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イエリと王さま  作者: みつきあこ
第六章 歌は続く
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イエリと王さま

 セフィールが帰っていく。その背中を見送ると、イエリもまた森の奥へと踵を返した。セフィールが入り込んだのはちょっとした手違いだが、念のためケセドに報告するべきだろう。イエリは海へ向かうことにした。

 あれから、どれほどの月日が流れたのだろう。

 初めのうちは日を数えていた。日夜逆鱗を求め歩き、王の姿を探した。ケセドの力も借り、逆鱗が引き起こした奇跡について考えを巡らせた。

 王は、自分の逆鱗と竜殺しの逆鱗を合わせ、そこで生まれた大きな力を利用したのだ。逆鱗は、一つですら王を生み出す力を持つ。それを合わせれば事態を打開できると王は考えたに違いない。そして王の予想通り、竜たちは自分を取り戻し、森へ帰った。世界は終わらなかったのだ。

 イエリは逆鱗を探した。森の中、平原、町の中。そのうちに竜殺しの逆鱗──人の王の逆鱗だけは見つかったものの、竜の王の逆鱗が見つかることはなかった。

 そうして時間が過ぎるたび、年が重なるうち、自分の中の感覚が麻痺していくのが分かった。

 逆鱗を探しながら、それが見つからないことを祈る毎日。王がいなくても、イエリの日常は色彩を欠いて回り続けた。

 帰りたい。

 海を目指しながら思う。

 イエリのただ一つの帰る場所は永遠に戻らない。それならばこの命など終わっても構わないというのに、王の与えた役目が邪魔をする。

 帰りたい、帰る場所などない、それでも帰りたい。

 これは、アオを殺したイエリへの罰なのかもしれない。どれほど丁重に弔っても、死を悔やんでも、彼の命を奪ったのはイエリに他ならない。だからこそ、王はこの役目をイエリに与えて苦しめているのか。

「あ、シィラ」

 ふと、脇にシィラが実をつけているのを発見する。イエリはその一つをもぎ取ると、指で擦って汚れを拭った。

 海へ行く前に、久しぶりに友達に会いに行こう。イエリはそう思った。フリアナの名前を聞いて、どこか懐かしい気分になったのだろうか。かつての友に、無性に会いたくてたまらなかった。

 海へ向かう足をそらして少し歩けば、目的地はすぐだ。小さい頃はシィラを食べなければ森を歩けなかったが、今ならばどこを歩けばどこへ繋がるか分かる。不思議な森の魔力も、イエリには馴染み深い家と同じだ。

 着いたのは、少しばかり開けた平坦な場所だ。日の光が穏やかに差す草むらに、小さな石が一つ置かれている。何も刻まれていない石の前に進み出ると、イエリはしゃがみ込んで笑った。

「久しぶり、アオ」

 イエリはシィラを供えると、石を手のひらで拭った。石には多少土汚れがついているものの、前回磨いてからそう時間は経っていない。まだ光沢が残っていた。

「今日、フリアナの孫に会ったよ。小さな男の子。あんまり似てなかった」

 今でも、目の前で首をかしげるアオの姿が見える気がした。まだ小さかった彼を殺したのは間違いなく自分で、その最期も知っている。だというのに、彼がまだ生きていると思いたくなる。

「不思議。フリアナの顔もよく思い出せないのに、名前を聞いたらすごく懐かしかった」

 石を撫でるが、当然返事はない。

 母と弟を失い、王と出会い、別れた。一年の間に起きたその出来事は、つい昨日のような、それでいてとても昔のことのように感じられる。アオの姿も記憶の中で滲んでいるが、愛しい感情だけが心に焼き付いて残っている。

 アオの遺体をイエリは手放してしまった。

 イエリが王と最後の言葉を交わした後、イエリは気を失った。そんなイエリを放っておけなかったのか、フェルディオが町まで連れて行ってくれたのだが、その際アオの遺体は持ってこなかった。フェルディオは厚意でイエリを保護してくれたため文句を言える筋合いではないが、アオの遺体も共に運んでくれればよかったのにと何度も恨んだ。イエリは傷ついたアオの遺体を森へ放置したまま失い、二度と見つけられなかった。

