31 レミナ――やわらかくて、素敵な思い出って意味なんだよ!
誤字や不自然な表現などがありましたら、教えていただけると助かります。
レミナはアルタイルが会いに来たその翌朝、静かに息を引き取った。
穏やかな顔だった。
何もかも手放したみたいに、澄んでいて。
口元にかすかな形だけが残っていた。
笑っているようにも見える。
そうでないようにも見える。
窓の外は相変わらず灰色の空だ。
けれど病室の中にはもう何も残っていなかった。
痛みも苦しさも、すべてが静けさに沈んでいた。
十八歳の少年はその日を境に変わった。
泣き叫ぶことも取り乱すこともなく、ただ長い時間、その場に立ち尽くしていた。
動かず彼女の顔を見つめ続けていた。
その現実をゆっくりと骨の奥まで刻み込むみたいに。
*
アルタイルは元の道を選ばなかった。
一度離れた場所へ戻り、思い出の残るあの教室へ足を運ぶ。
そして最初から、やり直した。
机に向かう。
問題を解く。
単語を覚える。
夜が更けても、灯りは消えない。
浮かんでは消えないものをすべて押し込むみたいに、ただ繰り返す。
もうあの頃みたいに、「勉強なんてしない」と笑う少年はいなかった。
そこにいるのは、ただ黙って本に向かう影だった。
*
三年。
積み重ねた時間は千日を超える。
やがて一通の通知が届く。
遠い国から見慣れない消印と、金色の校章。
Y国の大学からの合格通知だった。
それを手にしたときも、アルタイルは笑わなかった。
ただ静かに受け取る。
長く続いていた何かに、区切りがついたみたいに。
その奥にあるのは消えない痛みと、それでも進むしかないという覚悟。
彼は辿り着いた。
レミナがあと少しで届きそうで、それでも決して踏み出せなかった場所へ。
その道の上に、今、彼は立っている。
アルタイルは合格通知を手に、かつて苛立ちのまま何度も蹴りつけ、樹皮に浅い傷を残したあの桜の木の下へと足を運んだ。
真夏の午後。
陽射しは容赦なく降り注ぎ、葉は青々と茂り、地面には揺れる光の斑がまだらに落ちている。
草と土の匂いが混ざった空気は、どこか記憶の奥にある午後と重なっていた。
蝉の声が満ちているのに、どこか遠い。
彼はざらついた幹に背を預け、腕を組んだまま、強い光に目を細めた。
――ふと。
低くて柔らかい声がすぐそばで聞こえた気がした。
「ねえ、あなたもこの木、好きなの?」
アルタイルはわずかに息を詰め、喉を鳴らす。
「……ああ」
少女の目がきれいな三日月のように細く弧を描く。
「きれいだよね、この木」
「……ああ、まあ」
正直、どこが綺麗なのかなんて、わからなかった。
それでも、そう答えるしかなかった。
彼女はそんな彼の素っ気なさなど気にした様子もなく、むしろ楽しそうに笑って続けた。
「ねえ、名前は?」
「アルタイル」
「わあ! 素敵な名前」
首をかしげ、きらきらした瞳でまっすぐ見つめてくる。
「アルタイルってね、星の名前なんだよね。希望の象徴なんだって。
だから――ちゃんと大事にしてね、その名前」
そう言って、彼女は軽く笑って、手を振る。
くるりと背を向けたその瞬間、ポニーテールが弧を描き、陽の光を受けてきらめく。
胸の奥を突き上げるような衝動に背中を押され、アルタイルは一歩踏み出す。
遠ざかろうとするその背中へ、思わず声を張り上げた。
「おい! お前の名前は!?」
少女は足を止め、振り返る。
「レミナ!」
澄んだ声が風の中で弾ける。
「レミナ――やわらかくて、素敵な思い出って意味なんだよ!
じゃあね、アルタイル!」
――さようなら。
その言葉だけがやけに遠い。
アルタイルははっと我に返り、よろめくように二歩前へ出る。
無意識に手を伸ばし、何かを掴もうとする。
けれど触れたのは夏のぬるい空気だけだった。
掴めるものなんて、何もない。
風がひとつ、すっと吹き抜ける。
葉がさらさらと鳴る。
枝から落ちた水滴が少年の目尻に触れて、そのまま足元へ落ちた。
レミナはこの世に迷い込んだ精霊みたいに現れて、
最後には彼の中にだけ残る“思い出”になった。
アルタイルは目の縁を赤くしたまま、低く呟く。
「レミナ」
少し、間を置いて。
「……さようなら」
誰もいない。
風も、もうない。
ただ――
蝉の声だけが残っていた。
(完)
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