慶松
第三章 慶松
私がこの世に生まれたのは、永禄八年(一五六五年)のことである。
後に大谷吉継と呼ばれることになる私には、もう一つの名があった。
慶松。
この名をつけたのは、木下藤吉郎――後の豊臣秀吉である。
私の父は木下小一郎(後の豊臣秀長)、母は東である。
二人は正式な夫婦ではなかった。
父はまだ一介の足軽であり、母は寺で育った尼で、読み書きや算盤などの学問を身につけていた。
父は寺の手伝いを通じて母と知り合い、やがて情を通じるようになった。
しかし当時の武家社会では、身分や家の釣り合いが重んじられ、正式な婚姻とはならなかった。
やがて私が母の腹に宿ると、藤吉郎様が間に入った。
「東殿は、うちで預かろう。」
こうして母は木下家の侍女として住み込み、私はその屋敷で生まれた。
生まれた私を抱き上げた藤吉郎様は、
「この子は慶松じゃ。」
そう言って名を与えた。
松の字は、藤吉郎様が特に好んだ字であったという。
幼い頃の私は、父・小一郎様と過ごす時間よりも、木下家の屋敷で過ごす時間の方が長かった。
やがて私が二歳になる頃、小一郎様は神戸秀好の娘と正式に婚姻し、別の家を持つことになる。
それを境に、父と私が同じ屋敷で暮らすことはなくなった。
ただし、それは私を捨てたということではない。
武士として家を立てる以上、父には父の責務があったのだと、幼いながらに理解していた。
一方で母は、あくまで自分と私の立場をわきまえていた。
私たちは木下家の一員ではあるが、嫡流ではない。
その距離を保つことが、かえって家中での立場を安定させることにもなった。
実際、母はその慎重さと実務能力から寧々様の信頼を得て、侍女として重用されるようになる。
寺で身につけた読み書きや算盤の知識は、屋敷の中でも役に立った。
私もまた、母からそれらを教わった。
「字は、人の心を残すものです。」
「算盤は、人の欲を映すものです。」
幼い私はその意味をよく理解できなかったが、その言葉は後に何度も思い返すことになる。
そしてもう一人、私に大きな影響を与えた人物がいた。
藤吉郎様である。
藤吉郎様は私を実の子のように扱い、時に膝に乗せ、時に戦の話を聞かせてくれた。
そしてこう言った。
「慶松、人を見る時はな、身分だけで判断するな。」
「偉い奴にも愚か者はいるし、身分の低い者にも賢い者はいる。」
その言葉は、幼い私の中に深く残った。
私にとって父は小一郎様であり、藤吉郎様はもう一人の父のような存在であった。
そして私はまだ知らなかった。
この二人の兄弟が、やがて天下の中心へと上り詰めることを。
そして、その間に生まれた私が、後に豊臣家の運命に深く関わることになることを――。
この時の私は、ただの慶松にすぎなかった。




