24 私だけが何も知らない
スチームサウナというと、汗がだらだら出る熱さを思い浮かべていた。
だけど床やベンチ、壁は体温よりも温かい程度の熱で気持ちが良かったし、空気は熱い程ではなく、とても過ごしやすかった。
仰向けになった父の胸を枕代わりにしていると、ふわりと新鮮な空気が流れてくる。
(どうしよう。体が温まったら本当に心もぽかぽかしてきてしまった)
泣いたらすっきりと言う程ではないけれど、全てがほんわかぽやぽやで悩みが昇華された気分だ。
言葉がなくても、人はその手つきに愛を感じることができるのかもしれない。
「パピー、たまに涼しい風、気持ちいい」
父の指先が私の髪をくるくると巻き付けたりほどいたりして遊んでいたけれど、二人きりの時間はとても甘かった。
親子だと自覚していなかったら、年の離れた恋人同士かと本気で誤解する。本気で落としにかかられていると理解させられちゃう。
ああ、父ってば私を惚れさせてどうするつもり?
なんで私の髪を掻き上げてくれる時もまずはその腕で抱き寄せて頬にくすぐったいキスしてから手櫛で整えてくれたりしちゃうわけ?
しかも首筋を撫で上げるようにして髪が肌にひっつかないようにとしてくれる手つきもさることながら、私の体を肩ごと引き寄せてから髪に優しく触れるんだからどこまでも男の独占欲と色気が垂れ流し。鼻血出たらどうしてくれるの。
「ああ。どこか窓を開けているんだろうね。肌寒かったりしないか? もう少し熱いスチームの方がいいかい?」
「ううん。汗だらだらするより、ここの方がいい。体の芯がほかほかしてる」
父は着やせする人だけど、脱いだらそのフォトだけでお金を取れる人だ。体温も高くて、一緒にくっついているだけで安心できる。
なめらかな肌に、弛みのない肉体の水着姿には、ゴバイ湖でも寮監チーム達でさえ見入っていた。
私がどうして父が一番セクシーだというのか、その肉体を見て実感したらしい。
全体の筋肉の厚みや手足の長さ、そういったバランスが男性彫像のお手本になれる程、魅力ある美しさなのだ。勿論、父は顔もいいのだが、普段は全く露出的な恰好をしないので顔だけがいいと思われがちだ。その顔も、わざと野暮ったく見せてることがほとんどだったりする。
だが、あの水着姿で隠せなかったその肉体美に、皆の瞳が吸い寄せられてしまった。
別に他の人達の肉体が劣っていたわけではない。さすが軍人として鍛えられているだけあって、誰もがそれぞれにたくましい肉体だった。
だけど違うのだ。
世の中に様々な肉体はあるだろうが、父の肉体には芸術的な美しさがあった。
そんな父は娘の私を世界で一番大切な恋人だと言って、アレンルードがいない今は私を最優先してくれる。
アレンルードと私がいる時はコインを投げてその表と裏で決めなさいと言うけど。普通は両方の意見を聞いて親がジャッジするんだろうけど、父は子供それぞれの要求を精査する気がない。別にどっちでもいいといった性格なのである。ゆえにはっきりきっぱりと理由を述べて主張した者勝ちになる。それを分かってる私は父の専門家だ。
「そうだな。シャワーで濡れてた髪が少しずつ乾いて、しっとり状態だ」
微笑む父は私と一緒に寝転がっているのに、気づいたら床の上に置いてあるバケツに片手を伸ばしてその水を手で飛ばし、たまにジュワッと蒸気を発生させていた。道理で私が最初に選んだハーブの香りがずっと辺りに充満しているわけだ。
思い返せばたまにジュッ、ジュワッ、ジジッて音がしていた。
「パピー、実はとってもモテてた?」
何もしていないように見せかけて実は極上の時間を提供してくる男。それを女に気取らせることなく甘くうっとりする時間で酔わせてくる。
もしかしたら父は色仕掛けの才能もあるのかもしれない。
こういうことって実体験無しではスキルも上がらない筈だ。
「残念なことに、それはなかったんだよ。初めてお付き合いしたのがリーナだったからね。おかげで私は一目惚れしたリーナと結婚まで皆が驚くハイスピードで突き進み、そして今は可愛いフィルに溺れている」
「・・・むむっ」
なんというできた男だ。違う女の影をちらりとも見せやしない。
世の中モテ自慢をやらかす男は多くても、全くモテなかったんだよねと言いながらそこらの男共より遥かに色男スキルをマスターしている男が存在している。それが父だ。
うん、普段もっさり男で生きてたわけだよ。どうせそっちは十分に堪能してたんだよね、知り合いのいない所で。
きっとアレナフィルの母親は夫にメロメロだったことだろう。
まさに愛されているという実感に満たされるよう、女を腕の中で眠らせる時にもさりげないボディタッチを欠かさない父は、それがうたたねの邪魔にならない程度にとどめるところも完璧だ。
「なんだ、信じてくれないのかい? 私は可愛い恋人が男達をとっかえひっかえしていることに、この心を痛めていたのに。だけど少しは反省して、私の相手ぐらいしてくれるんだろう?」
瞼の少し上をキスされるから、目をつぶってしまう。だから余計に耳元で囁かれるハイ・バリトンな美声に背中がぞくぞくしてしまうのかもしれない。
いや、父よ。これで女慣れしてないって嘘だよね? 目を閉じている時に耳元で囁かれる言葉も全ては女を落とすテクニックだよね? 私を落としてどうするつもり?
