王の立つ
「お兄様」
涙に濡れた声が自分を呼んだ。小さな手が肩を叩き、意識を引きずりあげる。フェルディオが目を薄く開くと、こめかみに鈍い痛みが走った。呻きながら手を当てると、ぬるりとした感触がある。どうやら頭から少し出血しているらしかった。
お兄様、と再び声がかかる。思考の靄が晴れてくると、目の前にルオの姿が見えた。彼は泥だらけの顔で、雨に濡れて座り込んでいた。いつの間に降り出したのか、雨は音もなく重たく降り注いでいる。
「ルオ……私は一体」
「竜の王と父上の争いに巻き込まれて頭を打ったんです」
「竜の……そうだ、父上は?」
慌てて体を起こす。周囲は木々がなぎ倒されたままで凄まじい有様だった。だが、気絶する前とそう大きく変わってはいない。肝心なところで意識を失った自分を恥じると共に、まだ命があることに安堵する。ルオは雨か涙か分からない雫で頬を濡らして俯いた。
「竜の王が、勝ちました。父上は……」
その目が向いた方向を見やると、仰向けで血に塗れた竜殺しの姿がある。思わずそうか、と声が漏れた。ついぞ父とまともな会話を交わせなかった悔しさに胸が焼ける。ろくに顔も見たことがない相手だったが、寂しさに似た感情が押し寄せた。
「イエリは?」
「あそこです。寝ているだけだと思うんですが……」
どうやら竜の仔に殺されることはなかったらしい。彼女はここへ駆けつけた後、地面の上に倒れ込んで気絶したようだった。見る限り大きな出血もない。疲労や緊張が祟って気を失ったのかもしれない。
「竜たちは……町はどうなっている? 騒ぎは収まったのか?」
ルオは首を振った。見上げれば、雨の降り注ぐ暗い空に竜の咆哮が響いている。未だ竜の蹂躙は止まっていないということだ。
「竜の王が、父上の逆鱗を持って向こうに歩いていきました。何か策があるのかも」
マルクトを打ち負かした後、竜の王は逆鱗を剥がして持ち去った。イエリが必死で呼び止めていたようだが、聞く耳を持たずに行ってしまったそうだ。迷いのないその様子は、考えがあってのことではないかとルオが言う。
「私たちも行こう」
フェルディオはルオの肩を借りながらゆっくりと立ち上がる。打った頭は痛んだが、幸いなことに傷は浅く、出血も落ち着いているようだった。よろめきながらなんとかイエリを抱え上げる。イエリはぐったりとしていたが、気を失っているだけのようだった。頭の痛みを堪えつつ、竜の王を追う。
竜の王はすぐに見つかった。平原へ向かった彼は、タリステリアの惨状を眺めながら一人立ち尽くしていた。マルクトと争ったためか髪や衣服の乱れはあるが、静かに立つその姿は王というにふさわしい威厳を放っていた。ルオはフェルディオの陰に隠れ、そうっと竜の王を覗く。
「竜の王よ」
フェルディオは震える声で呼びかける。彼はわずかに顔を傾けてこちらを一瞥した。雨に濡れてなおその相貌は美しく、黄金色の瞳が静かに佇んでいた。
「父上……人の王の逆鱗を持ち去ったと聞いた。この混乱を鎮める術はあるのか?」
「不確実だが、もはやこれしかない」
彼は手の中にある黒い鱗へ目を落とした。それがマルクトの逆鱗らしい、黒光りする美しい鱗だった。
「王の逆鱗には強い力がある。私のものと合わせれば、何か起きるかもしれない」
「何か……あなたにも分からないのか?」
竜の王は一度首を振る。
「竜は自らの力に溺れて過去を残さなかった。人と竜が争えばこうなることすら、私は知らなかった。逆鱗に秘められた力の全てなど、知る由もない」
つまり、これもまた賭けということ。ポジティブな変化が起きれば良し、もしくは、これ以上最悪な展開が訪れる可能性もある。そんな危険な賭けをするなとは言えないほど、今の状況は既に悪化しきっていた。人も町も滅茶苦茶だ。竜の王がうまく竜を鎮めてくれるよう祈るしかない。
「頼む」
フェルディオは短く告げた。万感の思いで彼を見つめると、静かな瞳が一瞬だけイエリを見た。フェルディオの腕の中にいる彼女はぐったりとして目線を返さないが、彼女を見る竜の王は温かい優しさの満ちた目をしていた。
