白銀の劇場 ― 削られし意味
魔響区。
空間が――
循環という“意味”に侵食されていく。
この場は、それに支配されている。
だが。
それとは違う“何か”が、確かに存在していた。
それは――
降り頻る灰に刻まれた“意味”さえも、
どこか遠くへと押し流していく。
――視界が歪む。
刃が、世界そのものを裂くような音。
銀の閃光が、乱れ走る。
そして――
世界が、書き換わった。
そこに広がっていた景色に、
見覚えはなかった。
だが――
その空気は――どこか懐かしい。
白井として生きた、あの世界を思い出させる。
――乾いた、理の匂い。
「アーシェ、どうしたの?
ぼーっとして」
声に引かれて、視線を向ける。
蒼い髪が、風に揺れていた。
ユーナが、こちらを見て笑っている。
彼女の笑顔だけが、この世界の“意味”を繋ぎとめていた。
足音が、静かに響く。
視線を向けると――
剣を携えた長身の男と、
陽気に笑う金髪の男が、前を進んでいる。
ダルカン。
クリオ。
心に深く刻まれた光景。
けれど――どこか遠い。
「夕暮れには、ザイカールに到着する」
ダルカンの低い声が、
胸の奥に沈んでいた願いと、後悔を呼び起こす。
そうか。
あのとき、僕が――
人との戦いから、逃げなかったなら。
この未来は――
まだ、ここにあったのかもしれない。
再び、視界が歪んでいく。
銀閃が、乱れ走る。
――世界が、切り替わる。
そこは。
さっきまでいた神殿に、よく似ていた。
だが――
何かが、微妙に違う。
目の前には、ヴァルディオとその騎士。
そして――レアノール。
彼らに見守られる中、
王女は台座に横たわっていた。
灰が、ゆっくりと彼女を覆っていく。
まるで、儀式のように。
静かに。
彼女は――目を閉じていた。
眠っているように。
あまりにも、穏やかに。
その場に。
僕も、
二人の姉も、
ヴァンも――いない。
“いるはずのものが、ない”。
その違和感だけが、残る。
降り頻る灰を、切り裂くように――
再び、銀閃が走った。
そして、視界の先に。
あの白銀の劇場が、広がっていた。
まるで――
最初から、そこにあったかのように。
胸の奥が、わずかに軋む。
逃れられない、という感覚だけが残る。
「やぁ、久しぶり」
目の前には、銀色の存在が、立っていた。
――ティルザ。
全身を、ひらひらとした銀の衣が覆っている。
その輪郭は、光を弾くたびに揺らぎ、定まらない。
顔は――見えない。
いや。
認識できない。
「最近、調子どうよ? 元気?」
芝居がかった声が、劇場に響く。
「ああ」
自分の声に――そしてその返答に、違和感を覚えた。
視線を落とすと、足元が、遠い。
白い布。
細い腕。
――違う。
銀の地面に映っていたのは――
白井悠真。
「今回の試写会はどうだった?
もしも、僕が逃げなかったら――ってやつ」
ティルザは、くつくつと喉を鳴らす。
「そうだな。後悔している」
――僕は、そう答えた。
その言葉は、やけに整理されていた。
まるで――
感情を切り捨てたあとの結論のように。
「でもさぁ。君が逃げてなかったら――王女様、死んでたよ?
ほら、今はまだ、なんとか生きてるじゃん」
ティルザは、わざとらしく肩をすくめる。
「王女は――他人だ」
「えええ?」
間の抜けた声。
「じゃあさ――あの残響者たちは?
