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20 会いたくなくて


 コーヒーの香りで、目が覚めた。

 どこだろうと思ったら、ここはサンリラのアパートメントだ。私は服のままベッドに寝かされていたらしい。光量を落とした室内で、父が使っていたベッドに何人かが座っていた。


「目が覚めたかい、アレナフィルちゃん。無理に起き上がらなくていい。初めてのバイトで頑張りすぎちゃったみたいだね」

「リオンお兄さん。・・・後ろに死体があります」

「ああ。それはクラセン殿だ。彼も疲れたとか言って、君についている筈が俺に任せて寝てしまってね」


 父のベッドに腰かけていたネトシル少尉だが、ずっと私についていてくれたようだ。だけどバーレン。なんでお前はそこで遠慮なく寝ているのだ。ここは私の手を握って、心配してたよって微笑むシーンじゃないのか。

 どうやらコーヒーを運んできたらしいオーバリ中尉が、カップが載ったトレイを小机に置いてから私の額に手を置く。


「やっぱり発熱はしてねえか。お医者さんも、張りきりすぎて疲れたんだろうって言ってたってよ。アレナフィルお嬢さん、どうする? ボスに連絡取るんなら取れるが」

「あ、大丈夫です。なんか気が抜けたら、・・・あれ? 私、どうやって帰ってきたんでしょう」

「流し営業のタクシーで戻ってきたんだ。クラセンさんに呼ばれていったら、くかくか寝てるだけって・・・。ボスがいなくなって寂しいならちゃんと寂しいって言えよ、お嬢さん。ボスだってお嬢さんが何も言わねえからそんままにしてっけど、まだ子供なんだ。父親と一緒にいたいんだって言えばどうにでもするぜ。あの人、そん気になりゃあどうにでもできんだからよ」

「・・・ありがとうございます、ヴェインお兄さん。だけどホントに、・・・初めてのバイトで気が張ってたみたいです」


 そんな会話をしていたら、バーレンもこれらの会話で目覚めたらしく起き上がった。


「ふわぁあ、・・・おお、大丈夫か、フィルちゃん? 頭は打ってなかったし、単なる疲労だろうって言われたが」

「あ、・・・うん。なんか頑張りすぎた・・・かも?」

「そっか。じゃ、夕飯はどうすっかな。ディナーボックス買ってこようかって言ってくれてたんだが、食べにいくかい? いや、疲れてんなら買ってきてもらった方がいいか。俺も子供の体力を考えてなかったな、悪い」


 バーレンがベッドから降りて私のベッドの横に立つ。そして私の頭を撫でてくれるけれど。

 どうしよう。彼が来てしまった。


「レン兄様・・・」

「ん? どうした? 何だ、泣きそうな顔して、体が辛いのか? ん? まあ、かなり書類も扱ってたもんな」


 優しく語りかけてくれるバーレン。いい人だ。私の為にいつだって協力してくれる。ずっと彼は私の味方だった。

 そんな彼を命の危険にさらしてしまうのはあまりにも申し訳なさすぎる。

 ああ、だけど大丈夫。あの住所を訪ねて行っても、今のクラセン家は無人だ。


「仕方がない。私と駆け落ちしましょう」

「・・・は?」

「それしかないっ。ここは私と駆け落ちして、誰も知らない所へ行くのですっ」

「はああっ!? 俺には可愛い妻がもういるんだぞっ。なんでお前なんぞと駆け落ちしなきゃならねえんだっ」


 逃げようとする彼の腰に、私はぎゅっと抱きついた。

 行かせるわけにはいかない。会わせるわけにはいかないのだ。


「大丈夫っ。ティナ姉様も一緒に連れて行きましょうっ。そして三人でひっそりと幸せに暮らすのですっ」

「そんなのを駆け落ちとは言わんわっ」

「だって、レン兄様をおうちに帰すわけにはいかないのぉーっ」

「まだ帰らねえだろっ」


 私の頭を両手で押さえつけて引きはがそうとしてくるバーレンが全然分かってくれない。

 ぎゅっとバーレンにしがみついている私の腰を、ひょいっとネトシル少尉が掴んで抱き上げた。実はこの人達、父や叔父と一緒で私の胴体ぐらい片手で持ち運べたりする。

 それでも優しいネトシル少尉は両手で大切そうに抱き上げてくれるところが分かってると言えるだろう。


「よく分からんが、まだ寝ぼけてるのかもな。ほら、アレナフィルちゃん。駆け落ちしなくても旅行ならどこにでも連れてってあげるさ。何より駆け落ちというのは結婚したい相手とするものだよ。クラセン殿と結婚したいのかい?」

「それはないけど。レン兄様、いい人だけど結婚したら最悪」

「おい、こら待てや、クソガキ。俺のアリアティナが最悪な環境にあるとでも言うのか、オラ」

「レン兄様、胸に手を当てて考えるべき。姉様は、レン兄様の卑怯な罠に落ちた哀れな犠牲の乙女っ」


 今はオーバリ中尉、そしてネトシル少尉がいる。頬をびよーんとされることはないと考えた私は、びしっとバーレンを糾弾した。


「いい根性だ。フェリルにはちゃんと、お前が一人で酒をかっくらっていた結果がアレだと言っておいてやる」

「レン兄様、やっぱり世界で一番素敵な人。姉様、きっと幸せ。だってレン兄様と結婚できたんだもの。今頃はレン兄様の為、体の隅々まで綺麗にお手入れしている最中だと思うの。好きな人の前では一番綺麗な自分でいたいのが女だもの」

