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Jester  作者: 明石 みなも


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前編

 久しぶりに投稿したと思ったらめっちゃ重い話です。時間も心も余裕がある時に読んで下さると嬉しいです。

 青い空、萌える緑の芝生、気持ちのいい晴天の草原。麗らかな午後の日差しが降り注ぎ、暖かなそよ風が吹いている。

 そんな素晴らしい場所に、どこからかきゃらきゃらと楽しげな子供の笑い声が聞こえてきた。


 始めに現れたのは、黒髪の偉丈夫だった。顔は何故かぼやけてはっきりとは見えないが、歴戦を乗り越えた強者らしい体格と雰囲気を纏っている。


 男はその逞しく無骨な腕に、真っ白な服に埋もれるほど小さな幼児を抱えていた。

 明るい笑い声を上げるその子の顔は、頭に被ったボンネットに隠れてよく見えない。ただ、布と布の隙間から輝く銀色の髪が覗いていた。


 そして、男を追って、もう一人の人物が現れた。

 女だ。

 長い銀髪が風に靡いてキラキラ光る。顔は靄がかかったかのようにぼんやりとしているが、微笑んでいるのはわかった。

 すらりと細く、しなやかでありながら女性らしいメリハリもある身体つきをしていた。

 

 男は立ち止まり、女に何か話しかける。追いついた女は男に寄り添った。

 男の腕の中の幼児が紅葉のような手を女へ向かって伸ばした。


 女は思わず漏れた、といった密やかな笑い声をたてた。男から幼児を受け取る。

 幼児はずっと機嫌が良く、楽しげな喃語が風に吹かれて草原を転がっていく。


 その光景はまるで、一幅の絵画のようであった。

 理想の家族そのものであるような――。

 

 そう思った瞬間、ふいに幼児がこちらを向いて、つぶらな瞳と目が合った。




「はあっ!」


 彼は飛び起きた。

 荒い呼吸を繰り返す。夢を見ていた。目覚めたとわかっていたが、慌てて隣を確認する。目的の温もりに触れ、安堵が胸に広がった。


 滝のように流れる銀髪に雪のように白い肌。折れそうなほど細い腰に対して胸や尻は女性らしいまろみがある。

 

 夢の中にいた、幼児を抱いていた女とよく似た雰囲気の女が彼の隣で安らかに眠っていた。

 彼女の名はイーディス。

 この国の王である彼、アレイスターの妻で、王妃だ。


 だから、夢のように草原で呑気に散歩などしない。王宮には美しく整えられた庭園があるのだ。

 そして、もし散歩に行くとしても、その隣にいるのは夫のアレイスターだ。


 アレイスターは自分の金髪とはまるで違うの夢の男の黒髪を思い出してぎりり、と唇を噛んだ。眠る妻の手をきつく握り締める。

 あんな夢は現実にはなかったと、自分に言い聞かせて動揺を消そうとした。


 ――おぎゃあ


「なんだ!?」


 不意に寝室に響いた鳴き声に戸惑う。

 まるで、赤子のような声だった。しかし、結婚して五年になるが、彼と妻の間にまだ子供はいない。赤子などいるはずがないのだ。


 アレイスターは思わず妻を抱きかかえた。血走った目で暗闇に沈んだ部屋を見回す。

 ここは王の寝室である。国内随一の防御魔術がかけられている。それを突破して侵入できるような者は片手で数えるほどしかいない。


 誰もいるはずがないし、赤子の声は寝ぼけたアレイスターが聞いた幻聴である。

 頭ではわかっていても、彼の不安は拭えなかった。



◇◇◇



 奇妙な夢と幻聴の翌日。あれ以来妙な現象はなく、なんでもない一日を過ごしていた。しかし、なんとなく不安を抱えたままのアレイスターは、自らの母である王太后エミリーを訪ねていた。

 信心深いエミリーはいつものように王宮の奥深くにある礼拝堂にいた。

 朝晩真摯に祈りを捧げ、公務の合間を縫って礼拝堂の清掃に励む。母は昔から、王妃でありながらまるで修道女のような生活をしていた。


 けれどもエミリーはそれを苦にしていない。むしろ年々晴れやかに、明るくなっている。その姿にアレイスターは安堵していた。


 アレイスターがまだ子供だった頃、エミリーの瞳はいつも絶望に沈んでいた。目を離した瞬間、死んでしまいそうな儚い女性だったのだ。

 そんな風になった原因はわかっている。エミリーは王妃であったが、軽んじられていた。

 出自が伯爵家であったためだ。


 アレイスターの父である先代の国王、エドワードがまだ王太子であった頃のこと。

 運悪く父の同世代の公爵、侯爵家は男子ばかり生まれ、令嬢がいなかった。しかも他国の王室でもほとんど姫が生まれなかったそうだ。


 父は身分の低い女性から伴侶を選ぶしかなかった。仕方なく選ばれた王太子の婚約者。それがエミリーだった。

 歴史はそこそこにあるが、権力欲に欠ける。そんな評価の伯爵を父に持つエミリーは、万事において慎ましやかで、大人しい性格だった。

 

