⑱後日談3 あの日の葛藤
顔合わせの日程が、速やかに取り決められた。まだ日があると余裕を持って過ごせたのは最初だけ。足早に季節が深まるのと同じく、半月あると言い聞かせていたのが翌週に差し迫って、気付けば数日しかなく、そしてついに当日がやって来た。
顔合わせの場として用意されたのは別邸の一つである。主に歓談の場として利用されていて、風が気持ちよく吹き抜けるように設計された建物の中は、明るい光に満ちていた。昨日も下見に来ているので、建物の構造や間取りは把握できている。それが少しでも緊張の緩和に繋がれば良いと思ったのに、あまり上手くいかなかった。
「キアラ、ちゃんと食べないと元気が出ませんよ」
「はい、姉様」
「姉様頑張って。何か食べておかないと途中で倒れてしまうかもよ」
「ええ、わかっていますとも」
姉弟からしきりに促されるキアラである。いつも通り用意された美味しい朝食のはずが、あまり味がわからなかった。
弟のエリックはクリストフについて、父の前では不安だと気弱な口ぶりだったのに、今日はわくわくとした表情を浮かべている。主役でないため気が楽なようで、この上なく羨ましかった。
姉の方はキアラに付き添ってくれて、目が合うと勇気づけるような微笑を浮かべた。婚約がまとまりそうだと報せると、優しい励ましの手紙が来て、当日は約束通り同席してくれる事になった。
奇しくもここは、姉が一番のお気に入りとして選び、親しい人達を招待して式を挙げた場所である。キアラはあの素敵な式の思い出と、自らの苦い経験とが入り混じって、複雑な気持ちになった。
「……姉様、見て下さい。おばあ様が私に譲ってくれたのです」
「あら、いいじゃない! ちょっとよく見せてくれるかしら」
まだ少し時間があるようで、出迎えのために建物の外に向かいながら、キアラは姉に話しかけた。
祖母は、今まで人見知りのため滅多に人前に出なかった孫娘が行動と考えを改め、そして婚約が整ってからは常に心配そうな表情を浮かべている。
ずっと大切にしていた洋扇子を綺麗にして、譲ってくれた。新しい羽飾りなどはいかにもキアラの好みで、元は古い品だとは感じさせない、洗練された造りに生まれ変わっている。
『いつも私の目が光っているようなものだと思って、胸を張っていなさいよ』
譲ってくれた際に一緒に掛けられた言葉を、キアラは一字一句忘れず記憶に刻み付けてあった。
秋の少し冷たい風だが、寒くはない。陽ざしは穏やかで気持ちの良い、思わず空を見上げたくなるような過ごしやすい日だった。
「……」
深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出しながら、キアラは姉が式を挙げた日を思い出す。大事な出番の前に取り乱したものの、どうにか台無しにせず済んだ代わりに、恥ずかしい失態を誰かに知られてしまった。
相手の正体は、聞き回ったにも拘わらず最後まで判明しなかった。招待客は式に夢中になっているはずが、ただ偶然行き会ったのか、それともわざわざキアラを心配して追いかけてくれたのだろうか。
とても助けになってくれたのに、お礼も伝えられないままになってしまった。祖母が再三口を酸っぱくしていたのは、このような事態が予測されていた。
甘えた幼年期はあの日終わった、とキアラは自分に言い聞かせた。
「……そろそろいらっしゃるようですよ、……キアラ、そんなに気を張りつめなくても大丈夫」
いよいよクリストフが到着する時刻が近づき、キアラは緊張していない態を装おうとした。しかしやはり家族の目は誤魔化せないらしい。母がこちらに優しく笑いかけながら、ゆっくりと口を開く。
「すぐにその場で打ち解けて仲良くなれるなどと思ってはいけませんよ。信頼を得るというのは、とても時間がかかりますからね」
