壱・ピアノフォルテ〜叙情詩(アリア)・4
「大丈夫だよ」
聡子はそう言って彼女に笑いかけた。
「ピアノ、好きでしょ?なら、大丈夫だよ」
自分と同じように、彼女はピアノを愛している。弾くことに喜びと至福を感じている。
「きっと、耐えられるよ――」
何を失っても。
自分の部屋の中で、聡子は楽譜を広げていた。架空の鍵盤を叩きながら考えている。ピアノ教室には今月いっぱい通える。今月とは言っても、もう半月もない。
「もし……もし本当に、望みがかなうのなら」
双子に言われた言葉が頭をよぎる。
『要らないところを頂戴。望むものをあげるから』
でも、それは出来ないことだろう。聡子が欲しいのは物ではない。ピアノを続けてプロのピアニストになりたいという、夢だ。
オーケストラに加わっても引けを取らないピアニストになりたい。
それは他人にかなえてもらうものではない。
他人がかなえられるものではない。
「できるよ」
背後からの声に、聡子は振り返った。
愕然と硬直する。
あの双子がいた。
同じ顔、同じ服。音楽室で会ったときのように、固く手を繋いで立っている。
「な、んで……どうやって!? どこから!?」
両親のどちらかが帰ってくるまで玄関には鍵がかかったままだ。窓だってほかの部屋は開いてはいない。聡子の部屋の窓は開いているが、窓は彼女の横にある。そこから入ってきたのならばいくらなんでも気がつく。
玄関の鍵を開けて入ってきたのか。ドアの開く音も聞こえなかったような気がするが、楽譜に気を取られていたせいかもしれない。
「で、出てってよ!!」
「いいの?」
双子は首をかしげた。同じ方向に、同じ人間のように。
「いいの?」
もう一度、訊いてくる。
「要らないところはないの? 望みと引き換えに、無くしてもいいと思うところはないの?」
表情が浮かんでいないと、本当にどちらがどちらか分からない。
もう一人が言う。
「身体のどこかと引き換えにしてでも、かなえたい望みは貴女にはないの?」
強い願いはないのかと。自分のどこかを売り払ってでも、やり遂げたいことはないのかと。
「考えてみて? ないの? 本当に、ないの?」
「あるよ!!」
聡子は立ち上がって叫んだ。やりたいことはある。したいことがある。
「でも出来ないの!! だめなの!!」
止められてしまった。聡子の未来は両親が決めてしまった。娘の希望も親は取り払ってしまったのだ。
ピアニストなんてなれない、才能がない。夢を追うことはできないと。
親としてはもっと明確な将来を決めて欲しかったのだろう。
現実的に、地面に足をつけて、いつまでも夢ばかり見ていないで、前を見なさいと。
可能性を摘んでしまう考え方だ。まだ聡子は中学生だというのに、夢を見ることすら出来なくなった。
「できるよ」
にこやかに、片方が言う。表情があるほうは、音亜だ。
「わたしたちには、できるよ。貴女が要らないところをくれたら、お礼にかなえてあげる」
「どうやって!」
聡子は叫ぶ。
「さぁ」
無表情に優亜は首をかしげた。
「でも、かなうよ。それが貴女の望むカタチとは限らないけれど、かなうよ」
「意味分かんないよ……!! それでどうしてかなうって言えるの!?」
「かなうからだよ」
意味の分からない言葉。双子本人たちにも分からないというのに、何故そこまで彼女たちは断言できるのか。
「じゃあかなえて見せてよ」
「いいよ。どこをくれる?」
嬉しそうに音亜が聡子を見る。
「要らないところ、どこくれる?」
聡子は考え込んだ。自分の身体の要らないところ。今まで考えたこともなかった。
まず第一に手はだめ。ピアノを弾くためには絶対に必要だ。耳もだめ。聞こえなければ音を楽しむことが出来ない。足もだめ。ピアノにはペダルがあるからだ。
目もだめ。楽譜が読めない。
「……あのさ、たとえば鼻って言ったらどうなるの? 鼻がなくなるわけ?」
「そうだよ。だって要らない場所でしょう? 無くなったっていいじゃない」
