8 男は数ではない、質だ
国立サルートス上等学校の男子寮は、寮監を軍から出向させている。
軍は規律が厳しい団体だったと思うのだが、きっと寮監に回される人材は落ちこぼれだったのだろう。
私はそれを確信した。
だってそうだろう。男子寮には十代の男子ばかり。そして寮監も男ばかり。そこに一年生の女子生徒を泊まらせようと考える寮監がいていい筈がない。
なんてことだ。苦情受付係はどこだ。
「よっ、アレン。凄い洗濯物だな」
「んー。なんか溜まっててさぁ。同情して手伝ってくれよ」
「ああ、断る。じゃな」
ルードよ。お前、妹が入れ替わってても友達に気づかれてないぞ。
実は友情を感じられていないんじゃないの?
やっぱりあの小生意気さが駄目なのかな、それとも貴族のお坊ちゃまだから避けられてるの?
子供も産んでないのに我が子を案じる気持ちが分かってしまう私、13才。
「うわ、やっと洗い始めたんだ? だから洗濯に出せって言ったろーが。綺麗な女の人には出したくないとか言ってさあ。アレン、本気でバカじゃねーの、バーカバーカ」
「っさいなぁ。キレーなおねーさんには照れてしまう青いお年頃なんだよっ。そんなら代わりに出してくれりゃいいだろ」
「やだよーん」
私は、男の子同士の友情は儚いどころか塵みたいなものだと学んだ。
どいつもこいつも声はかけてくるが、指一本動かしやがらない。
(エリート校と言ったところで所詮こんなもんか)
父やマーサの前では純真な男の子っぽく振る舞っているが、アレンルードもあれで幼年学校の友達と遊ぶ時はこんな感じの言葉遣いだった。
私達はお互いに入れ替わり可能な双子なのである。
「あ、あのさ・・・。アレン、手際いいね」
「洗うもんにもよるんだって。上着を一緒に洗ってんじゃねえよ。ほら、それは厚みで分けなって。・・・ちっ。こうして分けて、そん中ん内、汚れがひどいとこ、これつけて手洗い。僕の真似して洗ってみな。そしたら洗う時間も減るぜ」
「あ、ありがとう」
「おう、惚れんなよ」
「あー、ホント、アレンって見た目詐欺だよね」
誰か知らないが、そいつは大して汚れてる物もなかったので、効率的に洗うように教えてあげた。おかげで兄の洗濯物より洗浄機にかける時間も少なかった。
善行とは気分のいいものだ。おかげで数台、貸し切りで使える。
洗濯室でせっせと洗浄機にかけられないものを手で洗っていると、途中で裏切り者寮監が来やがって、積み上げられた脱水済みの洗濯物に、ほらなという顔をしてみせた。
ムカつくが、一番悪いのはアレンルードだ。
「きりのいいところで食事にしろ、アレン。そうじゃないとお前の分がなくなるぞ。決まった時刻までに食べていなかったら、腹減ってる奴が食べるからな」
「あ。じゃあ、すぐ・・・って、帰ればいいだけじゃ」
近寄ってきた青林檎の黄緑色頭は、耳元で囁いた。
「ウェスギニー子爵には連絡を入れといた。子爵は、アレンのことだから、家政婦には適当なことを言ってごまかし、朝になったら父親と顔を合わせる前に学校へ行くつもりだろうと言っておられたそうだ。お前さんは鍵のかかる寮監用客室に泊めると伝えてある。ちゃんと逃げる前に叱ってくれるそうだ」
「はあ。朝じゃなくて今すぐ叱ってほしいんですが」
「今夜は帰りが遅くなる予定らしい」
「そんな気はしてました」
ジャバジャバと音を立てている洗浄機を見れば、溜め息しか出てこない。
「客室ってシーツは洗えているんでしょうか」
「当たり前だろ。清掃と洗濯は業者が入っている」
「では、そちらをお借りします。・・・綺麗なシーツ、一枚もなくて全部洗濯中なんです」
「何をやってたんだ、アレンは」
「放っておけば妖精さんが洗ってくれると思ってたんじゃないですか」
もうアレンルードの部屋は窓全開にしておくしかない。一晩は無理だが、明日の昼で乾くだろう。生乾きにならないように干し方も考えなくては。だが、洗濯物の数が多すぎる。一体、どうしてこんなにも全てが泥だらけなのか。
部屋にボールとかラケットとかがあったから、理由は分かってるけどね。
(解禁されたからって、どこまで飛ばしてるかなぁっ。本当にもうっ)
洗浄機を回している間に掃除もしておいたけど、どうして室内に泥だの枯れ葉だのが落ちているの。お部屋を汚さない努力をどうしてしないの。
掃除は誰かがしてくれるものって考えで生きてきたからって、もう分かってるけどね。
私はきりのいいところで食堂へ向かうことにした。
「アレンじゃないか。凄い洗濯物を抱えてたってみんなが言ってたよ。今から食事か? ちょうどよかった。僕と一緒に食べないか?」
「あ、殿下。はい、そうします」
「やだな。いつもみたいにエリーって呼んでくれよ」
途中の階段で、淡紫の花色の髪、ローズピンクの瞳をした少年から声を掛けられる。
こそこそっと、私はその耳元で囁いた。
「エリー殿下? エリー王子様? エリー様? エリー王子?」
「アレンはエリー王子って呼んでるよ。敬語だけど、ちょっと崩れてる感じだ。自分からは話しかけないけど、こっちから声をかければ会話する」
「了解です」
小声で教えてくれるエインレイドはいい子だ。兄よりよっぽどいい子だ。
アレンルードとして扱ってきたのは、どこぞの寮監先生から話を聞いたのだろう。
「そっちで、自分の棚から食事の載ったトレイを取っていく。パンと冷たい料理はもう載ってるからね。温かい料理は、トレイの中の皿に入れてくれる」
「棚を見れば誰が食事を終えているか分かるんですね」
「そうだ」
小声で教えてくれるエインレイドに続きつつ、私は同じように調理員の男性からスープと、豚ひれ肉と野菜のオイル煮こみを入れてもらう。
「えーっと、お肉はそこまで食べないので減らしてもらっていいですか?」
「ああ。じゃあ人参とキノコを多めに入れておくかい?」
「はい。ありがとうございます。美味しそうです」
おや? という顔をされたが、何かおかしいことを言っただろうか。
まさか美味しそうに見えて実は不味かったらどうしようと眉間に皺を寄せながらエインレイドの後についていけば、人があまりいない奥側のテーブルへと向かっていた。
食堂では一人で食べていたり、誰かと食べていたり、誰もがまちまちな様子で食事している。
「この辺りでいいか。好きなテーブルで食べていいんだ」
「夜だから中庭は見えないんですね」
「朝は眩しいよ」
皆から離れた窓際の席で並んで座った。誰か来たらすぐわかる。
不安に思いながら食べてみれば、ちゃんと美味しかった。
「で、逃げられたんだって? 災難だったね」
「でしょ? 人を勝手に危機に陥れてくれたんだから、どう仕返ししてやろうかと考え中ですよ、全く」
声は小さくしておいたが、兄のフリをしているわけだから敬語を少し崩してみる。
ぷぷっと、エインレイドが面白そうに笑った。
「明日の朝、怒られる予定だって聞いたぞ。あのウェスギニー子爵だろう?」
「ええ。父はいつも甘いんですよ。今夜のうちにダメージのある仕返しを考えないと」
「え? ウェスギニー子爵だろう? 悪夢の・・・」
「悪夢? 何ですか、それ。・・・何かとお間違えですよ。うちの父は甘々な人なんです。それでも体は鍛えてるから、兄は逆らわないんですけどね。それよりエリー王子。地味にダメージ受けることって何がありますか? ここはもうほんのり嫌がらせをしておかなくては気がすまない」
