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意味侵食

 夜の砂漠を、六十の軍勢が進む。


 この砂漠に巣食う意味刻み――《罪翼》。

 その存在は、王女の天幕と、目的地であるオアシス。

 そして、その先にある灰の神殿。


 その中間地点で――確認されたと、報告が上がっていた。

 時期的にも、条件的にも、遭遇する確率は低い――そのはずだった。


 だが、既に避けられない。

 夜は静かだ。

 風もない。


 それでも、誰もが分かっていた。

 静かなのは、嵐の前だからだ。


 父の率いるこの軍勢が道を切り開く。

 エルミナと責の灰が、王女を護り進む。


 ……もしかすると。

 引き返すという決断だけは、あったのかもしれない。

 だが、それは。

 王女が、自らの権威を捨てるということだ。

 アルヴェインが、誓いと栄誉を捨てるということ。

 誰の胸にも、その選択肢は存在しなかったのだろう。


 その一歩一歩が、まるで裁きの台へ向かう行進のようだった。


 しばらく進むと、砂丘の陰に、武装した亡骸がいくつも転がっていた。


 砂に半ば埋もれた鎧。

 折れた槍。

 乾ききった血が、黒く固まっている。


「……罪の牙だ」


 僕の前を進むヴァンが、吐き捨てるように呟いた。


「たぶん、うまく《罪翼》を誘導して、儀を妨害しようとしたんだろ」


ヴァンが、低く続けた。


 月明かりに照らされた屍は、武器を握った形跡すらなかった。

 剣は鞘に収まったまま。槍も、盾も、倒れた位置から動いていない。

 まるで――

 戦うことすら、許されなかったかのように。


 周囲のマナが、重い。

 以前、大蛇と対峙したときと似た感覚だった。

――近くにいる。

 そう確信した、その瞬間。


「うわぁああ――!」


 前方の兵士の一人が、悲鳴を上げて膝をついた。


「……なんだ?」


 一瞬、世界が暗くなった。

 月が雲に覆われたのか――

 いや、違う。

 上空を、巨大な影が横切っていた。


 月明かりを浴びて、その姿がはっきりと浮かび上がった。


 獅子の胴。

 鳥の頭。

 そして、夜を覆うほどの翼。


 まるで――グリフォン。

 だが、違う。

 大きい。

 あまりにも、大きい。

 それは獣ではなかった。

 空に座す、裁定だった。


「あれが……《罪翼》」


 誰かの掠れた声が、夜に溶けた。

 

「魔導師は、翼を狙え!」

 

 ロイスの声が、夜を裂いた。

 僕は他の魔導師と共に、魔杖を構える。


――放つ。


 はずだった。


 ……おかしい。

 リメアの流れが、鈍い。

 まるで、何かに掴まれているように。

 空間のマナが、歪んでいる。


「……なんだ?」


 前に立つ魔導師たちが、動かない。

 杖を構えていない。

 詠唱もない。


 何をしている――?