「けっ。最初から素直にそう言っとけばいいんだよ」


 偉そうな態度だな、バーレン。貴様は謙虚さというものを学ぶべきだ。

 いじめられてしまった私に、ネトシル少尉が憐れむような眼差しになった。


「なんだ、びっくりしたよ。そんなの駆け落ちと言わないよ、アレナフィルちゃん」

「男と女の逃避行は駆け落ちと一般的に言うのでは?」

「何から逃げるんだい?」


 ここで過去からの逃走と言ったらどうなるんだろう。大人になってから言いやがれと、オーバリ中尉が言いそう。

 だけど本気で危機だ。あの子は私のことに関しては容赦しないし、思い切りがいい。いつの間にか排除されていた人間関係がそれを物語っている。

 同じ排除でも、かつてアレンルードや私のことを陰口叩いていたメイド達を解雇し続けた父のやり方はまだ雇用者だから当然だと言えるし、おとなしいものだ。

だけどあの子は違う。雇用関係に無い人間関係を気にせず切り捨てる。どうやったのかは分からないところが恐ろしい。ましてや今はあの子が気兼ねしなくちゃいけない存在が皆無な外国だ。


「夜空の星が私に(ささや)くのです。きっとこのままだと不幸になるよって。天からのお告げが私にあったのです」

「あまり真面目に取り合うもんじゃないっすよ、ネトシル少尉。要はアレナフィルお嬢さん、寝ぼけてただけっしょ。子供だから」


 ひどすぎる。それが上司の娘に対して言うセリフなのか、オーバリ中尉。

 だけど今は有り難いのかもしれない。まずは考える時間が必要だ。

 



― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 ディナーボックスを寮監先生達が買ってきてくれたので、私はズッキーニとキュウリを使って冷たいポタージュスープを作り、人参とトマトのゼリーを散らして出した。

 どうして人間って追い詰められると全く違うことをやらかして現実逃避しちゃうのかな。


「あの短時間でよくできたな」

「ゼラチンの量を多くして、容器には浅く広く広げてしまって、あとは氷水で冷やせばすぐ固まるんですよね。やっぱり圧力鍋って便利です。本当はコトコト煮た方が美味しくできるんだけど、こういう時は手抜きするのが長続きのコツですね」


 フォリ中尉は感心してくれたけれど、買ってきてくれたディナーボックスはどう見ても高そうだった。普通、せいぜい二品程度のおかずで売られていると思うんだけど、なんだか配達ディナーのような・・・。

 まあ、いいか。お金あるんだろうし。


「大丈夫ですか、アレルちゃん。勤労はいいことですが、子供が無理に働くのはどうかと思いますよ」

「えっと大丈夫です、先生。いいところを見せようと頑張りすぎちゃったみたいで・・・。えへ、だけどお仕事、面白かったです」


 濃い紫(パンジー)の髪に、赤い瞳をしたメラノ少尉が、

「そうですか。だけどもう明日はやめておいたらどうですか」

と、心配そうに声を掛けてくれるけれど、仕事自体はあまり大変でもなかった。


「アレルちゃん、何でも血迷ってクラセン殿に駆け落ちを迫ったそうですね。働きたくなくて、だからお嫁さんになれば働かなくてもいいと思ったのではありませんか? そういうことならいい結婚相手を紹介もできると思うのですよ。大丈夫。見栄えもいいですし、性格もいいですよ」


 柔らかな水色(ベビーブルー)の髪に、紺色の瞳をしたドルトリ中尉は、そんなことを言ってきたけれど、真に受ける程、私も愚かではない。

彼は何かというと男女交際を勧めてくるのだが、こんな奴が男子寮の寮監をしているとは世も末だ。

私の父や叔父をしのぐ男を見つけてから言ってこいな話である。


「あのぅ、先生。私、まだ子供だから結婚は考えていないのです」

「ならばどうして駆け落ちするんです?」

「女の子は、たまに遠くの知らない町を夢見てしまうことがあるんです。遠くに自分の幸せが待っているような、そんな気がして、風と共に去っていきたくなる・・・。少女の時代はとても儚くて傷つきやすい、触れたら壊れてしまうひとときの幻なのです」


 そっと瞼を伏せて、私は物憂げに語ってみた。まさに儚くも繊細なクリスタルドールのよう。


「儚い幻ですか。倒れたと聞いて、食欲があるのか心配していましたが、もりもり食べてましたよね、アレルちゃん」

「働くとお腹が空くんです。ここのお料理、とても美味しかったです」


 うん、食べたら元気も出た。

 初めてのバイトで張りきりすぎて倒れてしまった私を皆が心配してくれたが、私も落ち着いて考えれば攻撃されると決まったわけではない。

だってまだ時間はある。時間なら稼げる。だってクラセン家は無人で私はどこに住んでいるかも分からないのだから。

 とりあえずバーレンとうまく連携しなくては。

 さすがに今日は誰もお酒を飲むとは言わず、夕食の後はさっさといなくなった。


(そこんところは、結構いい人達なんだよね。上手に距離を取ってくれてる)


 オーバリ中尉がシャワーを浴びている間に、私はバーレンを誘って屋上に行くことにした。

 この建物の屋上は洗濯物を干すスペースだが、屋外用のベンチやテーブルも置かれている。

 星がとても綺麗に見える上、誰にも邪魔されないスポットだ。ランタンを持って涼みにくるととてもロマンチックなのだ。

 父と一緒に星を眺めた時は、

「こうしていると、世界に二人きりのようだね」

と、耳元で囁かれて本気でドキドキしてしまった。

 もう父以上にセクシーな男の人なんて存在しないと思う。いや、今はそういうことではない。

 まずはバーレンと話し合わなくてはならないのだ。




― ◇ – ★ – ◇ ―




 バーレンは身勝手な男だが、私とはいい関係を築いている。お互いのメリットが噛み合うからだ。

 これを悪友と呼ぶのかもしれないが、異性であっても友人になれるというとても稀有な成功例だろう。フィーリングが合うのは、お互いに恋愛感情を求めていないからだ。

 そしてフェリルドという男を親友もしくは親子として大切に思っているからこそ、私達は裏切らない関係だった。私達の間には父がいて、だけど父を飛び越えて手を取り合っている。