兄のことなど放っておけばいいのかもしれないが、公の場所で身なりを整えるということはとても大切だ。
兄はその本質的なところを分かっていない。
(全く、何があろうと一つは綺麗な服を残しておかなきゃ駄目だってのに)
汚れていた予備の制服も手洗いで洗いあげた私は、脱水機も弱めにかける程度にして汗臭さを取り除いた。油性の汚れと水性の汚れと繊維の中に入りこんだ汚れと、全てを取り除かなくては綺麗にならないのだ。
今、兄の部屋では端から端へ、縦横斜めといった具合でロープがかけられ、洗濯物がぶら下がっていたり、型崩れしないように床と平行にロープの上を渡されていたりする。
カーテンも開けておいたから明日には見事に乾くだろう。晴れてくれると信じる。
「嫌がらせねえ。僕は別に兄上にそんなことしようと思わなかったが」
「そういえばエリー王子って何人兄弟なんですか? 父に聞いたら、もう何も知らないままでいけと言われました」
うちの父は、変に知ってしまうと巻きこまれてしまうから、何も知らずにいなさいと言った。
だけど父のことだから、面倒だからそういうことにしただけじゃないかなと、私は疑っている。父は私を愛しすぎていて、もう失礼なことを知らずにやらかして王子の学友から退場すればいいと思っていそうだ。
私としては退場は望むところだが、我が家の評価が落ちるのは避けたい。アレンルードが苦労してしまう。
「それならもうそれでいったら?」
「えー、なんでそんなどうでもいいことを隠すかなぁ。それが分かりません」
「そこで他の子に聞かないのが君だよね」
くすっと笑うエインレイドだけど、私はこれでもデリケートな感性の持ち主だ。
「目の前に本人がいるのに、人に聞くのって卑怯じゃないですか。勿論、仕事で必要なことなら遠慮なく調べますけど、別に私達は利益関係のない友人同士でしょう。陰険な真似はしません」
「うん、陰険さは無縁だね。だけど兄に嫌がらせとかはするんだ」
「当たり前です。ここはしっかり上下関係を教えこまないと」
普段はどんな仕返しをするのかという話をエインレイドとしたところ、どうやら彼は末っ子らしく仕返しを考える必要性がなかったらしい。
そこへ目の前の椅子を引いて、どすんと座る人が二人いた。何やら飲み物の入ったカップを持っている。
隣にいたエインレイドがちょっと嬉しそうな顔になった。
「珍しい組み合わせじゃないか、エリー、アレン。いつもは肉をねだりまくってるのにそれで足りるのか、アレン?」
「ああ、これぐらいでいいんです。何なら明日からもずっとこの程度でいいと思います。ええ、本当に。特に人参、玉葱、ピーマンたっぷりにしておくといいですね」
「そうか。じゃあ、明日からの夕食はそうしといてやろう。肉は減らして野菜は多めだな。特に人参、玉葱、ピーマンと」
「はい。お願いします」
青林檎の黄緑色の髪をしてワインレッドの瞳をした寮監は、どう見ても面白がっている。その隣に座った深く濃い群青色の髪の寮監も話を聞いているのか、青い瞳が笑っていた。
絶対、こいつらの娯楽と化している。
私はそれを確信した。
「それより先生、エリー王子って何人兄弟ですか? お兄さんへの嫌がらせを聞こうとしたら、兄弟の数も教えてくれないんです。やっぱり弟にされてダメージがある嫌がらせって何がありますかね。地味にダメージを受けて、それでいて成長や取り返しのつかないことにはならないものが希望です」
本人の前で尋ねるのであれば、こそこそ調べたとは思われないだろう。
どうだ、エインレイドよ。私は常に正々堂々としている清廉潔白な少女なのだ。遠慮なく尊敬してくれて構わない。
「お前なあ。んなこと聞かれても末っ子で可愛がられて育った王子が、どんな嫌がらせを兄にするというんだ。入学式で居眠りこいて王子の顔すら見てなかったお前が、今更んなこと気にすんな」
「父と同じことを言わないでください。じゃあ先生がお兄さんに嫌がらせするとしたら何がありますかね?」
すると二人は顔を見合わせた。
深く濃い群青色の髪をした方の寮監先生が戸惑ったように口を開く。
「嫌がらせも何も、そんなことするぐらいなら拳で語りますよ」
「だな。なんで嫌がらせなんざネチネチやらなきゃならねえんだ。んな恥ずかしいことしねえよ」
私の堪忍袋の緒がプチッと切れた。この怖がりで可愛らしくも繊細な愛の妖精を男子寮に留めて自分達の娯楽とした挙句、私の嫌がらせをネチネチ呼ばわりするとは。
(許せん。ここで立場っつーもんを叩きこまねば私に明日はない)
呆れたような顔でカップを口に運ぶタイミングを私は見計らった。
さりげなく自分の空になった皿を王子のトレイに重ねる。一緒に運ぶなら当然なので誰も不審には思わなかった。
ごくりと、前の寮監達の咽喉ぼとけが動く。タイミングは今だ。
「幼気な少女の盗撮と鑑賞会はしたくせに」
ぼそっと呟いた内容に、前の二人がぶふっと表情を崩す。
「ぐっ、ぐふぉっ」
「ごほっ」
テーブルの上に、飲んでいた物がちょっと散ったが、とっくに食事を終えていた私はトレイを立ててガードしていた。ゆえにノーダメージ。
フッ、勝った。
「汚いなぁ、ちゃんと汚した人が綺麗に拭いてくださいね、先生。台拭きはあちらです」
ほーっほっほっほ。心の高笑いは顔に出ていただろう。
ざまあ見やがれ。愛の妖精を敵にする者は容赦なくお仕置きされてしまうのだ。
「くっそ。覚えてろ、アレン」
「ええ。仕返しは明日の夜以降、アレンルードにどうぞ」
だって今の私はアレンルード。そう決めたのはこの寮監だ。
「そうきたか。アレルってば策士だね」
面白そうにしているエインレイドだが、自分は飲み物をかけられても怒らないで笑えるあたりが素晴らしい。やはり王族に寛容さは大事だよ。
深く濃い群青色の髪をした方の寮監が台拭きを取りに行くのを眺めながら、私はアレンルードのことを考える。
(さすがに二度とやらないようにしようと思う程度にダメージがあって、それでいてあの明るい性格を歪ませない程度が大事なんだよね。あまり気に病ませても可哀想だし。だけどしっかりギャフンとさせなくては人は反省しない)
ポケットから取り出した小さな布で口元を拭いている青林檎の黄緑色の髪をした寮監は、まだゲホゲホとやっていた。
「そういえば寮生ってお昼ご飯はどうなってるんですか? エリー王子はランチボックスですよね?」
「食堂で食べる奴もいるからな。前の週の間にランチボックスの場合は発注しておくんだ。そうしたら朝食後にそれが渡される。支払いは発注時に渡す」
「私はランチボックスでしたっけ、食堂でしたっけ?」
「食堂だな。日替わりランチセットを食べてるって話だったと思うぞ」
寮外のことなのに詳しいもんだと思いつつ、その日替わりランチセットの値段を聞いた私は、ズバッと聞いた。
「ところで、部屋にある引き出しの鍵って、合鍵ありますか?」
「合鍵をねだらなくても、部屋の鍵の反対側だ。ほら、こっち側が引き出しの鍵になってる」
「ありがとうございます」
見ているがいい、ルード。
この私は利用されて泣き寝入りするような妹ではないのだと思い知れ。
