く。本当に、どっちが年上なのかわかったもんじゃない。
「立派なお墓、造ってあげようね」
今も尚、壁の様に降り注ぐ雨の向こうで増え続けているであろう死者を想い、二人はあらん限りの力を《マガツタマ》へとぶつけた。
茶々が貼った弾幕によって《マガツタマ》の軍勢は徐々に勢いを失っていき、村人たちはその間隙を突いて怪我人の搬出、武器の再調達を行い態勢を立て直す。
宵の闇が濃さを増していくこの時間、状況は人間側の優位に傾きつつあった。
無論、そのまま終わるはずもなかったのだが。
嵐の中で視界は狭く、鳴り止まない雨風と喧騒によって声は掻き消される。そんな戦場に突如として静寂をもたらしたのは、地を揺るがす地響きと圧倒的な存在感だった。
その場の誰もがハッとし、息を飲んである一点の方向に顔を向ける。降りしきる雨の向こうから薄らと現れた巨大な影は、赤く光る双眸を這わせてゆっくりと人々を見回した。
《鬼》だ。偵察に趣いた愛と阿国が遭遇した、その身体に《比良坂》を宿す強力な《マガツタマ》。それが今白百合と茶々、そして村人たちの前に姿を現したのだった。
その《鬼》は左腕が肘の下から欠けており、全身には無数の着弾痕があった。それらの傷はいずれも新しく、この隻腕の《鬼》が直前まで別の誰かと戦っていた事を物語っている。
果たしてそれが誰だったのかを、白百合と茶々は瞬時に理解した。
「・・・っ、そんな・・っ?」
再びへたり込みそうになった茶々を白百合が支え、白百合は焦点の定まらない茶々の瞳を至近距離からじっと見つめる。信じよう。白百合は無言だったが、その目は力強い意思を以て弱気に傾こうとしていた茶々を勇気付けた。茶々はしばしの逡巡の後、その意思に応えるべく口を真一文字に結んで顎を引く。
静かな怒りを燃え上がらせた二人は『隻腕』を見上げ、『隻腕』は自身に向けられたその敵意に反応、大気を震わせる程の咆哮を放ちながら右腕を振り上げた。右手からは瞳と同じ色の禍々しい赤光が束となって現れ、形成された巨大な光の剣が地面へと叩きつけられる。
それは雨を、地面を、巻き込まれた他の《マガツタマ》を、そして数人の男たちを膨大な
熱量を以て瞬時に蒸発、跡形も無く消滅させた。
回避した白百合と茶々の袖の端が黒く焦げ、両断された家屋はその断面から発火。炎は雨で消える事なく燃え上がり、辺りはあっと言う間に業火に包まれていく。
『隻腕』が再び吠えると同時に白百合もまた絶叫する。彼女が背中に背負った《鬼》、『黒曜』はその身に纏った青い炎をより大きくしながら杭打ち機を構え、その主従は圧倒的な敵の出現にさえその瞳を爛々と輝かせるのだった。
お絹と綾の母娘は、他の女子供と共に村の最奥、邑長の屋敷とその周辺の家屋へと避難をしていた。自分たちの家で大人しくしているのが襲撃の際の常であったが、今回ばかりはいつもと様子が違う。それを敏感に感じ取った彼女たちは、誰ともなく爆炎の光と轟音から距離を取り始め、そして自然と身を寄せ合うようになっていたのだった。
そして、不幸にもその予感は的中する。次々と運ばれてくる怪我人。広がる炎と耳をつんざく男たちの絶叫。巨大な何かの出現を匂わす地震の様な足音。
《鬼降ろし》の能力を持つ《歩き巫女》の白百合と茶々が居てさえ、戦況が芳しくない事が戦のいろはを知らぬ女子供にも理解出来た。
邑長は状況把握の為に戦闘地域へと趣いて行き、屋敷では肝っ玉の座った中年の女性が皆の面倒を見ている。彼女は怯える女房衆や子供らを励まし、勝手知ったる他人の家か、竈で湯を沸かしてはそれを配り歩いていた。つい先程、一人息子が茶々を守って討ち死にした事をこの女性は未だ知らない。
