島津久保とパレオロゴス朝の文化
前話と同じく、本編第一章九話「ドラキュラ対鬼島津」辺りの話です。
かつてモンゴル帝国では以下のようなヒエラルキーがあった。
「官-吏-僧-道-医-工-匠-娼-儒-丐」
官吏や医者という実学の者は儒学者より遥かに立場が上。
儒学者とは「丐(乞食)」よりは上だが娼婦よりは下に設定された。
モンゴル帝国からすれば、理屈ばかり捏ねて礼儀作法とか謎理論の秩序とか言って来る者に比べ、性欲発散に役立つ女の方が大事だと言えた。
薩摩の秩序も似た部分がある。
中華由来の儒学は薩摩において大事にされ、薩南学派なんていう儒学の一派が出来たくらいだ。
だがここバルカン半島において、哲学者というものはモンゴル帝国における儒者同様
「居ても畑の肥やしにすらならん」
存在であった。
スパルタ島津の当主・島津義弘は、統治下においたスパルタにおいて
「武士を出した家は年貢免除」
としたのだ。
300人で10万人のペルシア軍と戦ったスパルタの強さを手に入れたいが為の法令であったが、これにペロポネソス半島の住民たちは乗る。
ブルガリア等でサツマン人は九公一民なんていうイカれた税制を敷いていた。
薩摩感覚では「九割取るのは米麦の年貢のみ、二期作目や副業の雑穀には税を掛けんから、我々も随分と慈悲深い」ものなのだが、日本における米の収穫率と、東ヨーロッパの麦の収穫率を考慮せずにやった為、薩摩飢饉と呼ばれる飢餓が発生している。
そんなだから、一人兵を出せば税を三割軽減、三人兵を出せば完全免除、討ち死にや名誉の負傷には年金支給なんてのを聞けば、誰も彼も兵士になりたがる。
なお、兵士でありながら農地を耕す行為は、大いに歓迎されている為、皆は喜んで半農半兵となった。
……この政策の為にスパルタ島津家は税収不足が顕著となり、それを「どうにかせい」と丸投げされた三男の島津忠恒は
「あんクソ親父がぁぁぁ!!!!」
とブチ切れながら、アテナイの学者や北イタリアの商人を顧問に、交易で賄っていたのだ。
島津忠恒は、源氏物語を読んだり連歌を嗜む教養人である。
しかし強制元服の後は面倒な仕事ばかり押し付けられている為、芸術家や文化人等は二の次、経済を発展させる理論家と、それを実践して成果を出す実務家を欲している。
教養人の忠恒にして余裕は無いし、気質的に薩摩人は深遠な哲学とかは向いていない為、「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる文化復興の立役者たちは生きるのが辛い時期を迎えていた。
困った事にこうした文化人たちは、モレアス専制公領首都ミストラスに住み、そのミストラスはスパルタの隣接都市であった。
十字軍戦争でスパルタ島津家は敵対したモレアス専制公を倒し、その領域を併呑するとスパルタと同じ施政を敷く。
隣ではどんどんギリシャ人たちが先祖返りしてバーサーカー化しているのに、ミストラスでは文化人たちが
「おはんら、生きてる意味が有っか?」
と哲学の命題のような言葉を、絶対違う意味で投げつけられながら、細々と生きている。
島津忠恒は移動禁止令を出し、農民が勝手に土地から離れる事を許さなかった。
他の地域では税の重さに耐え切れない農民が逃散しまくっているから、忠恒も足並みを揃えた。
だがそれで、文化人たちはミストラスを立ち去る事すら出来ず、高名な学者ですら田畑を耕すよう命じられている。
コンスタンティノープルの島津久保が、弟の忠恒に文化人送還依頼を出したのは、こういう事情があっての事だった。
忠恒からしたら、兄上が申される故と手配こそするが、腑に落ちぬものも抱えている。
(こん奴輩どもは役に立たぬ。
歌人や絵師はまだ分かるが、屁理屈並べる奴は理解出来ん。
そげな役立たずを養うとでも言うのか?