(最初に洗濯してあげたから当たり前だと思っちゃったんだな。あれはマーシャママが心配してたから仕方なくしてあげた初回限定サービスだったのに)
父は寮で色々な経験をして成長するだろうと思っているが、マーサにとって兄はまだ面倒をみてあげないといけない子供だ。
私から兄の様子を聞くことで安心している。
(マーシャママ、今日は久しぶりに顔見て安心してるよね。ルードは私より手のかかる子だから)
他の寮生の部屋に行ったことがないというエインレイドがくっついてきたので、兄の208号室へ連れて行き、私は嫌がらせの手伝いをしてもらった。
― ◇ – ★ – ◇ ―
消灯時間少し前までエインレイドと共に兄への嫌がらせをしていた私は、その後、特別に王子のお部屋拝見をしてから、寮監用の生活区画へとやってきた。
やはり二階にある一年生の部屋と違って、四階の部屋は広かった。勿論、自宅に比べると狭いとしか言いようがなくて、王子もこんなコンパクトなお部屋でも暮らせるんだなと思ったそうだ。
さすが王子様だけあると言いたいけれど、うちも私達の部屋はそれなりに広い。ウェスギニー子爵邸になるともっと広い。ファレンディアで一人暮らししたことのある私は、広いと使用人が必要となるだけなんだなと改めて感じている。
「隣接してると言っても、こうして鍵がないと行き来できないから、別の建物と言ってもいいぐらいなんだよね。間に階段もあるし、二重の鍵付き扉だから、まず物音も響かないんだ。だから非常時用に連絡ベルがあるんだよ」
王子が案内人というのは贅沢なことかもしれないが、ここまで何かと一緒に行動していると有り難味が失せる。男子寮は男性用職員の建物と隣接していて、女子寮は女性用職員の建物と隣接しているけれど、女性用はそこまで大きくないそうだ。
女子寮に入ってまで進学してくる女子生徒が少ないことも影響しているらしい。
「うわぁ、広い」
消灯時間近くになると廊下の灯りも小さくなっている為、暗かった男子寮だ。いきなり明るいスペースに入ってつい声が出た。
せいぜいちょっとした寝泊まりできる程度かと思いきや、生徒のいる男子寮と同じぐらいの広さがありそうな寮監エリアである。
案内された部屋は多目的室なのか、テーブルや椅子、ソファや本棚などがある広い部屋で、濃い紫の髪と柔らかな水色の髪、二人の寮監がテーブルに酒瓶を置いて寛いでいた。
勿論、こちらに消灯時間なんてものはない。
「おや、ようこそ。エリー王子もちゃんとエスコートできてますねー。うん、やっぱりガールフレンドっていいでしょ? やっとアレンがあの大量の洗濯物をどうにかしたと、皆が話してたよ。お疲れ様。はは、王子様のお部屋、広かったでしょー。どうしても一年生の部屋は狭いんだよ。まあ、学年が上がる度に、寮生は減っていくから、それでいいんだけどね」
柔らかな水色の髪に紺色の瞳をした寮監先生が話しかけてくる。軽薄そうな言動だけど値踏みしてくる視線は相変わらずだ。
「なんで減っていくんですか?」
「集団生活に耐えられなくなるからさ。決まった時間内に食事をとったり、シャワーを浴びたり、順番でこなしていかなきゃいけない。それが嫌になるんだ」
「そんなもんですか。全部一人でやったことないから不満に思うんでしょうね」
それで掃除から調理からしてくれるならいいじゃないか。一人暮らししたことないからそんな贅沢な感想を言えるんだよ。
「その通りだよ。本当にアレルちゃんは賢いね。この際、アレルちゃんも女子寮に入らない? いい子だからちょっと広い部屋を割り当てられる程度の口利きはしてあげよう」
にこにことしているが、思い返せばこの寮監があの学校長の呼び出し時にガールフレンドだの何だのと最初に言い出したのだった。
「それはありがたいんですけど、そんなことより、今度から自分のすべきことから逃げ出した寮生をしっかり叱りつけてくださることを希望します」
「それは君のお父さんがしてくれるって話だけど?」
「うちの父は子供に甘いので・・・。まあ、仕返しはしといたからいいんですけど」
父は軍で仕事しているとはとても思えない程に優しい人だ。ごめんなさいと言ったら全てを許してくれる。やりたいと言えば、余程の問題がない限り叶えてくれる。
いつか悪い人に騙されて身ぐるみ剥がれるんじゃないかと心配でならない私は、甘い父の代わりに兄をキビキビ正しく子育て中だ。
「たくましいねえ、アレルちゃん。エリー王子も楽しい経験ができたでしょう」
「楽しい・・・かな? うん、面白くはあったのかもしれないけど、どうなんだろう」
「考えちゃ負けですよ、レイド。・・・だけど先生達の区画って本当に広いんですね。5人分には広すぎないですか」
男子寮の中にある寮監室なんて本当に事務室なんだなと思わされる。ここはテーブルや椅子も大きめサイズだし、十人以上で使えそうな広さだ。
それにはエインレイドが答えた。
「校内の警護している人達や、泊まりこみする先生方も使ったりするからじゃないか? 鍵付きの扉で自由に行き来できないようにはなっているが、2階から4階まで、寮生区画と廊下も繋がっている。寮生同士の区画なら、4年生から上の人達がいる棟とは鍵無しで繋がっているが、寮監区画はやっぱり別なんだ。何ならアレルもシャワーを浴びたら僕の部屋に来ないか? ベッドぐらいもう一つあるぞ。さっき見ただろ?」
「・・・さすがにそれはちょっと遠慮します」
おい、そこのソファに座って、だらだら酒飲んでる寮監二名。ぶふっと笑う暇があったら、この世間知らずな王子様に色々と常識を教えてやれ。
背後でキィッと扉が開く音がしたが、他の寮監が入ってきたのだろう。
何にしても寮監という存在が全く役に立たないことを、私はもう知っている。寮監とは名ばかりの軍の落ちこぼれなのだ。生徒を指導なんてできない奴らなのだ。
「心配しなくても変なことはしない。ただ、この間、皆で山小屋体験をしたって話しただろ。暗い中、寝るまで皆で喋るの、けっこう楽しかったんだ。アレルもそういうの楽しいと思うぞ」
「そりゃ楽しいでしょうが、そういう時は保護者同伴、更には男女別って決まってるんですよ、レイド。自分の部屋に泊まらないか? なんて女の子に言ったら、もうレイドの一生は決まっちゃいますからね。二度と言ってはいけません」
「え? そんな大変なことか? だってベッドは別だぞ。大体、知らないところで一人きりより、知ってる人のいる部屋の方がよくないか? そりゃ、僕に寝ずの番をしろと言われても困るけど」
「そういうものではありますが、それでも女の子を一緒の部屋に寝かせたら大騒動になりますよ。それにレイド。私、一緒に寝る男の人は父だけって決めてるんです」
父の筋肉に比べたら、王子様の体はまだまだなのだ。
するとエインレイドは、ふふんという顔になった。
「子供なんだな。僕はもう母上と寝たりしないぞ」
「そうかもしれませんが、きっとレイドも結婚して娘が生まれたら、私に同意しますよ。息子と娘は別なのです。それにうちの父は寝顔も素敵なのです。そこらのだらけた男共の寝顔とは違うのです」
「そ、そうなのか? だけど僕に娘ができるのはまだ先な気がする」
「私もそう思います」
そこへぽんっと頭に誰かの手が置かれる。
「そうですね、娘はとても可愛いものです。さあ、迎えに来たよ、フィル」