ああ、百戦錬磨な男に溺れて周りが見えなくなる女の気持ちが分かってしまう。
だけどいいの。所詮、私は娘だから。どれほどの現地妻がいようと、特別なのは娘の私。
父の浮気ぐらい、広い心で見逃してあげるのよ。
「とっかえひっかえはしてないの。フィル、なんか、利用される女? になった気がする」
「そうなのかい? じゃあ、もう誰にも利用されないよう、おうちに隠してしまおう。本当にね、可愛いフィルをどんなに世界中から隠しても、誰もがお前を見つけてしまって私も困ってるよ」
いやん、もう。こんなこと言われたらおうちから出られなくなっちゃう。
他の男なんて見るなよ、俺だけ見とけっていう独占愛なの? お外に出さずに囲っておきたい男子禁制愛なの?
他の男が言ったなら気持ち悪いだけだけど、父が言うなら従っちゃうわ。
「フィルも、パピーだけ、いればいい。あ、ルードとジェス兄様も。マーシャママと、ローゥパパも。お祖父ちゃまとお祖母ちゃまも」
おや? 仲間外れにしたらまずい家族がいっぱいだ。
愛の言葉に相応しくない私の対応に気が抜けたのか、ちょんっと額を父につつかれた。
「この浮気者さん。そしてこの場に学校のお友達がいたら、そのリストがもっと増えるんだろう?」
「そ、そんなこと、ないもん」
いたずらっぽく針葉樹林の深い緑色の瞳を細める父だが、別に怒っているわけではない。
私がお友達を作らなくても、
「一人で過ごすのが上手ってことは、それだけ心が豊かな証拠だ」
で終わらせ、お友達を作っても、
「他人とお互いを認め合っていい関係を作れるのは、心が幅広い証拠だ」
ですませてしまう父は、私の手探りで歩む日々を穏やかに見守ってくれている。
とても包容力のある人だ。アレンルードだと、何も考えてないだけだろって毒づいてくるのに。
あの兄、少しは自分の父親の色男ぶりを見習うべきである。
すると、そこでコンコンと壁を叩く音がした。
顔だけ上げれば、ブースの入り口に男の人が立っている。
「目のやり場に困ることしてないでくださいよ、ボス。可愛い女の子を一人占めってひどくないっすか?」
「遠慮なく見えない所へ消えればいいだろう。何よりこの子は私のものだが?」
え? 何それ。父よ、それってば私を他の男に渡す気はないって言ってるの?
ぐいっと私の肩を抱き寄せる父の腕が力強くて、・・・いやん、素敵すぎて鼻血が垂れそう。
もうこれが親子じゃなかったら、愛のファンファーレが高らかに鳴り響くところですよっ。祝福のベルが二人の未来を明るく寿ぐところですよっ。
ひゃうんって悲鳴をあげてきゅんきゅんしておきたいけど、私は父の最愛な一人娘。この程度のことではおたおたしませんのよ。
だからこほんと咳払いして、冷静な声で尋ねてみる。
「ヴェインお兄さんもスチームサウナ、入りに来たんですか?」
「いや、さっきから違うサウナにいたけどね。ここで人目もはばからず抱き合っている男女がいたものだから、みんな、あっちで無言で虚しく汗だけ流してたんだよ。で、アレナフィルお嬢さん。せっかくだから、俺のこともそのリストに入れてみない?」
「え。それは嫌。だってヴェインお兄さん、私より父の方が好きですよね」
オーバリ中尉は私の父と同居する為だけに、好みじゃないけど私を口説いてもいいと言い放つ困ったちゃんだ。
女上司から口説かれるのを回避する為に私の婚約者候補っぽい立ち位置にいるけど、ただの父が私につけたボディガードである。
「そらまぁ、ボスは嫌いじゃないですよ。なんつっても上司ですから」
「ふふん。まあ、そういうことにしておいてあげましょう」
物わかりのいい私は、のそのそと上半身を起こした。さすがに人に見られても気にせず父に寄り添って寝転がっているのは破廉恥な気がする。
そうなるとオーバリ中尉も入ってきて、向かいのベンチに座った。
「ヴェインお兄さん、固定具つけたまま、スチームサウナなんて大丈夫なんですか? 熱くなりすぎませんか? 泳いでた時にも思いましたけど、ちゃんとお医者さんに診てもらってます?」
胸部や左肩を覆っている固定具は、見てあげたいけど私では分からない。
薄手なのであまり服の邪魔はしないそうだが、やはり白いそれが上半身の半分を覆っているのは見ていて痛々しかった。
「ああ、これね。自分で外せるんだよ。本当はもう外しておいてもいいんだけど、何かあった時に治りかけの所へ衝撃を受けたらまずいだろ? だからつけてるだけ」
「外して大丈夫な固定具とは一体・・・」
いつの間にか座り直していた父が、脇に置いてあった大きめタオルを私の肩にかける。上半身から太ももまで隠れるビッグサイズだ。
「あ、ありがとう、お父様」
「いや。フィルは女の子だからね」
さりげないそういう所が、父ってば女の心を鷲掴みにしちゃうと思うの。うん、分かるよ。可愛い娘の水着姿をよその男が見るなって言いたいんだよね。
ああ、この糖分たっぷりな独占欲。どんな果実酒よりも酩酊できちゃう。