 一人が、ゆっくりと自らに魔法を放った。

 光が弾ける。

 悲鳴。

 そして、崩れ落ちる。

 別の者は、剣を抜き――

 ためらいもなく、自らの胸に突き立てた。

 血が、砂に吸い込まれる。

 誰も、罪翼に触れていない。

 それでも、倒れていく。


 僕の頭にも、何かがよぎった。

 白い光。

 血の匂い。

 泣き声。


 胸の奥が、掴まれる。


 だが、意識は――保てる。

 歯を食いしばる。


 その瞬間。

 空気を裂く音が走った。

 凄まじい剣撃。

 視界の端で、何かが弾ける。

 その出所へ目を向けると――

 ガイルが、大剣を抜いていた。


「奴の翼を見るな! 罪に飲まれるぞ!」


 父の声が、夜を裂いた。

 あれほど冷静だったガイルが、叫んでいる。

――僕は、初めて見た気がした。


 ガイルは、さらに構えた。

 僕は、父が戦っている姿を見たことがない。

 僕の知るガイルは、ただ寡黙に屋敷で剣を振るう男だった。


だが――

 今、その闘気は、目に見えるほどに高まっている。

 空間が軋む。

 砂が浮き上がる。

 次の瞬間。

 父の大剣が、振り抜かれた。


――斬撃が、飛ぶ。


 夜が裂けた。

 月光を断ち切る一閃。

 罪翼の片翼が、空中で断たれる。

 だが、血は飛ばない。

 ただ、重力だけが支配する。

 獅子の巨体が、地に叩きつけられた。

 砂丘が崩れる。

 轟音が、遅れて届いた。


 次の瞬間、佇むガイルを越え、ロイスを先頭に十人ほどの兵が、罪翼へと駆け出す。


 だが――

 空気が、歪んだ。

 マナの乱れが、先ほどとは比べ物にならない。

 視界が、滲む。

 耳鳴り。

 心臓の鼓動だけが、異様に大きい。

 足元の砂が、重い。


 いや――


 重いのは、空気そのものだ。

 呼吸が、浅くなる。

 胸の奥に、何かが流れ込んでくる。


 罪。


 言葉にする前に、それは“理解”として押し込まれた。


◇◇◇


『意味侵食』

 かつての、イレナの声が蘇る。

『強力な意味刻みはね、自ら魔響区を創り、その空間を、自らの意味で侵食する』

笑い混じりの声。

『まぁ、相当強力な存在にしかできない芸当だから、普通に生きてたら遭遇しないよ。安心しな』


◇◇◇


……安心?

 喉が、ひくりと鳴る。

 直感で分かった。

 これが、それだ。

 罪翼は、攻撃していない。

 この空間そのものが、裁きに変わったのだ。


 佇むガイルの背だけが、視界に残る。

 それが、最後の現実だった。


 意識が、遠のく。


 砂の冷たさも、夜の風も、消えていく。


 次に視界に映ったのは――

 白い天井。

 無影灯。

 規則的な電子音。


……ここは。


 オペ室?

 違う、これは。

 記憶だ。

 誰かが言う。


「先生、どうしますか」


 若い声。

 焦りを含んでいる。

 モニターの波形が、不安定に揺れる。

 少年。

 血の匂い。

 交通事故。

 あの夜。


「判断を」


誰かが言う。


「先生、決断を」


 喉が、動かない。

 手が、動かない。

 罪翼の羽ばたきの音が、電子音と重なる。


 “選ばなかった”


 あの少年の顔。


 血に濡れた担架。

 揺れる波形。

 動かなかった、自分の手。


――選ばなかった夜。


 次に浮かんだのは、レオ。


 僕を庇い、

 脚を失った、あの瞬間。


 次は、ユーナ。


 必死に僕の手を引き、

 振り返らなかった、あの夜。


 そして――ダルカン。


 塔の上。

 崩れ落ちる石。

 彼の最後の背中。


 胸の奥が、軋む。


 逃げた。

 選ばなかった。

 背を向けた。


 繰り返される、そのループの中。

 僕は、罪に沈んでいく。


 だが――

 沈みきる、その瞬間。

 腰のあたりが、微かに暖かかった。

 母が与えた、吸魔石の短剣が、淡く光っている。

 理由は、分からない。

 だが、確かに。

 冷えきった胸の奥に、熱が落ちる。


 レオ。

 ユーナ。

 ダルカン。


 名前が、浮かぶ。


 姿は見えない。

 声も聞こえない。


 それでも――

 近くにいるような気がした。


 責められてはいない。

 赦されてもいない。


 ただ。


「どうする?」


 静かに、問われている気がした。

 僕は、即断できた。

 迷いは、なかった。


――ユーナを救う。


 そして――

 なぜだろう。

 緑の瞳が、脳裏をよぎる。

 その瞬間。


 世界に、輪郭が戻った。


 砂の匂い。

 血の気配。

 夜風の冷たさ。


 そして――

 あの短剣の暖かさは、現実にも残っていた。

 夢ではない。

 幻でもない。

 腰に触れたままの熱が、確かに、今ここにある。

 冷たい砂漠の夜の中で、そこだけが、静かに燃えていた。


 この侵食された空間のなかで、罪翼と戦えているのは、たった三人だけだった。


 ロイス。

 ミリア。

 父。


……いや。


 もう一人。

 砂塵の向こうで、黒い外套が翻る。

 罪の圧に歯を食いしばりながら、剣を構え、

翼の一撃を真正面から受け止めている男。


 オルロだった。

 嫌味な笑みは、そこにはない。

 ただ、逃げなかった者の顔だけがあった。


 だが――

 その四人ですら、もう長くはもたない。

 ミリアとオルロは、もはや、立っているのがやっとのようだった。

 父とロイスが、その二人を庇うように前へ出ている。


「姉さん。このままじゃ、父さんたちが持たない。僕も前に出る。四人を援護する。前、お願いします」


 シアナは、一瞬だけ目を見開いた。


 僕は、いつも彼女を“シアナ”と呼ぶ。

 なぜこのとき、“姉さん”と呼んだのか――自分でも分からなかった。


 シアナが、僕の前を走り出した。


 その背を、追う。


 そう。


 この世界では、選んできた。


 だから――


 砂を蹴る。


 罪へ、踏み込む。

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