 だからなのか、屋上にある屋外用リクライニングチェアに体を預けることなく、バーレンは横座りに腰かけた状態で私をまっすぐ見据えた。


「で? お前さんがあんな書類程度で疲れるわけねえよな。あのファレンディア人か?」


 サルートス語とファレンディア語の様々な違いをあれこれと説明し、個人秘書のような仕事もこなしてみせた私を知っているバーレンだ。あの程度の書類仕事、私にとっては片手間だと知っている。


「うん。私、まだこれが現実って分かってなかったんだね。それが分かった気がする。本当はさ、手紙を出しても、そんな人はいなかったって言われるかもしれないって、これはまだ妄想なのかもしれないって、そんな気持ちもあったんだ」


 私はまだ覚悟が決まっていなかったのだろう。

 バーレンは私が倒れた原因について自分なりに推測していたようだ。


「誰だってそうだろ。現実を認識するのは、実感があってこそだ。記憶だけで実体験とできる能力を持つ者がいないとは言わん。だが、一般的ではない」


 父やバーレンで救われるのはこういう所だ。ちゃんと理詰めで裏打ちされた事実、もしくは現実的な手続きを含めた行動をはっきり伝えてくれる。だから感情だけで言っているわけじゃないと安心できる。

 感情だけの言葉なんて、その感情が変化したらそれまでだから。


「うん。・・・あのね、あの人、弟なの。まさか彼がわざわざあんな手紙でこっちに来るだなんて思わなかった。レンさん、彼、通訳の人、探してたでしょ? 恐らく貨物船の方が早く到着するってんで、それに乗ってきたんだと思う。あまり旅客船の行き来ってないもん。多分、通訳を雇ったらレンさんちに行く。恐らく私への手紙を書いたアレナフィルを探して」

「弟なんだろ? なんでそれがまずいんだ? 会えばいいじゃないか。名乗り合わなくても、お前さんにとっては懐かしい人だろうが」


 バーレンの言葉は、私達が普通の姉弟ならば当然のことだっただろう。

 どこまでも私の味方でいてくれるバーレンはいい人だ。

 自分の正体を告げてもそんな非現実的なことをかつての弟は信じてくれないだろうが、一方的に懐かしむことはできるのだと、私に促してくれている。せっかく弟と会えるチャンスなのだからと。

 いつだってバーレンは私の味方だった。異邦人の孤独を理解しようとしてくれていた。

 問題はあの弟の性格と思考と行動力だ。


「弟だけど、ちょっとおかしいんだよ。あのさ、私、結婚する気なかったって言ってたじゃない?」

「ああ。言ってたな」

「それってあの子が原因なんだよ。何とか離れて暮らしてはいたんだけど、お付き合いとか結婚とかしようものなら何をされるか分からなくて・・・。父に手紙が届くと思ってたのに、まさかあの子が受け取ったなんて。・・・もう、あの家のことは諦めるからいい。多分、疑ってるんだと思う。それこそ自分の所に仕掛けられたスパイだと思って探りにきたんだよ」


 あの子に愛されていたとは思う。だけどあの子は、自分から私を奪うものを憎む子でもあった。

 私の正体を知らないあの子にとって、わざわざサルートス国から手紙を寄越した女の子は彼の中にある姉の存在にひっかき傷を与えた敵なのかもしれない。

 私が亡くなった後のあの子がどう生きてきたかなんて分からないけど、海外にまでやってくるかと言いたい。


「なあ。お前さんち、一体何をやってたんだ?」


 バーレンが頭痛を堪えるかのような声で尋ねてきた。

 ランタンの影が暗くて表情はよく分からないけれど、弟を見た姉が気を失うってどういうことなんだと、そう思っているのが分かる。

 感動のあまりに倒れたならまだ理解できただろう。

だけど弟がやってきたらびびって気絶し、目覚めたと思ったら逃走計画。ちょっとおかしくないかって、そりゃ不思議に思うよね。分かるよ、分かるんだけど。


「だから小さな建物でも色々な技術があるって言ったじゃない。私はそーゆーの、あまりタッチしてなかったからよく知らないけど、あの子が出てきたってことは、姉の名前を使って入りこむ手段だと思ったんじゃないかって思うの。もう、見つかっても日記は既に汚して捨てちゃったし、旅行に行く気もないって言おう。見つかったらそう言って終わらせよう? だって、そうじゃないと何するか分かんない」


 機密情報は時に暴力的な手段で守られる。私はそれを知っていた。

 ファレンディア国は軍事に力を入れている国だ。侵略戦争は仕掛けないけど牙を持たないわけじゃない。

 そんな国で生まれ育ち、機密保持の手段を様々に持っているであろうかつての弟は、今の私にとってあまりにも厄介な存在だった。

だって私はあの子を傷つけたくない。防戦一方だなんていずれ負けると分かっている。彼を傷つけたくないのなら逃げるしかない。


「お前さんの弟、実はかなりヤバイ奴なのか?」

「私に理解できない程度には変。今、レンさんちに行っても無人だし、それでどうにかなると思うんだけど、普通、手紙をもらったら手紙を返すよねっ? わざわざあんな手紙に、海を越えて乗りこんでこないよねっ? おかしいんだよ、ホント」

