番外編2-5
「…ねぇ、舞子ちゃん、そろそろ帰ってもいいかなぁ?」
宴会終了まで残り30分ほど。
たった30分だけど、ゆめはもうこれ以上我慢できそうにない気がしてきた。
始まった当初からにぎやかだったが、いまではもうその時がごくありきたりな会合に思えるほどの乱痴気騒ぎになっていた。
きっとこの店の店長がOBでなかったら、追い出されていたことだろう。
舞子がずっとそばにいてくれたこともありそれほど不愉快な思いはしなかったけれど、それでも何度か不躾な手が伸びてきたし、ほとんど飲めないお酒にも口を付けなければならない事態にもなった。
二十歳になったお祝いパーティをいろはが企画してくれたとき、シャンパンを親友たちと一緒に飲んだことがあった。
アルコールに弱かったらしいゆめはたった一杯でふらふらになり、以来安心できない場所では一切アルコールを口にしないことに決めた。
自分の世界が広がるにつれ、お酒の席は断れないことはわかっている。
嫌でも口を付けなければならないときがあると理解はしているが、それでもいざというときに自分がきちんと判断して動けない状態は不安だった。
『龍さんがそばにいてくれたら…』
ゆめの我慢はとっくに限界を超えていた。
「あ、そうだね…もう…」
「ちょっとっ!舞子ちゃん!こっち来て~!
今すぐ!直ちに!副部長命令だっ!!」
「え、あ、ちょ、ちょっと待ってくださいよぉっ!もぉっ!
…ごめん、ちょっと副部長のところに顔出すし。
ちょっと待っててくれる?
ついでにゆめが帰るって伝えてくるから」
「…わかった。申し訳ないけど、お願いします」
「うん!出来るだけ早く戻るからっ!」
舞子は副部長に呼ばれ、座敷の奥にごそごそと歩いていった。
あちこちに酔っ払いの塊がいて、どうにも歩きにくそうだった。
ゆめはため息をついて、宴会場になっている座敷から出入り口に近いテーブル席をぼんやりと眺めた。
ついたてや観葉植物などが置いてありテーブル席のプライバシーが確保されていたが、この騒ぎでは落ち着いて飲めないだろうに席はほとんど埋まっていた。
常連で、こういう学生の馬鹿騒ぎも楽しめる人なのかもしれない。
と、ゆめの目の端に、見覚えのあるものが見えたような気がした。
はっと気付いたときもう一度店内を見回したが、いったい何が目に留まったのかわからなかった。
なんだろうかと考えていたとき、いきなり背後から抱きつかれた。
ゆめの全身が恐怖でざわりとあわ立ち、緊張で全身が硬くなった。
「ゆめちゃぁ~ん!」
酒臭い熱い息がぶわりと横顔にかかり、ゆめを羽交い絞めにするように、背後から太い腕が伸びてきた。
ぎゅうと力が込められ、後ろに引き倒される。
がっしりとした男の胸に背中から倒れこむ形になり、ゆめは呆然とした。
「うぉぉ!ゆめちゃん、いいニオイ~、かぁわいぃ~!」
完全に酔っ払った部長だった。
彼はゆめが入学時手からずっと狙っており、今日舞子に無理難題を突きつけて連れてこさせたのも、どうにかしてゆめに近づいて関係を持つためだった。
彼はもてるタイプで、これまで女性関係で苦労したことなどなかった。
自分に自信を持っていたため、話さえすればゆめなど簡単に落とせると考えていたのだ。
単にお高く留まってる女だ。
きっと大学の外でよろしくやってるに違いない、と。
副部長に言ってゆめから舞子を引き離し、その隙にゆめに近づいた。
サークルの中で部長に逆らう人間はいなかったので、みんな簡単に動いてくれた。
作戦が成功したことにも満足した男がうれしそうにゆめの頭にほお擦りし、鼻を押し付けてきた。
男はもう、有頂天だった。
一方、酒の不快なにおいが漂う中、ゆめは目を見開いたまま完全に思考停止し、頭の中が真っ白になった。
がっしりと自分を拘束する腕はまるで鎖のようだった。
重たくて、強くて、簡単に外れそうにない。
昔忘れたはずの恐怖と絶望が、じわじわとつま先からわきあがっていく。
大きく見開かれた目に、じわりと涙が浮かんだ。
抵抗しなければと思うのに、動けない。
目だけを周囲に動かしてみるが、みんな楽しそうにはやし立てるか、視線をそらして見て見ぬ振りをしている。
舞子はそばにいない。
誰も助けてくれそうになかった。
そんなゆめの恐怖にはまったく気付かない部長は、酒の力も手伝って、抵抗しないゆめに受け入れられたと都合よく考えた。
やっぱり俺の魅力には勝てないんだ、きっとずっと俺に目を付けていたに違いない、と。
「ゆめちゃぁん、ほんと、やわらかぁいねぇ~。
お、ここから見たらすんげぇダイナマイトボディじゃね?