「あのぅ、ボス。俺ら、以前からボスってばちょっと女に親切すぎねえかって思ってましたけど、お嬢さんへのそれ見てたら、めっちゃ普段は手抜きしてんだなってよく分かりました。お嬢さんには、世間の男はそこまで気ぃ遣わねえってこと教えとかねえと、それが当たり前って思っちまったら気の毒すぎねえっすか」
「わざわざ上司の憩いの時間を邪魔しに来て、言うのがそれか」
つまらなそうに吐き捨てる父だが、怒っている様子でもなかった。
大丈夫。私だって中身は永遠の二十代。
普通の恋は手を握るのもドキドキするところから始まるって知ってる。ここまでストライクでドキュンな口説き言葉とテクニックを披露してくるのは素人ならまずありえないって知ってる。
「言いたくて言いに来たわけじゃないんすけど。二人の世界の邪魔しねえよう、どんだけこっちが静かにしてたと思ってんすか。しかもボス、知ってて無視してましたよねっ?」
「さあ。気づかなかったな。可愛い娘しか目に入っていなかったよ」
お父様。そこで私の頭にキスしないでください。ちょっと恥ずかしいです。
どうしよう。本当にこれに慣れてしまったらボーイフレンドなんて作れない。今すぐそこにある危機は一生お一人様トラップだ。
「言うと思いましたよ。けど、こっちの邪魔しねえよう、めっちゃクソ熱いスチームサウナ入ってた俺らは限界なんっすよ。そろそろ出ましょうぜ、ボス。夕食時間的に合わせねえとってんで、俺がババ引いて言いに来たんすよね」
「私はフィルと二人きりの食事でも良かったんだが仕方ない。じゃあ、フィル。シャワーを浴びて出ておいで。それから支度して夕食に行こう」
「はい、お父様」
手を差し出して自然にエスコートしてくれる父は、どんな状況でも私をお姫様にしてくれる人だ。どうせ女性用更衣室は私専用になっているからと、後で髪を梳かしてくれると言った。
どこまで私をメロメロにする気ですか、お父様。
「アレナフィルお嬢さん。夕食後は、熱い方に行ってみるといいっすよ。あの汗が噴き出てくるのが、慣れたら楽しくなりますからね」
「うっ。火傷しませんか?」
「しないしない。そんじゃまた後で」
ひらひらと手を振って男性用の更衣室へと去っていくオーバリ中尉は、やはり怪我人とは思えない動きだ。
(あれが虎の種の印を持つってことなのかなぁ。どこまで頑健な肉体なんだろう)
かなり精神的に不安定になっていた私は、心の浮き沈みが激しいことを自覚していなかった。
自分から周囲の人を決めつけて切り離そうとしてしまうような被害妄想に近い鬱々とした思考に振り回され、私は他人から見た自分が理解できていなかった。
普段の私なら、いくら皆が知人であっても、誰もが入ってくるスチームサウナで自宅のように父に甘えるようなことはしなかっただろう。
そういう判断能力も失われていたことに私だけが気づいていなかった。
だから誰もが私をそっとしておいたのだ。
たとえ子供でも私は子爵家の令嬢。婚約者でもなければ家族でもない男が抱きしめて慰めるようなことなどできない。だから父しかいなかった。私を落ち着かせる為にどこまでもその愛で包んでくれるのは父しかいなかったのだ。
皆が私をおかしいと判断していたことも、そしてそれが一人の外国人によるものだと理解していたことも、自分のことでいっぱいいっぱいな私だけが分かっていなかった。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
フォムルは、温泉を観光資源にしている町だ。だけど近隣の農家が集まって朝市を開いていたりして、ちょっと長閑さを感じたりもする。
「知らない町に来たらまずは探検っ」
「ハイキングコースに行くならちゃんと用意してからにするんだぞ、フィル」
「・・・はいきんぐ。は、まだ行かない。お店、見に行く」
ハイキングは通りやすく整備された道と過ごしやすい場所が必要だ。だけどこのあたりのハイキングは虫とか蛇とかハードな気配がする。
朝食を食べた私が付近を探検してみれば、それこそ店構えも大きかったり小さかったり様々だ。
私は桃色のワンピースを着ていたが、父は黄色いシャツと灰色のズボンという休日スタイルで、まさに膨張色な二人でお出かけしてみた。
だけどどんな膨張色だろうが太って見えない人は太って見えないんだなと、父を見ていると実感する。
「凄いよ、パピー。ここってばイチゴ温泉があるんだって。どんな温泉なんだろう」
「さすがにイチゴ味だからそのお湯を飲めとか言い出しはしないと思うが、どんな温泉だろうな。だが、隣はオレンジ温泉があるそうだぞ」
「あっ、ホントだっ。うーむ。だけどここは奇をてらうより、泥温泉の方がいいかもしれない? 悩む」
宿泊できる入浴温泉施設もあるが、宿泊できない施設もある。日帰り入浴というものだ。
そういう入浴専門施設は、自分の所がどんな温泉をウリにしているのか、そして一回あたりの価格を看板で出している。
