壱・ピアノフォルテ〜叙情詩(アリア)・3
自分の教室まで戻って、聡子は息をついた。胸に抱いていた楽譜は折れ曲がってしまっている。強く握っていた音楽室の鍵に、ドアの鍵をかけるのを忘れていたことに気がついた。変な双子から逃げることしか考えていなかったのだ。もう一度戻って鍵をかけてくるべきだろう が、一人で戻るのは恐い。変な人がいることを伝えて先生に行ってもらったほうがいい。
あの人たち、どこから入ってきたんだろ。最近変な事件多いし、恐いなぁ。正直にそう思った。変質者が多くなってきているので、登下校の際には気をつけるようにと言われているが、 校内に入ってこられると気をつけようがない。
自分の机に戻って鞄に楽譜をしまい、上着を着て教室を出る。もう帰ろうとしか思わなかった。職員室に入って、変な人が音楽室にいますと伝えると大騒ぎになった。先生が数人で音楽室に確認に行ったほどだ。
事情を聞きたいのでもう少し残っていてくれと担任に言われ、聡子はしぶしぶ職員室のソファに座って待った。
どんな人だったと訊かれ、女の子二人でしたと答える。
「高校生くらいの、双子っぽい女の子ふたりでした」
うりふたつの顔、声、服。喋って感情を浮かべて初めて違いが分かるくらい似ていた。
高校生の女の子、と担任は驚いたようだった。しかし、昨今高校生でも事件を起こす時代だ。 年代はあまり関係ないだろう。
「あ、制服みたいなの着てましたよ。このへんでは見たことない服だったけど……」
青緑を基調とした上着と、上着より薄い色のスカートに、紺色に近い色のタイ。黒のハイソックス。靴までは覚えていないが、全体的に受けた印象が制服のようだった。
そこまで説明したとき、確認に行った先生たちが戻ってきた。
本当に変な人がいたのかと聡子に確認してきたことから、あの双子はもう逃げてしまったのだと聡子にも知れた。
「いましたよ。なんか身体の要らないところ頂戴とか変なこと言われて、あたし恐くなって逃げてきたんですもん」
答えてから聡子はゾッとして自分の身体を抱きしめた。あげると答えていたら自分はどうなっていたのだろう?
「誰もいなかったんですか」
怯える聡子に先生たちはなだめるように笑いかけていなかったよと答えた。
とにかく、しばらく音楽室で一人にはならないようにと。
できれば登下校も一人でしないほうがいいと言われ、聡子は困惑した。登校時には近所の友達と一緒に来ているが、ピアノ教室がない今日のような日は、残って音楽室でピアノを弾いているので下校は大抵一人だ。たまに友達も残って面白がって一緒にピアノを弾くことがあったが、今日は一人である。
日は暮れかけている。防犯ベルも携帯も持っていない。親に迎えに来てもらうにも、どちらも仕事だ。さすがに娘に変質者が声をかけてきたと知ったら、迎えにくらい来るだろうとは思うが、ピアノを辞めさせたいと無理矢理実行した両親の顔はあまり見たくなかった。ピアノをいじっていた音楽室で変な人に会ったなどと言えば、そら見たことか、辞めるべきなんだと言いかねない。
ケンカしているわけではない。でも、見たくない。
「大丈夫です、一人で帰ります」
聡子は強情に言い張った。親を呼ぶのはイヤだ。
先生たちは困惑している。変質者に会ったという生徒を一人で帰すわけにはいかない。このまま帰してもしものことがあったら。
担任が送っていくと申し出てくれた。ただ、もう少ししたら職員会議が始まるので、会議が終わるまで待っている必要がある。
どのくらいかかるのか分からない会議だ。それを待っているのは退屈だろう。先生方は退屈ならいくらでもプリントを提供するぞと笑っている。ここは職員室で、数学やら国語やらその他教科の地獄のような問題が書かれたプリントがどっさり置いてある。
宿題を出されるより嫌な環境にいることに気がついた聡子である。
これはなんとしてでも今すぐ帰らないと、会議が終わるまで地獄のプリントをやらされるハメになりかねない。
「ぜったいイヤです。一人で帰ります」
断固として言い張る彼女に、
「どうしたんですか?」
不思議そうな声がかかった。聡子は目を丸くする。まだ帰っていなかったのか。
彼女だ。聡子の憧れる腕前を持つ同級生。どうして職員室になんているのか。
彼女は校長室から出てきたようだった。何の話をしていたのかは聡子には見当がつかない。