少女たちとの生活の中で元気を取り戻しつつあったお絹であったが、未だ帰らぬ愛と阿国を思っての心労も引鉄のひとつとなったのであろう、やや体調を崩してしまっていた。戦い続けている白百合と茶々の事も心配で堪らないはずだ。気丈に振舞ってはいるが、状況はいつも以上の負担を彼女に強いているに違いなかった。
そんな母の姿を見ながら綾は思う。
今の自分に出来る事は何か。戦う力は無く、ただの子供でしかない自分に出来る事は。
化け物は怖い。死ぬのは怖い。だが、最も怖いのは何もしないまま最悪の結末を迎えてしまう事だ。どうせ化け物に殺されてしまうのならば、何か役目を負って死にたかった。
「・・・母っちゃ、ごめんっ!」
隣に居た若い女性に母親を託し、綾はお絹の制止を無視して屋敷の外へと飛び出していった。雨の向こう側から聞こえる誰かの声と、ぼんやりと滲む炎の光。数歩先の状況すら掴めず、いつ《マガツタマ》が襲い掛かって来るともしれない嵐の真っ只中を、綾は村の入口を目指して全力疾走していく。
白百合たちの助太刀に入ろうというのではない。自分が加わったところで、むしろ足を引っ張る結果になるだけだ。ならば自分のすべきは、戦える力を持つ者を連れてくる事。
『隻腕』の出現に伴い主戦場は村の中央へと移っていた。村の入口付近は激戦の残り香だけが漂い、今なら化け物たちと遭遇する事なく村の外へと出て行く事が出来るだろう。
「愛さん・・、阿国さん・・っ!」
生きているのか、死んでいるのか。そもそも戦える状態なのか。上手く二人と合流出来たとて、綾のはたらきは徒労に終わるかもしれない。それでも苦戦をしているであろう白百合と茶々に愛と阿国が加われば、四人が揃えば状況は変わるかもしれない。
何より四人の少女の無事な姿だけが、弱った母親を元気付ける事が出来る。綾を突き動かしていたのはその一念だけだった。
勘定に自分が含まれていない事を、彼女自身は気付いていない。
雨の雫が頬を伝う感触に、愛は意識を取り戻す。泥濘んだ泥の上に横たわった彼女はまさしく満身創痍で、鮮やかだった紅白の巫女装束は血と泥で汚れきっている。
「・・起きたかね」
頭の上から声を掛けられ、愛は軋む全身に鞭打って首を傾けた。目線の先には彼女と同様に、泥の上に突っ伏す傷だらけの阿国の姿がある。
「・・情けない。片腕を奪うのがやっとだとは」
「・・・やっぱり、二人だけでは無茶だったかしら」
「・・辛うじて生きていられるのは、《鬼》がくれた頑丈さのお陰だな」
周辺の木々は半ばから折れ、断面からは白煙を立ち昇らせている。地面は大きく抉れて、大小様々な大きさの穴には粘土質の土が溶けた緑青色の水溜りが出来始めていた。
周囲は驚く程静かだ。《比良坂》を内に持つ《鬼》、『隻腕』は近くに居ない。それが却って二人を不安にさせたが、彼女たちは起き上がるだけの体力すらも失ってしまっていた。
《鬼》の、《比良坂》の正体を報せなければ。油断ならない相手である事を告がなければ。しかし身体は動かない。《鬼降ろし》によって得た尋常ならざる回復力をもってしても、彼女たちが負った傷を癒すには幾許かの時間を要した。
「・・《鬼》とは、何なのだろうな」
阿国の呟きに、愛は応える事もなく灰色の空を見上げる。
《鬼》とは呪いの具現化であり、《マガツタマ》と戦う為の道具であり、時には相棒であり、そして今回は強大な敵として現れた。彼女たち《歩き巫女》が用いる場合に於いての《鬼》の姿は上半身のみで、果たしてそれは不完全な状態なのか、二本の脚で自ら大地に立つ敵の《鬼》は予想以上の戦闘力を有していた。二人掛かりでこうまでやられる事は、彼女たちにとっては初めての経験だったのだ。
「考えてみれば、私たちはよくわかりもしないモノを自分の中に飼っている」