 そんなエミリーが王太子妃に選ばれて幸せだったかと言われたら、否だ。

 当時の王妃、つまりは姑とその友人の公爵、侯爵夫人たちに囲まれ、徹底的にいびられたらしい。


 マナーがなってない、教養が足りない、もっと優雅に踊れないのか、これだから伯爵令嬢は。


 何もかもを否定され、頼みの夫は母を妻にと望んだくせに無関心。

 なんのことはない。エドワードには愛人がいたのだ。その愛人は元侯爵夫人の年上の未亡人で、かつて他国から友好のために嫁いで来た公爵令嬢でもあった。


 エミリーよりも教養高く、優雅で上品だが、年齢と未亡人であることがネックとなり結婚を許されなかった。

 エドワードはエミリーの存在を必要な時以外は無視し、個人的な時間はすべて愛人の元で過ごした。


 姑の嫁いびりに、夫の浮気。

 そんな最悪な状況であるのに、貴族たちは玉の輿だと羨むだけで、誰も母の孤独に寄り添ってはくれなかった。


 そうして、エミリーの心は完全に折れた。

 その後に誕生したアレイスターの養育は姑に預られた。「伯爵令嬢如きに王太子は育てられない」と言われ、抵抗する気力がなかったのだ。

 一人も味方がおらず、子供さえ取り上げられたエミリーが死を選ばすに神に縋ったことを、アレイスターは感謝している。


 母をいびり倒した女に養育されたのだ。姑は、彼にとっての祖母は猛烈に厳しく、何度隠れて泣いたかわからない。

 そんな時に真っ先に気づいてくれたのがエミリーだった。王宮の、人目につかない庭園の隅で泣くアレイスターを見つけて慰めてくれた。


 弱くてごめんね。守れなくてごめんね。


 泣きそうな顔で謝る母に彼は申し訳なくなった。

 アレイスターの頭が良くないこと、要領が悪いこと、才能がないこと、そんな、彼の不出来の理由は「母親が伯爵令嬢だから」で片付けられた。

 片付けられて、しまった。


 悔しかった。


 母が、母だけが、アレイスターを愛してくれている。たったひとりの家族なのに、彼の悪い所は母のせい、良い所は顔しか知らない父の手柄にされる。

 

 悔しい、悔しい、悔しい。

 いつか、見返してやる。エミリーは素晴らしい人だと証明してみせる。

 ずっと、それを目標に、歯を食いしばって生きてきたのだ。


 現在、厳しかった祖母も、父のエドワードも、その愛人も亡くなっている。うるさい祖母の同世代も隠居し、エミリーの周りは若く、王太后を慕う侍女で固めた。


 妻のイーディスもエミリーを敬愛している。

 イーディスの母親はエドワードの妹だ。つまりは王女で、さらに父親は由緒正しい公爵家の当主であり現在の宰相だった。


 ともすればアレイスターより高貴な血筋で、両親の祖母たちはエミリーをいびり倒した張本人だが、イーディス始め、他の公爵家の面々はエミリーに礼を持って接してくれている。

 最近のイーディスは母の朝晩の礼拝や掃除の伴をすることもあるらしい。


 やっと優しい環境に身を置けるようになって、母は年々明るくなっている。

 彼は心から嬉しかった。エミリーが笑ってくれていたら目標達成だ。


 ただ、ふと思うことがある。エミリーが信仰するこの国で崇められている神は時間を司る。

 過去、現在、未来のあらゆる事象に精通し、信心深い者には時を巻き戻して人生をやり直す機会を与えてくれるという、叡智と慈悲に溢れる神だ。


 そんな神を真摯に崇めるエミリーは、何かやり直したいことがある、ということなのだろう。その人生を振り返れば、さもありなん、とは思う。


 ただ、息子としては今が幸せだと思っていてほしい。


 よく笑うようになった母と話すうちに、アレイスターの不安は消えていく。そろそろ執務室に戻ろうか、と思った時だった。不意にエミリーは笑顔を消し、首を傾げた。


「最近、お子さんを連れて来る人はいる?」


 唐突な質問にアレイスターも首を傾げた。


「そんな者はいないと思いますが……。何かありましたか?」

「最近、お祈りの時間に時々、子供の声が聞こえる気がして……。まだ、喃語のような、むにゃむにゃという感じの可愛らしい声なの。でも、辺りを探しても誰もいないし、気のせいかしらね?」

「気のせい……でしょう。もしかしたら鳥の鳴き声が子供の声に聞こえているのかもしれませんよ」

「ああ、なるほど。きっとそうね」


 この礼拝堂の周りは大きな木で囲われている。だから子供の声に似た音色で囀る鳥でもいたのだろう。

 単純にそう考えた。


「失礼します」


 話の切れ間に涼やかな声が入ってくる。いつの間にか礼拝堂の大きな扉は音もなく開き、新たな訪問者を迎えていた。

 イーディスである。彼女はふんわりと笑った。


「そろそろ夕方のお祈りの時間だから、お義母様とご一緒したいと思って来てみたら、陛下はこんな所にいらっしゃったのね。従者が探していましたよ」

「あらあら、いらっしゃい。いつもありがとうね、イーディス。

 あなたはもう行きなさい。従者が困っているみたいですよ」


 歩み寄って来たイーディスの手をエミリーがそっととる。二人は無邪気に微笑み合った。

 本当の母親かのように甘えるイーディスと本当の娘かのように愛おしげに見つめるエミリーの姿に心が温まる。


 二人の瞳はエミリーが緑、イーディスは水色と異なるが、髪はよく似た銀色だ。なので、アレイスターよりも親子のように見える。

 それが少し複雑だった。彼は金髪に青い瞳で、嫌いな父親に瓜二つなのだ。


 仲がいいのは喜ばしいことだが、仲間はずれはいただけない。しかし、駄々を捏ねる歳ではないから、色々言いたいことを我慢して、楽しそうな二人を恨めしく見つめてから礼拝堂を出た。

 母の明るく華やいだ声を背中に感じて微笑ましく思った時だった。


 ――まんまっ!


