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教団のSNSは、更新が止まった。誘拐犯の情報を求める投稿は削除されている。
俺が作った誘拐犯のアカウントはというと、これももう当然動いていない。パスワードを忘れたから、ログインすらできなくなった。
というのも、原因はあの雨である。雨の中バイクで本部に向かったあのとき、防水機能がない俺の携帯は無残にぶっ壊れてしまった。
修理に出したらすぐに使えるようになったが、電話の履歴やアドレス帳、Web保存のパスワード、クラウドに保存していなかった画像などのデータは消えた。おかげで初めて作ったSNSアカウントは封印され、脅迫に使っていた教団の連絡先も消え、まるで誘拐事件なんかはじめからなかったかのように、まっさらになった。
河原の土手でテキトーに撮った変なツーショットも、消えた。
SNSは消えて忘れられていき、連絡先も消えた。教祖は、俺が起こした誘拐事件を警察に報告すらしなかった。神様誘拐事件は、ひっそりと終息した。
中原がぽんと手を叩く。
「じゃ、横内の奢りはすき焼きで決定だな。加藤と俺と横内自身と、このカップルも足して、五人前な」
指を折って数え、それから中原は、もう一本指を足した。
「いや、六人か」
「六……」
呟いてから、俺は天井を仰いだ。六人目は、どうやって呼んだら会えるのだろう。
すき焼きじゃ来てくれないのかな。肉まんパーティがしたいと言っていたし。肉まんとあんまんとピザまんをたくさん用意したら、いきなり玄関を突き破って現れたりしないかな。
考えているうちに、壁にかけた時計が視界に入った。
「あ、こんな時間。ぼちぼち準備しないと」
ひとり言が洩れた俺を、中原が見上げる。
「なに、どっか行くの?」
「ランチの予定があるんだよ。すげーかわいい子とな」
「そうだったのか! あ、だからノンアルしか飲んでなかったの!?」
「そうだよ。だから宅飲みで押しかけてくるときは事前に俺とも打ち合わせしような。そんなわけで、瀬名川くんと有明さんは、来てくれたばっかなのにごめん」
俺が出かける仕度を始めたら、ゲリラ宅飲み会はお開きになった。次回は横内奢りのすき焼きパーティで続きをしようと、約束した。
そのときには、肉まんも用意しない? そう言いかけたけれど、口に出す前に気が変わって、言わなかった。
*
空がからっと晴れている。真夏の太陽がバカみたいに張り切って、青空には雲ひとつない。
俺はこれから会う女性から連想して、アイドルの女の子が映っていたある日の昼の情報特番を思い出していた。
神様を招く三か条。
その一。神様の居心地のよい部屋を保つ。
誘拐事件が始まったばかりの頃、彼は俺の部屋でのびのびしていた。自宅みたいに寛いでいた姿を思うと、俺の部屋は、彼にとっては居心地のいい場所だったのかもしれない。
その二。神様が喜ぶ食生活。
自炊しないどころかカップラーメン生活。でも彼は安い肉まんが大好物である。神様が喜ぶ食生活なるものが、必ずしも高潔な食事だとは限らないのだ。
その三。神様を信じる心。
持っている気がしない。 幼い頃から気づいていた。この世に神様なんていない。いるとしたら、俺はとっくに見放されている。
そう思っていたはずなのに、なぜだろう。心のどこかでは、いたらいいのになんて期待している自分も、たしかに存在していた。
夏の青空がやけに大きく広がって見える。俺はあの日、教祖にご神体を返したときの窓の光を思い起こした。
「まったく、どこに行っちゃったんだ」
――二十九歳の夏、俺は神様を誘拐した。
めちゃくちゃに型破りで、めちゃくちゃに自由人な。自称「神様」を。
近所のコンビニのホットコーナーから、肉まんがなくなっていた。風の噂で聞いたが、どうやら仕入れていた店長が白き自由の教団の信者で、自由な仕入れと謳って季節外れの肉まんを置いて満足していたらしい。今はもう「夏には売れないから」という理由で置いていない。
