第3部 「姉と弟」
戦神、鬼神、化け物。
アレクセイが聞いた限りでは、男は人並み外れた力を持つ、正に英雄だった。
この国の誰もが恐れ、同時に憧れた。そんな人物が、狂って国を追われる羽目になったなんて誰が信じるだろうか。
正直に言うと、命令を受けた時はアレクセイも信じられなかった。
英雄の姉が来ても実感はわかなかった。
そして、今、その英雄を目の前にして、信じるとか実感が湧くとかそんなこと言ってられなかった。
馬小屋か倉庫を思わせるあばら屋に踞っていたのは、体格がいいというだけの年若い青年だった。
英雄がまだ若いことは、彼の姉を見た時からわかっていたことだ。
問題なのは、彼がとても狂っているように見えないことだった。
逃げ隠れていた間の彼の状態を、何も知らずに匿っていた者達に聞いてみたみても、彼は何かに怯えてはいたが他に異常なところなどなかったと言っていた。
皮肉な話だ。
戦場では神と呼ばれ、国では異常者として追われるこの青年は、小さな田舎の村で、追っ手に怯えながらも、誰にも迷惑をかけずに、静かに暮らしていたのだ。見つからなくても何も問題なかっただろう。
アレクセイ達も虱潰しに探してどうにか見つけたぐらいだ。こうして追い詰められるまで、誰も彼が狂っているとは思わなかっただろう。
心の中で秘やかに、青年に同情を送った。
これから殺さなければならない相手に同情をするなんて、益々皮肉な話だが、それを笑い飛ばせるような度胸はアレクセイにはなかった。
「何人やられた?」
長い棒きれを抱えてうずくまった青年から目を離さないようにしながら、部下の一人を捕まえて尋ねた。
今まで逃げ隠れてきたのだから、今更大人しく捕まってくれるわけがない。発見して、アレクセイ達が到着するまでに何人の仲間達が犠牲になったか、それによって今後の動きが変わってくる。
「いえ、それが……」
口ごもる部下に嫌な予感がした。
相手は戦神だというこことも忘れ、弱っていると侮った馬鹿が何人いたんだと、アレクセイはすぐに己を叱責したが、返答は一向に返ってこない。
「皆、無事です。負傷者はいますが、死んではいません」
苛立ち始めたアレクセイに、口ごもった部下に代わり、別の部下が答えた。
想定外の答えに、アレクセイは驚いた。
答えた部下もまた、信じられないという顔をしつつも、冷静に立て直そうとしているのが見てわかった。
「皆、無事か……」
返事を求めず呟いた言葉に、一人がしっかりと頷き、もう一人がおどおどと頷いたものだから、疑う余地もない。
皆、無事。それは喜ばしいことであったが、同時にあってほしくないことでもあった。
今の状況を客観的に見て、追い詰めている自分達と追い詰められた青年の、どちらがおかしく見えるだろうか。
命令を待つ部下達に、何と言えばいいのか。
このままではいけないとわかっていても、背を押すのは信頼の欠けた上司からの命令しかなくて、アレクセイの足は前に進んではくれない。
何が正しいかなど考えず、命令に従うだけの兵にならねばならないことが、これほど辛いことだとは思いもよらなかった。
「隊長、どうしますか」
部下に尋ねられ、答えに迷った。
勝てる見込みがあるかどうかもわからないのに、何を迷っているのだろうか。ほんの一瞬迷ったその時に、娘は前へと出ていた。
姉の姿を確認し、青年の体が僅かに動いた。
姉と弟の再会、本来ならば微笑ましい光景に皆が固唾を飲んだ。
これから何が起きるのか、誰にもわからない。
ただ、これから起きるであろうことは、どう転んでも、悪いようにしかならない。
例え狂っていなくても、弟は絶対に助からない。例え姉が助けようとしても、アレクセイ達は彼等を逃すわけにはいかない。
それ故に、アレクセイは目を逸らすわけにはいかかった。
ことの全てを見る義務が、隊長であるアレクセイには課せられた義務た。
「何しに来たんだ」
掠れた声で青年が問うのが聞こえた。疲れきっていることがわかる力のない声なのに、姉以外の誰も近づけようとしない、強い意思が感じられる。狂っても、弱っても、彼は戦神なのだと思い知らせる声だった。
「あんたを助けに来たのよ」
姉はそれに軽く答え、一歩また一歩と重い足取りで弟に近づく。
彼女も緊張しているのだろうか。弟の前にまで来た彼女は、死者か、その魂を狩る死神のように、隙間風に動かされ、暗く揺らいでいるように見えた。
「助けに……」
揺らぐ娘を前にして、青年が再び口を開いた。
その声には先程のような覇気がなく、娘の正体すら、わかりかねているようだった。
ならば、青年には、彼女がどのように見えているのだろうか。
救いの女神か、死を呼ぶ悪魔か。
どちらか答えを出す前に、手にした剣に力が篭った。
神か悪魔か、そのどちらであっても、アレクセイは気を緩めるわけにはいかない。青年の死を見届けるまで、アレクセイは隊長として気を抜くわけにはいかなかった。
「何、ほうけてんのよ」
それなのに、何でもないように投げかけられた娘の台詞に、アレクセイまでも現状を忘れかけそうになった。
アレクセイにはわからなかったが、揺れるその一方で、彼女の足はしっかりと地についていた。
そう、弟の前に真っ直ぐと立てば彼女は、神でもなければ悪魔でもない、ただの青年の姉だった。
「姉ちゃん……」
「うん」
戦神とは思えない、弱々しい声で青年が姉を呼んだ。
よく見れば青年の服はボロボロで、体も所々、腫れて異様な膨らみが目立つ。
こんな姿になってもまだ、彼は戦い、怯えられてきたのだ。
何の力もない姉を前にして、アレクセイは、初めて青年の姿を見た気がした。戦神ではない、一人の青年の姿を。
「助けて……」
青年から、もう限界なんだと訴えるような声が痛々しく洩れた。
いつの間に、こんなにも静かになっていたのだろうか。
青年の零したたった一言が、胸に、頭に、体の中に響いていく。
あまりに悲痛な声に、ここにいるのが誰なのかさえ、忘れてしまいそうになっていた。
「もう、嫌なんだ。殺したくない。誰も殺したくない……」
狂っている。
今のこの青年を見て、そう思う者は少ないだろう。
事情を知らなければ、アレクセイも彼を狂っているとは思わなかっただろう。
しかし、彼は戦神とまで呼ばれた男だ、戦いたくないと言い出して、許されるわけがない。
何が彼をここまで追い詰めたのか、答えはおのずと出てきたが、その答えを認めることは、アレクセイには出来なかった。認めてしまえばアレクセイは、逃げることも出来なくなる。
それ故に、「助けて」と、壊れたように言い続ける青年からも、アレクセイはついに目を逸らしてしまった。
「わかった。今、助けてあげるから」
背後から、姉の優しい声が聞こえた。
背を向けてしまったアレクセイには、彼女がどのような決断を下したのかわからない。
数秒後に耳をつんざくような若い男の叫び声が上がった。
事の終わりを聞き振り向けば、姉は刃物が突き刺さった弟の背を抱いていた。
戦神と呼ばれた男は呆気なく、戦場ではなく、姉の腕の中で死んでいた。
狂ってしまった弟に、姉は安息を与えたのだとアレクセイは思った。
それはきっと、腕からゆっくりと滑り落ちる弟の亡きがらを見つめながら、姉が泣きも笑いもしなかったからだろう。