ゾッとしないわね、と愛が微笑むと、阿国もまた鼻で笑う。
まったくなんて人生だ。母を失い、その母によって《鬼》という呪いを託され、その呪いの正体すら漠然としたまま、日々命懸けで戦い続けている。最早笑うしかない。
水を跳ね上げる足音が近付いて来たのは、二人がそんな自虐を楽しんでいた時だった。
「姉っちゃたち!」
雨風に掻き消されながらも、その声は愛と阿国の耳にしっかりと届く。
「綾ちゃん・・っ?」
「・・馬鹿っ、どうして・・っ?」
未だ泥の上に転がったままの彼女たちの前に辿り着いた綾は、傷だらけになった二人の姿を見て一瞬驚いた後、すぐさま茂みの中へと飛び込んでいった。そして何らかの草の葉を手に取って戻って来ると、それをすり潰して愛の傷口に塗り始める。
「切り傷によく効く薬草」
愛は治療する綾の顔を見て何かを言おうとしたが、それを飲み込んで為されるがままに目を閉じた。彼女は鼻を突く薬草の匂いを嗅ぎながら、恐らく鎮痛効果があるのだろう、少しずつ痛みが引いていくのを感じる。
「・・使え、下手な刃物よりかはよっぽど切れる」
阿国が鉄扇を差し出すと、綾はそれを受け取り自分の着物の袖を細く切り裂いた。布を愛の傷口に当てて巻き、その手際の良さに二人は改めて綾の真剣な顔を覗き込む。思い出してみれば、初めてこの少女と出会った時も彼女は母親の為に薬草を探していた。種類と効能を的確に理解したその深い知識には、旅暮らしの長い愛と阿国ですらも思わず舌を巻く。
更に言えば、綾は森に残った《マガツタマ》たちと二人の歩いた僅かな痕跡から、ほぼ迷う事なく最短で愛と阿国の元へと駆け付けた。子供と云えども、彼女は立派な山の民なのだ。
愛の手当ては瞬く間に終わり、私は般若湯があればいい、とぼやく阿国に綾が歩み寄る。同様にしてテキパキと手を動かしていく綾の背中に、愛は何故ここに来たのかを尋ねた。
「・・・村が・・っ」
綾の震えた声に愛と阿国は目を見開き、最早猶予が無い事を悟る。成程、あの『隻腕』が相手では白百合と茶々だけでは荷が重い。どこまで戦えるかはわからないが、一刻も早く加勢に駆け付けなければならなかった。
一通りの治療を受けた愛と阿国は、立って歩ける程度には回復する事が出来た。足を負傷した愛は支えを必要としたが、阿国が肩を貸し三人は斜面を下り始める。山道を熟知した綾を先導役として、少女たちは未だ激しい戦いが続いているであろう村を目指して歩みを進めた。頼む、という阿国の短い言葉に、綾は自分が少女たちの役に立てた事を実感する。それは何にも増して幼い胸を奮い立たせ、この様な状況にあってさえ綾の足取りを弾ませた。
一行が中腹に差し掛かった頃、雨に煙る向こうで綾を呼ぶお絹の声が聞こえてきた。
「母っちゃ、調子悪いのに、なんで・・っ?」
「当たり前でしょう、お絹さんは綾ちゃんの母親なんだから」
「・・まったく、母娘共々」
三人の影に気付いたお絹がこちらへと駆け寄ってくる。彼女はまず娘を力強く抱きしめ、そして愛と阿国にも腕を開いた。二人は微笑むと、恥じらう事もなく自然とその胸に顔を埋める。
木々の焼ける匂い、生い茂った夏草の匂い、降りしきる雨と跳ねる泥の匂い、ツンとした薬草の匂い、血の匂い、母の匂い。様々な匂いの入り混じった中、二人はしばしの安心感に身を委ねた後、再び戦士のものへと表情を変えた。
「急ごうっ!」
言って綾が走り出す。瞬間、愛と阿国が同時に彼女を制止したが、舞い上がった綾はそれが滑りやすくなっている足元の事だと勘違いしてしまう。大丈夫、と振り返った綾の背後からは、不吉な気配を放つ何者かが高速で近付いていた。雨露に濡れた木々を掻き分け彼女たちの前に現れたのは、《マガツタマ》、『百目』の巨体。
