花の行方 第二幕
『社』の本殿へと続く大通りに、豪快な筆遣いで『結城屋』の名前が記された暖簾がかかる食堂がある。海里が引き戸にはめ込まれた硝子からそっと店内を覗くと、社の活気も手伝ってか、昼時を過ぎているにも関わらず客の入りが続いているようだった。狐色に揚がったコロッケや、塩漬けにしたハム、よく焼き上げられた麺麭などがせわしなく運ばれている様子である。そこに友人の姿はない。孝行息子である彼は、週に1日か2日両親から暇をもらっているのである。食欲を掻き立てられるのを回避しようと、海里はそれ以上の観察を止めてさっと店の裏手に入り、結城屋に直結している玄関口へと歩いて行った。年季の入った木造の家屋で、瓦の屋根が春の日差しに乾いた光を反射している。海里が曲がり角まで来ると、彼の目の前に杏の花をふんだんに描いた振袖に、えんじ色の袴と黒革の靴を身に着けた少女(と、便宜上呼ぶことにする)が柔軟な身のこなしでぴょんと飛び出してきた。
「海里!」
彼女の細い喉が小さく跳ねた。内なる衝動に突き動かされてその足を動かした少女は、早くもその目的を達成した形となって、決まりの悪さから頬を紅潮させた。
「あたし、海里のところに行こうと思って……。電話で冷泉院先生には来なくていいって言われたんだけど、やっぱり心配で……」
多少の冷静さを欠いて、少女は両手をしきりに組んだ。
「心配かけてごめん。でも、俺は大丈夫だよ。先生にもそう言われたし」
海里はごく穏やかな調子で、彼女のまだ固い肩を軽く叩いた。この手のやり取りは、ふたりの間では主語を変えながらしばしば交わされていた。身体的なものが精神の反応を従えるといった性質を持つ子供同士、清白な感情の交流を持っているのである。少女の恥じらいは、2つ年上の従兄である海里の、幾度の退廃的な挑戦の勝利によって肉体に埋められた甘やかな香りのようなものによって誘発されていた。しかし、少女はその正体を正確に突き止めるには幼すぎるところがあった。そして海里の目元の微妙な陰影をちらと見た時の彼女自身の高揚が、もはや疑似的な兄妹としての従兄への思慕から来るものを超えているという事実に感づいてもいなかった。海里はといえば、この少女――唐桃飛鳥を気の置けない友人のように思う一方で、卵から孵ったばかりの、柔らかい毛のような羽の生えた雛として慈しんでもいた。彼女と過ごしている時間、海里は良き兄であろうと努めた。彼が真に道徳的な動機から行動する時は、多くの例で飛鳥の存在が近くにあった。海里は飛鳥のための模範少年として振舞うことを通して意識の中にある兄・唐桃万里の足跡を辿る試みに執心した。彼はそうすることで、光を内包しながらも靄のかかった魂をより強くできると考えていた。が、飛鳥のほうが彼女と海里の間に何者かが立ち入るのに決まって不機嫌を募らせた。海里もそれを疎んじるよりむしろ、痛ましいほどに彼を彼としてのみ捉えようとする飛鳥を不可侵領域の主と感じていて、彼女の純真さを崇めていた。二人はそんな具合に、傍から見ると危険な結びつきに絡めとられていた。
一枚の絵を鑑賞する感覚で、戸口から頭だけを出して二人をじっと見ている少年がいる。彼は窮屈そうに上半身をかがめつつ外へ出ると、血色の良い手を友人たちへ振った。
「飛鳥さんが慌ててここに来てさ。お前が来るのがもう少し遅かったら、社の診療所まで行こうかって話してたところだ」
「待っていたら良かったかな」
飛鳥を引き留める苦労は少なくはなかっただろうと推察されるが、大柄の少年は人懐っこい笑顔を海里に向けた。この少年が結城将一である。頭の左右上部に盛り上がりのある髪型も相まって、人の家に馴染んだ犬のような印象を一見して抱かせるが、本質的には、将一はさなぎから身体を出したものの羽を広げようとしない蝶のような少年であった。かっちりと筋肉のついた逞しい腕や脚、厚い胸といった彼の身体的特徴は、几帳面な着方をされた鳶色の着物の上からでも分かるものである。しかし、将一という少年を強く定義づけるのはその精神構造のほうである。彼は信仰を持たない人間だった。舟の守り神である『龍』の伝承を信じないし、人間の持つ生命力の根本を心の奥底で否定していた。堅牢な身体の中を憂鬱や空虚で満たしているために、見えない力に流されることに従順だった。将一が海里と共通しているものは、未来や希望――奇跡を恐れない少年らしい果敢な感性である。初めて結城屋で顔を合わせた際、舟の大人が畏怖してやまない、それらの面映ゆい概念に飛び込む熾烈さを将一が備えていることを、海里は鏡を覗くようにして瞭然と理解した。もちろん、彼らはお互いを完全に理解しているわけではない。将一は海里の身体の繊細な流線が彼を惑わすのではないかと警戒したし、海里は将一の情感の無い相槌や流し目に度々反感を込めて睨み返していた。しかし、彼らは『少年』たる自己を保持する才能にかけては卓越していたのである。それが飛鳥も含めた純潔な友好関係に調和をもたらしていたといえる。さなぎに足をつけて静止した蝶が見る夢は、少年ふたりが倦怠と情熱のうちに過ごす日々そのものであるのかもしれない。