キアラは頷くしかできなかった。口を開けばきっと弱音を吐いてしまうのが目に見えていて、しかし今日この場でしたくはなかった。
「相手を大事にして、それからもちろん大事にしてもらう事。あなたはどちらも身を以てよく知っていますから。時間をかけてお互いをよく知って、そうしたら上手く行きますよ」
たとえ王弟殿下であろうとも、と母は付け加えた。この婚約は、と隣にやって来た父がその先を続けた。
「国王陛下、つまり兄君からどうか弟を、とお願いされている。彼はそう簡単に利用されないだろうとしても、ずっと気を張りつめ信用できない者達に囲まれて生きていくのは、誰にとっても本意ではない。大勢の願いと祈りの中に、キアラも加わるのだと想像してごらん。決して、一人だけで立ち向かうのではない」
「はい、お父様」
キアラが人に会うのが怖い、と両親に打ち明けた時、二人は娘の気弱な発言を少しも責めたりはしなかった。
『あの子の発言は理に適っているじゃないか。人前に出る自信がないから、もう少し時間が欲しいのだそうだ。社交界がどのような場所なのかよくわかっている。発破を掛けて火が付く気質でもないだろう。上手く立ち回る自信と決意を持ち合せるその日まで、親としては見守るのが正しいと、私は思う』
こっそりと盗み聞きをしてしまった大人達のやり取りと、それでも許してくれた父の言葉を、キアラを思い出した。
「はい、多くの方の尽力の上に成り立つ話であると、決して忘れないようにします」
キアラは一人で出迎えるつもりで、屋敷に背中を向けた。家族もそれを承知して距離をとり様子を窺っている。けれどそれを無視して、こちらへ悠然と近づく白い姿があった。
「そういえば、彼も猫さんを気にしていてね。姿が見えないと『今日はいらっしゃらないのですか』と毎回尋ねて来るほどだよ」
「そうなのですか。ココちゃんは王城にもお顔が広いのですね」
堂々とした足取りで最後に登場した飼い猫はキアラの隣までやって来ると、その場に座ってこちらを見上げた。一緒に王弟殿下を迎えるつもりらしい。誰に対しても素っ気ない態度を崩さないのに、今日は珍しい振る舞いである。
「……」
彼女の美しい水色の瞳が何を言いたいのか、家族の一員なのでよくわかる。非常に賢い猫なので、きっと偶然ではない。
「ええ、大丈夫。私、ヴァンティークの娘ですもの」
キアラは猫に向かって大真面目に頷いて見せた。何を言っているのやら、という自分だけの面白おかしい状況に、かえって勇気をもらえた気がする。
そこへ蹄の音と共に、客人達がいよいよ姿を見せた。そのうちの一人が乗って来た馬の手綱を誰かに預けて、こちらを向くのが見える。建物や背後の美しい湖ではなく、はっきりとこちらを認めたのがわかった。
黒髪、切れ長の涼しい眼差しは王族らしい品位を備え、年齢にそぐわない威厳をたたえている。愛想笑いを浮かべるでもなく、ただこちらを見定めるように、静かな眼差しだった。こちらへ歩み寄って来ると背の高さや、日頃から絶えず鍛えているであろう身体つきと隙の無さが見て取れる。
「……」
この人からは逃げない、とキアラは決めた。祖母が譲ってくれた扇子を握りしめた。そして、恥ずかしい思いは二度とごめんだと、名前を知らないままの相手をちらりと思い浮かべた。
あの優しさに報いるために、前を向いた。いつか再会する時があるとすれば、今度は胸を張ってお礼が伝えられるように。
「はじめまして、でよろしいでしょうか。遠くからご足労頂きまして。無事にお会いでき、嬉しい限りです」
「正式にははじめまして、で違いないでしょう。ヴァンティークのキアラ嬢、この場を整えて下さって、こちらこそ非常に助かった」
彼がわざわざ付け足した台詞は、何度か非公式でヴァンティーク領を兄君と共に訪れていたからだろう、とキアラは推測した。なかなか大胆な行動を好む少年時代だったらしい。
