エピローグ
眩しい。
窓から差し込む午後の日差しが、九十九零司の瞼を照らしていた。
ゆっくりと目を開く。
見慣れた講義室の天井。聞き慣れた声。スクリーンに映った資料。
そして――
教壇に立つ五十嵐先生。
「九十九くん、起きてる?」
講義室に笑いが起こる。零司は慌てて姿勢を正した。
「す、すみません」
なぜだろう。胸の奥が妙にざわつく。何か長い夢を見ていたような気がする。とても大切な何かを。しかし思い出せない。思い出そうとすると霧がかかったように輪郭がぼやけてしまう。
講義の終わりを告げるアナウンスが流れた。周りの学生たちが一斉に席を立つ気配がする。
その音を聞いた瞬間、零司は無意識に窓の外へ目を向けた。
青空。そして遠くに浮かぶ黒い雲が、風に流されるようにゆっくりと消えていく。
なぜか分からない。その光景を見ていると胸のつかえが少しだけ軽くなった。
「……終わった」
思わずそんな言葉が漏れる。何が終わったのかは分からない。だが確かに何かが終わった気がした。
ふと講義室を見渡す。いつも満席のはずなのに、空席がいくつかある。誰の席だったのか思い出せない。名前も顔も分からない。それなのに、もう二度と会えない人たちなのだと、なぜか理解できた。胸が少し痛んだ。
⸻
「九十九くん?」
声がした。振り向くと一ノ瀬楓が立っていた。高校からの顔見知りで、同じ学部の女の子。それだけのはずの相手なのに、不思議と安心する。
「このあと、図書館寄る?」
「あ……うん」
自然に返事が出た。その瞬間、自分でも少し驚く。以前の自分なら、女子と二人で話すだけでも緊張していたはずだ。
「楓、先に行かないで」
二階堂澪が鞄を持って近づいてくる。当たり前のように楓の隣に並ぶその距離感に、零司はふと引っかかりを覚えた。楓と澪は、確かそこまで親しかっただろうか。クラスメイトだった、というだけのはずだった。
楓も特に気にする様子もなく、澪に小さく笑いかけている。二人の間に、説明のつかない馴染みがあった。
「委員長も?」
「その呼び方やめてって言ってるでしょ」
少し呆れたような顔。だけどその表情を見ていると、なぜか懐かしい気持ちになる。
さらに後ろから元気な声が飛んできた。
「おーい! 三人とも待ってー!」
三上瑠奈だった。澪の幼馴染だということは覚えている。けれど、楓と瑠奈が自然に並んで歩き出す様子は、やはりどこか不思議だった。
「帰りにコンビニ寄ろうよ!」
「また食べるの?」
「育ち盛りだから!」
三上の言葉に、一ノ瀬が小さく笑う。二階堂が呆れた顔をする。その光景を見て、零司も思わず笑っていた。
四人でこうして並んで歩いていることが、あまりに自然すぎて、かえって奇妙だった。誰かが誘ったわけでも、示し合わせたわけでもない。気づけば、いつもこうしているような顔をして、ここにいる。
⸻
講義室を出ようとした時、五十嵐先生が呼び止めた。
「みんな」
四人が振り返る。先生は一瞬だけ優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、零司の胸が熱くなった。理由は分からない。ただ、その笑顔を守れた気がした。そんな気がした。
「寄り道はほどほどにね」
「はーい!」
三上が元気よく返事をする。五人は笑った。
なぜ仲が良いのか分からない。なぜ一緒にいるのが当たり前に感じるのかも分からない。思い出はない。記憶もない。
⸻
廊下を歩きながら、楓がちらりとこちらを見た。何か言いたそうに、それでいて言葉にしないまま、また前を向く。
零司はその横顔を、少しの間だけ見ていた。それから、小さく口を開いた。
「図書館、何か探してる本あるの」
自分でも、驚くくらい自然に出た言葉だった。楓が一瞬目を丸くして、それから小さく頷いた。
「いろいろ」
短い答えだったが、口元がわずかに緩んでいた。
少し先を歩く澪と瑠奈が、何でもないことで言い合いながら笑っている。その後ろ姿を見ながら、零司はふと思った。
この距離感は、いつ生まれたのだろう。
答えは、やはり出なかった。
ふいに、隣で楓の手が零司の袖に触れた。それから、指先がそっと手のひらに重なる。一瞬だけのことだった。楓はすぐに手を離し、何事もなかったような顔で、少し足を速めた。
「置いてかれるよ」
それだけ言って、澪と瑠奈の方へ駆けていく。零司はその後ろ姿をしばらく見つめていた。
悪い気はしなかった。
零司は窓の外の青空を見上げた。それから、少しだけ早足になって、四人の輪に追いついた。




