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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第十五話 空白の重さ

朝、隣の部屋からジッパーの音がした。


聞こうとしていたわけではなかった。


ただ、聞こえた。


長いジッパーの音が一度。短いのが二度。それから、何かを床に置く音。硬いものが、木の床に触れる音。


PONは天井を見ていた。


---


カフェへ行った。


シオンはすでにいた。


荷物が足元にあった。大きくはなかった。リュック一つと、布の袋が一つ。ノートが、布の袋から少し見えていた。黒い表紙。


コーヒーが、半分残っていた。


「おはよう」


「おはよう」


PONは向かいに座った。


注文した。


扇風機が回っていた。


---


会話は少なかった。


シオンが言った。「バスは十一時」


PONは頷いた。


「チェンマイで連絡します」とPONは言った。


「うん」とシオンは言った。


それだけだった。


沈黙が来た。


でも、沈黙に何かがあった。空っぽではなかった。言わないことが、そこにあった。


---


コーヒーが来た。


マグカップを両手で持った。


熱かった。


シオンのカップは、もう冷めていた。でもシオンはまだ持っていた。両手で、ただ持っていた。


温度を飲んでいた。


---


バス停まで、少し歩いた。


荷物は、シオンが持った。


PONが持つと言う前に、持っていた。


道は、昨日と同じだった。砂利の音がした。二つの足音が、少しずれて続いた。


橋を渡った。


竹が軋んだ。


川の音があった。


橋の中ほどで、シオンが少しだけ欄干に手を置いた。一秒か二秒だけ、止まった。


それから歩いた。


PONも歩いた。


---


バス停は、小さな屋根だけの場所だった。


ベンチが一つ。


熱が溜まっていた。屋根の下でも、直射ではないだけで、温度は高かった。


バスが来るまで、時間があった。


二人で、ベンチに座った。


肩が触れなかった。


少し、空白があった。


---


バスが来た。


古いバスだった。エンジン音がした。排気の匂いが来た。


シオンが立ち上がった。


荷物を持った。


「じゃあ」とシオンは言った。


「じゃあ」とPONは言った。


それだけだった。


シオンがバスに乗った。


ドアが閉まった。


エンジン音が高くなった。


バスが動いた。


窓越しに、シオンの横顔が見えた。


こちらを見ていなかった。


前を見ていた。


バスが角を曲がって、見えなくなった。


---


バス停に、PON一人が残った。


ベンチに、まだ温度があった。


シオンがいた場所の温度が、まだあった。


座ってから一分も経っていなかった。


でも、もういなかった。


---


しばらく、そこにいた。


エンジン音が遠くなっていった。


聞こえなくなった。


砂利の道を、別の誰かが歩いていた。


犬が一匹、道の端を歩いていた。


それだけだった。


---


録音アプリを開こうとした。


やめた。


今は録る時間ではなかった。


通過している最中だった。


---


川へ行った。


昨日と同じ道だった。昨日と同じ砂利の音がした。昨日と同じ川の音が来た。


でも、何かが違った。


空間の重心が、少し変わっていた。


重心、というのが正確かどうかわからなかった。ただ、何かが移動していた。


シオンがいたとき、空間に複数の呼吸があった。今日は一つだけだった。


一つだけだと、空間が少し広くなる。


広くなるのに、軽くならなかった。


---


橋の前に立った。


渡ろうとして、止まった。


欄干に手を置いた。


木が、温かかった。


太陽で温められた、乾いた木の温度。


昨日、シオンがここに手を置いた。


同じ木に、今日は自分だけが触れていた。


同じ木だった。


でも、今日と昨日は違った。


どちらが本当の橋かという問いには、意味がなかった。


どちらも本当だった。


どちらも、通過する瞬間の橋だった。


---


川の音を聴いた。


昨日と同じ音だった。


でも、聴こえ方が少し違った。


昨日は、シオンの呼吸が隣にあった。


今日は、川の音だけがあった。


川の音は変わっていなかった。


聴いている側が変わっていた。


---


石に腰を下ろした。


水面を見た。


光が揺れていた。


昨夜の焚き火の跡は、向こう岸にあった。


灰が、また少し風で動いていた。


昨夜ここにあったものは、もうなかった。


でも、灰があった。


竹橋があった。


川があった。


土が少し黒くなっていた。


何も残っていないのではなかった。


形が変わって、残っていた。


---


扇風機のことを考えた。


部屋に戻ったとき、扇風機が回っているだろう。昨日と同じ音で回っているだろう。


でも、部屋の空気の密度が変わっているだろう。


隣の部屋のジッパーの音が、もう聞こえないだろう。


同じ部屋なのに、少し違う部屋になっているだろう。


---


雨の前の匂いが来た。


土と葉の匂い。


空が少し白くなっていた。


午後のスコールが来る前の白さだった。


パーイの空を、もう読めるようになっていた。


---


HUDを開いた。


シオンへ、何かを送ろうとした。


何を送るか、わからなかった。


閉じた。


送らなかった。


今日ではない、という感じがした。


---


発信元不明の通知が来ていた。


開いた。


*「不在は、接続を終了しません。」*


もう一行。


*「空間は、人間の痕跡を学習します。」*


PONはその二行を読んだ。


橋の木を見た。


シオンが触れた木。今、自分が触れている木。


昨日の温度は、もうなかった。


でも、触れた、という事実が、木の中に何かとして残っている気がした。


木には残らないかもしれなかった。


でも、自分の手に残っていた。


---


通知を閉じた。


川の音が続いていた。


虫が鳴き始めていた。


雨が来る前の虫だった。


---


人は消えるのではなく、通過していく。


そのことが、言葉としてではなく、橋の木の温度として、川の音の聴こえ方として、空間の重心の変化として、少しだけ身体に来た。


来て、すぐには言葉にならなかった。


ならないまま、あった。


---


雨が来た。


屋根のない場所にいたから、濡れた。


動かなかった。


少しの間、濡れていた。


冷たかった。


悪くなかった。


---


宿に戻った。


部屋に入った。


扇風機が回っていた。


昨日と同じ音だった。


でも、部屋が少し違った。


広くなっていた。


広くなっているのに、軽くはなかった。


重心が変わっていた。


それだけだった。


---


濡れた服を着替えた。


窓から外を見た。


雨が続いていた。


屋根を叩く音がした。


土の匂いが入ってきた。


扇風機が回っていた。


シオンは今頃、バスの中にいるだろう。


山道を走っているだろう。


カーブのたびに、身体が揺れているだろう。


---


それだけを、思った。


ドラマチックではなかった。


ただ、今どこにいるかを思った。


それで十分だった。


*第十六話につづく*

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