こちらへどうぞ、とキアラは彼と共に踵を返しながら、家族の紹介から始めるために歩き出した。
先ほどクリストフが付け加えた台詞に全く別の意味合いが込められていると知るのは、もう少し先の事。この時はまだ、夢にも思わなかった。
キアラは逃げないと覚悟を決めたからと言って、すぐにクリストフと打ち解けたわけではない。人見知りがそう簡単に治るわけがなかった。腹の探り合いが年単位で続いたものの、相手側から苦情は入らなかった。きっと父から、キアラの困った気性についての説明があったのだろう。
けれど何よりクリストフは、雷のようだと言われているような振る舞いとは程遠かった。大切に、これから長い時間を一緒に過ごす相手としてキアラを尊重してくれているのは、母があの日に口にしていたようによくわかるものであった。
彼が軍人として、公爵としての職務に決して手を抜かない姿勢は、尊敬するべきものである。それは徐々にキアラの婚約者への自然な憧憬として順調に育っていった。
おそらくは圧倒的に有利な状況から、結局兄王子に譲った経緯で、目算が外れて大いに損失を被った者が大勢いるのだろうという結論に至った。
そうして、キアラもいよいよ社交界へと本格的に出る年齢がやって来た。すると早速招待された王城ではヴァンティークに反感を抱くご婦人方とやり合い、これはクリストフが乱入したおかげで穏便にお開きとなった。その後も国王主催の夜会のほか、あちらの祖母君と歌劇を楽しむ機会も設けられている。
今のところはさほど躓く事なく過ごしていたのだけれど、ここへ来て侯爵家に一つの問題が持ち上がった。
祖母が今頃になって、実はキアラが嫁いで遠くへ行ってしまうのには少しも納得がいっていないのだと言い出した。
「……だって、あの人見知りなキアラは領地内で相手を見つけるとばかりに思っていたのだもの」
「なにも今更言い出さなくても。当主である私が報告した時でなければ、キアラが可哀そうです。頑張って交流を試みているというのに、か弱い老人のような言動で不安にさせるのは卑怯でしょう」
「クリストフ殿下は、私がおばあ様からもらった洋扇子の話をしたら、繋がりのある舶来の美術品を心置きなく見学できるように取り計らってくれましたよ。それから私が王城で一人、他の淑女の方々とやりあっているところへ、しっかりと助けに来てくれる方ですから」
宥めるような父の口調に、祖母自身も大いに不本意そうな表情と口調である。本当に彼とは上手にやっていけそうなのかと繰り返し尋ねられ、家族一同非常に困惑していた。
祖母曰く、昔は一旦嫁げば実家がある領地には滅多に帰る事はなかったなどと口にして、つまりは寂しいらしい。キアラもせっせと話に応じつつも、最近会った婚約者の素敵な話をせっせと喧伝しながら、同時に対策も練らなくてはならなかった。
「……猫さんも行きたいの?」
というわけでキアラは祖母とばあやを伴って、クリストフが所有する屋敷に招かれた。一緒に飼い猫も付いてきてしまったが、心配せずとも失礼にはならないと父が言うので、そのまま一緒に馬車から降り立った。
「ここは元々ヴァンティーク家の持ち物だったのですよ、キアラお嬢様」
「そうだったの?」
「万が一にも、秘密の合鍵や密かに侵入できる隠し通路などがあっては、公爵閣下の命に関わりますから。その必要がない、信頼している相手が管理していた建物を希望されて、当主様がお譲りなさったと聞いていますよ。王都に滞在する時は専らここを利用しているようです」
ははあ、とキアラはその説明に納得した。しかしばあやの丁寧な説明が、かえって祖母を不安にさせてしまったらしい。
「……」
「元々ヴァンティークが所有していたというなら、気楽に過ごせそうな気がしますね。ばあやもそう思うでしょう?」
「そうですとも! くつろげるのが一番肝心ですからね、ね!」