「パ、・・・お父様っ」
振り返った私は父に抱きついた。ぎゅうっと抱きしめてくるこの体格は譲れない。
玉蜀黍の黄熟色の髪、針葉樹林の深い緑色の瞳。いつでも優しい父は、私の理想の男性だ。
「ウェスギニー子爵」
「この度は愚息がご迷惑をおかけいたしました、エインレイド様。娘を保護してくださり、ありがとうございます」
「えっと、・・・僕とアレルは友達だから。ここは学校なので、僕は一生徒です。どうか膝はつかずにいてください、子爵。今、あなたは僕の友達の父君です。アレンも僕の友達です」
「かしこまりました」
私を左腕に抱えて腰をかがめかけていた父は、そこですくっと背筋を伸ばした。父の腰に手を回した私の頭を撫でてくれる手が、ちょっと嬉しい。
「ルードはちゃんと寮の部屋に戻しておいたよ。ひどい目に合ったね、フィル」
「え? だけどお父様。ルードのお部屋、洗濯物でベッドの上も床も眠れない状態。窓も全開」
「そうだったね。あれだけの洗濯物を溜めこんでいたことには呆れたが、それをあそこまで効率的に干したフィルは偉い。そんな馬鹿な兄には寝袋を与えておいたし、廊下で寝るように言っておいた。もう放っておきなさい」
「え? 寝袋? 廊下? えっとそれ、体、痛いよ」
寝袋というのは、下に何かを敷いておかないととても体が痛くなるものなのだ。
父専用の物置部屋で寝袋を見つけた私は、面白そうだと試させてもらったけれど、二度と寝袋で寝ようとは思わなくなったぐらいに。
その後、ちゃんと下にそれなりのものを使えば体は痛くないと知った。どうやら父は、痛い思いをすれば興味を抱かなくなるだろうと考えたらしい。
父の、私を徹底的に平和な場所だけで箱入りに育てようとする愛が深すぎる。
「妹を男の集団の中に放りこむようなクズには過ぎた温情だ。子供だから分かってないというのは理由にならない。上の学年の子だって出入りできるんだからな。エインレイド様も女の子と同じ部屋で寝ようとするのは、結婚を決めてからでなくてはなりません。どうぞお言葉にはお気をつけくださいますよう」
「ええっ、そうだったのかっ? す、すまない。ウェスギニー子爵。そういうつもりじゃなくて、えっと、僕は、教室でいるのと同じようなつもりで・・・。ドアを開けておけば問題ないと思ったんだ。申し訳ない」
いや、王子様分かってないよ。そもそも女の子に変なことしようなんて考えたことないから何が悪かったのかも理解してないよ。
思うに、「女性と同じ部屋でいる時はドアを開けておく」というマナーを守っておけば失礼にならないだろうと、その程度の解釈だったよ。きっとこれからは同じ部屋で寝ていいのは婚約した女の子だけって思うんだね。あ、それはそれで正しいのか。
背が高いから大人びて見えるけれど、実は王子様、その心は純粋培養ならではのお子様だと思う。
「分かっております。ですがアレナフィルはまだ父親離れもできておらず、貴族の礼儀も身についていない頼りない娘。エインレイド様がしっかりしてくださらなくては、娘はそれが王侯貴族の常識なのかと惑わされてしまうことでしょう」
「・・・それだけはない気がする」
ぼそっとエインレイドがコメントしたが、父は聞こえなかったフリをした。
「さあ、帰ろう、フィル。女の子の外泊はいけない」
「はい。それではレイド。今日は色々と手伝ってくれてありがとうございました」
「あ、ああ。また明日。ごめんね、アレル。今度から気をつけるよ。君に礼を失する気はなかったんだ」
「大丈夫です、レイド。私はレイドがとても紳士的なこと、よく知ってます。私にお泊まり会、楽しませてあげたいって思ってくれたこと、ちゃんと分かってます」
きっと自分が楽しいって思ったことを私にも分けてあげたいって考えてくれたんだね。きっと同じ部屋でお泊まりしたら、寝ちゃうまでその話をしてくれたんだろうなって思う。
まあね、これが一般庶民なら問題なかったんだろうけどね。
私の言葉にエインレイドも微笑んだ。大丈夫、私は正しい理解者だよ。
「うん。おやすみ、アレル。・・・だけど、なんかアレンが可哀想な気がしてきた」
「に、二度と、やらなくなる、・・・かも?」
そこにいた二人の寮監先生とエインレイドにさようなら、おやすみなさいの挨拶をした私は、父と二人で外に出た。淡い黄色の髪の男性が、窓からの明かりが落ちる所に立っている。
「フィル、無事だったかい?」
「ジェス兄様っ」
私はその腕に飛びこんだ。
ひょいっと抱き上げてくれる叔父のレミジェスは、私をとても可愛がってくれている。こうして抱っこしてもらったら首に手を回して、
「えーいっ、すりすり攻撃っ」
「ははっ、されると思った」
と、両側の頬ずりをし合うのが、いつものご挨拶だ。
「へへー。重くない?」
「まだまだ軽いなぁ。だけどフィルも立派な上等学校生じゃないか。うん、よく似合ってる」
ちゅっと私の頬にキスしてから、叔父は私を地面に下ろした。
制服姿はとっくにお披露目してたんだけど、やっぱり学校内で見ると格別だよね。独身の叔父は私達をとても可愛がってくれている。
ウェスギニー子爵邸では、私が叔父の隠し子だという説も流れていた程だ。
「暗いから手を繋いで歩こうね。フィルは真ん中」
「はーい」
私が真ん中なので、二人は同じタイミングで腕を上げて、私をジャンプさせながら歩いてくれる。
父は何も言わないけれど、叔父のタイミングに合わせてくるのだ。
「ほらっ、フィル。ワン、トゥ、ジャーンプッ」
「きゃーっ」
ジャンプのところでくるりと回転させられ、私はあはははと、笑い声をあげた。
深夜に騒ぐのは迷惑だけど、もう誰もいない学校だ。三人で手を繋げば、夜風が少し冷たいけれど、心がぽかぽかしてくる。
えへへへへーと笑いがこみあげてくるのは、やはり特別扱いが実感できるからだね。いくら客室でも、さすがに男子寮にお泊まりというのは躊躇われた。
寮監だって男だもん。こうして迎えに来てくれて本当に嬉しかった。
(何よりうちのパピーの登場が誰よりもかっこよすぎた。ジェス兄様も、こうしていると真面目な父兄。ああ、女子寮に入らなくてよかった)
鮮やかな髪と深い眼差しの父は、男の色気がある人なのだ。そして淡い髪と赤い瞳を持つ叔父は、男としての頼もしさがあった。こうして堪能を一人占めできる私の立場が素敵すぎる。
それでも今夜の父は仕事で遅くなる予定だと寮監は言っていた。
「あれ? そういえばパピー、今日は遅いって、フィル聞いたよ。無理してお迎え、来てくれた?」
「そんなことないよ。思ったより早く終わったけど、それでも待たせたね。不安だっただろう? 王子がいる以上、上級生もあまりやってこないだろうが無茶苦茶な奴もたまにはいるからな」
あー、なるほど。下級生を使い走りにするというアレか。場合によっては服を脱がせたりしていじめたりするのだろう。
映像監視装置があるとはいえ、女の子だとばれて寮生の個室に引き摺りこまれたら、腕力的にも敵う筈がない。
それに親の地位の七光りを持ち出す寮生だっているかもしれないと、父も案じたのだろう。男子寮に貴族はまずいないけれど、それでもみんな、平民とはいえ裕福なおうちのお坊ちゃまなのだ。
「そーなんだ。フィル、危機一髪」