俺いはこん地の統治で、こがい苦労してるのに、そんな余裕があると言うのか?
恨めしい……)
そう思っている心の内側から
(ナニモカモブチ壊セバ良カ……。
親父モ兄モ知ッタコツアラン……)
という黒い衝動が湧き上がって来て、これではいかんと気を取り直す。
あの完璧超人な兄の事だ、深い考えがあっての事だろう。
何の考えも無しに戦線を拡げたり、思いつきで布告を出す島津義弘とは違い、兄はきちんと計算が出来る男だ。
忠恒はミストラスに布告を出し、文化人たちの移動の自由と、希望するなら首都への引っ越しを支援すると伝える。
当然彼等は諸手を挙げて帝都に引っ越しして行った。
島津久保がコンスタンティノープルに移住する際、義父から命じられていたのは、
・後継が人質になるという事で東ローマ皇帝を安心させる事
・帝都に住む事で、この東ローマ帝国という国の実情を把握し、知らせる事
・貴族たちと交流し、味方を作る事
・官位官職に相当するものがあるなら、高位でかつ在京義務の無いものを得る事
・藤原摂関家のような存在を見つけ、よしみを通じる事
・島津家を高位の公家のような立場に押し上げ、影響力を持つ事
であった。
ヨーロッパ世界における根無し草である薩摩は、立ち位置を確保する必要があった。
義弘なんかは
「嫌われたら根切りにして別の地に移れば良か。
そうして根切りと移住を繰り返せば、いずれ日ノ本に帰れるやもしれぬ」
なんて、どこのモンゴル帝国だ?という事を言うが、まあそれは家臣の手前そう言っているだけ。
基本的には得た土地は領地経営すべきものだ。
その際、余りにも軽く見られると上手くいかないと、日本時代から理解している。
折角領土を得ても、その君主が一介の百姓上がりとかではナメられる。
ナメた領民は税を納めないし、事があれば敵と通じて兵を引き込みかねない。
そして敗戦ともなれば一転、落ち武者狩りを行う。
故に統治には恐怖と恩恵と権威が必要だ。
恐怖は言わずもがな。
恩恵は、島津家の場合は「良民である限りは敵からの侵略から守り抜く」というものを提供出来る。
残るは権威である。
これは島津家自体が転移前に、豊臣秀吉という成り上がり者と戦っていたから分かる。
とりあえず関白なんて地位に上ったが、それでも平安時代からの名門島津家からしたら「土百姓の出自の癖に」という感情が拭いきれない。
日本においては「〇〇守」という国司職で支配権を合法化したり、「近衛〇」「衛門〇」という中央の軍事や警備担当者の官職を名乗ったり、何となく田舎の者が「大したものだ」という職名を名乗っても良い。
ただ、そういう称号には有名無実なものや、別機関によるもっと有効なものもある。
正直、朝廷による「式部大夫」より、幕府による「大隅守護」の方が有難かった時期もあった。
そういう事も踏まえて、この地における権威を得たい、それが当主の判断であった。
それ故に、日本で言えば「上洛して公家との交流」というものも必要なのだ。
日本時代、元々近衛家と縁があった島津家は数百年の付き合いがあるから、たまに連絡を取るくらいで良かった。
だがこの地ではそうはいかない。
早くそういう付き合いをする相手を探すか、自らが「五摂家」にならねばならない。
(今にして、あの猿関白の苦労が理解出来る)
と島津義久なんかは内心呟いている。
「おいでなさったか」
島津久保は文化人たちを出迎えた。
彼等は東ローマ帝国の名家の別宅を借りて住んでいる。
それなりに豪華な家だが、調度品は質素なものをあえて揃えていた。
「侮りを受けるようなみすぼらしいものではなく、反感を買う程豪奢でもなく」
という方針で、このような住環境としているのだ。