 それでも、アオのために何かしたかった。フェルディオの元を離れ森に帰ると、真っ先にアオの墓を作った。それ以来、イエリはずっとアオの墓を守っている。

「君が今も生きていたら、ビナーと同じくらい大きくなってたのかな? きっとイエリじゃ持ち上げられないくらい、立派な竜になっただろうなあ」

 しかし、その未来はもう永遠に来ない。イエリの手で閉ざされた可能性だった。

 そのことを悔やまない日はない。あの時イエリが食われ、アオが生き残る未来もあったはずだ。それでも、現実はこうだ。イエリは物言わぬ石へ語り掛け、かつての友人へ思いを馳せるしかできない。

 だから、忘れないよ。

 イエリは自分の罪を忘れない。今までのように忘れてなかったことにはしたくなかった。アオと友人になったこと、アオを殺したこと、その全てを記憶することが、イエリへの罰になる気がしていた。

「……またね、アオ。またすぐ遊びに来るよ」

 石をぽんぽんと軽く叩くと、イエリは立ち上がった。元々海へ向かうつもりだったのだ。あまり寄り道をすると日が暮れてしまうため、旧友との会話もそこで終わらせることにした。名残惜しく振り向いても、その石の上に小さな竜の影など、見当たりもしない。


 アオの墓を跡にして一時間程度歩くと、土に砂が混じり始める。さらさらとした白い地面と共に風が吹き、潮の香りがした。海岸に出れば木々の庇護からは抜ける。眩しい光を浴びながら、イエリはまっすぐに海辺へ向かった。

「ケセド!」

 潮騒の中へ呼びかける。一匹、小さな海竜の仔が顔を出すとすぐに潜った。その幼い仕草を見て、イエリはくすりと微笑む。無邪気な竜の仔を見ると心が和む。昔、アオと森を遊びまわった記憶が蘇るのだ。

 ほどなくして、海面が大きく盛り上がり目当ての竜が姿を見せた。

「イエリ」

 大きな頭部を海面から覗かせるだけで、あたりには飛沫が飛び散る。塩水の雫を浴びながら、イエリは肩をすくめた。

「久しぶり。今日はちょっと報告があって来たの」

「ああ。きこう」

 王なき今、竜の王として代わりを務めているのがケセドだ。元々海竜を統べていたこともあり、他に適任の竜はいないだろうという結論に達した。とはいえケセドは森の様子を窺い知ることはできないため、ティファレトとイエリがそのフォローをしている。

「さっき、人の子供が森に入ってきたの。でも迷い込んだだけだったからそのまま外に送ってきた。大丈夫だった?」

 フリアナの件は、ややこしくなってしまうため省略する。それを知ってか知らずか、ケセドはふむ、と鼻を鳴らした。

「かまわない。むやみにひとをころしたくはないからね」

「うん」

 それには素直に同意する。先の戦争以降、竜も人も互いの死に敏感になっている。人が森に立ち入ることはほとんどなくなり、竜もまた意図的に人を避けるようになった。人と竜の距離が開いたために、人々のイエリに対する恐怖も増しているのだった。

 海風が吹き付ける。甘い潮風に髪をさらわれ、イエリは水平線を眺めた。太陽を反射して煌めく海面は、下に竜が暮らしている様など思いもさせない。静まり返った海だった。その様子は、王に連れられて初めて見た時とそう変わらない。

 ふと、イエリは尋ねる。

「ね、ケセド。イエリが初めて森に来た時、王さまってやっぱり嫌がってた?」

 ケセドの瞳は白く濁り、イエリの姿を映さない。その目は感情が極めて薄いが、どこか懐かしむような色をしていた。

「かれははじめから、どこかきみにほだされていた。きみのけいかいしんのなさが、あののうめんをかいじゅうしたのさ」

「そうかな? 初めて会った時は、すっごく冷たかった気がする」

 それもよく覚えていないけど。イエリがぽつりと呟くと、場を潮騒が支配した。

「ひとのいのちは、いっしゅんだ」

 ケセドはゆったりと、慣れない人の言葉で続ける。

「ひとつこきゅうをするあいだに、きみとかれはであい、わかれた。きみにとっても、きおくにのこらないほどおさないころのできごとだった」

 ケセドは海の匂いの吐息を吐いた。生暖かいそれは、イエリの足元を撫でて消えていく。ケセドの言葉を、イエリは静かに聞いていた。

「きみのいのちはりゅうにくらべてみじかい。もりでおうをまつより、ひとのなかでいきるほうがしあわせだったのでは。おうにいわれたからと、いっしょうをりゅうにささげるひつようはなかったんだよ」