父と手を繋いで散策してみれば、安い温泉や高い温泉があって、何が違うのかが分からない。
「なんでこんなに料金、違うんだろう」
「付属するサービスが違うんじゃないか? たとえばその温泉も設備がいいとか、悪いとか。タオルを貸し出すとか、休憩用の部屋があるとか」
「そうなのかも。だけど高いからってサービスがいいとは限らない。そういう落とし穴もある」
「そうだな。ああ、フィル。あそこの青い看板の門があるだろう?」
「うん」
「あそこの門を入ったら受付があるが、バーレン達はあそこの中のコテージに泊まっている」
「そうなんだ。うわぁ、広そう」
そういうことならと、門からちょっと中を覗いてみたが、まず大きな建物があって、その奥に広い敷地が広がっていそうな感じだった。大きな木々も植えられているようだ。
「まだ朝だしね。私が姉様に会うのはお昼過ぎなのです」
「そうだな。買い物に連れ出してあげればいい。気晴らしになるだろう」
私はできる女だ。二人きりでいちゃいちゃ過ごしていたであろう夫婦を朝から邪魔したりしないのである。
「ねえ、パピー。そういえばいつもはお酒作れって言い出すのに、昨日はみんな来なかったね。それにナイター設備があるのかな。フィル、夢うつつにボールを当てるような音、聞いた気がする」
「あそこはバーもあるからな。本職が作ってくれるからそっちですませたんだろう。ナイター設備があるかどうかは知らないが、多目的に使えるグラウンドはある筈だよ。体力が有り余ってる奴らだから、ひと暴れしに行ってたかもしれないね」
「そうかも」
「夜にグラウンドで遊ぶなら、この辺りは虫もいるから虫よけをちゃんと塗っていきなさい。うちは殺虫灯も設置してあるが、この辺りはそうと限らないし、何より虫が沢山だ」
「やっぱりやめとく」
小さな個人商店が並ぶ通りとかを歩いて、私は帰りに買っていきたい小物をチェックした。
色々な物が売られていて、店先に置かれていた何に使うのか分からない物に首を傾げる。
「これ、何に使うんだろう。ハンモックみたいな椅子? だけどすぐ壊れそう」
ちょうど品出しをしていた女性店員が笑って教えてくれた。
「それは温泉で溺れないようにする為のものですよ、お嬢さん。温泉に浸かっていたくても、深いところとかでずっと立っているのは辛いでしょう。だからこういうものを使って、お湯の中で座って浸かるんですよ。人間の体はお湯の中で浮きやすいから、あまり頑丈に作る必要もないんです」
「そうなんですね。深い温泉なら、泳いだりしないのかな」
「ほほほ。お嬢さんなら泳いじゃうでしょうけどねぇ」
この町の見どころがあるのか尋ねたら、近くに動物や植物を育てている施設があると教えてくれた。
「ここは地熱もありますからね。南国の植物や動物を育てて販売もしているんです」
「そうなんですか。ありがとうございます」
お礼代わりにそのお店でフォムルクッキーというのを買った。
近くにあるゴバイ湖の塩を振りかけてあるので、あまじょっぱいクッキーだそうだ。
「むむっ。なんという面白いお菓子でしょう。これは帰りにも買って行かねば」
「今、買っておかないのかい?」
「どうせなら新鮮なクッキーがいいから、これはここにいる間に食べて、帰る直前にまた買いに来るの」
「そうか」
はい、嘘です。
だって食べてみて美味しくなかったら、あげるのも悪いよね? まずは自分で食べてみて、美味しかったらみんなにお土産で買っていくのさ。
お店から離れた後でそれを教えてあげたら、父はくすっと笑った。
「本当にフィルがいたら我が家は安泰だな。私みたいにルードをお飾りにしておいてフィルが実権を握るといい」
「パピー、本当はお飾りじゃない。フィル、そんな気がする」
ウェスギニー子爵である父は子爵としての仕事を父と弟に任せきりだと専らの噂らしいけど、その気になれば父は子爵の仕事も完璧にできる人だと思う。
人を使うのが上手なだけだ。
(ゴバイ湖で私に対してなんかチェックするような目を向けてたメイドさん達、いつの間にか礼儀正しくなってたもんなぁ。最初はフォリ先生に対して阿ってたのに、最後にはパピーにびびってた)
たしかに軍の地位が高いというのもあるだろうけど、それだけだろうか。
考えても分からないから考えないけど。だってどんなにフランクでも父はウェスギニー子爵家の当主。生まれた時から使用人に囲まれて育った人だ。
「いいんだ。私はフィルの父親でいられるならそれで十分だよ」
「フィル、パピーがパピーなの、世界で一番幸せなの」
そうして私は、父と一緒にその南国の植物や動物を育てて販売しているという場所に行ってみた。
温室はとても気温が高く、栽培にはかなり力を入れているそうだ。販売エリアには沢山の果物の甘い香りが充満していた。
「うわあ、マンゴーとかパイナップルとかがある。んー、甘い香りっ」
「そうだな。戻ってから切ってもらうか」
早めに収穫されたわけじゃなく、完全に熟してから収穫される果物なのでとても甘いらしい。それ、見ただけで分かる。
