最後の願い
罪翼との戦いから、二日が過ぎていた。
昼を少し回った頃、遠征隊は予定通り、高台の麓にあるオアシスと小さな村を見つけた。
砂漠の中に浮かぶ、小さな緑。
潮の匂いが、微かに漂っている。
東の海が、近いのだろうか。
その村は、代々この儀式を受ける王族が立ち寄る場所であり、同時に、東の大陸からセレストリアへ渡る旅人たちの中継地でもあった。
遠征隊は数を減らし、それぞれに疲労の色が濃く出ていた。
この村を抜ければ、灰の神殿まではすぐだと聞いている。
終わりが近づいているのか――
それとも、ここからが本番なのか。
僕は、後方にいる王女へ視線を向けた。
あの夜以降、僕は王女と一度も言葉を交わしていなかった。
◇
村の中は静かだった。
所々、この国の人々とは違う雰囲気の旅人の姿も見える。
おそらく、東の大陸から来た者たちなのだろう。
砂漠の中継地らしく、様々な言葉が小さく交じり合っていた。
僕たちは、儀に挑む王家のために用意されたテントへ向かうため、村の中央を抜けていった。
砂に覆われた道の両脇には、小さな家々が並んでいる。
「罪翼が出たんですって」
「へえ、よくここまで来られたな」
「ヴァルデンの領主が斬ったんだとさ」
村人たちの声が耳に入る。
市井から聞こえてくる話は、つい数日前の出来事のはずだった。
伝達魔法の発展というのは、こんな辺境の村にまで影響しているのか。
少し、不思議な感覚があった。
◇
日が高いうちに、テントに辿り着いた。
今日はこの村で一晩を過ごし、明日には出立する予定だ。
まだ早い時間だが、僕は用意されたテントの前で日課を行っていた。
短剣に、静かに無色の魔力を注ぐ。
罪に侵食されていったあのとき、この剣が光り、僕をそこから救ってくれたように感じた。
この剣には、まだ僕の理解していない力がある。
風を切る音が、耳に響く。
後ろでは、シアナが剣を振っていた。
――そのときだった。
二つの人影が、静かに近づいてきた。
近づいてきたのは、神官のセルノフと、レアノール王女だった。
「アーシェ・アルヴェイン。貴様に頼みがある」
セルノフの静かな声が、潮の混ざる空気に落ちた。
シアナが剣を止め、こちらを見る。
僕は小さく頷いた。
「レアノール様に――故郷を見せてやってほしい。灰の神殿に入る前に」
そう言って、セルノフは近くの高台を指差した。
「あそこからなら、見える。アルケア大陸が」
僕は頷いた。
だが、何故僕なのだろう。
それに、身体の状態を考えれば無理をするべきではない。それは、白井としての判断だった。
だけど――
王女の姿が、僕の瞳に映る。
彼女は、どこか遠くを見ていた。
東を。
潮の匂いが、風に乗って流れてきた。
「わかりました」
僕は静かに応えた。
それだけで十分だった。
「そうか。行ってくれるか……感謝する」
これまで淡々としていたセルノフの声に、わずかに感情が乗っていた。
レアノールが、こちらを見ていた。
この人と目が合ったのは、これで二度目だった。
どこか遠くを見ているような、緑の瞳。
◇
シアナとヴァンも同行してくれることになり、僕たちは日が落ちる前に、高台を目指して遠征部隊の集まる場を静かに出た。
セルノフは、責の灰にはくれぐれも知られないようにと念を押した。
彼らは、儀の完結のみを目的としている。
知られれば、厄介なことになるのだという。
村の通りを抜けていた。
どこか、村人たちの視線を感じる。
レアノールは、高貴な灰色のローブを深く被っている。
王女だとまでは気づかれていないはずだ。
それでも――
不思議と人の目を引く。
やはり、王女は頻繁に咳をしていた。
気にはなる。
だが――
僕にできることは、何もなかった。
「東の大陸って、どんなところなんですか?」
シアナが楽しげに尋ねた。
「私は……物心ついた頃から、王宮を出たことがなくて」
王女が、ローブの奥から静かに答えた。
「おい、嬢ちゃん。王女様に失礼だぞ」
ヴァンが慌ててシアナを制した。
王女は、小さく咳をした。
「ご病気なんですよね?
私も小さい頃、無響病になって危なかったんで
ど……アーシェが治してくれて」
ヴァンの言葉など気にせず、シアナは王女に話しかけた。
「アーシェは凄い魔導士なのですね。
ですが――私の病は治りません」
その言葉には、すでに終わりを受け入れている響きがあった。
白井として、医師として、たくさんの終わりを見てきた。
だが――
ここまで静かに終わりを受け入れている人を見た記憶は、ほとんどなかった。
◇
やがて村を抜け、僕たちは高台を登っていた。
王女の呼吸は、どこか苦しそうだ。
高台を吹き抜ける風は、潮の匂いを帯びている。
三十分ほど登った頃――
視界が、開けた。
空が、オレンジ色に輝いていた。
上空には、初めて屋敷を出た日に見たワイバーンが、群れをなして飛んでいる。
あの魔物は、基本的に人を襲わないことを、僕はすでに知っていた。
王女は、ずっと東を見ていた。
その視線の先には、海が広がっている。
その遥か向こうに――
大きな大陸があった。
「あれが……」
王女はローブを外した。
綺麗なブロンドの髪が、風に揺れる。
そして――
あの緑の瞳が、静かにこちらを見た。
「ありがとうございます。
私の最後の願いは叶いました。
これで、責を全うできます」
王女は、微かに微笑んでいた。
「綺麗ですね」
彼女は、再び東の海を見ていた。
――笑っていた。
だが――
その顔からは、どこか切なさを感じた。
王女の言葉を思い出す。
本当は……
何を、見ているのだろう。
だが、僕はそれ以上踏み込まなかった。
あの瞳の奥へ、踏み込むことはできなかった。
――あの目を見ていると、なぜか息が詰まるような感覚があった。
与えられた道を、ただ真っ直ぐに歩いている。
逸れることもなく、立ち止まることもなく。
まるで――それ以外の選択肢など、最初から存在しないかのように。
あの姿を――どこかで、見たことがある気がした。
思い出そうとすると、何かに蓋をされたように――そこで思考が途切れた。
高台に吹く潮の風が、彼女の金の髪を揺らしていた。
ワイバーンの影が空を横切っていた。
◇
翌日、僕たちは村を出た。
そして数日が過ぎ、ネフェレスへ入った。
その日――
太陽が真上に君臨する頃。
ついに、責と罪の神ネファルを祀る場。
灰の神殿が見えてきた。
砂漠の中に、灰色の巨大な影が立っている。
誰が、いつ創ったのか。
神を祀る建造物。
どこか――
あの雲の塔に似た雰囲気を感じる。
先頭に、父の背中が見える。
エルミナ、シアナ、オルロ、ヴァルディオ――
皆が神殿の前に集まってきていた。
ふと、後ろを見る。
すぐ近くに、レアノールがいた。
神殿を、静かに見つめている。
もう――
潮の匂いは感じなかった。
ネファルの使いと言われる灰狼の像が、神殿の前に無数に佇んでいた。
まるで――
僕たちを見ているように。
その視線を感じながら、僕たちは静かに、灰の神殿へと歩みを進めていった。