「まあ、たしかにあの手紙でわざわざ外国まで行こうと思う奴はいないわな。だがなあ、うちに来られてしまったら、まさかお宅を紹介しないわけにはいかんぞ? 先に手紙を書いたのはお前さんだ」

「その時は諦めて紹介してくれていいよ。だけど名乗り合う気はないし、そこはもう話を合わせてよ。お願い。うまく帰国してもらおう。父はいいけど、あの子は駄目。今の私ならあの子の趣味じゃないからいいかもしれないけど、どっちにしても駄目」


 バーレンが何とも言えない顔で黙りこんだ。

 しばらく考えていたようだが、これだけは聞かなくてはと思ったのか、私をまっすぐ見つめてくる。


「あの男の趣味ってのは何なんだ?」

「茄子のような黒に近い青紫の髪、そしてバラ色の瞳をした姉に、子供の頃から『大きくなったら結婚して』を言い続け、姉の学生時代の全ての男女交際を破壊し、父親と母親に金銭的なメリットを姉が提示することで何とか弟を引き剝がすことができたという過去を持つ少年が成人したのがあの姿ってことだよ。今の私は全く違う容姿だからいいよ? だけど、執着していた姉の思い出を汚されたとか思ったら、何をするか分かんない」


 自分で言うのもアレだが、かつての私はとてもナイスバディな美女だった。そりゃ思春期を迎えた弟だって惑わされるだろう。

 今の父と暮らし始め、私は家族があまりにも魅力的すぎると普通の恋ができなくなることを実感した。

だけど父がもしも再婚を考えるようなお付き合いを誰かと始めても、ベッドの中で泣くことはあっても私はそれを邪魔したりはしないだろう。こっそり泣いても受け入れる。それは家族だからだ。

 思えばあの子は、そのあたりのシスコンを隠しもしない子だった。あの頃は私自身がその暴走を止めていたけれど、今は止める存在がいない。だって私は死んでいる。


「後学の為に聞こう。何をやったんだ?」

「分かんない。それでもあの頃は姉に嫌われることだけは、目の前ではやらなかったから、まだどうにかなったけど、今はもうその姉はいないんだよ。何やるか分かんないし、何を考えてるかも分かんない。だって見たことないんだもん。だけど全ての人間関係は壊されたかな。可愛らしい弟を装って、だけど食いついたら離れないんだよ」


 一番ダメなのは、それでもそんな弟を愛していた私かもしれない。

 ふぅっと、バーレンは大きな溜め息をついた。


「オッケー。分かった。ならばあくまでフィルちゃんは将来の可愛い夢として母が昔訪れた外国に行ってみたいと思っていただけで、別にその家族が不快に思うならば取り下げる程度の淡い夢だった。でもって、まさか手紙を受け取った家族がわざわざやってくるとは思わなかったから、面会など言われようものならびびってしまって会えない。そういうことにしよう。・・・ま、そういうことならここにいてよかったってことだ。いくら何でも長期休暇が終わるまで滞在はしないだろう」


 通訳が必要な国で長く滞在するとも思えない。バーレンの言う通りだ。

 クラセン家は無人だし、仮にアリアティナが帰宅してもサンリラでの宿泊先を知ってるわけじゃない。アリアティナだって一人で好きに過ごすだろうし、友人と旅行に行くかもしれない。

そんな状況で毎日、無人のクラセン家を訪ねたりはしないだろう。

 諦めて帰国するしかない。その筈だ。


「そうだね。うん。・・・ごめん、レンさん。あんだけ協力してもらったのに」

「気にすんな。俺達の仲じゃないか。家族だからって誰もがおてて繋いでラッタラッタ仲良くやれてるわけじゃないさ。ま、うまくやってこうぜ。な、相棒」

「うんっ」


 考えてみれば私達、それ以外はかなり幸先(さいさき)がいい。

 ちょっと戦略を見直さなくてはならないけれど、あの子が生きていたとなれば私だって考える。あれから何年経ったのかということに対して、そこまでの経年は考えなくていいということだ。

私も笑顔になった。


「それよりさぁ、いい製品出してるからって、ファレンディアの書類、ひどくなかった?」

「だよなあ。遠慮なくそこんとこ、突いてやろうぜ。いやみったらしくな」

「ねーっ」


 ファレンディア語は難しい。こちらへの書類はサルートス語で書かれているが、添付されているファレンディアの書類がかなり杜撰(ずさん)すぎた。

 だが、私はこれでもファレンディアの公的な書類には慣れている女。

 手抜きや欺瞞など通じない。


「うふふ。バイト代、あげてくれるかなぁ」

「じゃねえの? 母国語で毒づきやがってた奴らも遠慮なく黙らせてやったしよ」

「うん、正義の味方ってお腹空くよね」

「程々に、それでいて馬鹿にされん程度にやろうじゃないか」


 あくまで貿易とは対等なものだ。

 この国に提出する以上、きちんとサルートス語で出されているが、ここでの公的書類はあくまで大別しかされておらず、どうしてもいい加減になりやすい。

 バーレンもまた様々な国の言葉を理解している上、口語は苦手だが公的な文言には強い。


「綺麗な夜空だね」

「ああ。明日はちょっとスタミナつくのが食べたいな。だが、暑いと食欲も失せがちっつーのが」

「外国語でやり合うのって体力いるもんねぇ。あっさりめだけど栄養価ばっちりなの用意したげる」

「頼む」


 夜風が涼しくて気持ちいい。

 バーレンはいい人だ。いつだって私の味方だった。

 だから私は言わなかった。彼が今までしてきたことを。彼の姉もまた守られていたことを。

 ファレンディア国は技術を財産とする国。時にそれを守る為に犯罪すら躊躇わない国なのだと。はっきり言えば殺される可能性が高いのだと。

 あの子は自分の死んだ姉を使われたことにブチ切れて私を殺しにきたのだと。


(あの子そのものが危険だと言ってしまえば、レンさんは私を守ろうとする。だからこれでいい)