屋敷の前でやり取りをしていると、クリストフがわざわざ出迎えのために外へ出て来た。彼は歓迎の言葉を一通り述べた後で、天気が良いので、と中庭へ案内してくれた。屋根があるおかげで日傘も必要なく、そして歓談するための場所が既に準備されている。
キアラは上等な敷布を持ち込んで、飼い猫が狙っている椅子を先回りして覆っておいた。毎年夏前は非常に毛を散らかす体質である。猫は満更でもなさそうに上に寝そべって、クリストフもその姿を見て笑っている。
その一幕のおかげか、和やかな空気が流れた。事前の打ち合わせによって示し合わせた通りに祖母が好きそうなお菓子が用意され、一緒にキアラが好みそうな味も揃えられている。
「……公爵閣下には私の息子、ルイスが大変お世話になったばかりでなく。今度は孫娘のキアラまで、非常に大切にしてもらっていると」
「それにつきましては私がお礼を重ねなければいけません。当主夫妻、キアラ嬢、つまりヴァンティーク侯爵家なくしては、私も兄も想像するのも怖ろしい結末を迎えなければならなかったでしょう」
そのような会話が始まって、クリストフは普段人々の前で振舞うような、王弟や軍人としての隙の無い姿ではなく、あくまで穏やかで品のある高貴な青年としての一面を見せた。
そうでしょう、と途中でわざわざキアラに目配せしてまで、親密さを強調しようと試みているらしい。少しでも自分の祖母が彼を信頼してくれるように、こちらも少々気恥しいとは思いつつも、なるべく自然に見えるように応じておく。
交流が進むにつれて、孫娘と婚約者の間には仲良く穏やかな関係が育っているのだと、祖母の懸念も良い形で大部分が払拭されたらしい。キアラも安心してお茶とお菓子を味わいながら、猫がころころ敷布で遊ぶ様子を眺めた。
「……どうぞあとは二人で。私はここで猫がこれ以上、毛を撒き散らさないように監視していますから。本日はご多忙の中、不躾な訪問に快く応じて下さり、閣下に心より御礼申し上げます」
「……そうですね、では今日のために庭師が張り切っていましたから、ぜひ」
祖母は満足したのか、頃合いを見計らって穏やかに話を締めくくった。キアラは婚約者に腕を貸してもらって、家族が見ているので少し恥ずかしかったけれど、素直に任せておく。
早速現れた公爵邸の庭師が来て敷地内を案内してくれた。後ろをついて来たばあやもクリストフが雇っている使用人達と今後のために交流したいようで、熱心に質問しては話し込んでいる。
「……今日は祖母のため、わざわざ心を砕いていただきまして。貴方がどうこうという話ではないのに、本当にありがとうございました。祖母の懸念は完全に、私が手のかかる子供であったのが原因です」
「貴女の祖母君が安心されたのであれば、何よりということで」
キアラはクリストフに改めてお礼を述べた。幼少期にもっとしっかりした印象を周囲に抱かせる子供であれば、彼に余計な負担を掛けずに済んだはずだった。
日頃から孫娘にもっとしっかりしなさい、という方針のかくしゃくとした祖母が気弱な本心を認め、キアラも動揺してしまったがとりあえず少し落ち着いたらしい。
「まあ、こちらも自分の祖母とは度々やり合う間柄なので、お互い様ということで。いつもは兄や義姉上が間に挟まるのですが、貴女もいてくれると勝手ながら気が楽でいい」
クリストフの話によると、軍の学校へ入る時に自分の祖母からこんこんと説教されたらしい。お前は何をしでかすかわからない第二王子として怖がられている旨を頭に叩き込んでおきなさい、という小言がひとしきりあったようだ。
『おばあ様、兄である私を助けるため奔走したクリストフが背負わなければならないとしたら、私も同じです。半分引き受ける義務があります』
クリストフの兄君の話を聞きながら、どこの家も同じようなやり取りをしているものだ、とキアラは思う。もう一人加わる事で、刺々しい空気が多少緩和されるらしい。
