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ハク様がどっか行った。
なにか作戦を思いついたのか、「次の準備に取りかかっちゃうよ」などと言って俺に詳細を話さずに出かけていった。
ハク様と数時間過ごして、身をもって感じたことがある。あの人がはちゃめちゃに自由人であることだ。
思いついたらすぐに行動に移す。自分のペースを乱さない、つまりマイペース。「マイペース」というとのんびりしていそうに聞こえるが、速いタイプのマイペースである。
彼が自称しているのは白き自由の教団の神様だし、自由を標榜する教団の神様だから自由人なのだろうか。それとも教団の信者や関係者は、皆あんな感じなのだろうか。それが教義とか?
「まあいっか。俺も行くかあ」
重たい腰を上げて、鞄を肩に引っ掛けた。
ハク様から、お使いを頼まれている。黒いトランクを買いに行くように、指示されているのだ。
*
「あっちー……」
無意識のうちに、口から出てしまう。町の商業施設の街頭ビジョンによると、今日の最高気温は三十八度らしい。
俺は鞄につけていた定期券で、自宅アパートの最寄り駅から元勤め先の最寄り駅までやってきていた。
元勤め先の近辺は、地方都市のこの市の貴重な繁華街エリアである。すれ違う人の波の中で、俺は出かける前のハク様との会話を思い出していた。
「加藤くんはねえ、外出時は常に教団に警戒してね。教団、外見も名前ももう把握しててもおかしくないから」
「んー……電話番号からアパートまで割り出されたんだもんな。携帯のキャリアから調べられる顧客情報の範囲は、もう教団にバレてるよなあ」
「うん、さらにそれらの情報を元にして、別の仕事してる信者が調べを進めてるだろうしね」
サンドイッチおじさんは、アパートまでは辿り着いていた。瀬名川くんが追い払ってくれたからいなくはなったものの、だからといってもう来ないわけではない。教団が持つ、誘拐犯の大きな手がかりなのだから、彼らは何度でもアパートに来て、誘拐犯を捜し出すだろう。俺はがっくりと項垂れた。
「いよいよ詰んでる気がしてきた」
外見や名前まで教団に把握されたなら、もう、ただ外を歩いているだけで教団に捕捉されそうなのだ。ハク様はあははっと軽快に笑った。
「一方、俺はなんの情報も洩れてない! いえーい」
「それもこれも、ハク様が最初に俺の携帯使ったからだからな」
教団に情報が洩れていないどころか、ハク様は、俺にすら正体を明かさない。教団に個人情報が渡ってしまった俺とは、正反対だった。ハク様はあっけらかんとして言う。
「そのうち、この部屋にも戻れなくなるかもしれない。今のうちに、持ち出し品をまとめておいて、二、三日分くらいの生活必需品は整えておいたほうがいいかもね」
そんな会話のあと、俺たちは各々、今後に向けて出発した。俺はハク様にも言われたとおり教団に面が割れた可能性があるので、マスクと帽子で元々個性がない顔をさらに暈した。
そうして繁華街まで出てきたが、今のところ、たくさんのひととすれ違っても追われたりはしていない。昼食を買いにコンビニに入ったりもしたが、特になにも起こらなかった。
信者も当たり前に、日常生活を送っている。すれ違う人や、入った店のスタッフ、どこの誰が信者でも、おかしくない。そう思うと、肩に力が入った。
到着したのは、繁華街の中のリユースショップである。ファッションや家具家電をメインに、雑貨も広く取り揃えている店だ。
買うのはハク様に指示されている、黒いトランクである。トラベル用品のコーナーを覗いて、公園での受け渡し時に教団が使っていたものに近いタイプのものを探す。ハク様には、なるべく教団のトランクそっくりなものを選ぶように言われている。
しかし店頭にあるものは、色が違ったり大きすぎたりで、似ているものがない。
「仕方ないか、リユースショップだもんな」
こだわりたかったら新品を扱う店に行けばいいのだが、なにせ俺には金がない。ハク様も自分の財布を持っている様子がない。
別の店を当たるか。コーナーを去ろうとすると、女性店員が声をかけてきた。
「お客様、なにかお探しでしょうか? よろしければお探ししま……」
と、途中まで案内の言葉で接客して、彼女は声を裏返した。
「え、加藤さん?」
ここまで教団の気配を気にしてこそこそしていた俺は、急に個人名を呼ばれ、びくっとした。でも店員の顔を見るなり、その不安感は消し飛んだ。
「広野さん!」
アイドルの常盤美奈似の、かわいらしい女性――広野くるみさん。彼女は、俺が勤めていた会社で、経理部にいたオフィスワーカーだった。さらさらのボブカットと長い睫毛、大きな瞳で、アイドルのミーニャンに似ているから、愛称はクルミーニャン。社内で可愛がられる、愛されキャラだった。
彼女を前にしたら、自分が神様誘拐の犯人であるのも忘れ、広野さんの元同僚としての気持ちに切り替わった。
「びっくりした! すごい偶然。広野さん、今ここで働いてるんだ」
「はい! ここ、知り合いのお店なんです。失業しちゃったって話したら、すぐに雇ってくれたんですよ。加藤さん、帽子とマスクだったから一瞬分かんなかったです。スーツ姿しか見たことなかった」
広野さんは俺や中原、横内の代よりふたつ若い年に入社した。広野さんは会社員時代を回想し、いたずらっぽく笑った。
「加藤さんと中原さんと横内さん、伝票出し経理部に来て、三人で冗談言いあってるの、見てて面白かったなあ。部長は『三バカ』なんて言ってたけど、それがまた面白くって」