「そこまで心配しなくても大丈夫だったよ、フィル。兄上はどうしても間に合わないようなら私にやれって言ってたからね。ただ、私はルードに甘いと思われているから、ぎりぎりまで待たせる信用の無さだ」
「お前は甘いだろうが」
「叔父なんて甥と姪を可愛がる為にいるものです」
父と叔父は仲がいい。普通は弟の方が劣等感を抱いて腐るものらしいけど、うちに限ってそれはない。
うちの叔父は私達のお兄ちゃんなのだ。
だが、・・・まあ、一年生だしね。父よ、あの寮生達はお子様すぎてどうしようもなかったぞ。
「お洗濯してたけど、みんな、フィル、ルードと思ってたよ。上級生は見なかったと思うけど分かんない。それにフィル、強いんだよ。ジェス兄様にフィル、仕込まれてるからねっ」
「そうか。頼もしいな」
「それでも男の子の力には負けちゃうからね。まずは逃げなさい、フィル」
「はーい」
暗い夜空に星が瞬いているが、父と叔父と、手を繋いで歩けば、それも楽しい。二人とも私より大きな手。たくましい腕。いつだって私を守ってくれる存在だ。
「二人とも、ここ、すぐ分かった? あれ? だけど男子寮、閉まってたよね?」
「そこは通用口があるのさ。寮監用のはレミジェスも知らなかっただろうから、ついでにね」
「え? なんでパピー、知ってるの?」
なんでも父は男子寮で生活したことも、寮監をしたこともあるそうだ。
知らなかった。父はこれで色々な経験をしていたらしい。
「お祖父ちゃまのおうち、遠いから?」
「そう。一時期、レミジェスと一緒に入った。レミジェスは練習や試合も多かったし、服をぼろぼろにしてばかりだったよ。私が十枚ぐらい同じ服をクローゼットに入れておいても気づかないぐらいだった。シャワー浴びて食べたらもう熟睡だったね」
「えっ? そうだったんですかっ? 記憶にない。・・・あ、そういえばいつの間にか服を買わなくても着替えがあるっていうんで、・・・てっきり家の者が補充しに来たのかと」
「それが、貴族が男子寮に入らない理由さ。自分で洗って補充しないと足りなくなるって現実を知らずに育っている。だから寮では暮らせないんだ。ちゃんと洗濯に出せていたレミジェスは優等生だった」
なんと。
私はお貴族様というものを本質的に理解していなかったらしい。全ては誰かが勝手にお世話してくれるものだったのだ。
「ジェス兄様、パピーと一緒でよかった。だけどパピー、そしたらルード、ちょっと可哀想かも」
「そんなことないよ、フィル」
「だってフィルね、ルード、反省させようと思ってレイドと一緒に嫌がらせしちゃった。明日からルード、泣いちゃうかも」
生意気な兄だが、泣き顔を見たいわけではない。
泣かしちゃるぞと思いはしたけど、アレンルードは私を大好きだ。本当に泣かせてしまったら可哀想すぎる。
叔父が面白そうな口調で私を覗きこんできた。
「フィルに泣かされちゃうなんて困ったルードだ。どんな嫌がらせをしたんだい? 人参でも枕に詰めたかな? それともピーマン?」
「ううん、そっちは寮監先生にお願いしちゃった。明日からルード、ご飯はお肉を減らされてお野菜増えるんだよ。もう寮監先生はフィルの手下なんだよっ。ルード、お野菜食べるいい子になるんだよっ」
「そりゃ凄い。それだけかい? うーん、イタズラにしてはいい子すぎるぞ」
真面目そうな叔父だが、いたずらをするとなったら父より叔父の方がノリノリだ。思いっきり笑えるいたずらを考えて、色々とやったりもした。
兄は肉が大好きだ。栄養を考えて野菜をもっと食べた方がいいと思うのに、マーサはアレンルード可愛さにお肉を多めに食べさせてしまう。
あれだけ肉を食べていて、どうして私より太らないのだ。・・・運動するからだな。
まあ、いい。ここで健康的な食生活に進路変更するがいいのだ、兄よ。
「えーっとね、ルードのお金からこれからのお昼ご飯代だけ残して後は没収しちゃったよっ。ちゃんと日付とお金を一日分ずつ紙袋に入れておいたから、使いこんだら他の日のお昼ご飯代がなくなっちゃうの。ルード、無駄遣いできないんだよっ。・・・あ、だけどね、来週終わりになったら返してねって、レイドにお願いしといたっ」
「ちゃんとご飯代は残したんだろう? それに反省した頃を見計らって返すようにしたなら問題ない。よく考えたね、フィル」
ああ、父が優しすぎる。そうなの、私はとってもとっても考えたのです。
「でねっ、レイドに協力させてノートの上の隅っこにいたずら書きしたの。ノートをとるのには邪魔にならないけど、誰かにノート見られたら恥ずかしくなるの」
「どんないたずら書きだい? フィルの得意技だからな、犯人はすぐに特定されちゃうぞ? 駄目だなぁ。犯人はすぐにはばれず、みんなが笑えるのがいいイタズラだって教えてあげたのに」
お茶目な叔父は、誰にも内緒なイタズラを考え出すけれど、犯人は不明で終わってしまう。みんなが笑えるイタズラだから犯人捜しを誰もしないってこともあるんだろうなって私は気づいていた。
真面目な父はイタズラなんてしないけど、私達がやる分には見守ってくれる感じだ。
「おい、こら、レミジェス」
「えーっと、ポエム? あのね、
『君は誰よりキレイだ』とか
『君の瞳にメロメロ』とか
『僕の胸は燃えている』とか
『愛、それは僕の命』とか、誰が見ても
『えっと、君、恋でもしてるの? 頭、わいてる?』
って言われそうなの書いたっ。赤い文字で書いておいたし、もう頑張って全部のページに書いたんだっ。隣の人とかに見られたら恥ずかしいの。だけどルード、お小遣いないから新しいノート買えないの」
父と叔父が顔を見合わせた。
疲れたような声で父が尋ねてくる。
「それに殿下を付き合わせたのか。殿下は楽しんでたかい?」
「レイド、最初は面白がってたけど、途中から気の毒がってた。フィル、偉いんだよっ。レイドもルードも、あれ参考にしたら、もっと大きくなって女の子口説く時、とっても大助かりでフィルに大感謝だよっ」
ほんの少し言い回しを変えるたけで、すぐに使えるラブなフレーズ。
これはもう私は恋愛の女神様と呼ばれていい事態だ。愛の妖精から愛の女神に進化しちゃうね。
「反対に女の子への幻想がどんどん消えていきそうだが、まあいいか。女の子を敵に回したら痛い目に合うってことをエインレイド様もルードも理解しただろう。レミジェス、あまりにも不憫なら新しいノートだけ差し入れてやってくれ」
「はい。だけどルードですからねぇ。かえって面白がるんじゃないですか? おお、これがラブレターとか言って」
「しょうがないよ。13才なんてまだまだヒヨコだからねっ」
ふふんと偉そうに胸を張った私を、
「では、ヒヨコさんを温めとくか」
と、父はひょいっと抱き上げた。
いつものように両足を父の腰に回せば抱っこ状態でちょっと色気がなさすぎるが、父と子なので許す。ここからはもう灯りが減って、駐車場に続く道が真っ暗だ。
こういう抱っこは子供ならではだけど、一番安定感があると思う。父の肩に顎を載せれば、つけてから時間の経った香水が、いい感じにラストノートで鼻をくすぐっていった。
ああ、やっぱり父にはこの香りが似合う。派手じゃなくて、だけど爽やかで、それでいて清らかな香りが夜には少しエキゾチックでセクシーになるのだ。
「可愛いヒヨコのお嬢さん。同じお部屋で寝ようって背高ヒヨコさんに言われてたじゃないか。ちょっとドキドキしなかったかい?」