 そんな声が横を通り抜けていく。思わず背後を振り返った。

 そこにあるのはつい今さっき閉まった礼拝堂の扉だ。重く分厚い樫の木の扉は、しっかりと閉まっているし、その中にいるエミリーとイーディスの声を完全に遮っている。

 それに、今のは女の声だったが、母や妻よりずっと甲高くて、喃語のようだった。


「……気のせいか?」


 油断なく周囲を見回すが、人どころか鳥の気配も感じない。風もなく、礼拝堂を包む木々の梢も、葉が擦れる音すらなく、不気味なほど静かだった。




 さらに、翌日のことだ。

 アレイスターは執務室で部下たちを迎えていた。


「魔物の討伐遠征御苦労であった。隣国はどうであったか」

「陛下〜、とぉっても楽しかったですぅ〜。お仕事はらくしょーだったからぁ、いっぱい観光しちゃいましたぁ〜。案内してくれた騎士様がとってもイケメンでぇ〜。

 あっ、勿論一番かっこいいのは陛下ですよ! あたしぃ、観光してる間ずーっと陛下が一緒だったらよかったのに〜って思ってました〜」

「きも。長いくせに中身のない話、しないでください。簡潔に報告できないなら黙っていただけませんか」

「ちょっとぉ〜! 上司に対して何その口の利き方〜!」

「遠征に関してですが、隣国の討伐部隊は精強で、聞いていたより過酷ではなかったです。何より今回は隣国の女王陛下ご夫妻が参加して下さったので、先程申し上げた通り観光をする余裕がありました」