夏の肉まんが消えたと同時に、彼もいなくなった。祭礼を最後に、俺は彼を見ていない。俺も真剣に捜しているわけではないから、そのうち遭遇するかもしれない。
でも、俺に「行くよ」と合図する、あの目が脳裏に焼きついて離れないのに。写真も残っていないのに。
挨拶もなくいなくなるのは、流石に自由がすぎるのではないか。
「とか思うのは、俺が人間だからかな」
神様は人間とはものの感じ方が違うみたいだから、訳分からんことを気にしてるときもあれば俺の気持ちを分かってくれないときもあった。神様にとっては、用が済んだら黙って消えるのが当たり前なのかもしれない。
などと考えてから、俺は即座に思考を訂正した。俺はあいつを神様だとは思っていない。あの性格、あの行動は、ただのはちゃめちゃな自由人である。ではただの自由人がどうしてあんなに神様を名乗ることにこだわっていたのか。それは分からない。これに限らず、思い起こすと心当たりがたくさん出てくるのだけれど、やはり「神様だったから」なんて理由で片付けてしまうのは、俺の矜持が許さない。
予約しているイタリアンは、早緑駅から徒歩五分。待ち合わせ場所の駅前の広場で青空を仰いでいると、可憐な声が飛んできた。
「加藤さん! お待たせしました」
小柄な背丈でちまちまと駆け寄ってくる彼女に、ほっと頬が綻ぶ。
「待ってないよ。行こうか、広野さん」
思い切ってランチに誘ってみてよかった。白っぽいふわっとした、羽根みたいな私服がかわいい。広野さんは、やはり俺の天使だ。
店に向かう道程で、広野さんが俺を見上げて聞いた。
「携帯が壊れちゃったって聞いて、びっくりしました。トーク履歴消えちゃったけど、私との約束、覚えててくれてありがとうございます」
「忘れるわけない。それをモチベーションにいろいろ頑張ってたんだからな」
教団脅迫で度胸がついても、女の子をランチに誘うのには緊張して一ヶ月もかかってしまったが……。
店の予約時間を確認しようと、携帯を取り出す。それを横目に、広野さんがちょんと、俺の指に手の甲を当ててきた。
「携帯はもう、全部の機能、使えるんですよね?」
「うん」
「そっか、よかった」
街路樹が夏の日差しを受けて、きらきらしている。広野さんは、照れくさそうに目を伏せた。
「あのね、加藤さん。私、会社で同僚だったときから、ずっと……ずっと、加藤さんのこと、狙ってたんです」
「ははは、狙ってたって……なにその言い方」
心臓が飛び跳ねた。まずい、橋から三億落ちてきたときよりもどきどきしている。
広野さんはぎゅっと、俺の腕にくっついてきた。
「携帯、貸してもらってもいいですか?」
「ん?」
まだどうぞとは言っていないのに、広野さんはさっと、俺の手から携帯をとった。それから慣れた手つきで画面を勝手に操作し、耳に当てる。
そして彼女は、事務対応で聞き慣れた可憐な声で、言い放った。
「貴様らの信仰する天使、クルミーニャン様を誘拐した!」
俺は隣で、凍りついた。
「返してほしくば身代金五億円を現金で用意しろ。引渡し日と場所は、またこちらから連絡する。警察には言うな。言った時点で、天使様の命はない!」
ぷつん。彼女は喋るだけ喋って、一方的に電話を切った。そしてなにごともなかったかのように、携帯を俺に返す。
「はい、ありがとうございました」
今なにが起こったのか、脳味噌が処理できるまでに、時間がかかった。
え? 天使?
「いや、なにしてくれてんだ!」
「あのですね、私、実は、天使信仰の『天の恵み教』のクルミーニャンなんです」
「なんて!?」
街路樹から蝉の声がする。頭真っ白の俺に、広野さんはほわんと天使の微笑みを見せた。
「加藤さんって、嫌なことは嫌って言うし怒るときはちゃんと怒るけど、基本的にお人よしで、すぐ許しちゃうでしょ。こういうの巻き込んじゃえば、そのままずるずる協力してくれるタイプじゃないですか。私、ずっと狙ってたんですよ」
「狙ってたって……そういう!?」
「五億ですよ、五億!」
どうやら俺は、自称神様の次は、自称天使様を誘拐するらしい。