駄目だなぁ。うちの父が娘に恋人出現かもと、嫉妬し始めている。愛されているって、こんなにもいい男を狂わせてしまう罪だ。
だから私は、ふぅっと大きな溜め息をついて、世界の真理を教えてあげた。
「あのね、パピー。女の子はちっちゃな時から女なんだよ」
「そ、・・・そうなのか?」
「フィル、まだお前は子供だよ。兄上を脅かしてどうする」
呆れたように隣を歩いている叔父が私の額を指先でペシッとしてくる。
叔父は私を可愛がりすぎて、永遠に5歳児だと思っているところがあるのだ。そろそろ現実を見せてあげねばなるまい。
「そんなことないもん。フィル、とっくに淑女だもん。ヒヨコじゃないもん。見る目のある一人前の女なんだもんっ」
ははっと、叔父は肩をすくめて軽く笑い飛ばした。
お姉さんになったねと言いながら、まだまだ子供でいればいいと叔父は思っているに違いない。
「そうかそうか。で、見る目のある我が家のお嬢様は、学校でドキドキしてしまうステキな男の子を見つけられたかい? エインレイド様が近くにいたら、なかなかよそに目も行かないか」
「んーん。せめてパピーよりかっこよくないと、ドキドキできないよ。そりゃレイド、可愛いけど。ついでにレイド、フィルのこと男の子って思ってるけど。だけど学校なんてお子様しかいないんだもん。全くもう、パピーより素敵な男の人いなくて、フィル、上等学校来ても、ドキドキできなくて大変だよ」
くすっと笑って父が私の頬にキスしてきたので、私も父の肩に顔を埋めた。
こうして二人でくっついているだけで安心できる。これが親子なのだろうか。
大切にされている。それが分かる。
どうしよう。こんなにも愛されてしまうことに慣れてしまって、私に恋人はできるのか。きっと誰も彼もが父ほどには私を愛してくれない気がしてならない。
「それなら学校関係者にも若い男が揃ってただろう? それとも年上すぎたかな。バーレンは彼女と結婚する前、お前を嫁にもらうとか喚いていたが」
「兄上・・・」
「レン兄様、フィルのこと、餌にしたよ? フィルでお嫁さん、手に入れちゃった。思えばフィル、あの頃はまだ若かったの」
思い返せば、あの頃の私は周りが見えていなかったのだろう。
自分を取り巻く世界が分かっていなくて、味方である彼に依存していたのだ。母国の言葉を懐かしむ私に、バーレンはファレンディア製品を取り扱っている店も調べてくれた。
「フィル、お前はまだ子供だから」
「そんなことないの、ジェス兄様。あの頃のフィルは、若すぎた。何も分かってない若さの暴走が、そこにあったの。ピュアな姉様を、フィルの若気の至りがレン兄様の手に落とした。レン兄様、身勝手な人だって分かってたのに。フィルは大人として、姉様を逃がしてあげなきゃいけなかったの」
ちゃんとバーレンへの好意は確認した。だけど彼女の誤解を私は訂正しなかった。
妻に先立たれた友人の娘の世話をする程に思いやりのある男性だと信じ、彼女はバーレンとならば共に人生を支え合えるだろうと結婚を決意してしまった。
「そしてその時は、お前がバーレンの嫁になるのか? さすがに娘の婿が私と同い年というのはな」
「ううん。レン兄様、そろそろフィルのこと、用済み。ポイされる日も近いの。だから、結婚はしないの」
「は?」
父が目を丸くし、焦った顔の叔父が、
「ちょっと待てっ。何をされたんだ、フィルッ」
と、私の頬を両手で挟む。
「何って、・・・お勉強。フィル、レン兄様に習得専門学校のお勉強をさせられてるの。フィル、もう嫌だって言ってるのに、許してくれない。フィル、色々なやり方で同じ問題、させられる。解釈の違い、調べるの手伝わせる。そして兄様、執筆する。その清書、フィルに手伝わせる。だけどフィルは都合のいい女。レン兄様のワイロに逆らえない」
分かってちょうだい、父よ。あなたの親友は鬼だ。
だけど叔父はほっとしたような顔で私のほっぺたを解放した。
「何だ、紛らわしい。だけどフィル、賄賂に釣られちゃ駄目だろう。欲しいものは何でもあげるから、よその人間についてっちゃ駄目だぞ。クラセン殿は安心だが」
「そうだな。あいつはそういう奴だ」
ひどいのだ、彼は。
わざわざファレンディア国の教科書を手に入れてきたかと思うと、二ヶ国間の授業内容の違いを洗い出させるのだ。
何が悲しくてそんな比較をしなくてはならないのか。分野違いの研究をしてどうするのかと思ったが、学問に境界はないそうだ。意味が分からない。
「けっこう仲がいいからフィルはバーレンみたいな奴が好みなのかと思っていたよ」
「レン兄様とフィル、利用し合う同士。共犯者になれても、恋はできない」
「クラセン殿と何をやってるんだ、フィル」
この私の切ない思いを、叔父は呆れた様子で一笑に付した。
まるで楽しく遊んでいて良かったよと、そんな感じだ。叔父よ、できれば心配して? 私はもっとバーレンに大事にされていいと思う。
「フィルはバーレンの雑用をする代わりに欲しい物を買ってもらってるんだ。フィルはお前達には恥ずかしくて言えない駄菓子や変な雑貨、誰かが作った試作品だの何だの、ローグさんの部屋をこっそり譲り受けることで保管部屋にしている」
「ああっ、パピー、どうしてそれをっ。フィルの秘密のお部屋っ」
なんということだ。マーサには了承してもらったが、双子の兄が知らない私の秘密の部屋の存在が、父にばれていた。
「全く。大人の資本力に釣られるんじゃないぞ、フィル。だけど寮監とか警備とかで、好みの男はいたかい? お前は未成年に興味がないからな。あれぐらいの年だったらどうなんだ?」
「兄上・・・」
どうしよう。父の嫉妬が止まらない。娘をたぶらかす男なんて害虫駆除する勢いね。
娘ってなんて罪な生き物。こんなにもいい男を嫉妬の炎で燃え上がらせてしまう。
「んー。だけどフィル、大人のお年、よく分かんない。それに恋人にするならパピーだし、結婚するならジェス兄様だもん。フィル、大人なら誰でもいいわけじゃないの」
「そうか。あれでも選抜はあったんだが。お前は男の体にもうるさいだろう」
いつも筋肉をすりすり堪能されている父が、なんだかちょっと恨みがまし気だ。
大丈夫だ、父よ。あなたの肉体はあんな若僧共より素晴らしい。贅肉なんてついてないその体はとてもセクシーだと太鼓判を押してもいい。
「寮監先生もいい体してるかもしれないけど、盗み撮りしてる時点で、ダメ男決定だよ。女の子、そういうヘンタイは嫌いだよ。人間性は大事なんだよ。ここに紳士はいないんだよ」
あの恨みは忘れん。
自分の息子を変質者扱いされたと知った国王夫妻の心境を考えるだけで、私は失踪したい。どうして国家最高権力者を敵に回さなくてはならないのだ。
父は、国王夫妻も笑っていたから大丈夫だと言うけれど、私はそういう男の「大丈夫」を信用しない。実際、ウェスギニー家でも祖母の表情を読み取りもせず言葉通りに受け取っているのが父と叔父だ。
笑顔というのは心を隠す仮面なのだと、私は主張したい。
女の「いいんですのよ、お気になさらず」という言葉は、父や叔父の言う「だから放っておいて大丈夫」ではなく、その真なる意味は「少しは気を遣え。言葉にしない要望を読み取れ、この無神経野郎が」の意味なんだと・・・!