「ほう、女王陛下が」

「ちょっと〜!! 無視すんじゃないわよ〜!」


 執務机に座る彼の前に男女二人が並んで立っている。

 ふわふわしたストロベリーブロンドにピンク色の瞳の女は、テレサという名の王宮に仕える上級魔術師。

 切れ長の榛色の瞳に淡い金髪の男の方はランドールという中級魔術師で、テレサの部下である。

 二人は隣国との協定に基づいた年に一度の合同遠征に、魔術師たちを率いて参加して、本日帰還した。今彼はその報告を受けている。


「女王陛下は『人間戦車』の異名を持つだけあって、かの方が通った後は魔物の骨ひとつ残らぬ有り様でした。

 レックス様……もとい、王配陛下も『金眼の悪魔』と呼ばれていただけあって進軍した道は焦土と化していました。流石辺境伯の兄君だと感服いたしました」

「お二人の仲はいかがであった?」

「ねぇ〜! 無視しないでぇ〜!」

「仲は良さそうでしたよ。ただ、ご夫婦というよりか、戦友といった雰囲気でしたが……」

「まぁ、戦場だからな。仲が良いなら何よりだ」

「もぉ〜! 陛下も無視しないでってばぁ〜」


 テレサの喚き声を完全に聞き流し、ランドールからの淀みない報告を受ける。テレサの相手をまともにしないのは、昔からの習慣だった。


 テレサはアレイスターがまだ王太子であった時に彗星の如く社交界に現れた異端児だった。

 ある伯爵家の駆け落ちした嫡男の遺児、という触れ込みのテレサは、その美貌と、何より人並み外れた魔力量で注目の的となった。


 ただ、元平民だからと言い訳をしていつまでたってもマナーを改めない所や、アレイスターを含めた高位貴族の令息への露骨な媚び故に一部の貴族たちには眉を顰められていた。


 しかし、その才能は本物である。厄介な性格であるが、ある意味わかりやすく、操りやすいとも言えた。

 だからアレイスターは昔からテレサの話を笑って相槌を打って聞き流すようにしている。それだけでテレサは「自分はアレイスターに好かれている」と思い込めるらしい。


 他の高位貴族の令息から邪険にされる中、玉の輿を目指すテレサは一見優しくしてくれるアレイスターから離れない。

 お陰でアレイスターはテレサの素晴らしい力を国の為に有効活用できている。

 ただ、隙あらば自分を王妃に、せめて側室にと売り込んでくるのはいただけない。


 それも、ランドールをつけてから煩わしさが減った。

 はっきりものを言うランドールがテレサを嗜めてくれるようになったからだ。


 ランドールの生家は子爵家だが、かなり歴史のある侯爵家に(つら)なる家系なため、テレサのアレイスターへの態度が我慢ならないらしい。

 他にも、魔術の天才ではあるが、事務仕事やスケジュール管理が絶望的にできないテレサの足りない部分も卒なく補ってくれている。実に都合の良い男だった。


「陛下、隣国のことではないのですが、もう一つご報告が」

「なんだ?」

「辺境の現在についてです」


 そう言ってランドールが話し始めたのは、隣国での遠征から帰還する道中で、辺境の部隊を助けた、というものだった。


「別に、魔物の生息数が増えた、という訳ではないようです。ただ、以前より兵士一人一人の質が下がったと部隊長は言っていました」

「そうか。その理由はわかっているのか?」

「はい、明確に。レックス様が居なくなってしまったからですね」


 隣国の王配はアレイスターの国の、辺境伯家の次男である。

 かの国の女王が長年の婚約者を病で亡くし、急遽縁談が持ち上がった時、少ない未婚の高位貴族の令息から、アレイスターがレックスを選んだ。


 辺境伯家は以前から隣国の王室と交流があり、女王やあちらの貴族たちも気安いだろう、というのが選んだ理由である。

 ただ、配下たちは次男ではなく三男である、現在の辺境伯を推していた。


 当時、辺境伯家は優秀な嫡男を魔物討伐で亡くし、新しい後継として次男のレックスを立てようとしていた。

 そこへアレイスターが横槍を入れたのだ。


 レックスは天下無双の武人であるのと同時に、天才と名高いテレサよりも優れた魔術師でもあり、人並み外れて強かった。同じく優れた武人で人外じみた強さを誇る女王に似合いだと説得したのだ。

 二人共、政は苦手という共通した欠点があるが、そこは周りが補えばよい。


 アレイスターはありとあらゆる手を使って外堀を埋め、レックスは隣国へ婿入りして行った。

 一方、残された辺境伯家は三男を当主に据えた。ただ、この三男は辺境伯の血筋でありながら、武の才能はからっきしであるらしい。


 その代わり内政に関しては申し分ない才能を発揮しているそうだ。

 その才故に配下たちは女王の縁談相手として推したのだが、アレイスターは嫌だった。


 どうしてもあの男は国内にいてほしくなかったのだ。


 アレイスターの私情である。だから、それに振り回された辺境に対しては申し訳ない気持ちがあった。


「つまり、レックスがいなくなった穴が全く埋まっていないということだな。飛び抜けた戦力が欠けているだけではなく、兵士を鍛える者もいない、と」

「恐らくそうでしょう」

「ふむ……。こちらから誰かを派遣するか……。誰が適任か」


 ただ強いだけではなく、辺境の人々とうまくやっていける者をなるべく早く選定したい。

 そう考えているとわたわたとテレサが口を挟んできた。


「あっ、あっ! 陛下ぁ、あたしはやめてくださいねぇ〜。隣国から戻ったばっかりだしぃ、陛下のお側に居たいですぅ」

「……此度の遠征、君がどうしても行きたい、と言ったから任せたのだが、隣国は良くて辺境は駄目なのか?

 それにテレサが側にいてくれるのは心強いが、君の類稀な才能を私一人が独占するのはよくない。今後、辺境ではなくとも地方に出向して貰おうと思っているよ」

「え、えぇ〜! そんなぁ! 駄目ですよぉ! なんか王妃様の様子も変だし、今がチャンスなのにぃ!」

「……王妃が、なんだって?」

「あっ!」


 トーンの下がったアレイスターの声にテレサは口を押さえるが、もう遅い。

 明らかに失言をした上司をランドールは呆れた目で見ていた。


「えっとぉ、なんでもないですぅ」

「なんでもないはないだろう。テレサ、王妃の様子がおかしいとはどういうことかな?」

「いや、ほんとに、なんでもないです! 見間違えでした!」

「……こちらに伺う道中、王妃様のお姿を拝見しました。その時のご様子が、少々奇妙だったことかと思われます」

「ランドール!!」

「ほう。王妃はどんな様子だった?」


 話し始めたランドールをテレサは怒鳴りつける。しかし、ランドールはどこ吹く風といった様子で無視していた。

 無視というよりは、アレイスターの質問にどう答えたものかと悩んでいるようだった。


「……王妃様は中庭で散策を楽しんでいらっしゃる様子でした。……しかし、何というか、屈んでいらっしゃいましたね。誰も、何もない場所で、ちょうど、子供やペットにするように。

 後ろに侍女は控えていましたが、特に不審に思っている感じではなかったので、地面でも見ていたのかもしれません」

「ふむ。それだけか?」

「……いえ、その」


 ランドールは珍しく言い淀み、見間違えかもしれませんが、と前置きをした。


「花が」

「花?」

「はい。何もないところから、突然花が現れたのです。王妃様の耳の上に」

「は?」

「まるで、小さな子供が摘んだ野花をそのまま髪に差したかのように、見えました。きゃらきゃらと笑う少女の声が聞こえましたが、多分幻聴でしょう」

「な、何だ、それは……」

「申し訳ございません。確たる証拠のない、曖昧な話をしました」

「……そうだな。二人共、疲れているのだろう。今日はもう下がるといい。明日から一週間、特別休暇とする。ゆっくり休みなさい」

「ありがとうございます」

「えっ、いや、あたしは休みとかいらな」

「それでは御前、失礼いたします」


 まだ執務室に居座ろうとするテレサをランドールが強引に引きずって行く。二人が退室した途端、アレイスターは頬杖をついて目を閉じた。


『ちょっと! 離しなさいよ、ランドール!!』

『私より強いんですから、嫌なら魔術で強制的に止めさせたらいいじゃないですか』

『そんなの、怪我させちゃうかもしれないじゃん!』

『……はぁ。あなたって本当に……』

『何よ!』

『……馬鹿ですねぇ』

『しみじみと言うんじゃないわよ! ていうか、馬鹿じゃないもん! 筆記試験はいっつも一番だったもん!』


 扉の向こうで交わされる、本来なら聞こえないはずの会話が頭の中に響く。

 盗聴の魔術である。


 アレイスターはあらゆることに凡才だったが、魔術師としては一流である。この国の王族は一人の偉大な魔術師から始まったのだが、アレイスターは先祖の才を受け継いでいた。

 魔力量という点では平凡だが、技巧だけならテレサにも優っていた。だから、こうして一流の魔術師相手に気づかれず、盗聴ができている。


『馬鹿ですよ。あなた、わかっているでしょう。陛下はあなたのことなんてこれっぽっちも好きじゃないですよ。便利な道具だとは思ってくれているでしょうが。

 これからどれだけ尽くそうが、陛下はあなたを妃として迎えることはない』

『そんなことないもん! 陛下はずっとあたしのこと好きだもん! 