しかしそれも、瞬きをすれば消えていた。気が付くと竜の王は、先ほどと同じ冷たい目をしている。
「次の王たちが生まれるまで、お前たちが王だ」
その言葉には、ルオと二人顔を見合わせる。王家で残っているのは、母とフェルディオ、ルオしかいない。そうなればこの三人の誰かが王として立つことは自然だ。そして、この事態を引き起こしたとも言える母を、これ以上野放しにはできない。
フェルディオは恐怖に震える足をしっかりと伸ばし、正面から竜の王を見据えた。
「はい」
その返事に満足したのか、竜の王はもう振り返らなかった。
マルクトの逆鱗を握ると、彼は高く鳴いた。
ヒュー……と風の音に似た高い鳴き声が響く。その声は遠くタリステリアの地に響き渡って平原を凪いだ。そのうち、竜の王の持つ逆鱗が淡く光を放ち始める。その幻想的な光景に、フェルディオは目を奪われた。
変化はすぐに訪れた。
重たく広がっていた雲が裂けたのだ。
冷たい雨をもたらしていた雨雲は、竜の王の鳴き声に反応して割れた。その隙間からは光が差し、暗い平原を照らしだず。
すると、近くで争っていた竜たちが顔を上げた。そして、自分たちの王に呼応するように高い声で鳴き始める。笛の音に似たその声は、徐々に範囲を広げて咆哮を掻き消していった。
「これは……・」
竜の吠えたてる声ばかりが響いていた戦場には、今や何かを呼ぶような穏やかな声だけがしている。互いに噛みついていた竜も、その牙を離して空へ向かって高く鳴くばかりだ。
竜の王が声の調子を変える。高い音と低い音の入り混じるそれは、仲間たちの声と重なって大きな合唱になりつつあった。
竜の王が一歩踏み出す。すると竜たちは鼻先を上へ向けて輪唱した。もう一歩踏み出すと、竜がよろめいたように歩き出す。そうして竜の王が一歩進む度、竜たちは吸い寄せられるように森へ向かって進み始めた。
竜の王は森へ歩みを進めた。それに続くように、何匹かは空を飛んで森へ戻っていく。遠く、都の方角からも無数の竜が鳴きながら飛翔してくる。
「これが、逆鱗の力なのか」
フェルディオは呆然とその光景を見ていた。まさしく魔術のようだ。竜の王は森の奥へ進んでしまったためもはや姿は見えないが、平原に出た竜たちは次々に森へ向かって飛び去った。道中、フェルディオたちに目を向けることもない。彼らはただ、一心に自分たちの居場所へと戻っていく。
割れた雲の隙間からは、白い光が落ちてきていた。その光と遊ぶように、竜たちは空を舞う。降り注いでいた雨は止み、まるで世界が生まれた瞬間のような光景がそこには広がっていた。
フェルディオは空いた手で、弟の手を握った。ルオの手は小さく震えていたが、強く握りしめれば震えは収まっていく。
「これから、大変なことになる」
乱心した母や貴族たち、怯え切った民衆や崩壊した町。竜が森へ帰ったとしても問題は山積みで、何から手をつければいいのかすら分からない。
それでも、自分たちは生き残った。
竜も人も多くの命が失われた。これから先、大きな苦しみが待ち受けていることも想像にたやすい。だが、穢れていたとしても王族として生を受けたのだ。壊れかけた世界を戻していくには、上に立つ者が必要だろう。
竜の王からは、フェルディオが王だと指名された。だが、それは本当に正しいのだろうか。此度の騒動で自分はなにもしていない。イエリやルオのほうが、立派に行動したと言えるだろう。肝心な時に気絶していた自分が、母に逆らえずにいた自分が、本当に王としてやれるのだろうか。
「大丈夫です」
弟の声が思考を破った。ふと目線を向ければ、彼は泥だらけの顔で微笑んでいた。
「お兄様なら、きっと大丈夫です」
ルオの笑顔は、幼いころと何も変わっていなかった。重苦しい家の中で一人優しく微笑んでいた彼の本質は、変わらずそこにある。フェルディオが愛したままの姿でルオは笑っていた。
「……ああ」
なんの保証もない言葉だったが、ルオが大丈夫だと言えばそう思える気がしてくる。優しい弟の手は、温かく柔らかかった。
真っ白な光が差す。竜の高らかな声が反響し、雨上がりの大地は輝いている。雲の切れ間に見えた空は、青く透き通っていた。