「そこが敗因か。女の子は難しいな。だけど恋人の私を捨てて、レミジェスと結婚するのかい、フィル?」
「そうなの。フィルね、パピー、世界で一番大好きだけど、結婚、安定した愛と強さが大事なの。ジェス兄様、語らず努力の人。フィルは知ってる」
「そうだなぁ。フィルが姪じゃなかったら私もフィルをお嫁さんにしたのになぁ」
にこにことして叔父が私の頭を撫でてくる。気持ちいい撫で方だ。
叔父は私の髪型を崩さないように撫でてくるから、ちょっと弱めで物足りないけれど外出中は有り難い。だけどおうちならもう少し強めに撫でてくれるし、それで髪型が崩れたらブラシを当ててくれたりする。女をいい気持ちにさせるプロフェッショナル。
叔父は女性をお姫様気分にさせるのがとても上手なのだ。
「レミジェスみたいな男が好みならそうそういないぞ、フィル」
「いいの。そしたらフィル、おうちで一生、パピー見て過ごすの。パピー、きっとおじいちゃんになっても素敵。結婚しないで、フィル、ずっとパパの恋人するの」
ちょっと気の利かないところはあるけれど、父は要求したら叶えてくれるから大丈夫だ。ちゃんと私は何を褒めてほしいかを先に言うことにしている。その甲斐あって、今や父は私をご機嫌にさせるベテランだ。
「あれ? 結婚するなら私とか言いながら、結局兄上なのか、フィル」
「そうだな。やっぱりお前は嫁になど行かなくていい。ずっとうちで私と暮らしなさい」
「うんっ」
駐車場に並んでいた移動車の一台が、ライトを点灯させた。その周囲が明るくなって、あそこに行けばいいのだと分かる。
運転手の顔は光の加減で見えなかった。
「今日は大変でしたね、フィルお嬢さん」
「あ、フォルスさんだっ。パピー、連れてきてくれたんだ」
久しぶりの声に、私は運転手の正体を当てる。
「ええ。お嬢さんが可愛すぎて恋人志願する男共が続出してはいかんと、心配で発狂寸前だったお父様をお連れしましたよ。ですがお嬢さんのお気に召す紳士は存在しませんでしたか」
会話が聞こえていたのか、面白そうに笑うフォルスファンドは父の部下だ。
父が通勤する際、たまに送迎運転している人の一人である。
裏庭で遊んでいる私を見つけては声をかけてくれたり、父を待つ間に私と遊んでくれたり、本の難しい単語を教えてくれたりもしていた。分からない時は、次に会う時に専門書を持参して教えてくれた頼れる大人の一人だ。
だけどね、フォルスファンドよ。
父親をパピーって呼ぶのおかしいって幼年学校の子に言われて私が相談した時、パピー呼びが正しいんだって強く頷いたこと、忘れてないんだぞ。
後で知って責めたら、「可愛かったので」で終わらされた。サルートス国人、可愛ければ嘘を教えてもいいという思考をどうにかしたまえと言いたい。
(ま、所詮は子供のブーイングなど何とも思ってないってことだよ。上司なのは父であって私じゃないってね)
私は諦めを知る永遠の二十代だ。
だから全てを胸に仕舞い、深刻そうに両手を広げて嘆いた。一応、将来は私にメロメロになりそうな男の子がいたらチェックしておこうと思ったけれど、なかなか見つからない。
「うん。フィル、もう駄目かも。かっこいいのはパピーで、頭いいのはレン兄様で、頼れるのはジェス兄様見て育ってるから、もう目が肥えちゃってて大変。もうフィルの人生終わりだよ。どれもお子ちゃまにしか見えないの」
「そ、それは大変な事態ですな」
ぷぷっと噴き出しそうな口調のフォルスファンドは、笑い上戸だ。
「しかもね、けっこうフィル、いろんな子とお洗濯しながら話したのに、誰もルードじゃないって気づかなかったんだよ。男の子って鈍すぎだよ」
「男なんてそんなものです。当分はお父様が恋人でいいですよ。さ、おうちに帰りましょうね」
「はーいっ」
そこで私の頭を撫でて、叔父が私の頬にキスする。ただのキスじゃなくて、叔父は頭や頬を撫でてからキスしてくれるので、私ってば愛されてるなぁって幸せ気分になるのだ。
くすぐったい気持ちが心に広がって、そうして女の子は更に素敵な女の子になるの。
「では私はここで失礼します、兄上。フィル、おやすみ。いい夢を」
「おやすみなさい、ジェス兄様。おじいちゃまとおばあちゃまにもおやすみなさいなの」
「伝えておくよ」
私も父の腕の中から叔父の頬にキスした。
「ガトルーネ殿、すみませんが二人をよろしくお願いします」
「これも仕事でございますのでお気遣いなく。レミジェス様もお気をつけてお帰りくださいませ」
子供だから分からないフリしているが、私はフォルスファンドに同情してもいるのだ。
父を送り届ける為、こんな遅くまで帰宅できないとは気の毒すぎる。
しかも今日は上司の子供がやらかしたことで、仕事と無関係な場所まで送り迎えさせられたとは。
すまん、フォルスファンドよ。全てはうちのアレンルードが悪いが、私達を送り届けてから帰宅するあなたへの残業代がちゃんと支払われることを願っている。
「ほら、フィル。毛布かぶって。おうちに着くまで寝てていいからね」
「うん」
移動車の座席に私を座らせてから父も乗りこむ。
やっぱり気が張っていたのか、私はくーっと寝てしまった。
目が覚めたら父のベッドだったけど、「おはよう、可愛いフィル」って微笑と頬へのキスがついてきた。
朝日が差し込む中、たくましい胸元で寝間着から覗いている虎の種がセクシーすぎる。
やっぱり男なら何でもいいわけじゃない。ヘンタイ寮監も、ヒヨコ寮生も問題外。
男の色気を持たないと、女は満足しないのよ。
― (‘ω’) ― ♪(‘ω’)♪ ― (‘ω’) ―
夜は人の気配が少なく、澄んだ空気が音を響かせる。
砂利混じりの地面をざっざっざっざと歩く足音や、子供特有の声が話す内容はよく響いていた。
やがて移動車が幾つもの門を所定の手続きをして去っていく。
「アレル、自分のことフィルって言うんだ。可愛い。それなら学校でもフィルって言えばいいのに。僕もフィルって呼んでもいいかな」
「あれは父親向けの猫かぶりだと思いますけどねー。それに可愛いですか? アレンの洗濯と掃除はともかく、それ以上にやり返してませんかね。王子も加担しちゃってますけど、一緒に食事して部屋にまで行っていたのは、みんな見てます。イタズラ書きとやら、エリー王子の仕業だってアレンに恨まれても知りませんよ」
風で乱された柔らかな水色の前髪を手で掻き上げながら、寮監の一人であるドルトリ中尉マレイニアルは、この短時間でそこまで復讐してみせたアレナフィルに感心してもいる。
ダメージは与えても生活に影響しない所で留めておく計算力を小賢しいと思うべきか。やはり中身はババアだと思うべきか。
「いいよ、それは。明日、ノートに気づいたら『君が書けって言ったんじゃないか。変な言葉を書くのを手伝わせておいて何言ってるんだ?』って言うから。それとも朝の内に声をかけて教えてあげた方がいいのかな。教室で気づくのと、どっちがいいんだろう」
「ダメージが大きいのは教室で知ることじゃないすかねー」
「それ、僕にどっちを勧めてるの?」
「自分で考えることですよ。どんな結果に転んでもご自分の友達のことです」
相談に乗りながら突き放すマレイニアルは、提案こそしてもあまり指示はしない。