父が以前弟に助言していた、誰かに間へ入ってもらって交渉するという方法を、キアラも段々とわかってきたところである。
「それで、少しは落ち着きましたか? ヴァンティークの一員として色々と忙しく過ごしている様子ですが」
「ええ、……起きていても夢の中でも、今はそれなりに楽しく過ごしています」
クリストフが心配してくれているようなので、キアラも洋扇子を弄びながら肩を竦めておいた。
少し前、王都に出て来たばかりの頃、キアラは奇妙な数日間を過ごした。王都で流行ったという銀時計を使った可愛らしいおまじないがあって、ほんの軽い気持ちで試してみたのである。すると信じ難いことに、キアラはまだ少年だった頃のクリストフと顔を合わせ、話す機会を得た。
その上キアラだけのおかしな一夜の夢、ではなく当時のクリストフもはっきりと、夢の中に会いに来てくれた奇妙な出来事として記憶していた。
全体的には良い体験だった。その直後にひどい悪夢に魘されたのはともかく、過去のクリストフは随分助けられたと言う。訳の分からない事態に振り回されたキアラも、そのように教えてもらえると、意味があったような気がして嬉しかった。
本来は想像するしかない、顔を合わせるより前の少年だった彼と実際に話ができたのだ。今現在の婚約者がする言動の端々に、過去のまだ可愛らしい年頃だった彼らの面影が、微かに見える事がある。
当初は彼を巻き込んでしまって申し訳ない気持ちだったが、クリストフが教えてくれた事情を、少しずつ整理しつつあった。
「初めてきちんとお会いした日、より以前に姉の結婚式でも一応、お会いしていましたね。私の方はまさか貴方が助けてくれたとは思っていませんでしたが」
「ああ、……正式な手順を丁寧に踏んでみたら、ちゃんと人見知りだった頃のキアラ、貴女が出て来てくれたので、ああよかったと安心しましたよ」
「……」
まさか姉の結婚式で助けてくれた相手まで、クリストフだと思わなかった。婚約者の前ではせめて、と必死に取り繕ってきた見栄は木っ端微塵に吹き飛んでしまった。文字通り雷に打たれたような衝撃から、ようやく立ち直りつつある。
これ以上悪い事態は起きないはず、と気を引き締めて、肩書に見合う振る舞いをするのだとキアラは自分に言い聞かせている。
「あのように恥ずかしいのはもうあれきりですからね、本当に」
「……」
以前その事実が発覚した際、似たような宣言を彼にした記憶が一応あるものの、キアラは改めて口に出しておく。するとクリストフはこちらの決意を聞いて、何か思案している様子だったのが、やや歯切れの悪い口調で話始めた。
「……誰にも言わないでいただきたい。兄の戴冠式があった日、厳かな式の途中で、別に何か特別な事があったわけではないが、子供の頃はどちらも無事に大人になる未来が想像できなかった頃を思い出して」
クリストフは台詞の途中で恥ずかしく思ったのか、目を瞬いているキアラの目線から逃げるように近くに咲いていた花をそっと触った。
普段は優しい、冗談が好きで明るい兄君らしい。しかし幼少期の暗い生い立ちと、式においてはそれを感じさせない堂々とした立ち振る舞いを目の当たりにしたクリストフも、大いに思うところがあったようだ。
「このままではまずいと感じて、あまり考え過ぎないように、天井の石を数えながら軍事史の試験に向けた暗唱をしてなんとかやり過ごした。まあ当時十五、六の出来事ですから、大目に見ていただきたい」
キアラが何も言えないでいるうちに、クリストフがそそくさと付け加えた。
「今の話はどうか、ご内密に。父君も母君も姉君にもおばあ様にも、教えてはだめですよ」
もちろん他の方にも、とクリストフは念を押した。キアラも不思議な夢の中であった少年だった頃の彼に思いを巡らせれば、厳かな式の途中でじっとやり過ごそうとしている様子が目に浮かぶようだった。耐えられなかったキアラとは違い、彼の方は最後まで持ちこたえたらしい。