無表情に優亜が説明してくれる。
「鼻が要らないの?」
「ままま、待って! 違う! 今のは質問だから! 答えてるわけじゃないの!」
あわてて遮って、聡子は真剣に考えた。双子を試す気満々だった。どうやって入ってきたか知らないが、望みをかなえてくれるというなら、出来るものならしてみろという気分になってしまっている。
身体の一部。要らない場所。なくなっても困らない場所。
しばらく考えて、ようやく答えは出た。
「じゃあ、足の爪をあげる」
「足の爪?」
双子は首をかしげた。
「そう、爪」
これならなくしてもいい。痛くなさそうだし。
なくしても痛くない場所で考えて、思い浮かんだのは髪と爪だった。
切っても痛くない場所だ。
「それでいいの?」
小首をかしげたまま、双子は訊き返してきた。てっきりそんな場所ではだめとか言われるものだと思い込んでいた聡子は、逆に訊き返してしまう。
「え、爪でいいの?」
「いいよ。それが貴女の要らないところなら」
「じゃ、じゃあ爪。それでいいなら、足の爪をあげるよ」
「頂戴」
にこやかに、無表情に、双子は頷く。
無表情に、妹の音亜と手を繋いだまま、優亜がしゃがみこんだ。
細い手が、聡子の靴下に包まれた足先を撫でる。爪の部分だ。
「な、なにするの? まさか……むしる気!? 痛いのはイヤよ!?」
「むしらないよ」
撫でて、優亜は顔を上げた。
「頂戴、ね」
手を離して、立ち上がり、優亜は聡子の顔を覗き込む。硬質なものを感じさせる無感情な瞳で、聡子を見つめて彼女は言った。
「約束、したから」
聡子は知らず唾を呑んだ。何かとんでもないことをしたような気がする。けれどやっぱりやめたとは言えなかった。
優亜の瞳を除いた瞬間に、かなうかもしれないと思ったからだ。
どうしてそう思ったかは分からない。でも直感した。
足の爪は失う。でも、もっと大事なものがかなう。
自分の夢、自分の望み。
ピアノを続けたい。ピアニストになりたい。
世界的なオーケストラに加わっても恥ずかしくないようなピアニストに。
彼女のような才能溢れるピアニストになりたい。
彼女と同じ道を、彼女と一緒に、並び立つようなピアニストになりたい。
なによりも、ピアノを弾いていたい……!
それが聡子の望みだ。
双子はそのまま聡子の部屋のドアから出て行った。
見送ってしばらくしてから聡子は我に返る。あわてて走っていって、玄関の鍵を確かめた。 閉まっている。窓の鍵を確かめに走った。
窓も確かに閉まっている。開いていたのは聡子の部屋の窓だけだ。
家の中に出入りできそうなところは全て戸締りがしてあった。
では、あの双子はどこから入ってきて、どこから出て行ったのだろう?
そう言えば、靴を履いていた。揃いの靴。室内なのに屈を履いていて、でも聡子の部屋のカーペットは汚れていなかったし、家の中のどこにも靴跡はなかった。
「なんなの……?」
幽霊か何かだろうか。でも、触れた手は別に冷たくはなかった。ごく普通の人間の少女の手だったような気がする。
「ち、超能力者とか? ありえないよねいくらなんでも」
でも、あの瞳は。
あの瞳を見た瞬間に何故自分の望みはかなうと思ったのだろう?
足元を見下ろした。靴下に包まれた自分の足。つま先。
足の、爪。
しゃがみこんで恐る恐る触ってみる。爪の感触は靴下越しにちゃんとあった。
それだけでは安心できなくて靴下を脱いでみた。爪はちゃんとある。
「なんだ……あるじゃん……もーっ!」
びくついて損した。思いながら双子の片方が触ったときのようにつま先を撫でた。別に爪が取れたりもしない。
「なんなのさ、あの人たち」
立ち上がって脱いだ靴下を洗濯機に入れようと脱衣所に歩く。
やっぱり変質者なのかなとも思った。
両親が帰ってきたら、防犯ベルを買ってくれるよう言ったほうがいいかもしれない―――。
***
「約束、したから」
「約束、したからね……」