「うんっ。アイスクリームと合わせてフルーツパフェ作ってもらったら美味しそう。あっ、ココナッツもあるっ。バナナもすっごぉい。こんなに大きな房っ」
私が両手で抱えなくてはならないぐらいに大きなバナナの房は、どうやって持って帰ればいいのか分からない。と思ったら、ちゃんとばら売りもされていた。
「じゃあ、それ一房買っていこうか」
「だってこれ、何十本もついてるよっ?」
「別にあいつらだって食べるだろう、それぐらい」
父の買い物の仕方が凄い。ホテルまで四輪カートの貸し出しをしているらしく、大量の買い物にも対応しているそうだ。
観光客はバラ売りを買うことが多く、カートを使うのは温泉施設にある厨房らしいけど。
「メロンも何種類もあるんだよっ。どれにしようっ」
「全部買っていって皆で分ければいいだろう。あいつらなんて一人で一個食べかねない」
「う。それもそうかも」
父は私が欲しいと言う以上に買ってくれた。沢山の果物をホイホイと四輪カートに積んでくれる。
自分の分だけでいいかなと思ったけれど、やっぱりみんなにも食べさせてあげなきゃ可哀想だ。それならってついついおねだりしてしまった。
「フィル、奥に南国の動物園があるそうだよ。ほら、看板が出ている」
「え、どこど・・・・・・、パ、パピー、・・・フィル、動物園は行かない」
「そうなのかい? これならペットにしてもうるさくないよ」
「パピー、そういう問題じゃない」
南国の果物は喜んで買ったけれど、・・・ヘビとかトカゲとか売ってるなんて思わなかったよっ。まだ熱帯魚はいいけどっ、ワニとかって怖いよっ。
「いいですか、パピー。特殊なペットは家族全員の了解を得ないと買ってはいけないものなのです。もらってきてもいけません」
「そうだね。うちにはもう可愛いウサギさんがいるから必要ないな。さ、私のウサギさん。ココナッツウォーターはどうだい?」
「飲む」
その場で穴を開けてもらって飲んだけど、まあ、気分だけトロピカル? ドラゴンフルーツもカラフルな色どりにいいかもしれないと思って買ってもらった。
「そこまで甘くないのにドラゴンフルーツ買うのかい?」
「色が綺麗。それに色々な味があった方が楽しい、フィルはそう思う」
「ああ。フィルはセンスあるからね」
「うふっ」
そうして私は一度、泊まっているホテルに戻った。
おやつの時間になったら食べたいからと、果物を冷やしてもらって、そして生クリームとアイスクリームをつけてほしいとお願いしたら、快く了解してくれた。
「それならカスタードプディングもつけますよ。期待しててください」
「うわぁ、ありがとうございます」
いい人だ。ここのホテルの料理人さんはいい人だ。他の人達も食べさせてあげたいって言ったら、どれも食べごろを選んできているから完璧だって褒めてくれた。
私の人生史上における一番豪華なフルーツパラダイスと出会える気がする。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
お昼ご飯の時間になっても、フォリ中尉やネトシル少尉はいなかった。
朝からまたもやスチームサウナを楽しんでいたらしいオーバリ中尉に言わせると、
「適当な所で食べてんじゃないっすか。ここの温泉もあれこれ試してたらめっちゃ疲れますよ」
だそうだ。
そうかもしれない。
他の男子寮監達は何人か見かけたから、それぞれに好きなことをしているのだろう。散策中もあちこちでハイキングコースの看板を見かけたし、温泉だけじゃないフォムルだ。
「明日はあのハイキングコース行ってみたいなぁ。初心者コースの奴」
「何なら今日行ってもいいんだぞ?」
ランチはメニューの中から好きな物を選んだけれど、茹でてから炒めた麺を選んだ私のはちょっとスパイシーだった。野菜がたっぷりで消化によさそう。
「ううん。今日はスペシャルおやつを作ってもらう約束したから。あ、そうだ。あのね、パピー。フィル、ティナ姉様の所、行ってくる。おやつの時間になったら帰ってくるの」
アリアティナもカスタードプディングとホイップした生クリーム、そしてアイスクリームと沢山のフルーツを使ったデザートを出されたらとっても喜んじゃうよ。これはもう誘いに行くしかないでしょう。
泊まってる場所は分かっているから一人で出かけると言うと、父は眉根を寄せた。
「一人で大丈夫かい?」
「へーきっ。だってあんなに近いんだよ。それにパピーまで行ったら、もしティナ姉様、お化粧してなかったら恥ずかしがると思うの」
「そうか」
うちの父、化粧してない顔を見せるわけにいかない女心を分かってない人だ。だから私ははっきりきっぱりと理由を伝える。そうすれば理解してくれるからだ。
食べ終わっても帰ってこないフォリ中尉とネトシル少尉達。やっぱり各種温泉を試しに行ったんじゃなくてハイキングコースにトライしに行ったのかもしれない。
初級・中級・上級・特級があるそうだ。特級って何?