 その声は穏やかだった。責めるのではなく、ただ可能性を提示しているだけ。これはケセドの優しさだった。イエリはこのままでいいのか。どこにあるのか分からない竜の逆鱗を探して、人生に悔いはないのかと。

 ケセドは、イエリの中の時間が進んでいないことを察している。王を失った時からなにも変わらず、ただ体だけが大きくなった。逆鱗を探しながら、それが見つからないように祈る毎日に幸せがあるのかと、改めて聞いている。

 そして、それに対する答えをイエリは既に持っている。

「イエリの帰る場所は、王さまの隣なの」

 イエリはにっこりと微笑んだ。

「捧げるとかじゃない。イエリはただ、帰りたいだけ。王さまと約束したんだ。イエリの居場所は王さまの隣なんだって。どこにいっても、帰るのは王さまのところだって」

 かつて、王は隣にいることを許してほしい、とイエリに告げた。イエリはそれを受け入れ、共に生きると決めた。イエリにとっては、それ以上でもそれ以下でもない。たとえ自分が前に進めなくとも構わない。王がいないのなら、ここにいる。

「だから、大丈夫だよ」

 たとえ王が戻らなくても、逆鱗を見つけられなくても。イエリにとって、これ以上の幸せも苦痛もない。

「そうか」

 ケセドは俯くように頷いた。

「さきのこんらん、わたしはなにもできなかった。こりゅうだなんだといわれていても、わたしはうみからでられない。おうやきみのちからになれなかったことを、とてもざんねんにおもう」

「いいんだよ。ケセドがいてくれるから、今王さまがいなくてもなんとかなってるんだもん。それに、なにもできなかったのはイエリも同じ」

 苦く笑えば、ケセドがわずかに鼻先を上げた。そしてゆるやかな口調で、しかし有無を言わさず告げる。

「いいや。きみにはかんしゃしてもしきれない」

「なんで?」

 首を傾げると、その竜は小刻みに息を吐いた。笑っているのだ。海面がにわかにさざめいて揺れる。ケセドが笑うなんて、珍しい。イエリが目を見張っていると、ケセドは笑い声のまま告げた。

「なんでも。きみにかんしゃしているよ、イエリ」

 それきり、ケセドは何もいう気がなさそうだった。イエリは訳が分からなかったが、問い詰めるだけ無駄だと理解している。ケセドは人語を話せる数少ない竜だが、本質は謎めいている。追及したところでのらりくらり交わされるのがおちだ。

 しかし、ケセドとの話はそこで遮られた。森から一匹の竜が飛び出してきたのだ。深い藍色をした鱗に、黒い瞳。体の大きさはイエリの身長を軽く超すが、成竜としてはまだ少し小さい。その竜は細い鳴き声を上げながらイエリの元までやってくる。彼女は落ち着きのない仕草でイエリの足元へ降り立つと、ふんふんと鼻を鳴らした。

「ダアト? どうしたの」

 ダアトは、イエリが幼い頃に卵泥棒から守った竜だ。母竜と共に戦争を息抜き、今はすくすくと育っている。ようやく遊びたい盛りから卒業し、少しずつ落ち着きを覚え始めたと思ったが、それも思い過ごしか。ダアトは鳴きながらイエリに顔を擦り寄せた。

「どうやら、さきほどのひとのこはきみにようじがあるようだ」

「え?」

「もりのいりぐちできみをよんでいるらしい」

「セフィール、まだ帰ってなかったの?」

 先ほど森の外まで送り届けたセフィールは、まだ家に帰り着いていなかったらしい。森に踏み込んでこそいないが、森の入口でイエリを呼んでいる。ダアトはそれを伝えに来たらしかった。

「もう来ないようにって言い聞かせたのに……イエリ、もう一回行ってくる」

 昔の自分を棚に上げるようだが、子供というのはなぜこうも無鉄砲なのだろう。竜を恐れる平原の人間とは思えない行動だ。フリアナが何か教えたのだろうか? しかし、彼女も竜を恐れていたはずだが。