 ……あ、あたしが平民育ちで、マナーとか苦手だから、そういう話にならないだけで、これからもっと頑張って、今回の遠征みたいな手柄を立てればきっと、け、結婚して、くれるし。そ、それに、このまま王妃様に子供ができなければきっと……』

『馬鹿な夢を見るのは止めなさい。今後、王妃陛下に子供ができなくとも妃になるのはあなたよりずっと若く身分の高い御令嬢ですよ』

『そんなことないっ! へ、陛下は、あたしのことが一番好きだもんっ! だから、既成事実とかで、あわよくば子供とかできたらきっと……』

『好きって言われたことあるんですか?』

『……えっ?』

『直接陛下から好意のあるお言葉をいただいたことがあるんですか?』

『……ない、けど』

『なら、わかってるでしょ。いい加減不毛な期待をし続けるの、やめたらいかがですか』

『……』

『……』

『うっ……。ぐすっ……』


 すんすん、と鼻を啜る音が遠ざかっていく。アレイスターはため息を吐いて魔術を解除した。

 イーディスに関して有用な情報は得られなかった。今王妃がどうしているか、心配だが、仕事がまだ積み上がっている。


 早く終わらせて自分で確かめに行くことを決め、アレイスターは頭を振って不安を追い出した。




 結局、アレイスターがイーディスの元へ向かったのは、深夜だった。

 テレサたちの長期遠征及びその後の休暇の穴埋め、そして、その穴埋めをしてくれた者たちへの休暇や特別報酬、辺境への人材派遣など、今はとにかく忙しい時期なのだ。


 本当は今日終わらせておきたい仕事すべてを片付けられた訳ではないが、彼はどうしてもイーディスに会いたかった。

 昼間ランドールから聞いた話がずっと頭に引っかかっている。


 それだけではない。ここ最近の幻聴もアレイスターの不安を掻き立てていた。

 どこからか聞こえる幼児の声。それはすべてイーディスのいる場所で起こっていた。


 子供なんていてはいけない。


 アレイスターがイーディスを妻に迎えて五年経っているが、子供はできていない。

 二年前から臣下より新しい妃を迎えるべきだ、とせっつかれている。しかし、アレイスターはその進言を断固拒否していた。


 子供なんていらない。


 別にアレイスターが子供を作らなくとも、イーディスの兄弟たちがいる。

 王女と古い公爵家の血を引く、アレイスターより正統で高貴な血筋の人間がいるのだ。ならば、そこから次の王を選べばいい。

 それがいい。それが正しい。

 だから、子供はいなくていい。


 気づけば廊下を走っていた。自分の足音が遠くまで響いていく。

 恐らく今の時間、イーディスは寝室で寝支度を整えているはずだ。夜は侍女や衛士たちも最低限しか配置されていない。

 それにしても妙に静かだった。

 

 そんな時だ。微かな歌声が聞こえてきた。

 女の声だ。女が子守唄を歌っている。

 この国で昔から歌い継がれるその唄を、アレイスターは母に歌って貰えなかった。


 それでも知っているのは、乳母が自分の子供に歌っているのを見たからだ。家に帰れない母親の、休憩時間に会いに来たその子供は、もっと一緒にいたいとぐずった。

 困った乳母は子守唄で我が子を寝かしつけてから夫に渡していた。


 アレイスターが二歳の時のことである。よく覚えているのは、乳母が泣いていたからだ。

 優しい人だった。当時のアレイスターを甘やかしてくれる、唯一の他人だった。

 でも、乳母はアレイスターのために子守唄を歌ってはくれなかったし、寂しがる我が子に申し訳ないと泣いていた。


 日課の昼寝をほんの少し早く起きた結果、そんな場面を盗み見てしまったアレイスターは、次の日から乳母の側に寄り付かなくなった。

 そうすれば、乳母は役目から解放されると彼は幼いながらもわかっていたからだ。


 ひと月も経たないうちに、乳母は解雇された。

 最後の日に迎えに来た夫と子供に見せた乳母の笑顔は紛れもなく明るくて、アレイスターは正しいことをしたのだと自信を持ったが、どうしても胸が苦しくて、掻きむしりたくなった。