「特級はそれなりの登山経験がある人しかやらない方がいいらしいっすよ。なんでも一般人立ち入り禁止ってありましたね」
「・・・それ、観光地にあっちゃいけない奴では」
私は深く考えないことにした。大体、三階から一階まで降りてくるのに階段を使わず、ベランダから飛び降りてくるような人達だもん。心配するだけ損、損。
この桃色のワンピースは、バーレンの妻であるアリアティナと色違いのお揃いなのだ。たしか彼女は青色だったと思う。
わざわざあのワンピースをここまで持ってきているとは思えないけれど、せっかく訪ねていくんだもん。お揃いのワンピースを着ていった方が、気持ちって伝わるような気がする。
(思えば旦那さんをあれだけ借りてたわけだしなぁ。夫婦仲に亀裂が入ってなければいいんだけど)
そう思っててくてくと歩いていたら、路地から誰かが出てくる服の端が見える。
ぶつからないようにと、少し避けた私の前に手と何か布みたいなのが見えたと思ったら、・・・私の意識は途切れた。
あ、これ、誘拐される奴だ。
そう気づくのって誘拐された後なんだよね。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
気持ちがいい。やっぱりベッドはあまり柔らかすぎるのはどうかなって思う。
かといって反発力が大きすぎるのも駄目なわけで寝具とは悩ましいものだ。
気分は悪くなかった。誰かが私の頬を撫でている。アレンルードならもっと指は小さい。
「パピー?」
【うん? もしかして気持ち悪い?】
【気持ち悪くはないけど・・・、なんか、幸せ】
【ちょっと幻覚が出るからね。幸せな夢だといいんだけど】
【幸せ? うん、幸せだよ】
目を開けたけれど、前が見えない。
朝じゃないから? だけど眠くない。多分眠くない。だから朝だと思う。
【暗いよ。どうして? 停電?】
【暗いのは目を開けてないからじゃないかな?】
【目なら開けてるもん。だけど真っ暗なんだよ】
分かってない。私はちゃんと目を開けてる。だけど暗くて何も見えない。
【目を開けたつもりだからだね。それならまだ寝てていいよ】
【うん。寝る。だけど沢山寝たのに】
【そうなの? どれだけ寝たの?】
【分かんない】
優しい指先がそっと私の前髪を掻き上げていった。
悲しい夢が終わろうとしている。だけど幸せだったの。
そして私の意識も暗闇の中に落ちていって、目覚めたらそこは知らないベッドの上だった。
― ◇ – ★ – ◇ ―
これでも私は貴族のお嬢様。誘拐されそうになった時の為に、いつだって服には笛を取りつけて、・・・ああっ、あれは全部制服につけてたっ。
仕方ない。ないものはないのだ。それで、ここはどこなのだ。
桃色のワンピースを着た状態で寝かされていた私は、特に拘束もされていなかった。見たことのない室内だった。知らないベッドだった。
そこへ、開いていた扉から金髪の男性が入ってくる。
【ああ、起きたんだ? 気分はどう? はい、どうぞ。レモンシロップを垂らしたお水】
あなたは帰国したのではなかったのか。舞い戻ってくるには早すぎないか。
どんな超特急高速船なら往復できたというのだ。
ああ、やっぱりこの子だけは信用しちゃいけなかった。このまま闇から闇へと私は消えていくのだろうか。最低すぎる。
【誘拐犯の差し出す物を飲む人間がいると思う?】
【言っておくけど、ひどいことをしたのは君だろう? それにこれは何も入れてないよ。何かをしたいなら君が寝ている間に十分な時間があった。私が求めているのは君との会話だ】
それもそうだ。
私は差し出されたコップを受け取って一口飲む。けっこう美味しい。どうやら私は咽喉が渇いていたようで、次の瞬間にはこくこくと全部飲んでしまった。
爽やかなレモンの香りが口内を清めていく。うん、満足だ。
【ごちそうさまでした】
ベッドの横にあった小机の上にコップを置いてお礼を言ってみる。
なんだかとても呆れられたような気がした。
【警戒心がありそうでない子だね】
【近いです。離れてください】
【近い距離って親近感が増すと思わないか?】
彼は私が寝ていたベッドに腰かけてくるのだが、この距離感は何なのか。まさか産業スパイの女性にはいつもこんな感じの距離感だったのか。
色々と物申したい。
彼の手首には幅広の金属が鈍い輝きを放っていた。
【誘拐犯との親近感を増すことなど望んでいないのですが、ところでここはどこでしょう】
【僕も地名はよく分からないんだよね。ほら、外国人だから】
人を誘拐しておいて、罪悪感を全く見せない男がそこにいる。窓の向こうに広がる景色を見たところ、密集した屋根といい、どうやら街っぽい。
確実にフォムルの町ではなかった。だって山がない。
【ロッキーさん。何故、私は誘拐されてしまったのでしょう?】
【君が裏切ったからだね】
世も末だ。誘拐犯が被害者にその罪を背負わせてくる。
【裏切るも何も、何かを約束した覚えもなく、それでいて裏切りなど不可能。意味が分からないと、全世界の人が私に同意する。それに言いたいことがあったら、まずは誘拐せずに普通に声をかけて会話をする。それが人間関係の基本】
なんて駄目な大人になったのだ。私はとても頭が痛いよ。
淡い金髪に薄い緑の瞳をした顔は、私の記憶にあるものよりも年月を感じさせる。最後に会ったのは、この子が何才の時だっただろう。
そんな感傷を吐息に紛らわせて、私は軽く首を横に振った。
【まずは私の無事を知らせないと、皆が心配します。だけど手っ取り早く聞きましょう。私の裏切りとは何ですか? 誤解は早めに解くべきです】
裏切りっていきなり何なのだ。サンリラで一緒にご飯を食べたらそれで別れて終わりだったよね?