 考えることは苦手だ。イエリはあれこれ予想することは諦めて、実際に自分が出向くことにした。ケセドに向かって謝ると、彼は穏やかな声で告げる。

「きみがおもうようにするといい。すでにきみは、もりのいちいんなのだから」

「へへ、ありがとう」

 笑うと、その和やかな空気を咎めるようにダアトが鼻先で突いてくる。はやくしろと言いたげな彼女を撫でると、イエリはケセドを見上げた。

「もし王さまの逆鱗見つけたら、教えてね。絶対だよ」

「ああ」

 何度目か分からない約束を取り付けると、ケセドは海へ戻っていく。優しくて冷たい竜から目線を外し、ダアトの背を叩いた。彼女が飛び上がるのと同時に、イエリも走り出した。

 


 日はすでに傾き始めており、日没までそう時間がない。もしセフィールが森に入ってしまえば、竜でなくとも野犬に襲われる可能性がある。もしそうなれば事態は非常に厄介だ。殺したのが竜ではないと説明したところで信じてもらえるはずもない。フェルディオのおかげで落ち着きを取り戻し始めた今、余計な火種はごめんだった。

 イエリはダアトの後を追って森を駆け抜ける。その導きに従って森の入口へ向かえば、幸いにもそこにセフィールの姿があった。森には入っていないようだ。

「ダアトは隠れて待ってて。出てきたら驚かせちゃう」

 セフィールに声をかける前に、イエリが立ち止まって木の影を指さすと、ダアトは不満そうにギュウと鳴いた。だがイエリもこればっかりは譲れない。かつてフリアナを怯えさせた時と同じことはしたくないのだ。自分が愛するものを拒絶される悲しみなど、そう何度も味わいたくはない。

 イエリの意思が固いことを察すると、ダアトは折れて項垂れた。文句を言うように鳴きながらも木の後ろへ隠れて、イエリの様子を見守ってくれるようだ。

「ありがとう、ダアト。大好き!」

 頭を抱きしめて撫でると、彼女の機嫌はようやく少し収まった。イエリは彼女に微笑みかけた後、気を取り直してセフィールの元へ向かった。

「セフィール!」

「魔女さん」

 セフィールは疲れた様子で座り込んでいたが、森の奥から出てきたイエリを見つけると嬉しそうに立ち上がった。大きく手を振って無邪気に飛び跳ねている。

「どうしてまだここにいるの? 森へ来たら駄目って言ったでしょ?」

 イエリが思わず責めるような口調で告げると、彼は少しばかり居心地の悪そうな顔で俯いた。

「ごめんなさい……でも、このまま帰りたくなくて」

 歯切れの悪いセリフに首を傾げる。オレンジ色の夕日が平原を照らし、視界を明るく染め上げた。森の中には既に夕闇が落ち始め、寝床へ戻るべき時間だと教えている。眩しい斜光に目を細めながら、セフィールの前に膝をつく。

「魔女さん、竜って本当に怖いの?」

 その問いに目を丸くする。セフィールは言葉を探しながら、それでも正面からイエリを見て話を続ける。

「みんなは、魔女も竜も怖いものだって話してた。みんなが話してた魔女は、恐ろしくて、狡猾で、年を取ってて……でも、魔女さんは怖い人じゃなかった。全部嘘だった」

「セフィール……」

「フリアナばあちゃん、いつも言ってた。本当に恐ろしいものはなにか考えなさいって。ぼくにはずっと分からなかったけど、でも……」

 セフィールの茶けた瞳が揺れている。丸い目の中には、戸惑った顔をした自分が映り込んでいた。

「魔女さんが悪い人じゃないって、ぼくみんなに説明するよ。信じてもらえるか分からないけど、頑張る。だから竜のこと、ぼくに教えてほしいんだ。もし竜がみんなの知ってるものと違うなら、それもみんなに教えたいんだ」

 喉の奥が熱かった。

 呼吸が詰まり、目のふちが震える。小さな子供の目の前に座りながら、イエリはただ打ちのめされていた。

 この子は、イエリや竜のみんなを理解しようとしてくれてる。

 それはイエリにとって、とても衝撃的だった。フリアナが竜を拒絶したときからずっと、イエリの中には「竜と人は分かり合えないものだ」という考えが深く根付いていた。フリアナのような善人でも竜を恐れるのだ、人が竜を受け入れる日など来ないのだと。

