5.5話 運命の歯車
本編5話のヴィルフリート視点です。
フォンディア王国。土地が豊かで農業が盛んであり、特産品として様々な農産物がある。それに対し、軍事国家であるガルヴァンは採掘は盛んであるが、気候が厳しく、食料は他国からの輸入にほとんど頼っている状況だ。
そんなガルヴァンの第三王子であるヴィルフリートはフォンディアへ使者としてやって来ていた。
フォンディアに到着した当日ということもあり、フェルディナン陛下に簡単な挨拶を済ますと、今日は休むようにと言葉をもらう。ヴィルフリートは護衛たちにも休むように告げると、早々に客室で休むことにした。
「――フォンディア、か」
ヴィルフリートの呟きは月夜に消えた。この国には彼女がいる。思い焦がれ、止まなかった彼女が。それを思うだけでため息にも似た呟きが漏れてしまうのだ。
軍国であるガルヴァンの王子であるヴィルフリートは彼自身も軍人である。そのために、王子という身分でありながら身の回りの支度も全て自身で行っていた。いつものように上着のボタンを緩めながら、客室の窓から見えるのは色鮮やかな花々と青々とした植物たちである。当然ながらガルヴァンの城でも美しい花壇はあるが、フォンディアには敵わないだろう。ここへ来る道中でもただの街道だというのに、花が美しく咲き、街中でも様々な木々が青々とした葉を生い茂らせていた。
ヴィルフリートに宛がわれた客室からは城の庭へと出ることができる。ちらりと護衛たちのことが頭に過ぎるが、彼らの目の無い場所で少しだけ一人になりたかった。城の中ということもあり、よっぽどのことが無い限り危険はない。ヴィルフリート自身も多少は腕に自信があった。
静かに窓の扉を押すと、それは音も立てずにゆっくりと開いた。ちらりと護衛がいるはずの扉へ目を走らせるが、彼らに気付かれた様子はない。ヴィルフリートは静かに部屋を抜けた。
外に灯りはないが、月が明るいために足元もよく見える。ヴィルフリートは綺麗に整えられた庭をぼんやりと眺めながら、夜の散歩をしていた。
そして、一人の女性の姿がヴィルフリートの目に留まった。
月明かりの中でくるくるとステップを踏みながら回っている。それは夜会などで行われる代表的なダンスの一つであるのだが、彼女のように軽やかに踊る人を知らなかった。夜会で会う令嬢と言えば、どの人も美しく着飾り、濃い化粧と香水を身に纏っている。だが、薔薇の花園で踊る彼女はシンプルなワンピースに上着を羽織った姿で化粧すらしていない。この時間にこの場所にいる女性と言えば、身分の高い女性で間違いないだろう。本来であれば、そのような姿でいるのを見なかったことにして、引き返さなければならないのかもしれない。それでも、ヴィルフリートは彼女から目を離すことができなかった。
ヴィルフリートには短い時間であったのだが、それは思いのほか長い時間だったのかもしれない。軽やかなステップを踏んでいた彼女はヴィルフリートの存在に気が付いて、怪訝そうな顔でこちらを見た。時間はすでに遅いとも言える時間である。見覚えのない姿を怪しむのにも無理はないだろう。
「……ああ、すまない。踊りの邪魔をしてしまったな。月夜の薔薇園で踊る姫の姿が幻想的でつい見入ってしまった。私の名はヴィルフリート・ガルヴァンだ」
「ガルヴァンのヴィルフリート様、兄のためにお越しになっていただいているとお聞きました。私はフォンディアの第三王女、リリアナと申します。私ダンスが苦手でこっそり練習していたんですの。変なところを見られてしまいましたわね」
そう言って、にこり小さく笑みを浮かべたと思ったら、苦痛に耐えるような表情でふらりとよろけた。咄嗟にリリアナの腕を取って支えると、彼女の様子を伺い見る。
「リリアナ様、大丈夫か?人を呼んだ方がよろしいか?」
「……ええ、大丈夫です。少し貧血を起こしたようですわ。少し休めば良くなりますので」