 それ以来王宮で子守唄を聞いたことはない。


 夜更けに子守唄が聞こえる、なんて子供さえいたらありふれたことが、ただ一点欠けただけで妙に薄気味悪く感じてしまう。

 背中にひやりとするものを感じながら、歌声の方へと歩いて行く。


 そこは、寝室だった。彼と妻の、国王夫妻の為の部屋だ。

 よく耳を澄ませれば、それは初めて聞くイーディスの歌声のような気がした。

 何故か身体が震え、心臓が高鳴る。喉が干上がり、息を吸うと冬の乾いた風のような音がした。


 確かめなければ。


 震える手でドアノブに手を掛ける。手のひらは冷たい汗でぬるついていた。


 怖い。

 見たくない。


 でも、確かめなくてはいけない。手遅れになる前に。


 彼は恐る恐る扉を開いた。

 室内は薄暗く、ランプの暖かな光がひとつ灯るのみだ。

 その、ランプの近くに、いた。


 きぃ、きぃ、と木がゆっくりと規則的に軋む。揺り椅子を漕ぐ音だ。ランプの光が揺れる影を長く、長く部屋中に広げている。

 揺り椅子に座っていたのはイーディスだった。

 ただ、その体勢が少しおかしい。


 彼女はまるで、腕に何かを抱えるようにして歌を歌い、椅子を揺らしていた。

 その姿は、幼児をあやす母親の姿、そのものだった。腕の中には何もいないのに、彼にはそう見えた。


 アレイスターはイーディスを呼ぼうとしたが、喉が詰まったようになって、声がでなかった。彼女は淡く微笑みを浮かべ、しあわせそうに歌い続けている。


 止めたいが、声が出ない。彼は助けを求めて辺りを見回した。

 そうしてやっと異変に気づく。


 寝室なのに、ひとりも侍女がいない。護衛の騎士もいない。

 それどころか、彼に付き従っていた護衛すらいなくなっていた。

 ここにいるのは彼とイーディスのみ。いや、彼女の腕の中にいるナニカの三人だ。


 うっすらと。

 イーディスと同じ銀色の柔らかな髪がふわりと揺れる様が、見えた気がした。

 薄く滑らかな寝衣に包まれた小さな体、薄紅色のまろい頬。イーディスの服を掴むぷくぷくとした指先。


 ここにいてはいけないモノがいる。


 我が物顔でイーディスの腕の中を占領する異物は、ふるりと長い銀色のまつ毛を震わせた。

 瞳が開く。

 つぶらな、金色の瞳が、はっきりと彼を捉えて。

 さくらんぼのような唇がにまりと嗤った。


 アレイスターは音のしない喉で絶叫していた。


「……陛下? いつの間にいらっしゃったのですか?」

「……うわぁ!?」


 背後から声をかけられ、悲鳴を上げた。振り返ると王妃付きの侍女が驚いている。酒や果実水、軽食の乗ったワゴンを押していた。

 開いた扉から同じく王妃付きの護衛が驚いた顔で覗き込んでいた。


「なんですか、大きな声を出して。びっくりしたじゃないですか」

「す、すまない。急に声をかけられたから……」


 心臓は全力疾走した後のようだが、アレイスターはホッとしていた。幼い時からイーディス専属で、嫁ぐ時も躊躇いなくついてきた侍女は、アレイスターに対しても気安い。その気取りない態度に緊張が解れていく。

 さっきまであった恐怖が幻のように遠くなった。


「後ろから声をかけられてびっくりするなんて、陛下も肝が小さいですね。あんまり王妃様にみっともないところを見せないでくださいよ」

「ああ、そうだな。イーディス、見苦しいところをみせた」


 そう言って振り返った彼は見てしまった。

 イーディスは、何もない腕の中をじっと見つめていた。


「……イーディス? どうした。具合が悪いか?」


 ひくり、と口元が引き攣る。目眩のように視界が揺らぐ。

 イーディスはゆっくりと顔を上げた。その眼はどこかぼんやりとして、彼ではない何かを見ていた。


「イーディス」


 ぐっと肩を掴むと、やっとイーディスの焦点がアレイスターにあった。夢から醒めたような、寂しげな顔をしていた。


「ああ……。陛下、ぼんやりしていました。申し訳ありません。少し疲れているみたいで……」

「そのようだ。先に休むといい」

「ベッドの準備はできていますよ」


 侍女に頷き、アレイスターはイーディスの手を取って立たせた。

 妻の手は簡単に溶けてしまう雪のように冷たい。思わず身震いをした。


 アレイスターはまだ寝支度が整っていないため、先にイーディスだけをベッドへ入らせる。大きな寝台の上で布団に(くる)まるイーディスは無表情で、何を考えているかわからない。