 だがその考えを、セフィールは打ち破った。わずかに怯えながら、それでも竜を受け入れたいと言ってくれた。イエリにはそれだけで十分だった。

「ありがとう……」

 ありがとう、フリアナ。

 脳裏に思い浮かぶ女性の影は、もはや長年の記憶の向こうに掠れてよく見えない。しかしそれでも、彼女に対する思いは強く残っている。

 あの時、怖がらせてごめんね。怖がらせたことを後悔していてごめんね。それでもずっと、イエリのことを覚えていてくれてありがとう。

 あの騒乱で得られたものなど何もないと思っていた。実際失ったものの方が多い。けれど、セフィールが今ここで竜を想っているのは、あの時があったからだと信じたい。

「それにね、不思議な人に出会ったんだ」

 セフィールが思い出したように告げる。怪訝な顔をしてみせると、彼は微笑んで言った。

「背が高くて、髪も長い男の人。だけど角や鱗が生えてるんだ。竜と人の間みたいだった」

「え……?」

 耳を疑った。彼の上げた特徴に当てはまる人物を、イエリは一匹しか知らない。期待に心臓が早まり、しかし頭ではどこか冷静になれと声がしている。今までどれだけ探したと思ってるの。人違いに決まってる。

「逆鱗がどうとかで、帰るのが遅くなったって言ってたよ。止めたんだけど、あっちから森に入っていっちゃったんだ。ここは自分の家だからって……もしかして、魔女さんの友達?」

 セフィールの小さな手が森を指さす。イエリは混乱する頭を押さえながら立ち上がった。ふらりと揺れたイエリを彼が心配するが、大丈夫とぎこちなく返す。

 そんなわけがない。そうであってほしい。違うに決まっている。他に誰もいない。

 セフィールに待っているように告げて、イエリは森へ戻った。そして、セフィールの指さした方向へゆっくりと歩いていく。その足取りは段々と早く急ぎ足になり、ついに駆け出す。

 声がした。ダアトだ。彼女のはしゃぐような鳴き声の隙間に、低い声が途切れて聞こえる。イエリは手が切れるのも構わず、草木をかきわけてダアトの元へ向かう。

 王さまに会えないなら、どんな歌も、空も、星も、意味なんてない。

 記憶の中で王の面影が滲む。人の記憶は不完全で、完璧に記憶しておくことも、完璧に忘れ去ることもできない。王の声も顔も徐々に朧気になってイエリの手をすり抜ける。記憶からも消えていこうとする王はイエリを絶望させた。

 それでもいつか、いつかこの声が王に届くとしたら。

 そう思えば、消えていく王の輪郭が取り戻せる気がした。王を思う気持ちを抱きしめていれば、薄れた王の影に手が届くのではないかと。

「うそ、嘘……っあ!」

 走ることに夢中になり、木の根に躓く。転ぶ、と思い反射的に目をつぶるが、予想した衝撃よりも先に、何かがイエリの腕を掴んだ。ぐんと体が支えられ、すんでのところで堪える。

「なに……?」

 不思議に思ったイエリは薄目を開ける。そうして顔をあげ、イエリを支えた相手を見た。

「足元を見ろと、いつも言っていただろう」

「あ……」

 長身の相手を見上げる。大人になったイエリでも、頭一つはゆうに超すほどの身長だ。地面につきそうな黒髪は艶やかで、風が吹くたびにさらさらと音を立てた。

「どう、して」

 喉が掠れる。体中が振動し、思考回路が停止した。イエリの呟きを拾った相手は、黄金色の瞳を細めて微かに微笑んだ。

「言っただろう。帰る場所は、お前の隣だと」

 イエリは何も持たなかった。母も弟も死に、悲惨な現実から逃れるために自分の記憶を消し続けて生きていた。誰かに蝕まれ搾取される暮らしは、イエリの幼い心を引き裂いた。

 けれど構わない。

 イエリには帰る場所ができたのだ。それだけで、今日まで生きてきた意味があったと思わせてくれる。

 尖った爪の手が伸びる。その人ならざる手が、ぱさついたイエリの髪を一房持ち上げた。

「今、戻った」

 常緑の葉が風に擦れる。目の前の竜に抱き着いた瞬間、イエリの止まっていた時間が動き出す音がした。

これにて「イエリと王さま」完結となります。ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

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