花の行方
桜の花弁は血のように滴って落ちていく。呼吸を詰まらせるような焦燥感が海里を支配して離さなかった。何かが『外の世界』から海里を呼んでいる。夢と現、表裏一体の存在である万里の身が危ない――。それが的外れだとも真実だとも思えない、恐ろしい直感だった。海里は当てもなく走り出す。彼は外の世界への目を失った。万里がいなくなった。この二点の結びつきは明白だった。血の繋がりは兄弟の間でどんな言葉にも勝る意味と価値を持っている。万里を救う。海里のそのごく純粋な意志が彼をある場所へと導いた。春の芽吹いた世界は、暗くて気味の悪いほど静かな場所へと姿を変えた。海里は孤独だった。
六角形の古びた霊廟のような堂内の中心部で、それは海里の前にかしずいていた。黒い『翼』は、新しい主を待っていた。巨大な人型飛行機械は飛び立つ時を静かに待つかのようにそこにいた。投影機のレンズがぎろりと海里の姿を捉えた。『翼』は目の前の海里を認識すると、その羽を広げた。
「……生きてる」
その時、『翼』の胸部が開き、鉄製の釣り紐を伝って、一人の少年が降り立った。舞い降りた、と形容するべきであるかもしれない。鋼鉄の機械に寄り添って立つ、波打つ白い髪の少年という光景は、夢の世界の住人である海里にも幻想的に見えた。白い異邦人はゆっくりと瞬きをしながら、金色に輝く瞳で海里をじっと見つめている。万里以外の人間を精神世界の中で見たことがなかった海里だが、それを差し引いてもこの異邦者は異端だった。清らかな神気が彼から流れ出て、辺りを満たしている。『翼』は信仰と神気を好むと万里が言っていたことがあるのを思い出す。海里は開いた操縦席を見やる。『翼』は万里を乗せてはいない。海里は異邦人を問い詰めた。
「お前は誰なんだ? どうしてここに?」
「……永遠から逃れるため」
悠長かつ抽象的な応答があった。海里の疑念を全てはねつけるように、少年は確固たる口調で名乗った。
「夏目千尋。お前をこことは別の世界――『舟』へ導く者」
海里は驚きに何も言わず、目の前の少年を見据えていた。しかし、強まるばかりの危機感が彼の心臓を締め付けていた。この短い時間で、千尋を排してこの夢の世界から逃れることはできないと直感で海里は悟った。だから彼の答えは決まっていた。万里のいた世界、『舟』へ行く。
「俺は……兄様を救いたい。外の世界へ行きたいんだ、千尋」
「お前が強く願えば、出来る」
千尋は海里の手を取った。人間の、厚い筋肉のついた手だ。その感覚が懐かしいような気がするのは、万里のいた世界を思い出しているからだと海里は頭の隅で考えた。万里のもとへ、外の世界へ連れ出して。海里はそう祈った。千尋を信用する気になったのは、全く不思議としか言いようのない予感からだった。自分と万里の間に干渉できるものなど、今まで何がいただろうか。二人の祈りは、別の世界と共鳴して白い光を生んだ。海里は眩さに目を閉じる。どこからか風が吹いて、髪を煽る。千尋はやはり白い顔を海里に近づけた。
「俺は永い間、お前を求めていた……海里」
千尋の囁きに、海里は反射的に目を開いた。この異邦人は海里自身のことのみならず、万里のことも知り尽くしているのではないか。そんな疑問を塞ぐように、千尋は海里の唇に自身の唇を重ねた。哀切と動揺を鍵に、二人の身体は宙に浮いて、黒い『翼』と共に夢の堂内から姿を消した。
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はためく麻の窓帳が、閉じられた海里の瞳に光を一定の間隔で投げかけながら、濃密な花の香をかき混ぜている。海里は眠りの水底から意識を引き上げてなお、暫く浮遊感のようなものを味わっていた。彼は簡素な木製の寝台に身を横たえたまま、この部屋の主が来るのを待つことにした。自分がなぜこうして息をつくにも窮屈な気のする白の壁に囲まれているのか、その経緯が今の海里には不明瞭なのである。どう記憶を辿ろうとしても、現実性のない影絵の断片が回転してしまう。
「さて、そろそろお目覚めかな」
長い黒髪を頭の上で結った男が海里の前に現れた。彼の白衣の襟元に縫い付けてある、金の月の刺繍は『社』の職員であることを示している。海里は最も大規模な住民の居住区である『帝都』の病院ではなく、巨大飛空都市の運行と宗教儀礼を司る『社』の診療所にいるということらしい。しかしこの男が海里のよく知る人物だったので、そうした事実の確認を差し置いて、彼は蒼い瞳に甘えの色をにじませた。