 やり合ってしまえば、どちらかが行動不能になるまで止まらない。それが現実だ。

 殺されたくないのならばあの子を身動きできない程に傷つけるか殺すしかない。だけど私はあの子を殺せない。傷つけられる筈もない。

 あの子は外国人の少女を殺せるけれど。

 このまま帰国してほしい。私はそう願っていた。




― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 初日に倒れてしまったのは、

「ちょっと緊張してたみたいです。目覚めてすぐに夕ご飯食べたら元気になりました」

と言えば、それで終わった。

 税関と言っても、毎日ファレンディア国の船が入ってくるわけではない。

 だけど下ろした荷物が様々な会社の倉庫に運ばれれば、そこからが私の出番だ。貿易会社が雇ってくれるし、話を聞きながら税関事務所でそのまま書類も作成してあげられる。


「説明書の翻訳、頼みたいんだが」

「はぁい」


 私は、ファレンディア国の製品の説明書を翻訳したり、使い方を教えたりといったそれでちまちまと稼いでいた。

 バーレンは色々な国の言葉を知っているものだから税関が解放してくれないらしい。どうやらここはガツンと言ってやりたかった税関事務所の不満もあるのだろう。

 うんうん、分かる。その気持ち、分かるよ。数ヵ国語を操るバーレンは引っ張りだこだ。

 別々に行動していても、心配はない。

 ファレンディア国の品を仕入れて小売店に販売する会社でのバイトは、税関での仕事がとても活用できて私には合っていた。


「ちなみにこれは法律上、販売したら法律違反になります。自分の個人的な使用なら構いませんが、販売は許されないです」

「え? だって本だぞ?」

「その内容が問題なんです。これ、公序良俗(こうじょりょうぞく)に違反しているんですよ」

「え? そうなのか?」

「そうなんです。一応、ばれたら売っているお店の罪になりますけど、そのお店が普通に仕入れているならこちらも関係してきますので、ばれないように売るべきだと思います」

「いやいやいや、こんな大して儲けにもならない程度でそんなのやってもしょうがない。仕方ないな、処分するしかないか。法律違反だと引き取らせよう」


 そんな理由で返品されても、運んできた方だって持って帰るのはとても嫌な話だ。

 そこで私の出番である。


「あのぅ、それ、よかったら私、幾つか引き取りますけど。売買は許されないから、私がバイトを無料でしたという形にして、それをもらえばいいですよね? 私、年上のお兄さんやお姉さん達、沢山いるんです。お土産代わりにあげるから市場には出ません」


 はい、本を処分するのもこれだけ多いと処分費用がかかるというので、ほとんど捨て値で頂きました。

 というのも、処分しなくてはならない本が多すぎて、私のバイト代を大きく上回ったのだ。そしてタダ働きさせるには、私は有能すぎた。

 

(ホント、おかしいとは思ってたんだよね。サルートスの本だとそこまで過激描写ないっていうんで。まさか法律の問題があったとは)


 一日のバイト代はパアになったけれど、その代わり中型移動車一台分の本が手に入った。それもちょっと過激な内容の奴ばかり。

 サルートス国では売っていない大量のアダルト本を私は手に入れたのである。


(うふふふ。水着のポーズフォト集はルードにあーげよっと。ルード、お友達にあげたらもう英雄だよ。ふふっ、楽しみにしているがいいのだ)


 せっかく運んできた本の一部が売り物にならなくなって貿易会社はがっかりしただろうが、私が恨まれることはなかった。ちゃんと税関のどこに問い合わせればいいかも教えてあげたからだ。

 実際にそれが法律違反だったと知り、しかも私は翻訳者及び通訳者としてお役立ちだったおかげで、特に軋轢(あつれき)は生じなかった。

 まあね。本なんて貿易品目の隙間に入れたオマケだしね。


「おーい、アレルちゃん。次はこっち見てくれるかい? ちょっと動かしてみたいんだけどよ」


 サルートス人が見ても分からない器具も、私にとっては普通に市販されていたものだ。使い方ならすぐ分かる。簡単な説明もできるし、こういう使い方もできるっていうパンフレットの下書きだって書けちゃう。


「はぁい。あ、これ、燃料入れないと動かないですよ。試しに動かしてみるんなら、幾つかの燃料を使えるみたいですけど、どれで試してみます?」

「どれもだな。使えるってことをテストしておかなきゃならん」

「じゃあ、まずはアルコールからでしょうか。アルコールって種類があるのを知らない人もいますから、説明書にはきちんと書いておいた方がいいです」

「じゃあ、先にまずは説明書頼む」

「はい」


 ちなみにファレンディア国の酒も幾つか栓を開けられて、中身が本当に酒かどうかをチェックされるのだとか。


「抜き打ちだからどうしようもねえんだけどな。何ならアレルちゃん、家の人とか酒、飲むかい? 飲むなら持ってきな」

「うわぁ、ありがとうございます。いただきます」


 開封してしまった酒は売り物にならない。そういう検査をされることも考えた上での本数を輸入してくるから問題はないけど、やはり毎回飲みたいって程、誰もがファレンディアの酒が好きなわけではなかった。