 アレイスターは不安を覚え視線を彷徨わせ、ベッドの横にあるチェストを目に止めた。

 繊細なグラスに小さなラッパのような形の花が生けられている。

 ペチュニアだ。


 手入れが楽で、長く花を楽しめるため、庭のなんとなくできた隙間によく植えられている。なんの変哲もない花だが、国王夫妻の寝室に飾られるには平凡すぎる花だった。


「……この花は、何だ」

「ああ、これはお嬢様が奥様に下さったんですよ」


 アレイスターの呟きに答えたのは、侍女だった。


「……お嬢様?」

「はい。お嬢様が自分で摘んで、奥様の髪に挿したんです。『おかあさま、かわいい』って舌足らずに仰って。うふふ。お可愛らしい。

 最近は随分としっかり歩けるようになって、わたくしにもたくさんお話ししてくださるんですよ」


 アレイスターは侍女を凝視した。彼女は香を焚いたり、水を用意したり、てきぱきと就寝の準備をしてくれている。いつも通りだ。


 でも、その口から語られる言葉は異常である。誰の話をしているのか。

 ここに『お嬢様』などと呼ばれる存在はいない。もし仮にいたとしてもその子は『王女』と呼ばれるはずだ。

 何より、イーディスは『奥様』ではなく『王妃』だ。


「なんの話をしているんだ?」

「それはお嬢様の……」

「お嬢様とは誰だ?」

「えっ……? あら、誰だったかしら?」


 侍女はアレイスターに問われ固まる。その目は何かを探すように彷徨った。


「……確かに、お嬢様が……」

「……イーディスの姪が遊びに来たのか?」

「あ、あぁ、そう、多分、そうです。やだ、申し訳ありません。寝ぼけていたのかしら」


 侍女は何か言おうとして言葉を飲み込んだ。代わりに「浴室の準備はできておりますから、いつでもお声掛け下さい」と言って、ワゴンを押して寝室を出て行った。


 取り残されたアレイスターは立ち尽くす。

 イーディスは姪が二人いる。どちらも兄の子供で、まだ花を摘んで冠を作ることが楽しい年頃だ。

 だが、今日現れた『お嬢様』が彼女たちではないことをアレイスターは承知していた。


 アレイスターの日常を侵食する何かがいる。

 その正体に心当たりはあるが、ありえないという気持ちが強い。

 彼は時間と手間をかけて、自分の未来を脅かす不安要素を潰してきたのだ。もうすべての障害は排除された、はずだった。


「……確かめなくては」


 アレイスターはそう呟いて、イーディスを見た。

 もう眠ったのか安らかな寝息が聞こえる。ただ、目を(つむ)り、赤子のように丸まる彼女の姿は、まるで今の現実を拒否しているように見えた。




「……、……」


 強い風がアレイスターの呟いた言葉を吹き飛ばしていく。

 それは、眠りの魔術の呪文だった。

 聞いた者はたちまち昏倒し、術者に会った記憶すら曖昧になるほど深い眠りに落ちる。

 

 故に、こんな夜更けに礼拝堂へ向かう国王の姿を見た者はひとりもいなかった。

 アレイスターは辺りを警戒しながら扉を薄く開け、礼拝堂の中へと身体を滑り込ませる。


 無人の礼拝堂は静かだが、母が祭壇に捧げた蝋燭がまだ辛うじて燃え残っていた。

 これも母が焚いたのだろう。香炉から漂う甘い香りに包まれながら、アレイスターは祭壇に忍び寄った。


 祭壇の奥には両手を広げた男の姿の神像が立っている。ローブを纏い、フードまで被った神の表情は、よほど近くに寄らなければ(うかが)えない。

 フードに隠された目の視線の先、祭壇の下の床。そこには魔術が施されている。アレイスターは指先を懐剣で切り、血を床へ擦りつける。

 何の変哲のない木の床は、一瞬だけ青白い光を放って消えていく。その下にはぽっかりと穴が開いていた。


 王族の中でも特別な者にだけ開かれる、秘密の部屋へ続く穴。

 実に簡素な梯子が底の見えない地下へ向かってかかっているだけだが、その先にあるのは建国にすら関わる重大な秘密だ。


 アレイスターは躊躇いなく梯子を降りた。

 ここはもう既知の場所だ。見えなくとも、地下がどうなっているかは、わかっていた。


 礼拝堂の地下にあるのは、狭い石室だ。

 資格を持たない者には本当に何もない、自然のままの石を組んで作った小さな部屋にしか見えないだろう。

 アレイスターは資格があるから、それだけではないことを知っている。


 明かりひとつなく降り立った地下室は鼻先すら見えない真の暗闇だった。ただ、それも一瞬だけだ。

 音もなく、熱を感じない光が灯る。魔力に反応して光るランプが四方の壁に設置されているのだ。そして、正面の壁の表面を、蛍のように不規則に動く光が走った。


――ひとつ、


 その言葉から始まる文章が三つ、目の前の壁に順に浮かびあがる。

 そして、最後に床から野火のような赤い光が広がる。ちらちらと床一面に浮かび上がったのは、魔法陣だ。


 これは、秘密。王族と、その血に連なる者の中でも特に特別な者しか知らない、秘密。

 この国では時間の神を崇めている。その神の正体こそが、これだった。


 王族の始祖である魔術師が一生をかけて作り上げた、時間遡行を可能にする奇跡の魔法陣。ただし、使えるのは始祖の血を引き、魔術に対する適性を持ち、なおかつ一定以上の魔力を持つ者のみだ。


 アレイスターが生まれるまで、百年ほど資格を持つ者がいなかったため、この魔術について知る者は誰もいなくなっていた。アレイスターは偶然城の大図書館に隠された初代国王の日記から真実を知ったのだ。


