島津彬久~サツマン朝東ローマ帝国の終焉~
今日の娯楽番組:
・体育放送 神聖サツマーニュ王国・ゲゲル選手権準決勝
・体育放送 アステカ帝国ルチャ・リブレ 王者アステカイゼル対挑戦者エル・サンタナ
・中国伝奇放送 「西遊記」(日本製作)
・稚児動画紙芝居「薩摩英雄伝説」『菱刈地域会戦』
・食育放送「地中海鮪と刀一本で戦う男たち」
※ゲゲル(殺人ゲーム)は神聖サツマーニュ帝国4大競技の1つ
島津彬久、転生者である大山雄太郎が元居た世界では島津斉彬であろう。
島津斉彬自体、当時の大名としては視点が未来を見ていて、明治維新の立役者たちに影響を与えている。
化学に関する知識は、元居た世界での大学院修士課程レベルとも言われる。
だが、それでも思想的に幕府中心の立て直しを考えているし、得た知識はオランダの書物と当時の実験器具で得られたもので、大学院修士レベルと言っても最新知識があったり、開発や新発見が出来る訳でもない。
知識は積み重ねの上に成立する。
銃を見ても、まず手動着火の石火矢があり、次に火縄着火の緩発式となり、バネを使った速発式に進化し、バネを強めた火打石式を経て、雷管式に至る。
雷管の為の雷化水銀も、それを生みだす酸や高濃度のアルコールを生む技術が有って作られる。
高濃度アルコールは蒸留技術を上げて作られる。
イギリスの進化はこういう技術的ステップを経ていた。
しかし島津彬久は、いきなり結果に辿り着き、その為の工場を作り出した。
薬品瓶用色付きガラスを応用した薩摩切子、高濃度アルコール技術を応用した芋焼酎、まるで一回やった事があるかのようにあっさりと成し遂げ、商人を通じて輸出品として外貨を稼ぐ。
元居た世界より進んでいるものもある。
島津斉彬は反射炉製造に苦労した。
しかし島津彬久はいきなり高炉から始めた。
島津斉彬も、薩摩古来の技術と西洋技術を融合させた高炉を構想していたが、実現前に死亡している。
薩摩の歴史では「英邁」「天才」「文殊菩薩の化身」と評価されている。
だが転生者の目から見たらこう見える。
「島津彬久は、島津斉彬が転生したのではないか?」
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島津彬久の時代までに、サツマン朝東ローマ帝国は衰退していた。
まず北アフリカに在った島津忠仍のマウレタニア家が滅亡する。
遠く離れた北アフリカに在り、周囲をイスラム教に囲まれた孤塁。
何度もイベリア半島に残ったナスル朝グラナダの援軍を行っていたが、その内に本領を元々いたベルベル人等に奪われる。
結局カサブランカ等の一部の都市だけを残したマウレタニア島津家はナスル朝と合流し、シマンシュ朝グラナダと変わるが、薩摩人の血は薄く縁遠くなった。
一応苗字とグラナダは残っているものの、もう別物と呼んで良い。
ナポリ島津家も変質している。
元々キリスト教徒の地に置かれた家である。
代を重ねる毎にキリスト教化していった。
それでも島津本家への忠誠は有ったが、薩摩風が抜けた彼等は欧州の国家と大して変わらない。
そして大きく分断された領地の性質上、防衛に無理が生じる。
スペインによる第二次レコンキスタにより、バルセロナ、バレンシアを奪還されてイベリア半島から撤退する。
マヨルカ島やサルディーニャ島、コルシカ島も失い、元のナポリとシチリア島だけになった。
そしてイタリア半島でも、度々野心を見せるフランスやハプスブルグ家と戦い続けている。
島津豊久直系のダルマチア島津家は健在である。
アドリア海沿いの商業都市を保護し、衰退したヴェネツィアを助け、衰退したセルビアとアルバニアを所領に収める等、アドリア海通商圏の保護者となり、彼等からの献金で軍も維持出来ている。
だが、ジャンヌ・ダルクの娘を正室とした事から始まり、ここは血筋的には白人にかなり近くなっていた。
気質はサツマン人の、色白長身美形の家系となった。
