最終章
私は計画をすぐには実行に移せなかった。彼女と対面する機会がなかったからである。以前の様に校門の前で待ち伏せをすればその機会は得られたであろうが、あそこは何しろ人通りが多すぎた。それでは計画が実行半ばで邪魔され、失敗に終わる可能性がある。それだけは絶対にあってはならなかった。殆ど会う機会の無い彼女と一対一で対面できる環境など、考えてみればそう簡単に得られる訳はなかった。そんな訳で暫くの間、私は普通の高校生活を送らざるを得なかった。ただしいつ好機に出くわしても良い様に、常に懐にはナイフを忍ばせていたのであった。
私の通う高校は前述の通りかなりのマンモス校で、主には私を含め志望通り進学できなかった生徒の受け皿として機能していた。だがそういった生徒の他にも若干名ではあるがスポーツ推薦によって入学している生徒もいた。彼らは大多数を占める一般の生徒とは違い、周囲から将来を嘱望された希少な人種であった。私立高校というのは大概こうした二重性の基に経営されているものである。つまり大多数の資金源から多額の学費を徴収し、それを少数のエリートに投資する事で実績をあげているのである。そんな校内での階級意識は言うまでもなくもの凄く、かかるスポーツエリート達は常にその中の特権階級であった。誰かが彼らの使い走りをさせられ、からかわれ、嘲笑を浴びているのを尻目に教室の隅で小さくなっているのが私の日常であった。この階級意識に嫌気がさして自殺した生徒もいたくらいである。自殺したのはごく普通の男子生徒で、取り立てていじめを受けているという風でもなかったが、それでも人間社会の残酷な部分を顕微鏡で拡大して見続けているかの様なこんな校風に嫌気がさしたというのは分かる話である。しかしそれ程厳しい階級社会の支配者たる特権階級の彼らでも、女子生徒達には頗る優しかった。私の目から見ればそれは当然で、彼ら特権階級はあくまで犠牲者の中での特権階級であり、真の支配者たる女子生徒から見ればその下に置かれる階級であったからである。すなわち彼が特権階級であればある程それは立派な犠牲者である事を意味していた。であるからこそ、彼らは女子生徒に優しく接する事でその階級を保持していたのである。
私のいたクラスで、出水こそそんな特権階級の最たるものであった。彼は硬式野球部のエースで、甲子園でピッチャーとして活躍した事もある、地元のちょっとした有名人であった。卒業後はプロ入りだとかいう噂が真しやかに流れ始めていた。出水はテレビに映るときこそ清々しい高校球児そのものであったが、学内では乱れた服装に金のネックレスを身に付け、携帯電話を片手に話し込みながら使い走りに買ってこさせたコーラを飲み歩くという悪童ぶりであった。そんな出水は当然の如くクラスの女子生徒の大多数の支持を集めていた。彼に使い走りに遣らされた男子生徒は周囲の女子生徒からの軽蔑の視線をも浴びる事となり、二重に辛い思いをするのであった。私はそれまで出水のこういった仕打ちを免れてきたのだが、この時期遂に私にも白羽の矢が立った。尤も私は入学して以来一貫して孤独だったから、目をつけられる時期としてはむしろ遅すぎたぐらいであったのだが。
「おいガリ勉、コンビニ行ってコーラと焼きそばパンと漫画買ってきて。ダッシュで」
と、ポケットに手を突っ込んだ権柄な出水は、読書をしていた私に突如として言い放ったのである。私は暫く黙ってしまった。周囲の生徒はこの瀰漫する不穏な空気に知らぬ振りを決め込んでいた。呪詛とも哀れみともつかぬ視線を送る者もいた。私は面倒な事になるのは避けたかったし、コンビニには私も買い物に行く用があったので、不本意ながらも結局は買ってきてやる事にした。ところがこういった頼み事を一度承諾してしまうと増々相手を付け上がらせるらしく、出水はそれ以来、来る日も来る日も同じ頼み事を私にしてくる様になった。終いにはツケで私を買い物に行かせる様になり、そのくせ一向に金を支払う様子がない。加えて私が渋々買い物をしに教室を出ようとすると、背後から無数の失笑が私を小突くのである。出水を飼い慣らした女達はこんな方法で自らの権力を誇示するらしかった。私もこれにはさすがにたまりかねて担任の教師に相談したのだが、これがのらりくらりと躱されて全く取り合ってもらえない。考えてみれば看板球児の不祥事など学校側にとってあってはならない事態なので、意図的に見て見ぬ振りをしていたのであろう。
私はこうした日常に業を煮やした。
(早く彼女のもとへ行かねば!早く彼女の犠牲にならねば!僕の一生はみるみる腐敗してしまう!)