「先生、俺、いつからここに?」
「3時間程前。竹林で倒れていたと聞いたが」
冷泉院司は無遠慮に寝台に腰掛けて、海里の身体に不調がないか確認した。簡単にそれを済ませた後、彼は特段大きな異常は見当たらないということや、海里を最初に見つけて診療所まで運び込んだのは帝都の軍人であることを子供に言い聞かせるような口調で語った。(先生は俺を離したくないんだ)海里は長い睫毛に縁どられた目を伏せて、小さく微笑を浮かべると、若い獣のような腰のあたりにまでかかる黒髪をかき上げながら白いリボンで一つに結んだ。彼の意識は窓の外へ向けられている。
「しかしなぜ竹林に? 君はまだああいうところで遊んでいるのか?」
からかってはいるが、単に海里を子供扱いしてのことではない。冷泉院は、自分の目の届かないところに海里が行くことに強い不安を覚える人間である。海里は数秒冷泉院の顔を見つめて、彼の期待するところを的確に感じ取った。冷泉院が許す限り、少しくらい長く留まっても問題はないだろうと海里は判断した。
「それが、俺にもよく思い出せなくて」
それから海里は目覚める前に見ていた夢について思い出したことを取り留めもなく冷泉院に話し続けた。月の刺繍が海里の視線を射止めたので、彼は金色の瞳の少年の存在を特に細々と述懐した。冷泉院はそれを黙って聞いていた。海里の頬にかかる髪を撫でる仕草や、話の中での異邦人の登場に切れ長の目を少し見開いた動作に、彼は恒久の勝利を確信している。15歳のときに冷泉院と秘密を交換して以来、海里の肉体が持つ魔力はますます制圧的な色彩を帯びてきている。それを海里自身深層意識の中で理解しているので、冷泉院のような男を従わせることにある種の愉しみを見出しているのである。海里は身体の向きを変えて、鈍い光を放つ鏡に映る自分の瞳をちらと見た。遊戯にかける炎がくすぶっている。
「その少年のことも、君は誘惑したのか」
「いいえ。俺はそんなに『悪い子』じゃありません」
「本当に……?」
冷泉院の手が海里の顎にかけられる。海里は薄く唇を開いて息をついた。部屋の照明が彼の瞳に輝きを与える。熱っぽい冷泉院の表情とは裏腹に、海里はあくまで『遊戯』の体である。彼は冷泉院に煽られないうちに撤退することを決めた。
「続きは後で。それじゃ、また」
海里は迫る冷泉院を素早くかわし、虚を突かれた顔をしている彼に小さく頭を下げると、革靴を履いて俊敏な動きで診療所を後にした。この巨大飛空都市『月の舟』にも春が来た。海里は紺色の羽織を風にはためかせて、古い西の都を模した『社』の街並みを通り抜けた。八分咲きの桜の花が仄かな明かりとなって、彼の行く道を照らしていた。花は散るから美しいものというが、海里もまたそうした性質を持った少年であった。自分が向かうどこか――少年時代の終わりを認識することなく肉体の華々しい成長を今も続けている。冷泉院のような大人には、すでに見えなくなったものを自分なら掴めるという自信が海里にはあった。いや、いつか必ず掴んでみせる、と彼はどこかで考えていた。そうしなければならないような気がしていたのだ。他の人間には決して描くことの出来ない、精緻で美的な波紋を秘めた海里の肉体には傲慢な『少年』の矜持が宿っていて、それが冷泉院(のみならず、あらゆるもの)への挑戦に繋がっていた。そうした彼の人格と、少なからず共鳴する少年がいた。(俺はどこまでも遠くに飛んでいきたいんだ)海里は彼の働いている店へと歩き出した。春爛漫の『舟』は、道行く人々の気分まで明るくするようで、普段は時間がゆっくりと流れているような趣がある『社』も賑わっていた。その上空を、黒い塗装の戦闘機『飛空』が隊列を組みながら飛び去っていく。猛禽の鳴き声のようなエンジン音の響きに、海里は理由のわからない違和感を感じていた。鋼鉄、鳥、『翼』。その言葉は確かに海里の記憶のどこかに焼きついている。父親に肩車をされた子供が、木をくりぬいて作った鳥笛をくわえて、飛空を見送るようにひゅうひゅうと鳴らした。空への憧憬を、少年たちは多かれ少なかれ抱くものだった。子供を慈しむ父親の眼差しは、過ぎ去った時代への哀愁のように海里には思われた。彼は爛々と蒼い瞳に無邪気さを込めて、ふっと天を仰いだ。