(※豊久自体が日本人として長身色白美形だったから、大して変わってないかもしれない)
スパルタ島津家は、蛮族そのものだ。
東ローマの統制にも中々従わない。
戦争用に猛獣を飼っているようなものである。
島津義弘以降、薩摩式の教育がここでは続いていた。
と言う事は、「誰かの風下に立つ事を嫌う、国人領主自立心旺盛な」薩摩がもう一つ出来る訳で、戦争という利害関係が一致しないと協力する事も無い。
こんな中で、薩摩半島という本拠地を持つ島津宗家直轄地は、血統も風習も気質も平安末期以来の島津を維持して来たが、時代を経て弱体化した。
否、周囲の国の方が強くなって来た。
サツマン・オスマン戦争は双方の損であった。
この両国が停滞している内に、ヨーロッパ諸国は新技術・新戦術を獲得する。
良質な火打石を産しない薩摩は、パーカーションロック式に移行しなかった。
石炭を産しない薩摩の製鉄技術は古いままであった。
牧畜技術が劣る薩摩は、品種改良を繰り返す騎兵運用についていけなくなる。
かくしてハプスブルグ家とハンガリーの地での戦役に敗れた後は、じりじりと領地を失っていく。
同盟国ワラキアもハプスブルグ家の勢力下となった。
ブルガリアでは自立心旺盛なブルガリア人が独立闘争を度々起こす。
代を重ね、今では東ローマは薩摩半島・コンスタンティノープル周辺、ギリシャ、小アジア・海峡沿いの一部だけに追い込まれていた。
スパルタ、ダルマチア、ナポリと合わせるとまだまだそれなりに領土はあるが、首都近辺にまで国境が迫るのはやはり由々しき事態である。
そんな状況で島津彬久が当主に就く。
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戦国時代以来の島津軍の強さは、鉄砲・長槍足軽・騎馬武者の連携及び狂気を纏った攻撃にあった。
ヨーロッパ諸国は既に、歩兵・騎兵・砲兵の三兵戦術をマスターした。
その上で銃と砲と馬の性能が上がったのだから、同じ戦術ならヨーロッパ諸国が勝つようになる。
薩摩人は「どこかおかしい」だけで、それだけで戦争に勝てる訳ではない。
それを活かせる将が必要だった。
「島津に暗君なし」
島津興久(転生前世界では斉興か)は、納戸方老職(会計方)に調所広郷を抜擢して財政改革をし、ブルガリア人の自治を大幅に認めて完全独立を防ぎ、南下するハプスブルグ家の軍を防ぐも、ロシア帝国離反という事態を受けて退位、嫡男彬久に交代した。
興久は側室ユーリャの方(日系ロシア人)との間に出来た忠教(後に改名し久光)を当主にしたかったが、非常事態を受けて英邁な彬久に家督を譲る。
薩摩は「薩摩らしからぬ主君」を得た時に飛躍するようだ。
初代家久(忠恒)もおよそ薩摩人らしからぬ薩摩の当主であった。
彬久は急遽「どこからそんな知識を得た?」と後世不思議がられる知識を使って、戦国時代の島津家を一気に転生前世界の明治初期くらいまで近代化させる。
その過程での家臣の動かし方、商人との折衝、出資を渋る納戸方老職・調所広郷の説得等は「島津家当主の育ちでなければ出来ない」もので、一介の庶民が転生したとも考えられない。
年貢・人頭税は上がり、不満は出まくったものの、信管式砲弾、雷管式後装銃に銃剣、工兵の充実による陣地戦と装備を刷新した。
技術は蓄積無しには上がらない。
薩摩人は長年の戦争で、戦国以来の気風「合理主義」を持ち、技術陣も地道に火縄銃の改良、銃身の強化の為の製鉄技法の見直しをし続けていた。
そこに知識という水が注がれ、器は満たされた。
この頃、アイスランド・ラキ火山、グリムスヴォトン火山、日本・浅間山が相次いで噴火。
地球規模で寒冷化し、飢饉発生。
島津興久は甘藷、馬鈴薯の増産を命令、大金を払いサツマーニュから芋や穀物を輸入する。
薩摩はこうして民の窮状を救った後に彬久の代を迎えたが、これに失敗した国がある。
フランス王国である。