こんな焦燥が遂に私を行動へと駆り立てた。こうした日常の些細な不幸は私を行動させる為にはむしろ僥倖であったのである。そんな訳で、私は意を決して、下校する彼女を尾行する事にした。
放課後、以前と同じ様に私は校門の前で彼女を待った。すると意外にも彼女はすんなりと現れた。それも一人で。私は息をのみ、彼女の後を付けた。無論彼女が人通りの少ない小道にでも入れば迷わず行動を起こす腹積もりであった。しかし彼女の向かう先は最寄りの駅を目指す方角で、人通りはむしろ多くなるばかりである。剰え彼女は急いでいるのかやけに早足で、私は彼女を見失わない様に追跡するのが精一杯であった。しかし女の後ろ姿というのはどうしてこんなにも力強いのか?彼女がとうとう駅舎に入ると、私は慌ててそれに続いた。改札を通過する彼女を目で追いながら、私は急いで券売機で一番高価な切符を買った。そうして私が駅のホームまで辿り着く頃には、彼女は既にホームの遥か彼方におり、更に奥へ奥へと突き進んでいるのであった。それが田舎の電車で、本数が少ない事やホームに人気の無い事が幸いし、私は素知らぬ顔でゆっくりと彼女に近づく事ができた。彼女は携帯電話で何やら熱心に文字を打っていたので、私を警戒するどころか周囲に気を配っている様子さえ無かった。数多の生徒を見送ったであろうこのホームの閑散とした空間が、正にその時の彼女と私の為だけに存在している気がした。やがてホームに電車が滑り込んでくると、彼女の流麗な黒髪が風に靡いて少し乱れた。彼女は不意の装飾を帯びて、一層涼しげな美しさを帯びた。そんな彼女を横目に、私は彼女と同じ車両の隣のドアから電車に乗り込んだ。シートに座って携帯電話を眺める彼女を、私は少し離れた手すりの陰から見守った。電車は上り列車で、駅を経るごとに混雑し、時折彼女が人混みに隠れてしまいそうになったが、私はその度に人波の間から彼女が垣間見える絶妙な立ち位置を見つけ出すのであった。こんな情熱が自分の内に秘められていた事が我ながら意外であったが、事実私にはこの時生の実感が充溢していた。が、私はそんな喜びをひた隠し、平静を装った。
彼女が降車したのは、街の中心部にあたる主要駅であった。当然降りる人間も多く、人波に揉まれながら、彼女に続いて私はホームに降り立った。行き交う人々に紛れて、私は彼女の翻すスカートを目印に、後を追った。乗り換えでもするのかと思ったら、彼女は改札を出て繁華街へ向かっていた。私には次第に嫌な予感がざわめいてきていた。学校帰りに繁華街に来る用事といったら、友人との約束があるか、さもなくば男との逢瀬に決まっている。それは何であっても構わないが、どの道そんな状況で「決行」する事は難しいだろう。そう考え、私は半ばその日の決行を諦めていた。
結局彼女は思った通り、待ち合わせ場所で有名なあるデパートのアーケード前で歩みを止めた。絶えず辺りを見回す彼女を、私は物陰から密かに眺めた。彼女と待ち合わせた相手の顔を拝んだら、今日のところは引き下がろうと思っていた。
思えば、彼女を尾行してきたこの道程は私の半生の縮図であった。他の何物にも構う事無く、ただ彼女だけをひたすら見つめ続け、追い続けた。ところが彼女は一度として私を見返る事は無かった。彼女はいつも私以外の何かを遠く見つめ、私の為ではない微笑を嫣然と何処かに送っているのだ。私の孤独は一心に見つめる相手に視線を送り返してもらえないこの一点にのみ起因しているのであろう。そう思えば、この尾行の終焉はまた私の人生の終焉である様に思えた。私の人生はどこへ向かっているのか?それを知る為にも、彼女を最後まで見守っていなければならない気がした。私は彼女を斜め後ろの柱の陰から固唾をのんで見守った。時折覗く横顔に澄明な微笑がこぼれているかに見えた。こんな時でさえ、私はその恩恵に浴する事を夢見ていた。彼女の見つめる先のアーケード街。横断歩道の信号が青に変わり、向こう岸の人波がこちらに押し寄せてくる。こちら側からの人波とぶつかり合い、しぶきを上げた様にあちらこちらから方向を失いかけた人々が現れる。
その瞬間、彼女の横顔がふと和らいだ。明朗な彼女の挙動は私の心臓を瞬間的に締め付けた。あんな清らかな微笑みはやはり私には向けられていないのだった。