春の陽気を含んだ風がひゅっと来て、社の桜を春の溜息で散らした。将一は悪戯を考え付いた子供の顔をして、海里と飛鳥を交互に凝視した。
「竹林方面にカラス隊が調査に出向いてるらしいぜ。なんでも社の命令なんだとさ」
「何の調査なんだろう。確かに黒い飛空が、さっき飛んで行ったのを見たけど」
「さあな。何を探しているのかまでは分からねえ。お前も同じものを探して竹林に行ってたって話だったりして」
社に関わる人間が多く食事をしにやって来る結城屋で働く将一が話す噂話には、ある程度の信ぴょう性がある。カラス隊とは、最近になって社の指揮下に入った、『舟』の防衛にあたる帝都空軍の部隊の一つである。舟の中でも特に高い技術を備えた飛空乗りが集まるカラス隊の飛行が増えているという話題は、それを口に出す将一の無感動な胸中を揺さぶる効果があるらしい。彼の飛行機趣味については、海里もよく知っている。どんなに将一が外界に関心を払わない故の冷ややかな視線を投げかけてみせても、飛空への真実の想いがそれを拙い嘘としてしまうのである。『啓示』を受けたら空軍のパイロットとして飛空に乗りたい、それが叶わないなら整備士として油にまみれた一生を送りたい。その夢を語る将一の朗々とした声の力が、彼の真理だろうと海里は思った。もっとも将一が飛空に惹かれるのは、この『翼』の模倣機械が彼の意思を縛り付ける命令を下さないからであるが。
「なあ、飛空が飛んでるところを見に行ってみないか。新型のテストも兼ねてるって話なんだよ」
「将一らしい。俺も行くよ」
竹林で遊ぶような少年は、実際海里の身近なところに多く存在していたのである。将一のように飛空の見物に行くというのはどちらかというと少数派だが、道路上を絶え間なく埋める自動車や路面電車の息苦しい行列から解放されて、そこら中を自由に走り回れる空間というのは少年たちにとって非常に価値のあるものだった。冷泉院の揶揄も意外と的を射ていたことになる。父親が飛行機械の改良・開発に携わっている飛鳥も、少年的な将一の発案に興味を引かれて目を見開いている。少女は彼女の姉や、下手をすると従兄よりも茶目っ気に富んだ活発さがある。彼女は海里の腕に寄りかかるようにしながら将一に尋ねた。
「ねえ、あたしもついて行っていいでしょ、将一さん」
「もちろん、いいよ」
承諾を前提としていた飛鳥は、言葉をそれ以上発することなく純朴な笑みを浮かべた。古道を行き交う人々の雑踏や話し声がなければ、後に回想される青春の一幕の切り絵のようだった。その価値を解さない将一は彼女を海里に預けたまま、帝都の中央駅から列車に乗って目的地へ向かう計画を切り出した。海里は意図的に集中力をもって将一の言葉に耳を傾けた。彼には唐桃飛鳥という存在から目をそむけたくなるようなことが時々あったのだ。彼女にだけは知られたくない秘密、特に海里が荒天の夜に寝台へ身を投げ出して見ている世界、といったものを飛鳥の人面獅子めいた無慈悲な問いかけに暴かれることを恐れた。飛鳥は『少女』であるが、もとは――いや、今も肉体自体『少年』なのだ。将来『啓示』を受けて女性へ変身するのに先立って、自身の志向から少女らしい恰好をしているのに過ぎない。それでも外形の変化が、逆説的に飛鳥の中の硬質な(それこそ科学燃料を食う戦闘機のような)強さを際立たせている気が海里にはするのだ。雛が鷹や隼になり得るという仮定は、海里の理想をじわじわと脅かしている。一瞬の静寂。
「……雪? いや」
灰を塗りこめた空から、白い花弁が海里の手の上へと降ってきた。それは摩擦や抵抗を感じさせない動きで彼の肌を滑った。(花弁でもない。白い羽だ)鳥の抜けたてのものにしては、肌触りが固すぎる。驚くべきことに、羽は海里の目の前で結晶化し、金をまぶした一枚の鱗となった後、さりさりと音を立てて砕けた。将一と飛鳥はK駅止まりの省線二等車の切符を早く買いに行こうと駆け出していった。海里は綺麗な鱗が不可思議な現象で失われてしまったことにいくらか不満を覚えたが、木琴の長い音板を柔らかいマレットで叩いたような飛鳥の声が彼の名前を呼んでいるのを聞いて、手に残った粒子をふっと吹いた。蒼い瞳の少年は、その粒子を元の鱗に戻すことができないのを知っていたのである。