村への襲撃に参加していなかったのか、綾、あるいはお絹を追い掛けて来たのか。
理由はどうであれ、ソレは確かに目の前に出現し、そして。
鈍い音が、響き渡った。
小さな影が宙を舞い、固い岩盤に叩きつけられる。
二度三度、細い手足を痙攣させた後。
綾は、動かなくなった。
茅葺き屋根を突き破り、白百合は板の間に背中から激突する。そこは邑長の屋敷のすぐ隣の家で、中で身を寄せ合っていた女性や子供たちが一斉に悲鳴を上げた。
口の端から赤い筋を垂らしながら、それでも白百合は軽やかに飛び起き、徐々に迫る『隻腕』の影をじっと睨み付ける。防衛線は縮小の一途を辿り、《マガツタマ》たちの侵攻は今や村の最深部へと到達していた。
「村の中より安全な場所など無い!ここが・・っ」
「最後の砦、というわけですか・・」
邑長を始めとした男たちは最早反射だけで武器を振るい、肩を並べた茶々はその援護に忙しない。『火冠』の放つ弾丸は無尽蔵だが、恐らく茶々自身の体力の方が先に尽きてしまう事だろう。
『隻腕』を押し止めていられるのは白百合だけだ。それでも、彼女と彼女の『黒曜』よりも遥かに遠い間合いから繰り出される『隻腕』の攻撃に、白百合は未だ活路を見出すには至っていない。触れれば確実な死が待っている光の剣。それに気を取られるばかりに、蹴りや体当たり、『隻腕』の足元から湧き上がり続ける『豆笠』や『百目』の脇からの攻撃を白百合は捌ききれずにいた。
村人たちの支援に回った茶々も時折『隻腕』に狙いを定めてはいるが、果たしてそれで生まれる隙などあって無い様なものでしかない。
村人たちを見捨て、二人掛りで仕掛けるか?愛と阿国ですら敵わなかった相手を?
無謀だろう。そもそも村人たちを無駄に死なせてしまっては本末転倒だ。仮に『隻腕』を倒す事が出来ても、それはきっと勝利とは程遠い。
せめて、もうひとり《歩き巫女》がいれば。それはその場で戦っている誰もが思った事だったが、四人を二手に分けた愛の判断を責める気にはなれなかった。
一体誰が予想出来たと言うのだ。少女たちの背中の《鬼》と同じ、いやそれ以上に強力な《マガツタマ》が、戦力の分散したこの機会をまるで計ったかの様に襲撃して来るとは。
各個撃破は偶然か、はたまた仕組まれていたのか。本能に従うだけだと思われていた化け物たちにも、戦術を理解するだけの知能があるのか。無意味な問い掛けが脳裏に浮かんでは、戦いの熱狂に巻かれて虚空へと消えていく。
白百合は柔らかくなった地面を踏み締め、口の端を歪ませながら『隻腕』を正面に捉えた。
押し寄せる無慈悲な大軍。それを率いる圧倒的な敵。逃げ場は無く、死神は既に首に手を掛けている。
「でも、それでいい。それがいいんだ」
白百合の顔を覆うのは、普段の彼女からは想像もつかない様な邪悪な笑みだった。無論彼女は死に急いでいる訳ではないし、痛い事も怖い思いも出来れば避けたいと考えている。
だがしかし、戦いの度に胸の内から湧き上がる高揚感は何とも抑え難い。絶望的な状況に陥る程に燃え上がるこの不可思議な感情は、白百合自身にとっても理解の範疇を大きく超えていた。当初はそんな自分の性質に恐怖した事もあったが、白百合は次第にそれを肯定していくようになる。
死中にこそ活は有り、希望の道筋は前方にのみ開かれている。
それが、白百合という少女を支配する哲学だった。
「毛虫は、愚直に前へと進むのみさ」
言葉通り、彼女は何度目かの突撃を敢行する。蛮勇も甚だしい白百合の行動に、『隻腕』と、そして背中の『黒曜』が目を細めた。表情の無い《鬼》たちの顔は、不思議と満足そうに紅蓮の炎へと映り込む。
時は戦国末期。少女たちは、戦の鬼と成り果てていた。
担当編集は茶々腹立つってさ。




