第2部 「弟の話」
男の討伐が命じられてから、三日が経った。
狂ってしまった元戦神の男の行方は、今だにわからない。
姉も弟の行方はわからないらしい。
今は、行きそうな場所をしらみ潰しに探している段階だ。
アレクセイは、仲間達を見回して、疲れてないかを確かめる。
指示を出すのは姉の役割だが、小娘の言うことを聞かない兵士達を纏めるのは、アレクセイの仕事だ。つまらないいざこざを起こさない為にも、適度な休息は必要だ。
仲間達に疲れてはいなかったが、慣れない命令を出さなければならない娘のことも、放っておくわけにはいかないだろう。
「そろそろ休憩するか」
休憩の合図を聞き、姉は、弟の行きそうな場所の目星を地図につける作業を止め、疲れたと言わんばかりに椅子に座り込んだ。
流石に化け物の姉だと思わせた女も、見た目通りの小娘でしかなかったということか。
だが、それも、今し方、休憩に入ったからこそわかったことで、それまで彼女は、ずっと隊長顔負けで兵士達に指示を出していた。
今はもう、娘の指示に、仲間達もアレクセイも逆らおうとはしなかった。逆らえなかったと言ってもいい。
皆、彼女を恐れていたわけではない。彼女の機嫌を損ねて、標的を見失うのを恐れ従っているに過ぎなかった。
そのことが彼女にどう伝わったのかわからないが、彼女も初日のような暴言は吐かなくなっていた。
それどころか、予想していた不平不満も一つもなく、質問があれば尋ね、問題があれば素直に聞き入れていた。初日のことを考えれば、文句のつけようがなかったのだ。
今なら何を聞いても平気かもしれない。例えば狂ったと聞かされた弟のことでも、そう悪い反応は返ってこないだろう。
意を決したアレクセイは、椅子に座る娘の隣に立ち、命令を聞いた時からずっと気になっていたことを唐突に尋ねた。
「弟が何故、狂ったのかわからないのか?」
娘は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに平然と尋ねてきたアレクセイを睨みつけた。
「わかるわけないじゃない。私はあれの姉よ」
「兄弟ならわかるだろ」
「だから、わかるわけないって、何度言ったらわかるのよ!」
急に立ち上がり、怒鳴りつけてきた娘に、アレクセイは気後れしてしまった。
顔を見れば、怒りというよりも、初日と同じ勢いだけで言ってるようだった。
しかし、アレクセイには、言い返す言葉が一つ頭に浮かばなかった。
「姉と弟は女と男よ。全く違う生き物なのよ。それが姉弟なんだから余計にわかるわけないじゃない! 姉がこの世で一番理解出来ない生き物は弟なのよ!」
アレクセイには怒鳴る彼女の理屈の方がよっぽどわからないと思ったが、それを口に出すのは憚れた。彼女に逆らっても損以外の何もないからだ。
代わりにわかったことと言えば、彼女も弟のことを何も知らないということだ。
それと、怒られて怒鳴られるよりも、勢いだけで怒鳴られる方が対処に困るということだ。
「弟はねぇ、虫も殺せない優しい子だったの」
娘の対処にどうしたものかと悩んでいたアレクセイだったが、ぽつりと呟かれは娘の台詞に面食らった。
冷静に考えれば何も驚くことはなかった。
戦神と呼ばれていても本物の鬼ではなく人間なのだから、優しい頃があってもおかしくはない。
彼女も強がっているだけで、弟を殺さねばならないことに何も感じないわけでもない。
しかし、アレクセイには、その両方が衝撃的だった。
彼女の台詞が信じられないわけではないが、聞いてはならないものを聞いてしまったような気がした。
「それがいつの間にか私より大きくなって、今や戦神なんて呼ばれるようになるなんてね……」
感傷に浸る娘の声が胸の奥に響いて、かける言葉が見つからない。
今、隣にいるのは戦神の姉ではなく、狂ってしまった弟を思う姉だ。
その姉に、弟の討伐を命じられた男が、何を言えるだろうか。
「馬鹿にし過ぎたのが悪かったのかしらね。手柄を立てて姉さんを見返してやるって、そう言ってあの子、兵隊に志願したのよ」
再び、倒れるように座って彼女は、遠い目をしていた。戻れない過去を悔いているのだろうかと思ったが、そんな風には見えなかった。過去に振り返っても、見ているだけで、後悔も何も感じていないように見えた。
「ねぇ、姉が弟を殺して、何とも思わないと思う?」
責めるわけでも、嘆くわけでもなく、遠い目をしたまま娘は尋ねた。
そんな彼女を見てアレクセイは、やはり何も答えられず胸が痛んだ。
離れて見ていた時は気づかなかったが、隣で話す彼女の顔はずっと強張っていた。
