保存区域 チェンマイ 第十四話 痕跡
朝、目が覚めると、胸骨の奥にまだ何かがあった。
昨夜の低音だった。
音ではなかった。圧力の記憶だった。指で押すと跡が残るような柔らかいものに、何かが触れた後の感触。それが、胸の奥に薄く残っていた。
時間が経てば消えるとわかっていた。
消える前に、何かしたかった。
何をしたいのかは、まだわからなかった。
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朝食を食べながら、録音アプリを探した。
HUDの中に、使っていないものがあった。音声録音。最後に使ったのが、いつかわからなかった。東京でもチェンマイでも、使う機会がなかった。
起動した。
レベルメーターが動いた。
食堂の音が入っていた。食器の音。誰かの会話。扇風機。
それだけで、少し安心した。
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市場へ行った。
録音しながら歩いた。
マイクを向けるのではなく、HUDの端に小さくメーターを表示させたまま、ただ歩いた。
市場の音は複雑だった。
野菜を叩く音。袋の擦れる音。売り手の声。バイクが遠くを通る音。子供が笑う声。それらが重なって、何が何かわからない塊になっていた。
塊のまま、録れていた。
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川へ行った。
橋の手前で、止まった。
録音しながら、川の音を聞いた。
水の音は、一定ではなかった。石のある場所で速くなり、深い場所で低くなり、岸に近いところで細くなった。
同じ川の音だが、立つ場所によって違った。
今立っているこの場所の音を、録った。
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竹橋を渡った。
踏むたびに、軋んだ。
その音を録りながら渡った。
向こう岸へ出た。
昨夜ここにあったものは、何もなかった。
焚き火の跡だけがあった。灰が残っていた。
土が、少し黒くなっていた。
低音は、もちろんなかった。
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灰の前に、しゃがんだ。
手で触れた。
冷たかった。
昨夜の熱が、完全に抜けていた。
録音レベルメーターが、静かに動いていた。風の音だけ入っていた。
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昼前に、シオンとカフェで会った。
今日のシオンは、ノートを開かなかった。
コーヒーを持って、テーブルに座って、外を見ていた。
PONが向かいに座った。
「おはよう」
「おはよう」
それだけだった。
沈黙が来た。
以前の沈黙と、少し違った。以前は沈黙が重なっていた感じがした。今日は、平行している感じがした。同じ方向を向いているが、少し距離がある。
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「録音してる」とPONは言った。
「何を」
「音を。川とか、橋とか」
シオンは少し考えた。
「なんで」
「残したくなった。わからないけど」
シオンは外を見たまま、言った。
「聴き返したとき、どうでした」
「まだ聴いてない」
シオンは頷いた。
「聴いたとき、何か足りない感じがすると思う」
「なんで」
シオンはコーヒーを一口飲んだ。
「いつもそうだから」
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午後、寺へ行った。
読経が始まる時間を、体感で知っていた。
録音しながら、境内に入った。
読経の音が来た。
レベルメーターが動いた。声の波が、視界の端で揺れていた。
録れていた。
でも、何か足りない気がした。
線香の匂いが、録れていなかった。
石畳の冷たさが、録れていなかった。
空気の密度が、録れていなかった。
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若い僧侶がいた。
今日は箒を持っていなかった。木の根元に座っていた。
「また来た」と僧侶は言った。
「来ました」
「録音してる?」と僧侶は言った。HUDのメーターを見ていた。
「はい」
「何のために」
PONは少し考えた。
「わからない。残したいと思って」
僧侶は頷いた。
「残せるといいですね」とだけ言った。
否定しなかった。でも肯定もしなかった。
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夕方、扇風機の音を録った。
宿の自分の扇風機。
羽の回転音と、風が来るたびの空気の揺れ。モーターの低い唸り。どこかが少し歪んでいる音。
録れていた。
でも、風の当たる感触が、録れていなかった。
体温が下がる感覚が、録れていなかった。
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雨が来る前の風が吹いた。
窓から入ってきた。
土の匂いと、葉の匂いと、遠くの何かの匂いが混ざっていた。
録音レベルメーターが動いた。
風の音は録れていた。
匂いは録れていなかった。
当然だった。
でも、録れないものがあることを、身体で確認するたびに、何かが少しずつ積み重なった。
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夜、シオンと川沿いを少し歩いた。
会話は少なかった。
川の音があった。虫の声があった。
録音アプリは、止めていた。
今夜は録らなかった。
ただ、歩いた。
橋の前で、シオンが止まった。
「明日、チェンマイへ戻る」とシオンは言った。
昨日は明後日と言っていた。一日、早くなっていた。
「そうですか」
「うん」
川の音が続いた。
「チェンマイでも会えますか」とPONは聞いた。
「たぶん」とシオンは言った。
たぶん、だった。
確かめなかった。
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宿に戻った。
ベッドに座って、今日録った音を聴いた。
ヘッドホンをつけた。
市場の音が来た。
良く録れていた。
食器の音、声、扇風機、バイク、子供の笑い声。全部あった。
でも、聴きながら、何かが足りなかった。
足りないものを探した。
匂いではなかった。
湿度、でもなかった。
何だろう、と思いながら聴き続けた。
川の音が来た。
ちゃんと録れていた。水の音、石にぶつかる音、流れの違い。全部あった。
でも、現地の方が静かだった。
おかしかった。
録音には、川の音しか入っていなかった。現地には、川の音以外にもたくさんあった。市場の遠い音、バイク、鳥。
なのに、現地の方が静かだった。
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竹橋の音が来た。
軋む音。踏むたびに違う音。向こう岸に渡る音。
全部あった。
でも、揺れが、なかった。
橋を渡るとき、身体が揺れた。その揺れが、録音には入っていなかった。
揺れながら渡ったという事実が、録れていなかった。
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読経の音が来た。
声が録れていた。複数の声。重なり。ズレ。
でも、座っていた石の冷たさがなかった。
線香の煙が目に入る感じがなかった。
空気の密度がなかった。
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扇風機の音が来た。
でも、体温が下がる感触がなかった。
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ヘッドホンを外した。
部屋の扇風機の音が戻ってきた。
風が来た。
体温が少し下がった。
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現地の方が静かだった、という感覚の理由が、少しわかった気がした。
録音の中には、音だけがあった。
現地には、音と、沈黙が、同時にあった。
録音すると、沈黙が圧縮された。音だけが残った。
でも、音と音の間にある、空白が——あの夜の空気を作っていた。
空白は、録れなかった。
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HUDを開いた。
発信元不明の通知が一件。
開いた。
*「記録は、通過の代替にはなりません。」*
もう一行あった。
*「空白は、圧縮できません。」*
PONはその二行を読んだ。
今日一日かけて身体で確認してきたことが、そこにあった。
誰が送っているのか。
今夜は、少しだけ気になった。
監視ではないことは、もうわかっていた。
でも、観察している何かがいた。
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通知を閉じた。
録音アプリを開いた。
今日録った全部を、削除しようかと思った。
しなかった。
削除することでもなかった。
ただ、保存した。
欠損したまま、保存した。
匂いが抜けていた。
揺れが抜けていた。
空白が抜けていた。
それでも、そこに竹橋の軋みがあった。川の音があった。読経があった。
通過したという痕跡が、欠損したまま、あった。
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扇風機の音が続いていた。
窓から、夜の空気が入ってきた。
今夜は録らなかった。
ただ、感じた。
土の匂い。夜の冷たさ。遠くの虫。
明日、シオンがいなくなる。
その後のことは、わからなかった。
わからないまま、今夜はここにあった。
*第十五話につづく*