 だから開封されたお酒もゲット。飲む人は十分にいる。夕食と一緒に出してあげれば、皆も興味深そうに飲む。

 ネトシル少尉に中型移動車を出して荷物を運んでほしいとお願いしたら快く引き受けてくれたけれど、その量にちょっと呆れていた。


「アレナフィルちゃん。バイト代、全部注ぎこんでコレ買ったの?」

「もらったんです。バイト頑張ってたらご褒美って。リオンお兄さん、大型移動車、運転していたぐらいだから運んでもらえるなって思って」

「そうなんだ。もらった、ねえ」


 倉庫の片隅に置かれた「アレルちゃん用」という貼り紙付きの木箱の量を見たネトシル少尉は、酒はアパートメントで飲むとして、本は先に自宅へ配送しておいてあげるよと言ってくれた。

 いい人だ。やはり彼はいい人だ。

 どうせ寮監達の誰かは、数日に一回は戻って直接の報告をしなきゃいけないらしい。そのついでに持って行ってもらえばいいからと。

 我が家は現在無人だけど、ローグとマーサの家は近くにあって二人はうちの家の鍵を持っている。ウェスギニー子爵邸にも合鍵がある。

 マーサは外国語の本を読もうとは思わないだろうし、何より封をされている木箱など玄関に積み上げてもらって終わりだ。

 

(来てよかった。なんて素敵な街なの、サンリラ)


 海水や湿気で包装が駄目になってしまったファレンディアの調味料なども無料でもらってしまった。ファレンディア料理には欠かせない調味料だ。

 たとえ包装が駄目になって中身が何か分からなくなっていても、私には分かる。駄目になったのは一つだけじゃないからかなりの量だ。

 別に包装が駄目になっても中身は無事なんだからいいだろうにと思うが、やはりファレンディア語での包装がされていて、その上でサルートス語の説明書がついているのでなくては信用問題に係るらしい。

 言われてみれば私とて、「外国の調味料です」と、売られていてもその国の言葉で書かれた包装がないのであれば偽物かもしれないと疑うだろう。

 小分けして売るなら問題ないが、ファレンディア国は品質保持の為にも衛生的な包装が施されている。品質が維持されているからこそ、高く売られていても買う人がいるのだ。


(せっかくだから明日はファレンディア料理でいこうかな。パピー、早く戻ってくればいいのに)


 父はふらりといなくなるが、ふらりと戻ってきては私の話を聞いてくれる。半日の滞在でいなくなることもあって、それは無理して時間を作ってくれたのだと分かった。

 王子であるエインレイドから預かったというお菓子を渡してくれた時は、私もエインレイドに外国の面白そうな玩具を渡してもらうよう頼んだ。


(旅先の絵葉書を使ってお手紙を書くって、なんかいいよね。・・・現実は、絵葉書なんて売ってないことだけど)


 あちこちで仕事がある父はずっと一緒にはいられないけれど、空いた時間ができれば私の所へと戻ってきてくれるから不安にはならなかった。

 うん、愛だね。これは愛だよ。

 だから私は、父が手配してくれた人達に優しくしよう。フォリ中尉はさすがに身分が身分だから本人の意思だろうけど、多分、オーバリ中尉やネトシル少尉は私が寂しくないようにと、父が彼らの休暇を確保させたに違いないから。

 勿論、二人がここにいるのは純粋に私の為だけじゃないだろうけど。

 

「リオンお兄さん、楽しみにしててくださいね。白身魚とジャガイモのカリカリタルトってお酒に合うんですよ、これがまた。そこはもうカクテルなんか邪道ですよ。このファレンディアのお酒をキンキンに冷やして、しっぽりいきたいですね」

「・・・アレナフィルちゃん。もう誰も君がお酒飲んだことないって信じてないと思うよ」

「冤罪です」


 私はきっぱりと否定しておいた。




― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 港町サンリラ。

 バーレンのことをサルートス習得専門学校に問い合わせた税関だったけれど、今度は私が貿易会社で翻訳をしたり、たまに通訳をしたりしているのを見て、サルートス上等学校に事情を説明して問い合わせていたらしい。

 バーレンの保証だけじゃ足りなくなったのかもしれない。まあね、あれこれやってたからね。

 キセラ学校長は、

「なんと、翻訳や通訳までですか。いや、クラセン講師と一緒にいるのであれば、うちの生徒のウェスギニー君でしょう。玉蜀黍の黄熟色(メイズイエロー)の髪に、針葉樹林の深い緑色(フォレストグリーン)の瞳をした、とても愛らしい子なら、紛れもなくウェスギニー君です。子爵家のお嬢さんで、我が校ではエインレイド殿下の学友ですよ。ですが子供だけでそこにはいないでしょう。父親のウェスギニー子爵なり、叔父君なりがご一緒では?」

と、そんなことを話したらしい。学校長が一生徒にすぎない私を知っていたことも、人物保証に一役買ったようだ。

 税関事務所の偉そうな感じの人が、にこにこしながらそんなことを言っていた。貴族の娘でありながら、こういった真面目なバイトをしようと考えるとは、とても堅実なお嬢さんだと褒めてくれた。

 私のバイト代の振込口座名は、ウェスギニー・インドウェイ・アレナフィル。貴族というのはそれだけで身元保証になるらしい。

 そして私の個人情報は勝手に税関事務所から飛び出して貿易会社まで垂れ流されていた。

 

「へえ。アレルちゃんは役人を目指しているのか。だけど子爵家のお嬢様なんだろう?」

「そっちは兄がいるので。私、自分の力で生きていける学力を身につけて働きたいんです」

「それは立派だ。翻訳という仕事も考えてもよさそうだけどな」


 貿易会社で働く人達はちょくちょくと税関にやってくる。扱っているのはファレンディア国やサルートス国だけじゃなく、違う国の製品もあるからだ。

 私ができるのはファレンディア語だけだけど、何といっても品質の良さがウリの国である。

 積み荷だったが対応しきれなかった物とか、記録が紛失した物とか、そんな物が山積みされている倉庫まで案内されて、水際での管理業務の幅広さに同情した。


「次に来た時にちゃんと書類を出してくれれば返却すると言ってはあるんだが、もう保管期限が過ぎてしまうんだよね。海に不法投棄されても困るし」

「大変ですね」

「まあね。素材が分からない物も、ちゃんと調べて提出してくれと言ってあるのに、次の時には忘れているという有り様だ。なんて無責任なと思ったら、会社名はそのままだったが経営者や担当者が入れ替わっていた」