「それではそこのベンチに座ろう」
リリアナを近くのベンチに案内すると、彼女はベンチの片側を空けて座った。ヴィルフリートはそれを見て、これは座っても良いということだろうかと逡巡して、決心してたっぷりスペースを空けて横に座る。
「すみません、ご心配をおかけして」
「いえ。リリアナ様がお一人の時に倒れられなくてよかった」
「……いつも姉のユリシアにも心配されてばかりなんですの。今日は体調が良いと思ったのですけれど、だめですわね。私には姉が二人いるのですけど、ユリシアお姉さまはとても優しくて面倒見が良いのです」
「ユリシア様……」
リリアナが第三王女ということは、彼女の姉は紛れもなくユリシア王女――ヴィルフリートが想いを寄せる姫である。つい先ほども彼女のことを考えていたということもあって、反応するように脳裏にユリシア王女の姿が浮かんだ。
「……間違っていたらお聞き流し下さいませ。もしかして、ヴィルフリート様はユリシアお姉さまをお慕いしていらっしゃるのでは?」
「……」
そしてリリアナはヴィルフリートに唐突にそんなことを言って来たのである。ユリシアとヴィルフリートはそう何度も顔を合わせた仲ではない。個人的に話したり、手紙のやり取りすらもしたことがない。ヴィルフリートの想いは完全な片思いで、当然ながらそれを誰かに打ち明けたことはない。
だが、彼女の問いは完全に図星だった。予想外の図星を突かれ、ヴィルフリートは言葉を失ってリリアナを見る。そしてリリアナはふわりと微笑んだまま再び口を開いた。
「やっぱり違っていました?身内の私が言うのもなんですけれど、お姉さまはとっても素敵な人です。ですから、ヴィルフリート様がお姉さまをお慕いしていてもおかしいことではないような気がして。こんなこと言って失礼に当たりますね。どうか月夜の悪戯だと思ってお聞き流し下さいませ」
「……いや。そうなんだ、私はユリシア様をお慕いしている」
ヴィルフリートに頭を下げようとしたリリアナをヴィルフリートは片手で制して顔を顰めて頷く。
本心は隠して嘘偽りを語り合うのが普通の世界で、なぜかリリアナにだけは本心を告げていた。彼女に想い人がいることは公然の事実で、ヴィルフリート自身も叶わぬ恋だと知っている。だからこそ、ヴィルフリートの心には薄らと闇のベールが被さっていた。それを誰かに打ち明けてしまいたくとも、その誰かはいない。今、ヴィルフリートにとってリリアナは闇の中に落ちてきた一筋の光であったのだ。
「……まぁ。そうでしたか。よろしければお聞きしても?もちろん今夜お聞きしたことはリリアナ・メル・フォンディアの名にかけて誰にも話したりしないと誓いますわ」
「あなたはその名に誓わずとも、話したりする人ではないだろう。何から話したら良いだろうか」
ヴィルフリートはリリアナの瞳をじっと見つめて頷くと、少しだけ柔らかい表情に変えた。
「それではなぜ姉のことをとお聞きしてもよろしいでしょうか?」
リリアナに問われ、ヴィルフリートは数年前になる初めて会った時のことを思い返していた。
「それはもう6年も前になる。ユリシア様の成人を祝った舞踏会に招待され、カルヴァンから出向いたあの日を私は忘れることは無いだろう。夜の時間だと言うのに日の光を浴びているかのように輝かしい女性を私は初めて見た。とても眩しく、美しく。しかし彼女はどんな者にも優しい笑顔で受け答えされるのだ。あの方を見て以来、私は他の女性が目に入らなくなった」
「まぁ。そうだったのですか。それは素敵な恋をされているのですね」
ヴィルフリートが語るのをリリアナは静かに聞いていた。そして話し終わると、ふわりと微笑んでヴィルフリートを見たのである。
「何故?このような恋は苦しいだけで何も残らない。私が望めばあの方は苦しむだけではないか」