「あ、橘さん。どうしたのー? 顔色青いよ。具合悪いの?」
「う、ううん。ちょっと変な人に会ったの」
「えっ」
彼女は目を丸くした。先生たちが補足する。音楽室で変な女の子二人に会ったらしいと。
だから一人で帰るのは危ないと言っていたところなんだと。
「じゃあ、わたしと一緒に帰ろう!」
彼女は胸を張った。
「大丈夫! わたし防犯ベル持ってるし! けっこう力あるから! 橘さん守ってあげる!」
ちょっと待てと先生たちはあわてている。なんせ彼女はこれから留学する大事な身の上だ。
この学校始まって依頼の優秀な才能ある生徒である。聡子とは違うのだ。
「い、いいよ。あたし一人で帰れるから」
「だめだよ、橘さんわたしと違って可愛いもん! 危ないって! 大丈夫! ちゃんと家まで送ってあげるから!」
彼女は自信満々聡子の手を引いた。いい人なのである。それが分かっているので聡子も彼女のことは好きだ。彼女の弾くピアノも好きなのだ。彼女の腕前に嫉妬するよりも先に、聞き惚れたくらいに。
うっとりするくらいの腕前で、性格も良く、でも聡子と同じように運動ができない。そこらあたりは欠点というよりは愛嬌である。
「そういうわけで、橘さんはわたしが送りますー」
周りの先生方は大慌て。でも彼女はいつもマイペース。聡子の手を引っ張って嬉しそうに笑っている。
「大丈夫! 安心していいよ! わたし、強いから!」
「……運動苦手じゃなかったっけ?あたしと一緒で」
「……大丈夫! 力はあるから!」
めげない彼女に、聡子はようやく笑った。先生たちも彼女の勢いを止められない。結局彼女がちゃんと防犯ベルを持っていることを確認して、押し切られる形で彼女と聡子の下校を認めた。
***
いろんな話をした。聡子がピアノを習っているというと彼女は嬉しそうだった。
もうすぐ辞めるのとは言わなかった。ただ彼女とピアノの話をしていると楽しかったから言えなかった。
「今何の曲を練習してるの?」
彼女が訊き、聡子が答える。
「そうなんだー、けっこうコツがいる曲だよね」
ニコニコと、彼女は言う。
「わたしが今練習してる曲ね、難しいんだよー。もうイヤになっちゃうくらい」
彼女でも難しいと思うのかと思わず聡子が呟くと、彼女は苦笑した。
「難しいよー。泣きそうになるくらい。でも、やっぱり楽しいからね、弾くの。結局好きだから弾いちゃうの。ピアノ馬鹿だから。他には何も出来ないしねー、頭悪いし」
あっけらかんと彼女は言う。そんなことないでしょと聡子が言うと、彼女はこっそりと中間テストの順位を教えてくれた。
聞いて目が丸くなった聡子だ。自分とほとんど変わらない。
「ね、馬鹿でしょー? あははは、もう開き直ってるのー」
聡子も自分の順位を教えた。彼女ばかりに言わせるのは不公平だろうし、彼女にとても親近感が湧いているせいもある。
「おお、仲間だー。嬉しー。あははは、失礼かな。ごめんね橘さん」
そんなことないよ嬉しいよ。聡子は心から言った。同じピアノ好きで、同じく成績が悪くて、運動も出来ない、聡子と似ている彼女。
「そう? 嬉しいなぁ。なんか留学決まってから皆よそよそしくて、ちょっと寂しかったの。ありがと」
照れくさそうに彼女は笑った。
「でもねー、さすがにねー、英語は勉強しないとまずいの。行って英語くらいは話せないのはちょっとまずいでしょ、うん」
そうだね、ちょっと厳しいよねと聡子が同意すると、彼女は大げさに頭を抱えた。
「えいご……苦手だー! どうして世界共通じゃないの日本語ーっ!」
本気で叫んでいる。彼女の心境も分かったので聡子は笑った。
共通語が日本語なら苦労しないのにね。そう言うと彼女は首振り人形のように何度も頷いた。
「ほんとそう。本当そう! ううー、ジャパニーズオンリーでいいじゃん、ねぇ?」
ふてくされている。ピアノを弾いているときとは大違いの表情で、彼女はくるくると表情を変えた。
聡子と変わらない年の彼女。これから留学する彼女。
聡子とは違うけれど、聡子と似ている彼女。
音楽に魅せられている、自分と彼女。
やはり、辞めたくない。聡子は思った。
彼女と一緒に、彼女と同じところで、ピアノを弾いていたいと思った。
たとえ彼女ほどの才能がなくても続けたいと思った。
もし、その願いがかなうのならば。
本当にその思いがかなうのならば。