出迎えを受けた文化人たちは、野蛮なサツマンの公子の前でも尊大な態度を崩さない。
こういう態度も、忠恒たち薩摩の統治者の反感を買った理由である。
まあ十代前半の忠恒に対し、久保は人間が良く出来ていた。
彼等を「先生」と呼びながら接待を行う。
文化人たちは、サツマンの態度の理由は分かり切っていた。
自分たちを庇護する事で、野蛮人のイメージを消したいのだろう。
それに文化人のパトロンである事は、他の名家に対して自慢出来る事でもある。
まあ精々利用だけしてやろう。
そんな文化人たちに対し、久保は一向に「自分に協力せよ」と言い出さない。
ただ食事を提供し、住まいを斡旋し、たまに金品を渡し、自邸に招いては芸術論を語るだけである。
久保は弟の忠恒程の趣味人ではないから、コンスタンティノープル居住以降に勉強して得た知識だし、本性が武人だから芸術の何たるかも分からない。
だから語る事が上っ面だったりして、文化人たちを嘲笑させている。
まあ久保にしたら
「俺いは武士じゃっで、武以外の些事で笑われても痛痒を感じぬ」
「余り偉そうな事を言って反感買うより、少々侮られていた方が都合が良い」
と思っているので、時に態度を見て刀を抜こうとする堀之内久規、平山忠続等は目で制止していた。
文化人たちには見えないから気づかれないが、家臣を制止する際の目から放たれる殺気は、歴戦の武士すら怯ませるものである。
こうして無駄な日を送っていた中、ある哲学者が代表して久保に問う。
「サツマン公はこうして我々を事あるごとに接待する。
それで我々の歓心を買えると勘違いされているのか?」
問われた久保は、微笑んだままで意外な回答。
「左様、貴殿たちの歓心を買えると思うちょりもす。
頼み事をするには、まずは気を許して貰わねばなりますまい」
率直に「貴方たちを買収する気だ」と言われ、調子が狂う一同。
哲学者は更に問う。
「頼み事とは、サツマンの為に我等の成果をくれ、という事か?」
「否。
薩摩の為に非ず。
こんローマ帝国の為に働いて貰いたか」
まあ何となく、そういう返答も予想していたのだろう。
さっきの返事が意外だっただけで、普通は直に「自分の為」とは言わず「国の為」と言うだろうし。
「貴公に我が国の事が分かっているとは思えませんな」
「分からんよ」
これはまた率直に、意外な返答である。
久保は続ける。
「俺いたち薩摩は、こん国の外敵と戦うでな。
そいはそいとして、こん国は昔の栄華を取り戻したいんじゃなかか?
それがどがいなもんか、俺いは知らぬ。
じゃっで、貴殿たちにやって貰いたか。
前々から、そうやっておったじゃろ?」
古代ギリシャ文化の復興は、今は亡き哲学者ゲミストス・プレトンの唱えた一大事業である。
そこまでは分からない久保だが、この文化事業が彼等の悲願であるらしい事を察していた。
「まあ、俺いを信じられん気はよお分かっで。
やって貰いたか事は伝えたで、後は俺いという人物を見てから決めれば良か。
俺いには俺いの思惑が有るが、そいは貴殿たちにゃ関係無か事。
貴殿たちも俺いを利用すれば、そいでとんとんごわんど」
文化人たちは、島津久保というサツマンの公子が、ただの蛮族ではなく、一筋縄ではいかぬ人物と理解する。
協力するかどうかはともかく、パトロンとしては受け入れる事とした。
これが歴史に役立つのは、また後年の話である。
おまけ:
島津歳久「兄サァ、また又一郎殿から仕送りの催促があったぞ」
島津義久「公家お抱えの絵師か茶人どもとの交際じゃな。
程々にして欲しか。
とりあえず、又四郎(義弘)に払わせよ」
島津義弘「又八郎(忠恒)、やっておけ」
島津忠恒「こんクソ親父がぁぁぁ!!
クソ兄がぁぁぁぁ!!!!」
忠恒の心の澱がまた少し溜まっていった。




