ユウゲンの④
日付が変わるころ、自宅のカギを開けた。
戸建ての我が家は真っ暗で、習慣通りダイニングテーブルに置いてあるはずの夕食を温めてようとリビングへ向かう。
母はいつものように寝ているものだと考えたが、テーブルの上に手紙が一通置いてあった。
電気を点けて手紙に目を通す。
長々と綴られた文面には、母の言い訳じみた言葉が並んでいた。
要約すると、以前から付き合っていた職場の男と共に、四国の方で新しく生活するそうだ。
男の方の離婚した女が母に恐ろしい感情を持っているらしく、県外に出るより仕方なかったらしい。
隆弘が一人前になったので、安心して男と暮らしていける。と、そんな事がやけに遠回しに書かれてあった。
家はそのまま使って問題ないそうで、手紙の最後は「母さんは隆弘の事をいつも考えています」と締められていた。
黒々とした便せんを眺めながら、松岡は思う。
(直接言えよ)
手紙をテーブルに置き、溜息を吐いて椅子に腰を下ろした。
(父さんと離婚した時も、何の相談もなかったな……)
静まり返った室内で、空間を見つめる。
思い返せば母は、父と口論を重ねる日々で相手の反応に臆病になってしまったのだろう。
自分が考えて口に出した言葉に、反論されるのが怖くなったのかもしれない。
もうどうでもいいが。
静寂が続き、しばらくの時間を置くと、割れた電球が天井から降ってきた。
テーブルは二重三重に割れ、棚の食器も甲高い音を立てていく。
ガシャン・バキッ・バリバリ・ドンッ。と不快音が響く中で、微動だにしない松岡。
電化製品は無事だ。
捨て鉢な気分とは言え、壊す物を選ぶ余裕がある自分に、自嘲的な笑いがこぼれた。
激しい頭痛を我慢しつつ、スーツのままコンビニへ向かう。
明日も仕事がある。
だが空腹のままでは寝付けそうにない。
おにぎりと麦茶を買うと、家の惨状を思い出して帰宅をためらった。
リビングで食べる気にはならないし、部屋に戻っても気分は落ち込むだろう。
(そうだ。あの土手に行こう)
中学時代、友人たちと夜な夜な集まった土手で、川を眺めようと思いついた。
過去を懐かしみ、今に目を背けつつ未来に思いを馳せようと、ふらふらとおぼつかない足で思い出の場所へ向かう。
土手に到着して川を見下ろした後、荒れた息で星を見上げた。
快晴だった。
満天の。とは言えないが、瞬く星を見て気分が少し楽になる。
区切りなく続く夜空に、視野だけでなく陰鬱とした心まで広がっていく気がした。
座り込んで、おにぎりの封を切ろうとすると、遠くから高い音が断続的に続いている事に気が付いた。
民家から聞こえていると思ったが、どうやら下の草むらの方からだ。
猫の鳴き声だ。
居ても立っても居られず、ゆっくりと河川敷へ降りる。
声の主を踏まないよう気を配りつつ、辺りを探すと見つかった。
子猫が、たった一匹で、ニャーとはまた違う高い声で必死に鳴いている。
開いてない目で、四つの足で必死に立ち、あらん限りに鳴き続けている。
放っておけずに、ひょいと子猫を胸に抱えて自宅に向かった。
帰りがけに先ほどのコンビニに立ち寄って、猫用の缶詰を購入。
鳴き続ける子猫の声は迷惑かと思ったが、店員の男性は親切に猫の飼い方をざっと教えてくれた。
散らかったリビングはそのままにして自室に戻ると、取り敢えず聞いた通りに洗面器へタオルをいくつか敷いて、トイレを作った。
目の周りを覆う酷いかさぶたは、お湯をしみこませた布で少しづつ取り除く。
牛乳を水で薄めたものを温めて、弁当用の醤油差しを良く洗い、スポイト代わりにして少しづつ口に運んだ。
ちゅぱちゅぱとミルクを飲む子猫を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
明日には病院へ連れて行こう。
外回りの途中で家に戻り、専用のミルクとトイレも買ってこなければ。
どうせ碌なアポイントも取れていないのだから問題ないだろう。
いつの間にか飼うつもりでいた。
家族がいなくなったその日に、家族が増える。
自分が存在する事で救われた命に、自分が救われたような気がした。
自暴自棄になりかけていた心に光が差し込んだ。
十年が経った。
猫は死んだ。
悪性のリンパ腫だった。
手は尽くしたが、普段から仕事に気を取られて発見が遅れてしまったのが良くなかった。
昔からの友人たちは家庭を持ったあとで疎遠になり、新しく付き合いを広げるほど松岡の心に余裕が無かった為、彼は孤独だった。
猫は松岡の生きる理由だったのだ。
ペットの個別火葬を済ませると、一人で暮らすには広い家がより一層広く感じられる。
壁の爪跡を見て泣き濡れる日々が続いた。
新しく猫を迎える気にもならず、あれだけ必死に向き合っていた仕事も馬鹿らしくなって辞めた。
金は生きるために稼ぐものだ。
貯えは多少あるが、趣味という趣味も無かった為にこれから何をすればいいのか分からない。
生きる理由も分からない。
気晴らしに小説や漫画を開いてみても、全く頭に入らなかった。
自室のベッドの上で、思い出したように手元の小説に向けて念じてみる。
小説はふわりと浮いて、本棚に収まった。
念動力はまだ使える。
使えば寿命が縮むが、もういい。
母からは出て行った当初に着信が何度かあったが、無視しているうちに連絡はこなくなった。
自分に生きる意味はもうない。
いや、これから作ればいいではないか。
念動力は自分だけの特技だ。
インターネットで調べても、使用者やそれらしい情報は全く分からなかった。もしかしたら、本当に唯一無二なのかもしれない
ならばこのチカラで自分にしか出来ない事をしよう。
国や変な機関に目を付けられるかもしれないが、まあ、その時はその時だ。
それから松岡は数年間、
変な機関に目を付けられ、
台風を散らし、
噴火を止め、
地震を抑えた。
最後は大陸間弾道ミサイルを海上で爆発させて、
死んだ。