二つの国は協力関係にあるとは言えど、力で考えればガルヴァンの方が上だ。フォンディアに食料を輸出してもらっているので一見フォンディアの方が手綱を握っているようでも、ガルヴァンの軍事力は強大である。ガルヴァンがその気になれば、この穏やかで優しい国はあっという間に火に包まれるだろう。
恐らく、ヴィルフリートがユリシアを妃に望むのは不可能ではない。だが、その先に彼女の幸せはない。彼女にはすでにランベルトという恋人がいて、自分は彼女とは大して親しくもない間柄。どちらの側に居るのが彼女の幸せになるのかは考えるまでもなく、明らかだった。
「そのような恋は一生に一度しかできませんもの。そもそも王族で生まれた私達がそのような燃えるような恋を経験できるのは限りなく稀なこと。……正直に申し上げると、ヴィルフリート様が羨ましいですわ。それに、ヴィルフリート様はお姉さまを傷つけたいわけではないのでしょう?とってもお優しい方なのですね」
「私が優しい……か」
「ええ。とっても。ヴィルフリート様が姉さまのことを話す瞳はとっても優しいですもの」
「……そうか。ありがとう」
リリアナの優しい声はヴィルフリートの胸にしみじみと染みた。王族の特徴でもある赤い瞳は普通ではいないせいもあって、冷酷な印象を与えがちである。初対面の人間はこの瞳から視線を逸らすか、怯えたような表情を浮かべることが多い。それなのにリリアナは包み込むような優しい表情でヴィルフリートに微笑んだのである。
「いいえ。私は思ったことを言っただけですもの。気分を悪くされていたら申し訳ありません」
「いや。リリアナ様の言葉に私は救われたよ。リリアナ様がよろしければ、また話を聞いていただいてもよろしいだろうか?」
「はい、私でよろしければ。普段は外れの離宮に引っ込んでおりますが、いつでもお話をお聞きしますわ」
頷いたリリアナをヴィルフリートは満足気に見て、はっと気付いたように口を開いた。
「そういえば、ダンスの練習をしていたのだったな。お礼にお相手を致そう」
「え?いいえ、そんなに気を遣っていただかなくて結構ですわよ。それに私こんな軽装ですし」
「それを言ったら私だってそうだろう?私がお相手をしたいのだ。さぁ、姫様お手をどうぞ」
「先に謝って置きます。足を踏んでしまってもご容赦くださいね」
先ほどまでとは違い、悪戯めかして笑う彼女はとても可愛らしい人だと思った。ダンスが苦手だと自ら話していたリリアナは確かに苦手だったようで、実際に何度か足を踏まれたりもした。だが、ヒールも履いていない上に随分と軽い。その痛みはヴィルフリートにとってあってないようなものである。
「――あ、また!申し訳ありません!私、本当に下手で」
何度目かの失敗にリリアナは申し訳なさそうに眉を下げてヴィルフリートを見た。
「いや。大したことないさ。貴女に踏まれても、虫に踏まれるのと変わりない」
「それはさすがに言いすぎですわ」
「……くくっ」
「わ、笑われましたね?」
ヴィルフリートの本心であったのだが、からかわれたと思ったらしいリリアナは拗ねたような表情を浮かべる。そんな様子に思わず笑みが零れているのに気が付いた。
自分がトップではないが、ヴィルフリートは軍でもかなりの高官だ。だからこそ、表情があまり出ないように意識している。そしてそれが癖になっていたはずなのに、どうやら彼女の前ではそれもなくなってしまうらしい。
「――リリアナ様があまりにも可愛らしいので」
「……え?何か言われました?」
思わずぽつりと言葉が口から出た。しかし、ステップを踏むのに夢中だったらしい彼女はそんな言葉も聞こえていなかったらしい。
「いや。何も。そろそろ疲れたのでは?少し休もう」
「はい……」
そしてヴィルフリートはフォンディア第三王女リリアナ姫と出会った。この出会いが彼の運命を変えたのであるが、それをまだ彼は知らない。




