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最後の願い

罪翼との戦いから、二日が過ぎていた。


昼を少し回った頃、遠征隊は予定通り、高台の麓にあるオアシスと小さな村を見つけた。


砂漠の中に浮かぶ、小さな緑。

潮の匂いが、微かに漂っている。

東の海が、近いのだろうか。


その村は、代々この儀式を受ける王族が立ち寄る場所であり、同時に、東の大陸からセレストリアへ渡る旅人たちの中継地でもあった。


遠征隊は数を減らし、それぞれに疲労の色が濃く出ていた。

この村を抜ければ、灰の神殿まではすぐだと聞いている。


終わりが近づいているのか――

それとも、ここからが本番なのか。

僕は、後方にいる王女へ視線を向けた。

あの夜以降、僕は王女と一度も言葉を交わしていなかった。



村の中は静かだった。

所々、この国の人々とは違う雰囲気の旅人の姿も見える。

おそらく、東の大陸から来た者たちなのだろう。

砂漠の中継地らしく、様々な言葉が小さく交じり合っていた。


僕たちは、儀に挑む王家のために用意されたテントへ向かうため、村の中央を抜けていった。

砂に覆われた道の両脇には、小さな家々が並んでいる。


「罪翼が出たんですって」

「へえ、よくここまで来られたな」

「ヴァルデンの領主が斬ったんだとさ」


村人たちの声が耳に入る。

市井から聞こえてくる話は、つい数日前の出来事のはずだった。

伝達魔法の発展というのは、こんな辺境の村にまで影響しているのか。


少し、不思議な感覚があった。



日が高いうちに、テントに辿り着いた。

今日はこの村で一晩を過ごし、明日には出立する予定だ。


まだ早い時間だが、僕は用意されたテントの前で日課を行っていた。

短剣に、静かに無色の魔力を注ぐ。


罪に侵食されていったあのとき、この剣が光り、僕をそこから救ってくれたように感じた。

この剣には、まだ僕の理解していない力がある。


風を切る音が、耳に響く。

後ろでは、シアナが剣を振っていた。


――そのときだった。


二つの人影が、静かに近づいてきた。


近づいてきたのは、神官のセルノフと、レアノール王女だった。


「アーシェ・アルヴェイン。貴様に頼みがある」


セルノフの静かな声が、潮の混ざる空気に落ちた。

シアナが剣を止め、こちらを見る。

僕は小さく頷いた。


「レアノール様に――故郷を見せてやってほしい。灰の神殿に入る前に」


そう言って、セルノフは近くの高台を指差した。


「あそこからなら、見える。アルケア大陸が」


僕は頷いた。


だが、何故僕なのだろう。

それに、身体の状態を考えれば無理をするべきではない。それは、白井としての判断だった。


だけど――


王女の姿が、僕の瞳に映る。

彼女は、どこか遠くを見ていた。


東を。

潮の匂いが、風に乗って流れてきた。


「わかりました」


僕は静かに応えた。

それだけで十分だった。


「そうか。行ってくれるか……感謝する」


これまで淡々としていたセルノフの声に、わずかに感情が乗っていた。


レアノールが、こちらを見ていた。

この人と目が合ったのは、これで二度目だった。

どこか遠くを見ているような、緑の瞳。



シアナとヴァンも同行してくれることになり、僕たちは日が落ちる前に、高台を目指して遠征部隊の集まる場を静かに出た。


セルノフは、責の灰にはくれぐれも知られないようにと念を押した。

彼らは、儀の完結のみを目的としている。

知られれば、厄介なことになるのだという。


村の通りを抜けていた。

どこか、村人たちの視線を感じる。


レアノールは、高貴な灰色のローブを深く被っている。

王女だとまでは気づかれていないはずだ。


それでも――

不思議と人の目を引く。


やはり、王女は頻繁に咳をしていた。


気にはなる。

だが――

僕にできることは、何もなかった。


「東の大陸って、どんなところなんですか?」


シアナが楽しげに尋ねた。


「私は……物心ついた頃から、王宮を出たことがなくて」


王女が、ローブの奥から静かに答えた。


「おい、嬢ちゃん。王女様に失礼だぞ」


ヴァンが慌ててシアナを制した。

王女は、小さく咳をした。


「ご病気なんですよね?

 私も小さい頃、無響病になって危なかったんで

 ど……アーシェが治してくれて」


ヴァンの言葉など気にせず、シアナは王女に話しかけた。


「アーシェは凄い魔導士なのですね。

 ですが――私の病は治りません」


その言葉には、すでに終わりを受け入れている響きがあった。

白井として、医師として、たくさんの終わりを見てきた。

だが――

ここまで静かに終わりを受け入れている人を見た記憶は、ほとんどなかった。



やがて村を抜け、僕たちは高台を登っていた。

王女の呼吸は、どこか苦しそうだ。

高台を吹き抜ける風は、潮の匂いを帯びている。


三十分ほど登った頃――

視界が、開けた。


空が、オレンジ色に輝いていた。


上空には、初めて屋敷を出た日に見たワイバーンが、群れをなして飛んでいる。

あの魔物は、基本的に人を襲わないことを、僕はすでに知っていた。


王女は、ずっと東を見ていた。


その視線の先には、海が広がっている。

その遥か向こうに――

大きな大陸があった。


「あれが……」


王女はローブを外した。

綺麗なブロンドの髪が、風に揺れる。


そして――

あの緑の瞳が、静かにこちらを見た。


「ありがとうございます。

 私の最後の願いは叶いました。

 これで、責を全うできます」


王女は、微かに微笑んでいた。


「綺麗ですね」


彼女は、再び東の海を見ていた。


――笑っていた。


だが――


その顔からは、どこか切なさを感じた。

王女の言葉を思い出す。


本当は……

何を、見ているのだろう。


だが、僕はそれ以上踏み込まなかった。

あの瞳の奥へ、踏み込むことはできなかった。


――あの目を見ていると、なぜか息が詰まるような感覚があった。


与えられた道を、ただ真っ直ぐに歩いている。

逸れることもなく、立ち止まることもなく。

まるで――それ以外の選択肢など、最初から存在しないかのように。


あの姿を――どこかで、見たことがある気がした。

思い出そうとすると、何かに蓋をされたように――そこで思考が途切れた。


高台に吹く潮の風が、彼女の金の髪を揺らしていた。

ワイバーンの影が空を横切っていた。


 ◇


翌日、僕たちは村を出た。

そして数日が過ぎ、ネフェレスへ入った。


その日――

太陽が真上に君臨する頃。

ついに、責と罪の神ネファルを祀る場。

灰の神殿が見えてきた。


砂漠の中に、灰色の巨大な影が立っている。

誰が、いつ創ったのか。

神を祀る建造物。


どこか――

あの雲の塔に似た雰囲気を感じる。


先頭に、父の背中が見える。

エルミナ、シアナ、オルロ、ヴァルディオ――

皆が神殿の前に集まってきていた。


ふと、後ろを見る。

すぐ近くに、レアノールがいた。

神殿を、静かに見つめている。


もう――

潮の匂いは感じなかった。


ネファルの使いと言われる灰狼の像が、神殿の前に無数に佇んでいた。

まるで――

僕たちを見ているように。


その視線を感じながら、僕たちは静かに、灰の神殿へと歩みを進めていった。

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