「ははは、そんなこと言われてたんだ」
俺たちのほうも、皆のアイドルクルミーニャンとのやりとりが楽しかった。会社員時代は、給与が少ないわやることは多いわでしんどいこともあったけれど、今思うと、日常のひとコマひとコマが輝いて感じる。広野さんは懐かしそうに回顧した。
「経理部の皆、加藤さんたちが来てくれるの、楽しみにしてたんですよ。先輩は中原さんのキャラが好きで大笑いしてたし、もうひとりは横内さん推しでしたし」
「そうだった、そうだった。中原なんか、分かっててわざと絡んで笑わせてたな」
「私は加藤さんがいちばん好きでしたよ」
「わ」
ド直球な言葉に、思わず仰け反る。冗談かお世辞であっても、こんなに愛らしく優しく、アイドルのような……否、天使のような人から「好き」と言われると、顔がニヤける。
「ありがとう」
「うん、伝票の字、丁寧で見やすく書こうとしてくれてるの伝わってきたし、経理が業務に追われてるときに手伝ってくれたり。嫌なことは嫌って言うし怒るときはちゃんと怒るけど、基本的にお人よしで、すぐ許しちゃう。そういう、人柄のよさというか……『あ、いい人だな』って感じる瞬間が、そこかしこにあって」
広野さんが恥ずかしげもなく、俺本人の前で褒める。俺はつい目が泳いだ。そんなふうに思われていたのかと、今知った。
「あー……そうだったんだ、ありがとう。俺も広野さん好きだったよ、仕事速いし、場の空気を和ませてくれるし」
「え! 加藤さんから褒められた! どうしよう、嬉しい! お仕事中なのに浮かれちゃう」
ぱあっと、広野さんが目を輝かせる。赤らめた頬を両手で包んで、彼女はきゃあと歓声をあげた。
眩しい。かわいすぎる。たかが俺のひと言でこんなに喜んでくれるなんて、こちらまで嬉しくなる。彼女はふうと、熱を冷ますように息をついた。
「つい話し込んじゃった。加藤さん、お買い物ですよね」
「ああ、そうだった。黒いトランクが欲しいんだけど、ここにあるのよりひと回り小さいのがいいんだ」
俺が目的を思い出すと、彼女は買い取りカウンターのほうへ目をやった。
「黒いトランク……ああいうのですか?」
売却されて間もないものが雑然と並ぶ、買取カウンター奥の棚。そこにどんと、黒いトランクがあるではないか。色も大きさもドンピシャ、教団が使っていたものにそっくりだ。
「わあ! 理想のど真ん中だ!」
まさに求めていたものだが、あそこに積まれているものはまだ値札がついていない。広野さんが申し訳なさそうに言う。
「あれはまだ状態の確認とクリーニングが終わってないんで、すぐにはお売りできないんです。ちょっと待ってもらえれば、ご用意できるはずなんですけど……すぐ必要ですか?」
そう問われて、俺は少し迷った。ものは目の前にあるが、すぐには買えない。色も大きさもさほど珍しいものでもないし、今回は見送って別の店に行くか? と考えたのを見抜かれたのか、広野さんは背伸びして、ひそひそ声で追撃した。
「さっき店長が、『売り物にはなるけどワケアリ品かな』って言ってました。多分、すごく格安の値札がつきます」
「なんだと……」
「会社員時代に教えてもらってた、個人携帯の番号、変わってないですよね。店頭に並んだら、私から加藤さんに連絡します。番号とショートメールが紐づいていますから、電話に出られそうになければショートメールで残しておきます。どうですか?」
「よし。お願いします」
そこまで言われては引き下がれない。手に入るのは少し先になるが、それまでハク様には作戦の決行を待ってもらえばいい。広野さんがまた、嬉しそうな顔を見せてくれた。俺はそれだけで満足だ。
彼女に挨拶をして、今日のところは店を出る。その直前で、彼女は俺を呼び止めた。
「えっと、あの、加藤さん。今日はありがとうございました。あ、じゃなくて。ううん、それもなんだけど、それだけじゃなくて」
彼女は小さな手をきゅっと握り、りんごみたいなほっぺたをして、俺を見上げた。
「トランクの件以外でも……連絡してもいいですか? まだ話したいこと、いっぱいあるんです。お店じゃ話せないことも、もっと」
心臓がドキーッとした。広野さんは、目を伏せてごにょごにょと続けた。
「会社で同僚だったときは言えなかった。そのまま会社がなくなって、もう会えないかと思ってたけど、こうして運命的に会えた。だから今度は、今度こそは、諦めたくないんです」
声が詰まった。え? これ、脈あり? 社内のアイドル、我らが天使、クルミーニャンが? 俺に?
もう三十近い男でも、ラブコメ映画のようなときめきは健在なのだ。気持ちだけ青春時代に戻ってしまった。
「う、うん、また連絡する」
俺はそれだけ言って、今度こそ店を出た。
まだ心臓がバクバクしている。こんなこと、あるんだ。いつ連絡しよう。今夜、リユースショップが閉店したあとの時間なら迷惑にならないだろうか。
などと浮かれていたが、自分が置かれている状況を思い出した。そうだった、俺は今、神様誘拐事件の犯人なのだった。広野さんと迂闊に接触すれば、彼女に迷惑がかかるかもしれない。
今はだめだ。全部片付いて、広野さんの傍でも堂々としていられる自分になるまで、個人的な連絡は控えよう。
……そのためにも、教団に捕まるわけにはいかない。かといってあとにも退けない。三億、手に入れるしかない。
「よし」
俺はひとつ覚悟を決めて、先を急いだ。