ここでは大革命と呼ばれるものが起こり、国王が処刑される。
そして各国の干渉戦争から革命輸出戦争に発展。
彬久はここでも「人権、議会政治、平等、博愛」というものを薩摩に持ち込もうとしたが、これには失敗した。
思想も長年の下地が必要である。
鎌倉以来の薩摩式に、急に必要だからと言って近代国家の概念を注いでも、上手くいかなかった。
(後に出来る薩摩連邦(通称サ連)の連邦議会及び最高評議会の設置時に、この思想が顧みられる事になる)
世はやがて「コルシカの吸血鬼」と呼ばれる短足小男が皇帝となる時代を迎えた。
彼率いるフランス軍は強く、各国は敗北したり、占領されたりする。
ナポリ島津家も敗れ、領国を追われた。
手強いフランス軍の前に、島津彬久は国家改編を行う。
小アジアの地を放棄し、その地の守備兵力を全てヨーロッパに移動させる。
ブルガリアやセルビアの独立を認める代わりに、不可侵条約を結ぶ。
島津家は薩摩本国、スパルタ、ダルマチアだけとなった。
これを批判する東ローマ元老院を、彬久は強権発動で解散する。
指揮系統一本化の為、代々の迭立を止め、島津家だけを君主とした。
民主主義まで視野に入れていた島津彬久だったが、戦時体制の為にこのような行動に出た。
どちらかと言うと理想主義者の彬久だが、現実の前に主義主張を曲げた。
東ローマ帝国はこの時滅亡したと言って良いだろう。
あと数代、島津皇帝の時代は続くが、最早形骸である。
そしてこの強引な処理が反感を買ったのか、島津彬久は急死した。
発病して4日での死亡、毒殺の疑いが残る。
東ローマ帝国関係者の仕業かもしれないし、年貢が高騰している事への不満を受けた父・興久の手の者の仕業かもしれない。
後任は弟の島津久光となるが、彼は皇帝就任後一月で辞任、子の島津忠義を皇帝とする。
形骸だがまだ残っている東ローマ帝国や島津家内部の事を息子に任せると、久光は「国父」という立場でフランス皇帝との戦いに赴く。
新型銃、新型砲を駆使し、いまだ突撃が幅を利かせる戦場での示現流突撃部隊の活躍もあり、「兄に比べて凡庸」と評される久光は、「戦争の天才」と呼ばれるフランス皇帝と五分の戦績を残す。
彬久時代に蒸気船建造まで到達していた為、イギリスと同盟を組んでいる薩摩は地中海でフランス海軍を撃破、陸戦でも更なる新型銃を薩摩武士村田勇右衛門、取り回しの良い山砲を大山弥助が開発し、フランス軍のお株を奪う火力戦を繰り広げた。
やがてフランス皇帝が敗れ、島流しに遭うと、薩摩は列強の一角として認められる。
この混乱を収拾するウィーン会議で、神聖ローマ帝国は正式に解散した。
と同時に東ローマ帝国も正式に解散し、ヨーロッパはようやく「ローマ」の時代を終えたのだった。
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と、ここまでがサツマン朝東ローマ帝国という、謎の国の歴史である。
転生者の大山雄太郎には頭がクラクラする歴史であり、あまり一辺に読んでも理解出来ない部分があった。
とりあえずここまでにしようと思った。
彼がこの先生きねばならない薩摩連邦という国の歴史は、追い追い調べよう。
これにて完結します。
勢いとネタ塗れで駄文書き散らかしましたが、読者様に楽しんで貰えたなら幸いです。
本編後書きで書いた「もし東ローマ皇帝に暗君無しの島津家が就いたなら?」というテーマの他、
「もしもあの地域に絶縁体があり、イスラム教からキリスト教へも、キリスト教からイスラム教への侵攻が無かったら?」
「アメリカ合衆国が成立しない、少なくともアングロサクソン系じゃないなら?」
「島津斉彬は実は転生者だった」
という話も書きたかったので、それを書いてみたのが余章、蛇足部分です。
書き足りない部分も有りますが、これで終わらせていただきます。
半年よりちょっと短い期間ありがとうございました。
次回作は、またすぐ始めます。