まさか夢の中の私にひどいことされたとか、訳の分からんドリームを語る気ではないと信じたい。
なんか昔そういうのがいたよ。一緒に未来を約束したのに、愛を誓ったじゃないか、君が僕を選んだのにと妄想を語る人。
【あのね、アレナフィル。私はこれでも君に優しくしたつもりだよ?】
【いきなりの呼び捨てっ。大体、誘拐しておいて優しくしたつもりって、そもそも誘拐は犯罪ですよっ!?】
どうしよう。いつの間にか理解できない少年が、更に理解できない男に変化していた。
ああ、どうすればいいの。どうやってこんな子を更生させればいいの。
成人した男を少年時代から矯正する方法って本を探さなくては。
【そっちじゃない。だってアレナフィル。君、お母さんがうちの姉と友達だったって嘘でしょう? だけど私はあえてその嘘に乗ってあげたんだよ。あんな手紙の方を渡してまで話を合わせてね。それなのにひどくない?】
【う、嘘なんて・・・】
やっぱりそうか。あんな手紙って、やっぱりこちらの嘘は見破られていたか。
だけど愛華がどんな友人を作っていたかなんて、この子が断じることができるとも思えない。
何が理由で嘘だとばれたのだろう。
【嘘だよね。大体、日記にそこまで書いていた君の母親とやら、アイカをなんて呼んでいたのさ】
【そ、それは勿論、ロッキーと・・・】
どうしてそこでぐいぐいと来るのだ。私はまだ14才の少女だ。外国人の変な男に一方的に責められるなんて、普通なら悲鳴をあげて泣いちゃうよ。
いい年した大人が、少女を脅かすなんて恥ずかしいと思わないのか。
【そうだね。なら、君はまず指摘するべきだった。私がロッキーと呼んでくれと言った時に】
【そ、それは、だって、苗字だから弟だって同じ呼ばれ方してるのかなって・・・】
思い出すがいい。お前は融・轟と名乗ったのだ。それなら愛称がロッキーでも全く無理はない。
ここに矛盾は無い筈だ。それなのにどうしてここまで私を追い詰める気満々なのだ。
(矛盾はなかった。無理があろうとどこにも矛盾はなかった。その筈、多分)
呆れたような表情で、ふぅっと吐いた息が私の鼻先を掠めていった。
なんか馬鹿にされてる気がしてならない。両方のほっぺたネジネジしちゃうぞ、オラ。
【ねえ、アレナフィル。君のお母さんは、あの家に泊まることができる程に親しい友達だった。それなら知ってる筈だ。アイカに弟などいないことを。あの家に弟の部屋なんてない。おかしいってすぐ分かるよね? だけど君は言わなかった。どうして私のおかしい点を何も言わなかったのか。それは君自身が嘘をついていたから私の嘘も指摘できなかった。そうだね?】
駄目だ。もう彼は確信しているのだ。
私が何を言おうと、その言い逃れに惑わされるつもりがない。
何が理由で私の嘘がばれたのか。
まさか過去の入出国記録を全て洗い出した? だけどこの子がその手段を私に語ることはないだろう。
【おかしいと思っていたなら、受け入れなければいいだけです。私だって歓迎されていない所に行こうとは思いません。
不快にさせたなら謝ります。だけど母だってもう亡くなっていて、私には日記だけが頼りだったんです。日記なんて全てを書き留めるものでもありません。それでいてあなたの思いこみをもって裏切りとか言われても、意味分かりません】
強気に出てはみたが、さて、ここからどうやって逃げるべきだろう。
強引に逃げようとしたら何をされるか分からない。それこそ玄関のドアノブに何か仕掛けをしていたとしても私は驚かない。
すると口調を変えて、淡い緑の瞳が私の顔を覗きこんでくる。
【ねえ。あの君と同じ髪と瞳をしていたのが父親? とても仲良さそうだったね。私だって考えたんだよ。君はあの父親の歓心を得たくて、うちに仕掛けてきたのかなって】
【まさか。父は何も知りません。大体、歓心を得るも何も、うちの父は子供に対して何かを要求したりしないのに】
【ふぅん。そうなんだ? だけどさあ、おかしいよね? 君が手料理を振るまってくれた時、私の職業を聞いたけれど、次の日にはいきなりうちの会社に対して資料があるならもらいたいとか、話を聞きたいとか、商談がひっきりなしで、君との時間など全くとれない有り様になった。トールなんて、もう泣きが入ってたよ】
あれ? もしかして私にまた会いに来るつもりだったの? そして、次の日から商談がひっきりなしって・・・。
うん、さすがは国王の甥だけはある。犯人はフォリ中尉だな。
(やっぱり心配かけちゃったからだよね。従弟可愛さに寮監になっちゃう大公家ご令息だもん。従弟と仲良しな女子生徒の為に権力使っちゃうこともあるよね)
私の表情から、それは私のあずかり知らぬことだったと彼も察したらしい。少し表情が和らいだ。
お互いにちょっと気まずくなって、私は話をちょっと繋げてみる。
【あ、あのう、あなたの名前がトールでは?】
【違うよ。トドロキの名前が欲しかったから、親戚筋を当たって、その姓を持ってるのを探し出したんだ。そしたらそこの息子がトールって名前でね。ホント、むかついたけど本人の責任じゃないし、実際、技術はあったからそこは目をつぶったんだ。ただ、私が来ているとなったらさすがに面倒だから、こっちでは彼の名前を使ってたのさ】
なるほど。だからネトシル少尉言うところの「トール・トドロキは出国した」だったのか。
一人ではなく二人で来ていて、その一人を先に帰したと。
だけどもしこの子が私を殺していた場合、国際的に指名手配されるのはそのトール・トドロキだったのでは?