どれどれ…」
はしゃいで悪乗りしている男は、ゆめの胸に手を伸ばそうとした。
「…龍さ…、た、たすけ…」
ゆめがささやくような声で龍の名を呼んだとき、男の腕が離れていった。
わきの下に差し込まれた馴染みのある男の手がゆめを掬い上げ、抱き上げる。
ゆめは抱き上げた男の首に夢中で腕を巻きつけ、ぎゅうと抱きついた。
「……龍さん…っ!」
「…ゆめ……」
龍の首に顔を埋めすすり泣くゆめの髪や背を優しく撫で、もう大丈夫と何度も何度も耳元で囁いた。
ゆめは大好きな龍の香りを一杯に吸い込み、世界一安心できるぬくもりに身を任せた。
恐怖が去るまで、龍とこうしていたかった。
早く家につれて帰ってほしかった。
「龍さん、帰りたい、帰りたいよぉ…」
龍は了解の意味で、ゆめの頭をぽんぽんと叩いた。
それから視線を、部長を拘束する一鷹に向けた。
「一鷹、そろそろ帰ろう。
もういいだろ?」
「こういうバカなクソがきはな、
百篇ぐらい痛い目に遭えばいいんだよ!」
一鷹は羽交い絞めにした男を突き放し、頭をこぶしで殴った。
その痛みと部員の前で恥をかかされた腹立ちに煽られ、男は怒り狂った。
「なにすんだよっ!おっさんっ!
ゆめちゃん置いてけよっ!こいつは俺の女なんだよっ!
警察に突き出すぞっ!暴行だっ!」
飛び起きて龍に飛び掛ろうとして、一鷹に背後から襟元を掴まれた。
一瞬動きを止めた部長の胸倉を、龍は素早く掴んだ。
龍と一鷹に挟まれた部長の虚勢は勢いを弱め、その目が戸惑いと焦りで揺れた。
「君、名前は?」
「はぁ?」
「名前だよ」
「経済学部4年の戸田ってんだよっ!
こ、これは、俺のサークルの宴会だっ!
部長の俺の許可なく、は、入ってくんじゃ、ねぇよっ!」
暴れようと身をよじっても、龍の手は一向力を弱めなかった。
部長は龍の目をまっすぐに見たまま睨み付けていたが、湖に張った厚い氷のような視線に次第に恐怖心が沸き起こっていった。
その瞳の置くには、純然たる怒りが見えた。
その時、部長は自分がとんでもないことをしてしまったのだと悟った。
「戸田君。
ゆめは俺の大切な人で、ゆめが卒業したらすぐに
結婚することになってるんだ。
彼女の母親からもゆめを託されている以上、
何かあったときに俺が彼女を守るのは、当然のことなんだよ」
「け、結婚…?ゆ、ゆめちゃんと?」
「そう。だからね、ゆめが君の女ということは、
地球が滅びてもあり得ないんだよ。
そして、またこれと同じようなことが起きたときは、
それ相応の結果が待っていることをしっかり
理解してくれるといいんだけどね。
…次は、ねぇぞ?」
突然、龍の視線が鋭くなった。
刺し殺さんばかりの壮大な怒りを前に、部長の酔いは一気に醒めた。
生まれてこれまで散々けんかしたり揉め事を起こしてきたが、これほどの恐怖に駆られたのは初めてだった。
「は、はいっ!も、申し訳、ありませんでしたぁっ!!」気付けば裏返った声で叫んでいた。
龍が手を放してから、一鷹に再び後ろに放り投げられ、部長は壁に背を打った。
そして、もう二度とつまらないことはしないぞ、と震える腕を押さえながら固く誓ったのだった。