「引継ぎがされていなかったんですね。これ、もう売ってしまったらいいのに」

「そうしたいのは山々なんだが、保管期限が過ぎないとね」


 色々な事情を知ってしまえば、たとえ経営者が変わっていてもその貿易会社に連絡を取り、所有権を放棄するのか、今すぐ取りに来るのか、保管料を更に払って延長するのかを問い合わせるしかない。

 大抵はその保管されている事実を知らず、支払われている保管料があるから、いついつまでに決めるようにと言えばどうにか対応してくる。

 税関のやり方も国が違えば全く違うそうで、とある国は輸入した製品など半分を関税と称して取り上げるらしい。書類不備による保管は、一週間後にその国がもらい受けるという強欲ぶりだとか。

 色々な国のやり方があるようだが、そこは救済措置のあるサルートス国でよかった。

 心の底からそう思う。




― ◇ – ★ – ◇ ―




 そんなある日のこと。

私はいつものように貿易会社で倉庫をチェックし、たしか税関の倉庫に似たようなものがあったと思い出してやってきていた。大きさが違うだけだと分かれば、これはもうセットとして売ればいい。

 保管料を払った会社の期限も切れる頃だし、それから捨て値で買わせてもらえば会社も税関もどちらもいい話ではないか。

 すると一人の職員が声をかけてきた。

 

「あ、アレルちゃん。クラセンさん、帰る時に待ち合わせだろ? 捜したんだけど、どうやらどこかの船まで行ってるらしいんだよねぇ」

「ああ、最近、通訳としても同行してますもんね。残業はしない約束なので、夕方にはここで待ち合わせです」


 ちょうど重さを(はか)っていた私は顔も上げずに返事をしたが、別に横着なわけではない。含有量の割合はこれでぴったりとなる筈だ。

同じシリーズならばそういった割合も同じ筈だし、製造年も同じであることが望ましい。

 だから確認していたのである。

色々とお世話になった貿易会社の社長さんに教えてあげればちょっとした儲けになるだろう。

 そこまで書き出したところで、私は振り向いた。


「もしかして通訳ですか? 急がないなら伝えておきましょうか?」


 バーレンも小銭稼ぎを着々と進行中である。彼も思想や宗教的にアウトな本を指摘して、しっかり手に入れていた。

 外国語で書かれたその本の内容を軽く説明してもらったが、外国の宗教は過激すぎてついていけないと、それだけが分かった。思想や宗教が異なる人を殺していいって考える人達、思考の全てがおかしい。

 だけどバーレンにとってはそういうものですら相手を理解する為に必要なのだそうだ。一方的に理解しても、危険な存在には変わりないと思う。私はその宗教を信仰している国には近づくまいと決意した。


「いや、クラセンさんにお客だ。・・・あ、この子がクラセンさんと仲のいいアレルちゃんですよ」


 笑顔で尋ねた私は、彼の後ろにいた二人連れを認めて笑顔の作り方を突発的に忘れた。

 これは夢か。夢だと言って。お願い、神様。


【アレル? もしかしてアレナフィルというのではないか?】

「えーっと、アレルちゃんという名前は、アレナフィルちゃんの略ではないかと、尋ねています」

「ああ、アレルちゃんの名前はアレナフィルちゃんですよ。よく知ってますね。なら、やっぱりこっちでいいのか。アレルちゃん、ファレンディア語、得意だもんな。じゃ、後はよろしく」


 さっといなくなった税関職員の彼は悪くない。ここの税関職員は誰もが親切だ。

 分かってる。分かってるけど、恨みたい。

 なんでこんな奴を連れてきた・・・!


【この子は、ファレンディア語、得意だと、彼は言いました】


 恐らく通訳として雇われた人だろう。お腹がでっぷりとした中年男性が、ファレンディア人の青年に話しかける。

いや、そんなこと教えなくていい。私、ファレンディア語、分かりません。


【ならば、問題ないか。全く、こんなことならここで尋ねればよかった。・・・さて、君がアレナフィルさんだね? 私の姉に手紙をくれただろう?】

【ご、ごめんなさい。ファレンディア語、少し、分かります。だけど、難しいと、分かりません。私はアレナフィルです。あなたは? えっと、弟さん? アイカさんの?】


 せめてここが違う場所ならファレンディア語が分からないとも言えただろう。

 悲しいことに現在私の手元にはファレンディア語とサルートス語の書きつけが机いっぱいに散乱状態だった。しかも私がやっていたのは、ファレンディア製品の素材や規格を調べて使えるかどうかをチェックしている簡易的な含有量試験だ。

 さりげなくこれらをまとめて隠す方法を私は今、心の底から必要としている。


【その通りだ。・・・ファレンディア語が得意なのに、わざわざ教わって手紙を書いたと書いてきたのはどうしてなのか尋ねたい。少なくとも君は、ファレンディア語を読んで検査できる程に堪能なようだ。何より、ファレンディア語を母国語のように操る14才の子供のことはちょっと噂になっていたけどね】


 どこで噂になっていたのか。違う人じゃないかと白を切るにはあまりにも無理があった。


(会った途端、手紙の矛盾を指摘してくる。どこまで喧嘩腰なんだ、この子は。だけどもう私のことはそれなりに知ってるわけだ)