そうなると、いつも一緒のアレナフィルに全面協力するべきか、それともたまに会話するアレンルードに男の友情をみせるべきか、エインレイドも悩むところだ。
濃い紫の髪をした寮監のメラノ少尉アドルフォンは、エインレイドの肩に片手を置いた。
「呼び方ですが、エリー王子はアレルでいいと思いますよ。いずれ一緒にいたことがばれたとしても、アレンと一緒だったと思われるだけです。アレルなら誰もがアレンルードの愛称と思うでしょう。彼は寮生だから不自然ではありません」
「そうなんだけど、フィルって呼んだらあんな風に可愛く喋ってくれるのかな。アレル、男の子ならよかったのに。だけど僕、悪いことを言ってしまった。本当に忘れてたんだ。ウェスギニー子爵が怒るの当然だよ。母上のことを言うなんて、可哀想なことをしちゃったんだ」
一緒に眠りたくても、アレナフィルの記憶に母親はいないのだ。いつも明るいから忘れていたけれど、母のいない友達の前で自分の母親のことなど言うべきではなかった。
エインレイドが取り返しのつかない失敗に歯噛みする。だけど謝ってしまえば、余計にアレナフィルが傷つくような気がした。
「いやぁ、あれはそれ、関係ないと思いますけどねー。それにかなりご機嫌だったと思いますよ? アレルちゃん、パピー大好きっ子じゃないですか」
エインレイドは末の王子だ。弟や妹はいない。
男子寮を出て二人きりになった途端、父親に甘え始めたアレナフィルを可愛いと思いながらも、自分はもうあんなことしないと思うと、複雑な気分だ。
「そうなんだけど、いつも偉そうなことを言ってるくせに、アレル、あんなに甘えてるのっておかしくないか? 普通、パピーなんて呼ぶ? 赤ちゃんみたいだ」
それとも女の子は男の子と違ってそう呼ぶのだろうか。
もうアレナフィルはあまりにも不思議すぎて、エインレイドの理解が追いつかない。
「いいじゃないですか、可愛くて。それに聞いたでしょう? まだ、あの子は生まれて8年やそこらの子供です。偉そうなことを言っていても本からの知識。父親も留守がちで、家政婦だけでは普段の言葉遣いはあんなもので、思考は本に偏っていたのでしょう。別に普通ですよ。王子だって幼年学校2、3年の頃は、殿下方に甘えては抱っこをせがんでたじゃありませんか。王妃様が世界で一番素敵な女性だと、陛下の前でも力説して。アレルだって同じことをしているだけです」
アドルフォンも内心ではパピー呼びに心を飛ばしていたクチだが、自宅で娘が父親をどう呼んでいたところで、人前で言わないのであればその家の自由だと折り合いをつけた。
「そうですね。さ、もう遅い。部屋に戻って寝ないと。・・・アレンは、洗濯物が多くて大変だったことを知っている殿下が廊下で寝ているのを見つけ、自室のベッドに招待してあげりゃいいんです。今日の夕食を一緒にとっていたのはアレンです。うまく双子と気づいてないフリしてくださいよ」
マレイニアルも寮監としてアレンルードが気になるらしい。やはり寮生が廊下で寝るのは気の毒だと思っているようだ。
とはいえ、アレンルードに対して自然に接しなくてはと思うと、エインレイドはちょっとした作戦任務気分である。
「う、・・・うん。そして来週になったら、『これ、今日まで預かってって君が言ってた奴』って言って、お金を渡せばいいんだよね?」
「そうそう。全くとんでもない妹を持ったもんだ、アレンも。そんなつもりはなかったにしても、あの子、周囲の部屋の奴には、しっかり泊まらない宣言してたし、泣きつく先もないんじゃな」
わざわざ王子がやってきた上、風通しを良くして乾きやすいようにと、窓ばかりか扉も開けっ放しにしていたのだ。
他の寮生だってその室内に干された洗濯物を覗きこみ、呆れなかったわけがない。
洗濯物スペースでは間に合わないと、あちこちにロープを通し、洗濯物は吊り下げられるだけじゃなく、天井と平行な横置きだったり、ブランコ状態で干されていたりした。しかもベッドマットを上げて壁に立てかけ、ベッドのフレームにもロープを通して洗濯物を干していたのである。
誰だって、「どこで寝るんだ?」と、なるのは当然だろう。
だから、
「しょうがねえなあ、アレン。うちで寝るか? 二人でも寝れねえこともねえだろ」
と、そんな声をかけられていたのだ。
さすがにアレナフィルでは受けられない話だった。
「みんな、一緒に寝ようって言ってくれてたけど、アレンのフリして『へっ、僕は不可能を可能にする男なんだぜ。屋上でもどこでも立ってでも寝てみせるさっ。この僕の不死身伝説を見るがいいっ』なんて、ワケ分からないこと言いきってたもんね。みんな気づかないってぷんぷんしてたけど、あれで気づけと言われても無理だ。僕、アレルがおかしくなったのかと思っちゃったよ」
「あのアレンなら考えなしにそんな宣言をするのはあり得ますね。妹だけによく知っていたのでしょう。見事な演技力です。ですがエリー王子ぐらいの年なら、そんなバカを言うのも普通なんですよ」
「え、・・・そう、だったのか」
それでもエインレイドには分からないことがある。
わざわざアレンルードにそこまで似せる必要はあったのだろうかと。
(だから僕の友達になってるって分かってるのかなぁ、アレル。文句を言ってても、実はあんまり気にしてない感じでひょいひょいやってのけるんだよね。僕は助かるけど)
アレナフィルは文句が多い。
だけど本当に嫌がっている気配がしないのだ。その根底には「まあ、いいか」という意識が見え隠れする。
まるで、「この程度はまだまだ。無茶を要求されているという程ではない」と、思っているかのように。
その余裕を、誰もが感じ取っていた。
「僕もフィルって呼んでみたいけど、やっぱり駄目かなあ」
「そこはもうただの友達なんだから諦めましょうよ。フィルって呼んだら可愛くお喋りしてくれるとは限らないですよ。ヒヨコ扱いしている相手に、可愛く甘えっ子はしないでしょーよ」
冗談ではないと、マレイニアルはエインレイドの希望を叩き折る。
家族しか呼ばない愛称を王子が呼ぶだなんて、すわ婚約かと勘違いされかねない。恋をするならせめて非の打ちどころのない令嬢としてほしい。
本日のアレンルード演技は、あまりにも貴族令嬢の枠を突き破っていた。アレンルードでさえあまりにも礼儀知らずではないかという言動なのに、あれをアレナフィルがやってしまっては庇いようがない。
今回のあの言動は極秘ファイル行きである。せめてもの情けとして。
「そうだった。アレル、ちょっとおかしい子だった。なんで僕、パピーとか呼んでる子にヒヨコ扱いされなきゃいけないんだろう」
「そーそー。そのうち立派な鶏冠を生やしてくださいねー」
「生えないよっ」
むぅっと、エインレイドは唇をとがらせた。
自分よりも背が低く、誰もが困ったちゃん扱いしている女の子にどうして自分はヒヨコ呼ばわりされなくてはならなかったのか。
(ヒヨコならアレルの方だよ。お日様色の毛をしてるし、元気に鳴いて動き回ってる落ち着きのなさもそっくりだ)
可愛いから許せてしまう。偉そうにピィピィ言ってるけど、全く気にならない。それはきっとアレナフィルにこちらを傷つける意図が全くないからだろう。
(普通、恋人とか結婚とかって、身近なお兄さんに憧れるものじゃないのかなぁ)
エインレイドにとってアレナフィルはとても不思議で面白い生き物だ。