君にとっては他人だろ?」
銀の影は、わずかに間を置いた。
「あの二人のお姉さんも――他人だろ?」
そして、わずかに笑った。
「……白井先生」
僕は、何も言えなかった。
『そうだ。ティルザの言う通りだ。
僕にとって――いや。俺にとって。
この世界に、繋がりのある存在なんていない』
「前の世界でも――そうだったよね?」
ティルザの声が、思考に割り込むように劇場に響いた。
その言葉は――
僕の思考の、続きをなぞっていた。
――読まれている。
「僕はさ、そんなことに興味はないよ。
ただ――君が何を選んで、どうなるのか。
それを見たいだけ。
驚かせてほしいんだ」
ティルザは、くつくつと喉を鳴らした。
「それが、銀の使徒の仕事」
わずかに首を傾け、一歩、距離を詰めた。
「僕なら――人と、あの“灰の使徒”と戦えるようにしてあげられる」
「でもね。今回は、前みたいにはいかない」
声が、わずかに低くなる。
「君の“選択”を、もらう」
「前の世界で作られた――道徳、とか。倫理、とか」
「そういうのを――削る」
ティルザの声が、劇場に響いていた。
以前は――
小さな“選択”を渡した。
何を差し出したのか。
それすら、もう分からない。
それでも。
僕はこの世界を受け入れ、
魔法を使えるようになった。
「僕はフェアな神だからさ、一応言っておくけど――」
くつくつと喉を鳴らす。
「戦えるようになったとしても、勝てるかは別だよ?」
「相手は“使徒”だし。けっこう強いしね」
わずかに肩をすくめる。
「それに――もしかしたらさ」
「君が何もしなくても、お姉さんに任せておけば勝つかもしれないし?」
わずかに笑う。
「そのほうが、楽かもね」
「まぁ、ここは、灰のヤツの家だから長くはいられないけど――ちゃんと選びな」
そう言って、ティルザは黙った。
“他人”。
その言葉が、胸に残っていた。
白井としての人生。
決められた道をなぞるように、
“こうあるべきだ”と押し付けられて――
それに、抗えなかった自分。
――辛かった。
今なら、正直になれる。
それでも。
この世界で。
ダルカンと、クリオと、ユーナと過ごした時間。
僕は――生きていると感じた。
シアナとエルミナは、もう――
アーシェ・アルヴェインの姉だ。
『家族を、仲間を、救え。
魔術を磨け。
そして――医師として果たせなかったことを、果たせ』
あの雨のあとに見た、“未来の自分”の言葉。
それは――
今の僕の意思、そのものだった。
白銀の劇場が、視界に映る。
――もう、決めていた。
それは、選択だった。
足りなかったのは。
それを現実に変える力だ。
力がほしい。
たとえ――何を削ろうと。
緑の瞳が、よぎる。
――選んだ道を進む。
「力をくれ」
僕は、そう言い切った。
劇場に、声が落ちる。
ティルザは、くつくつと喉を鳴らした。
「いいね」
「“他人”のために、選ぶんだね」
「じゃあ最後に、一つだけ言っとく」
一歩、近づいた。
「これで君は――本当の意味で
“使徒”として戦うことになる」
銀の光が、わずかに揺らいだ。
「神同士の、代理戦争にね」
「ああ、問題ない」
「そうか。頼りになるね」
ティルザは、くつくつと笑った。
「細かいルールは――そのうち嫌でも分かるよ」
その言葉が、途切れた瞬間。
――劇場のマナが、揺れた。
ティルザの顔に、
“ひとつ”、目が開く。
銀色の――左目。
それは、僕を見ていた。
覗き込むように。
抉るように。
僕の――
いや。
俺の歩んできた人生を。
その奥に沈んだものまで。
意識が、ゆっくりと遠のいていく。
まるで――麻酔を打たれたあとのように。
銀の左目が――わずかに、見開かれた。
それは、まるで。
新しい玩具を見つけた子供のように。
――無邪気に。
その瞬間、銀閃が走る。
俺の中から――
“選択”が、切り抜かれていく。
一度。
二度。
三度――
止まらない。
痛みは、ない。
ただ。
何かが、確実に失われていく感覚だけが、残った。
――処置が終わったのが、わかった。
その事実に、
何も感じていない自分がいた。
「終わったよ」
ティルザは、わざとらしく手袋を外す仕草をした。
ぱちん、と乾いた音が響く。
ぼやけた意識が、ゆっくりと戻っていく。
その“戻り方”に、違和感があった。
まるで――
何かが欠けたまま、無理やり組み直されたような。
「これで、人が相手でも戦える」
ティルザの顔は、再び影のように曖昧になっていた。
「さっきも言ったけどさ。あの“灰の使徒”に、今の君が勝つのは難しい」
くつくつと喉を鳴らす。
「でもね――君の方が、ひとつだけ圧倒的に優れてる」
「それが何か、気づけたら」
「勝てるよ」
ティルザの言葉で、気づいた。
あの灰の魔道士よりも――
自分が優れていること。
それは。
言葉には、しなかった。
ただ――
分かっている。
場のマナが、静かに薄れていく。
「そろそろ、終演の時間がやってきました。
まぁ――なんとかここも乗り越えて、僕を驚かせてね」
銀の影が、静かに崩れていく。
「チューズ」
その声だけが、最後まで残った。
崩れゆく銀の世界に映る顔。
それは――
どこか大人に近づいた、灰色の瞳をした少年だった。
その瞳に。
わずかに――銀が差している。
――次の瞬間。
吹雪のような灰が、視界を遮る。
循環という“意味”が、
僕のリメアにまで侵食してくる。
視線の先。
武器を構えた二人の姉。
そして――
灰の魔道士からは、さっきまでの不気味な笑みが消えている。
王国最強の魔道士が――
こちらを見据えて、立っていた。