 何故ならここはサルートス国。子供の就労に対してはとても厳しい制限のある国だ。この税関事務所でも未成年で働いているのは私だけだし、実はファレンディア国から輸入されてきている書類を見ておかしいと思ったところを指摘したことから私はかなり注目されていた。

 もしかしたらファレンディア国との貿易関係者の間では、私のこともかなりの噂になっていたのかもしれない。

 何故なら本来はもっと税金をかけることができたのを、ファレンディア語による誤認を誘うそれでごまかされていたことを私が指摘したからだ。だから今の私はこんな機械を使ってまでチェックするだけの権限が発生しているのである。


【私が手紙を書いた相手は女性です。あなたが彼女の弟だと言っても、それを信じる理由はありません。私はあなたに手紙を書いた覚えはないのですから】


 ここはもう売られた喧嘩を買うしかない。そして隙を見せてはいけないのだ。

 ああ、本当にバーレンがここにいなくてよかった。彼は知らない。この子がどういう存在かを。何より彼を巻き込めない。

 そう、私が撃退しなくてはならないのだ。聞いたこともないぐらいに低い声で私を冷たく見据えてくるこの男からバーレンを守る為に。


(情けを出してはいけない。油断したら食いついてくる)


 ざっと見た所、暗殺用のものは持っていないと信じたい。だけど分からない。あれから長い時が流れた。

 できれば風上に行っておきたいんだけど、室内って風上がなくて困る。


【私がファレンディア人で、君が出した手紙のことを知っていて、それで信じないとか言われる理由が分からないな。仕事でサルートス国に来る用事があったから姉に手紙を出した子を訪れるのがそんなに不思議かい? ところでどうしてここにいるのかな? クラセン氏をどういう思惑で使ったのか聞いてもいいかい? そして君は未成年の筈だが、その比較法をどこで学んだのかな? もしかしてファレンディアに留学したことでもあったかい?】

【世間一般的にあなたのご家族の事情など分かる筈がありません。そして共通語を話してください。試されるのは不愉快です。初対面で私を探ろうとしてくるあなたに誠実さはないんですか?】


 言葉を聞けばどこの地域の出身かが分かると言われるファレンディア語。幾つか混ぜてきたこの子は、どの言葉に私が馴染んでいるかを探ろうとしていた。

 だからこそ驚いたのか、表情を止めている。


【共通語は誰もが聞き取れるけど、言葉にするのはどうしても使い慣れた地域語が出てしまうんだ。聞き取りにくかったら悪かったね】

【いえ、どの地域語も聞き取りやすかったです。どの質問の単語で私が悩むかを読むつもりですよね? あまりにも陰険すぎてびっくりしました。子供でも警戒対象なのは理解を示しますが、先入観は常に真実を覆い隠します。頭脳と交際能力は別ですよ、別】


 取り繕ったような言葉に、私も笑顔で謝罪を受け入れた。まさに挑発的に。

 本当にこんな性格で大丈夫なのかと言いたくなる。このままじゃ意地悪ジジイの道しか残ってないよ。なんでこうなっちゃったかな。


【へえ。とても興味深いお嬢さんだ。口説きたくなっちゃうね】


 目の前にいる彼は、産業スパイとして送り込まれる予定の子供なのだと、私のことを決めつける眼差しになっていた。

 だけどそれでいい。バーレンはそこまでファレンディア語を細かくは理解できていない。たとえ彼と顔を合わせても、警戒すべきは私の方だとこの子も判断するだろう。

 あとは私がこの子が仕掛けてくるそれをかわせるかどうかだ。考えなくては。センターはこういう時に何を使うかを。


【そんな表情の言葉を本気にする女はいません。誰もが自分を口説いてくれるとか思ってるんじゃありませんよ。そして未成年に手を出す成人は最低です。世界がどこまで腐っていてもあなたは自分の心を守る力をもう持っているでしょう】

【・・・知った風な口を】


 ずっと考えていた。わざわざ手紙ではなくこの子がやってきた意味を。

 もしかしたら私は殺されるのかもしれない。二度目の奇跡は無いのかもしれない。私が気づかない内にこの命が摘み取られてしまうのだとしても、それでもこの言葉がこの子の心に残ってくれるだろうか。

 あの頃のように、いつだって自分が自分の世界の主役なのだと、他人に利用される人生を送っては駄目だと言い続けた私の願いが届くだろうか。


(私がアイカだと言ったところで、それこそこの子も信じないだろう。人は演技できれば嘘もつける生き物なんだから)


 心残りがないわけじゃない。だけどこうして生きているこの子に会えた。

 あの父なら亡くなった娘の名前が使われたからと言って外国に人を差し向けるような真似はしない。これはこの子の独断だ。

 少なくとも自分の意思で外国に行き来できる資産と自由はあるのだろう。


【仕方ないです。私、人間ができてるから人の欠点がよく見えちゃうんですよね】

【・・・一体】


 バカにする感じで両手を広げて言ってやったから、かなりぴきっときた筈だ。

これをされるとムカッとくるらしい。バーレンが言ってた。そのポーズ、めっちゃムカつくって。

 姉には怒らないどころか笑顔で同意していたこの子も、年下の少女に言われたらブチ切れるだろう。

 どうにかバーレン抜きで話を進めなくては。そしてこの子を逃がさなくては。


(だって私はお姉ちゃんだから。だからこの子を守るの。そもそも国王様の甥や貴族の坊ちゃん達と一緒にいる子爵家令嬢に危害を与えて国外脱出できる筈がない)


 あの家は父ではなくこの子に譲られたのかもしれない。それならもうそれでいい。だってあの日、私は死んでいたのだから。




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