「貴女の姉君が内輪で式を挙げたあの日、涙が止まらない貴女を、私もそうだったと励ますような台詞を考えたのですがね。しかし今は見知らぬ同士なので余計に困惑させてしまうと考えているうちに、花嫁付添人は戻る勇気が湧いたのでめでたし、めでたし」
キアラは、ちょうど同じ季節の頃に行われた姉夫婦の特別な場を思い返した。クリストフは兄にせがまれたとかで、わざわざ変装までして紛れ込んでいたらしい。
そうして、こちらが落ち着くまでただ黙って手を貸した際の複雑な心境を、相手は言葉を選びながら教えてくれた。
「随分と遅くなってしまったが、この上なく良い演奏だった。そちらの方面には詳しくなくとも、高度な技量に加えて、祝福と感謝の心がこもっていたのは充分に伝わったので」
「……とにかく必死かつ夢中だったので、今となってはどのように弾いたのか、記憶が曖昧なのが残念なところですが、褒めてもらえると嬉しいです」
あの後、キアラは連弾の披露が終わって、本番直前まで姿を見せなかったため弟から散々文句を言われた記憶しかない。
それにしても、とキアラは改めてクリストフを見上げた。
「……しかし、今のお話を誰にも教えてはいけないとするなら、素直に心のうちに秘めておくとして。まるで手に入れた宝物を誰にも話さずしまい込むのと同じではありませんか」
キアラも流石に彼が打ち明けてくれた経緯を、社交界中に触れ回る気はない。しかし優しい人柄が伝わる話がたくさんあるのに、常に不穏な噂がついて回るのはもどかしい思いである。
「せめて兄君、陛下もだめですか」
「……一番やめていただきたい。顔を合わせる度にその話題が始まるのが目に浮かぶようだ。泣いていないのに泣いた、と最悪な尾ひれがつく形で」
クリストフが心の底から苦い表情を浮かべている。キアラとしてはきっと素敵な弟を自慢したい兄陛下の気持ちもわかるので、肩を竦めておく。その代わりに、と話の先を続けた。
「なんにせよ、次は私がそばにいますのでね。大抵の式典は夫婦で出席しますから。今度はこちらが、貴方に助け舟を出す日もあるでしょう」
公の場とはそういうものだ。両親も姉夫婦もそうしているので、当たり前の光景として密かに憧れる気持ちもある。
「お気持ちだけありがたく。私も、様々な場所へ共に赴くのが楽しいのは事実としても。貴女の前では絶対に醜態を晒さないと固く心に決めているので。……そろそろ、おばあ様と猫さんのところへ戻りましょうか」
楽しく話していたところなのに、彼は素早く態度を切り替えた。
二人でやりとりしているうちに、どうやら使用人同士の打ち合わせが終わったらしいばあやと公爵邸の庭師が、不思議そうにこちらを眺めている。
「……最近のお二人は本当に仲睦まじいですねえ。知らないところで、何かあったのですか?」
「……ええ、これからは様々な場所に二人で出かけるようになるでしょうから。その予行として、です。クリスもそう思うでしょう?」
ね、とキアラは急に相手の名前を口にして、いつもこちらを動揺させる意趣返しを仕掛けてみる。最近毎晩寝る前に練習している甲斐もあって、自然な流れで口にできた。
「その通り。私はずっと、キアラとこうしていたかったのでね。とても長い時間、お行儀よくお待ちした甲斐があるというもの」
残念ながらクリストフは、キアラが期待したほどの動揺は見せなかった。名前を口にされると、こちらはいつもどきどきしてしまうのに、彼は平気であるらしい。
いつものように親密さを周囲に示すため名前で呼び合う約束の下、嬉しそうに幸せそうに笑みを浮かべて見せた。夏の少し眩しい空が、彼によく似合っている。
彼がさらりと口にした台詞の真意は、キアラだけの宝物にしておいてよろしい、との事である。