そして今、この子は全く名前を知られていない状態でこの国にいる。
【私を疑っていて、だけどどうして私とまた会いたかったんです? そして私の言葉を嘘だと思っていながら、私の言葉に合わせた手紙を渡した。・・・つまり、手紙は幾つか用意してあったんですね?】
【その通り。本当はね、身の程知らずにもうちに仕掛けてきた奴がどんなものかと思っていた】
やっぱりと思った。
その身の程知らずな相手を確定させる為に彼は乗りこんできたのだ。だから、そんな物騒な物を持っている。他にも持っているだろう。
ならばどうして彼は私を殺さなかったのか。誘拐するよりも殺した方が早いって、知らないわけじゃなかったのに。
その答えを、私は知っているような気がした。
【だけど君の料理が懐かしかったから、いいかと思った。それなら騙されてあげてもいいかと思ったんだ。たとえ君がうちに入りこむ手段としてあんな嘘をついたのだとしても】
この子は分かっているのだろうか。自分が言っている意味を。
届かない愛の告白を、もう受け取る人はいないのに。私は既に死んでいるのに。
紛い物でも許せる程に求めていると告げる心が悲しかった。
(だから会いたくなかった。幸せに生きてくれているならそれでよかったのに)
父よりも細い指先が私の頬を滑っていく。
【どうして泣くの?】
【目の前にいる男が、バカすぎるから】
ふっと笑う気配がぼやけた視界の向こうにあっても、私にはその表情が見えなかった。溢れ出る心が熱くて、目の前が歪むばかりだ。
どうしてこの子は幸せになれないのだろう。何を用意してあげてもこの子は私を追い求めてしまう。
どうやったら世界に目を向けてくれるんだろう。世の中にはきっとこんな子でも受け入れてくれる素敵な女性だっている筈なのに。
【そんな表情も懐かしいよ。あの人はもっと美人だったけれど。私に仕掛けてくるなら、いい人選だった。そこは褒めておこう】
【私は・・・っ】
誰が演技してると!?
かっとなった私の唇に、人差し指がそっと当てられる。
【だけどどうやら君の周りには色々な思惑の人が絡みすぎているようだ。誰の入れ知恵でうちに仕掛けてきたのか知らないけれど、君をうちと関わらせまいとする人も動いているようだね。子供のくせに、君はとてもアンバランスだ。今だって、子供らしからぬ泣き方をする】
子供だったのは私じゃない。
だけど悲しかった。そんな風にしか考えられない彼の状況が。
たかが14才の少女をそういう駒だと確信しながら、それでも垣間見える懐かしさにその手を緩めている。そこにあるのは人間らしい優しさでも思いやりでもなく、ただ失われたものへの執着だ。
この世界で私以上にかつての彼の姉を思い起こさせる存在などいないだろう。
【あれだけの男に囲まれていながら、君はずっと私を見ていた。もしかして本当に年上の男にしか興味がないのかな。私に一目惚れした?】
【・・・あり得ない】
私の理想はお前とは真逆のタイプだ。なんという図々しいことを言うかな、この子は。
じとっとした私の眼差しに、ふむと彼は小首を傾げた。
小首を傾げて考えるからちょっと可愛い。あまり見たことない表情だった。
【それならどうして君は私をそんな切なさそうな目で見るんだろう。触れたら泣きだしそうで、ずっと触れられなかった。結局、こうして連れてきたら泣かせてしまったけれど】
少しにじり寄るようにしてくるから、ベッドのコイルがキィッ、キュッと小さな音を立てる。
腕を伸ばしてくる彼の動きに、もしかして抱きしめられるのかなと思った。
(そっか。優斗も怖いんだ。私が分からないから)
分かってる。この子だって私を産業スパイの駒としか思えない状況なんだと。どこか不明な敵対組織の人間だと断じながらも、私達の間を流れる何かが懐かしくて彼は躊躇わずにいられない。
この子が私に懐かしさを感じていることに私は気づいてる。そして私のこの子に向けるこの未練を彼も感じている。
気づいてしまう。分かってしまう。だって私達は同じ家で暮らしていたのだから。添い寝してあげながら、色々な話を聞かせてあげた。この子は私といる時間が好きだった。
それなのに信じられないであろうこの現実を、私はこの子に言えない。
信じてもらえたらかつての姉を取り戻す為の拉致監禁、信じてもらえなかったら黒幕を探す為の自白剤漬け目的な拉致監禁。最悪だ。
【どんな理由があっても、誘拐はだめです。騙されてもいいぐらいに私に惚れたとしても、未成年相手に恋だの愛だのは大人として恥ずかしいことです。そこまで言うのならばファレンディア国へ遊びに行ってあげてもいいですから、私を帰してください】
【・・・本当に、君って子は】
泣きそうな顔で笑うそれはとても懐かしい表情で、心が締めつけられる。
ぎゅっと抱きしめられたけれど、私は避けなかった。
だってずっとそうだったから。私を見ると笑顔になって抱きついてくる彼を、いつだって私は抱きしめてあげていた。
〖ユウト・・・〗
声にできず、ただ吐息に載せただけの名前を彼の耳は捉えてしまったのか。
全く知らない大人の姿で私を強く抱きしめてくる彼の背中に手を伸ばそうとして・・・・・・。
――― ドガッシャーンッ、バリンッ、ガシャンッ。
凄まじい物音と共に、いきなりその部屋の窓が大破した。