 いや、あれは偶然などではなかった。神の如き魔術師だった初代国王なら、そう仕向ける魔術くらい仕掛けておける気がした。


 経緯はともかく、アレイスターは時間遡行の魔術を知って、一度使ったことがある。

 前のアレイスターはある秘密を守るため、イーディスとの婚約を破棄して、テレサを新しい婚約者とした。

 その時の彼にとって一番都合の良い相手がテレサだったのだ。


 しかし、その結果彼は貴族たちに反旗を翻された。


 王宮まで辺境伯レックスの軍と、イーディスの兄が率いる公爵家の軍が押し寄せた時、アレイスターはテレサと共にここへ逃げ込み、魔法陣を使って時間を遡った。


 そして、今の未来に生きている。

 イーディスを妻に迎え、テレサを遠ざけ、恐ろしいレックスは隣国へ追いやり、今のところすべては彼の思うがまま。磐石だ。

 しかし、油断はできない。あの子供の声は危険だ。


 アレイスターはしゃがみこみ、床の魔法陣を調べてみた。

 特に異常は感じられない。魔法陣が正しく動いていることしかわからなかった。何か、痕跡のようなものはないだろうかと、探査魔術を使おうとした時だった。


 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。


「ひとつ、他言するべからず」


 少し舌足らずで鈴を転がすような声だった。

 アレイスターはゆっくりと背後を振り返る。そこには、真っ白な少女が立っていた。


「ひとつ、資格を持つ者以外の立ち入りを禁ず」


 白く見えたのは、長い銀髪と、透き通るような白い肌、そして白いワンピースのせいだった。

 少女は正面の壁に浮かび上がった三つの文を読み上げていく。アレイスターは目を逸らすこともできず、食い入るように見つめていた。

 少女の、身長が伸びているように見えたのだ。

 子供らしい膝下丈のふんわりしたワンピースも、気付けば初々しい白いドレスに変わっていた。


「ひとつ、私欲をもって使うなかれ」


 最後の一文が読み上げられる。少女は真っ直ぐアレイスターを見た。

 すっかり背が伸び、十五歳ほどに見えた。上質な白いドレスを着ているため、まるで社交デビューしたての令嬢のようだ。

 美しい顔立ちは、若い頃のイーディスによく似ていて、一際輝く瞳は忌々しい金色だった。


 ここにいてはいけない、いるはずのない子供だった。


「あなたと、これのせいだったのね」


 爛々と怒りが燃え盛る金の瞳がアレイスターを見据える。真っ直ぐな敵意を感じて、体が震えた。


「ずっと待っていたのに」


 ふわり、と風もないのにドレスの裾が飜る。


「ずっとずっと待ってたのにっ!! おかあさんのお腹の中で、おとうさんに会える日を楽しみにしてたのにっ!!」

 

 激昂すると同時に狭い空間を突風が吹き荒れる。飛ばされないように姿勢を低くしたアレイスターは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


 この風は勿論自然のものではない。怒りのせいで制御しきれない魔力が暴走しているのだ。

 魔力持ちでも誰もが起こせる現象ではない。テレサのような相当強い魔術師にしかできない芸当である。


 そして、何より少女はこの地下室を見つけて入ってきた。

 それはアレイスターと同じく、王族の血を引き、時間遡行の魔術を使う素養があることを示していた。


 ありえない。

 存在してはならない、けれど、前の世界では存在したかもしれない子供。

 かつての世界で、アレイスターと婚約破棄したイーディスは辺境伯となったレックスと結婚した。二人は仲睦まじい夫婦となったという噂だけは彼の元にも届いていたが、子供がいたかどうかは知らない。


 ましてや胎に宿った生まれる前のいのちなど。

 そういうものを踏み躙ってアレイスターは人生をやり直したのだ。


「ひどいっ! ひどいひどいひどいっ!!

 なんでわたしから全部奪ったのっ!

 なんでっ!

 なんでっ!

 なんでっ!!

 ……あなたが全部奪ったなら、わたしだってやってやる! 全部全部、元通りにするんだ!」

「やめろ!!」


 少女は荒れ狂う魔力を解放した。床の魔法陣がそれに反応し、赤から青へと輝きを変えていく。

 アレイスターは焦ったが、動けなかった。恐怖で身がすくんでいたのだ。


 ――アレイスター様、逃げてください! 大丈夫! あたし、絶対勝ちますからっ!


 そう言って、テレサはレックスに立ち向かい、激闘の末に瀕死の重症を負った。血塗れの彼女を抱えてこの地下室まで逃げきったかつての自分は、本当に運が良かったと思う。

 あの男はテレサとの戦闘で手負いではあったものの、余力を残していた。悪魔の異名が示す通り、人外でしかなかった。


 悪魔のような男と近しい魔力が渦巻いている。それだけでトラウマが蘇った。喉が干上がり、冷や汗が吹き出て、身体が震える。

 腕の中で徐々に息が細くなるテレサの姿を思い出した。


 このままでは死んでしまう。

 死なせたくない。


 ただ、それだけだった。

 それだけを願って、アレイスターは時間を遡ったのだ。

 テレサという部外者を招き入れ、その命を助けたいという私欲に塗れた願いを古い魔術が受け入れたのは、多分、テレサの類稀な才能のおかげだった。


 奇跡の魔術はテレサを勘定にいれて発動したのだ。アレイスターの魔力だけでは、致命的にテレサの運命を歪める場所まで時間を遡ることはできなかった。

 しかし、目の前の少女は違う。


 アレイスターの願いによってなかったことにされたはずの少女は、父親譲りの暴力的なまでの魔力で術式を起動していく。

 アレイスターは震えながら細やかな抵抗をしたが、圧倒的な力の前で彼が磨き抜いた技巧など巨人に針で戦いを挑むようなものだった。


 時が遡る。

 テレサが死なないように、そして彼の秘密が守られるように、必死に努力して作り上げたアレイスターに都合の良い世界がなかったことになっていく。


 渦巻く魔力の中心で輝く真っ白な少女の姿を最後に、アレイスターの意識は途切れた。

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