「おう、待った?」
私はあれほどまでに下劣な声を後にも先にも聞いた事が無い。ざらついたヘドロの様な声。彼女が汚される予感が私の中で一気に膨張し、私は息を詰まらせた。声の主は出水だった。私は何の感情も起こす事ができず、ただ呆然と立ちすくんだ。頭は空白で、身体は膝から崩れ落ちそうであった。彼女は出水と何やら楽しそうに談笑していた。私の孤独を一瞬にして癒せるはずの笑みは、溢れ出んばかりに出水に浴びせられていた。
私はこんな事態を重々覚悟していたはずであった。しかし現実は想像よりも遥かに残酷であった。憧憬が一転して嫌悪に変わるのはこんな時ではないか?私は姉の存在を奪われた気がした。健全な男と女のやり取りの中で、神の象徴を取り上げられた気がしたのだ。彼女は畢竟、純粋な女であった。それは紛れもなく私の姉の姿そのものであった。その崇高な選別者は私でなく、またあの愚連隊でもなく、出水という世間に認められた、将来のある、健全な男を選んだ。そしてそれは世間一般において当然の選択であった。もはや私は犠牲者になる事はできない。死を以て彼女を振り向かせようと、私の様に矮小な人間は間もなく忘れられてしまうだろう。私はただ彼らを呆気にとられて、物欲しそうに見ている他無いのだ。しかしそれだけではあまりにも寂し過ぎると思った。こんな途方に暮れた男が、普段隠し持っているあの欲求を顕在化させる事に何の無理も無かった。すなわち下克上の欲求。彼女は神と人間の相互性から私を排除した。私はもはや人間ではなくなったのだ。すなわち彼女は私を殺した、紛れも無い殺人者である!
その欲求は唯一の方法であった。神に勝てる方法とは何か?それは意志の力だ。それも実に気紛れで突発的な意志の力だ。従って自分さえも予想だにしていなかったこの欲求は、神を裏切って糜爛した現実を切り裂く唯一の手立てである筈だった。
バタフライナイフは私の掌で銀の羽を広げ、刃は頭をもたげた。初めて日の光を浴びた刃は、私に共鳴した様に刃先から一閃の紫電を放った。刃は私の意志の表象であった。それは私ではなく、彼女に向けられた。大空に吸い込まれる様に、刃は一片の迷いも無く彼女に向かって一直線に飛んでいった。意志の矢はこうして放たれた。街の一角に稲妻の如く金色の閃光が迸った。それは彼女という神を抹殺し、天変地異を起こす為の異質な光であった。彼女は微笑みを残したまま、一瞬こちらを向いた。それはまるで私に向けられているようで、私にとって惨劇の直前の至福であった。このあまりの皮肉が為に、私には一抹の躊躇が生まれていたのかも知れない。
その時私の右手は恐ろしい力で蹴り上げられた。彼女を貫くかに思われた刃は宙を舞い、生命を失って無惨に地に叩き付けられ、雑踏の地を滑っていった。出水であった。私はこの偉丈夫にあっという間に取り押さえられ、地に伏せられた。私はその力に抗し得なく、少しの間もがいて、やがて動けなくなった。汚れたアスファルトを覆う埃っぽい空気の向こうに、私は刃の姿を探した。彼女の叫喚の中、刃は力なく路傍に横たわっていた。私はこんな突発性を以てしても、この世の摂理に勝つ事はできなかったのである。その後にはただ荒涼たる物質世界が私の視界を占める様に聳えているだけであった。男の一生とは果たしてこんなものであろうか?いつしか私の目からは涙がこぼれ落ちていた。
私は遂に全てを失った。同時に初めて自分の精神から自由になったのである。出水というこの下品な程に健全な男は更なる英雄として世間に崇められ、一方私は白昼の通り魔として、単なる変質者として闇に葬られるに違いない。彼女は私を軽蔑する傍ら、出水を一層寵愛するであろう。私はその意味では出水を介して間接的に彼女の犠牲になったのである。従って私の半生は悲劇でなく、喜劇であったかも知れない。しかしそんな事はもうどうでもよいのである。
私は行動した。神ではなく自分の為に。私はこんな自分の生き方を今では愛しく思う。今となっては過去の遺物となった私の神をも愛しく思うのである。
その日、私の姉は夕日の余燼に染まった雲の合間、柔らかな余韻を残し、静かに消えていった。