顔だけではない。よく見れば体も震えていた。手は細く、身につけているものといえば、三角巾と汚れたエプロンだけ。どこをどう見ても、彼女は普通の娘だ。
それが突然、戦神を、否、弟を殺せと言われたのだ。
何も思わないわけがない。
彼女が今どのような気分でいるのか、アレクセイには想像がつかなかった。
いくら辛く悲しくても、戦神を殺す切り札として、強がらなければならならなかったのだ。
そんな苦しみを、兵士でしかないアレクセイにわかるわけがなかった。
「やだ。本気にしないでよ」
それなのに、彼女は冗談だと言わんばかりに明るい声でそう言った。
それは彼女なりの気遣いだったのかもしれない。だが、アレクセイはもう、娘の震える声に気付いてしまった。
何が本当の冗談なのかわかってしまった上で、彼女の冗談に乗れるほど、アレクセイは器用な男ではなかった。
「この国が長年敵対している国の王の話を聞いたことがあるか?」
あまりに唐突なアレクセイの質問に、彼女は戸惑いながら首を横に振った。
何の話をするのかと不思議そうな顔はしていたが、水を差そうとはしなかった。
それどころか、戸惑う瞳が続きを促しているかのようにも見え、アレクセイは一度頷き話を続けた。
「実を言うと、彼の国の王とこの国の王は兄弟でな、昔は国王が自らお互いの国に出向くほど仲が良かったそうだ」
アレクセイが語り始めたのは、兵士達の間で広まったある噂話だった。
聞いた時は、平和な砦の暇潰しにしかならない、つまらない話だと思ったが、今思えば、とても重要な話だったのではないかと思う。もし、このことが本当だったならば……。
「それが、敵対するようになったのは、この国の王の誕生祝いの席でのことだったそうだ。
兄君たる彼の国の王が突然、弟は狂っていると叫び出したそうだ」
「狂っている……」
「あぁ、そう言ったらしい。噂話だから俺も詳しいことはわからないが。
酒に酔った勢いでのことだと、最初は誰も相手にしなかったそうだ。
だが、王を侮辱されて謝罪の言葉も無しとあっては、いくら相手が国王の兄といえど許されることではない。
両国に生まれた確執は徐々に広がり、今に至ったわけだ」
王都から伝わってきた話なのだが、遠く離れた田舎では、真偽の方は定かではない。同じ話でも脚色されて、二、三度聞いたこともある。
アレクセイはその中で、一番真実に近いと思われる話から、脚色されたと思われる部分を削って話した。削れる部分は全て削った。アレクセイ自身も一つも脚色していない。おそらくこれが最も真実に近い話だろう。
「敵国の王の話だ。この国では誰も信じちゃいない。
しかし、もし、彼の国の王が言ったことが本当の話なら……」
「だから、だから何だって言うのよ」
大人しく聞いていた娘の唇が、微かに震えた。顔も徐々に青ざめていき、今の話が真実だと思いたくないことがありありと伝わった。
伝わったが、伝わったところで、出かけた言葉を止めることは出来なかった。
「今の話を聞いて思わないか。狂っているのは……」
「弟でしょ! 私の弟! そう、そう決まったんだから! 言われたんだから! いまさら……今更、何言ったって遅いのよ!」
怒鳴りつける娘に、今度はアレクセイも気圧されはしなかった。
その代わりに、立ち上がり涙を溜める娘に、胸が痛まないわけがなかった。
だが、今、最も苦しんでいる者のことを考えれば、アレクセイの痛みなどないにも等しい。
「ただの噂話だろ。何を怒っているんだ」
だから、精一杯、おどけるように言ってみた。
彼女には、どう伝わったかはわからない。
わからないからアレクセイは、彼女が唇を噛み締めるのを、ただただ見ていた。
娘も、噛み締めた唇を開けようという気配もさせない。
二人の間に沈黙が訪れた。おそらく長い沈黙になるだろう。
出会った時から怒鳴られてはいるのに、怒るところは初めて見た。
怒る彼女はただの小娘で、戦神の姉であることなど忘れてしまいそうだった。否、アレクセイは完璧に失念していた。
だから、傷つけるとわかっていながら話を止めることが出来なくて、今はかける言葉も見つからない。
このまま無為に時間を潰すぐらいならと、休憩を終わらせようと再開の合図を入れかけた時、部下の一人が近づいて来た。
何事かと尋ねると、部下は横目で彼女を見た。
それだけで、彼が何を言わんとしているのかがわかった。
部下を近くまで呼び寄せて、話の内容を確認する。部下の持ってきた答えは、予想通りのものだった。
「弟君が見つかったそうだ」
それを告げた時の彼女の顔は、よく見れなかった。