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本物

 遠征五日目の夜。


 沈みかけた陽が、砂丘の向こうへと溶けていく時間だった。


 先行していた斥候から、伝令が届いた。

 ――意味刻みと遭遇。

 それだけで、空気が変わった。

 この罪の砂漠に巣食う存在。

 事前に、情報は聞いていた。

 だが、その正体は曖昧だった。

 刻まれた“意味”も、詳しくは伝わっていない。


 少し先で、父やロイス、エルミナ――

 そして、おそらくは本家から派遣された者たち、《責の灰》の使いが、低い声で言葉を交わしていた。

 砂に吸われるような声だった。

 だが、その輪の内側の空気だけが、重い。


 かつて、この儀に挑んできた王族たちは、

 その存在を、権威に群がる力で退けてきた――

 それだけが、記録から読み取れる事実だった。


 何を刻まれていたのか。

 何を試されたのか。

 何を失ったのか。

 そこまでは、残されていない。

 だが――

 あの緑の瞳の王女に従う者たちは、圧倒的に少ない。


 これまでの王族たちのように、

 権威に群がる大軍がいるわけではない。

 数で押し潰すことは、できない。


 それでも、僕の脳裏によぎったのはあの白炎だった。

 砂をも焼き尽くす、澄んだ光。

 エルミナが――姉がいれば、問題はない。

 理屈ではなく、確信に近い感覚だった。

 僕は、それほどまでに彼女を信頼していた。


「アーシェ様」


 先ほどまで父たちと話していたロイスが、静かに歩み寄ってきた。

 その表情はいつもと変わらない。

 だが、その目の奥に、わずかな緊張があった。


「我々は、本家とともに《罪翼》の討伐に向かいます。 アーシェ様も、その攻撃隊に加わるよう、隊長から伝令がありました」


 命令だった。

 問いではない。

 選択でもない。


 僕は、一瞬だけ父の方を見た。

 ガイルは、何も言わない。

 ただ、こちらを見ている。


「わかりました」


 迷いは、声に出さなかった。


「アーシェ様、期待しています」


 ロイスの声は穏やかだった。

 だが、その言葉は、夜の砂漠に溶けることなく、胸に落ちた。



 夜の砂漠に、討伐隊が集められた。


 松明の火が、風もない空気の中で、静かに揺れている。


 ロイス。

 ミリア。

 父。

 ヴァン。

 シアナ。


 見知った顔が、三十ほど。

 そして――

 本家から派遣された一団が、さらに三十。

 先頭に立つのは、オルロ。

 総勢、六十。


 かつての王族が動員した軍勢に比べれば、あまりにも少ない。

 それでも、誰も口には出さない。

 僕には違和感があった。

 数ではない。

 空気でもない。

 もっと、単純なこと。

 ――エルミナの姿がなかった。


「エルミナ姉さんは、出撃しないの?」


 僕は隣に立つシアナに、小さく問いかけた。


 だが、答えたのはヴァンだった。


「エルミナ様の隊は、《責の灰》と一緒にレアノール様の護衛に回るらしいぜ」


 軽い口調だった。

 いつも通りの声。

 だが、その言葉は、胸の奥にわずかな引っかかりを残した。

 護衛。

 それは、当然の配置だ。

 王女の命は、この遠征の中心。

 最も強い戦力が付くのは、ただ理にかなっていた。


「おいおい。《罪翼》に出くわすなんて、とことんツイてねぇよな」


 いつの間にか、オルロがすぐ近くに立っていた。

 本家の一団を率いる男。

 口元は笑っているが、目は笑っていない。


「だがよ」


 肩をすくめる。


「この数で、もしもあの魔物を討てたなら――」


 一瞬、視線がこちらを射抜く。


「第四王女も、一気に“本命”だな?」


 軽い笑い。


「……ま、それまで命がもてば、の話だが」


「ほんと、嫌な奴ね」


 シアナが、僕の耳元で小さく囁いた。

 吐息が、冷えた砂漠の空気に溶ける。


「……この状況で、責任者として逃げないだけ、すごい人だと思う」


 僕は、静かに呟いた。

 オルロは嫌味だ。

 打算も隠さない。

 だが、それでも。

 《罪翼》と聞いてなお、本家を背負い前線に立つ。

 それは、軽くできることではない。

 シアナは、少しだけ目を瞬かせた。


「……ただの嫌な奴よ」


 シアナは、あっさりと言い切った。

 そこに、迷いはなかった。

 僕は、わずかに息を吐く。

 もしかしたら、彼女の方が正しいのかもしれない。

 正しさと、強さは、必ずしも同じではない。

 そして――

 夜の砂漠は、あまりにも静かだった。

 風が、止んでいる。


 ただ、胸の奥には、名を持たない何かが、沈んでいた。



 しばしの沈黙のあと、出撃の時がきた。


 最前線に立つのは、父――ガイル。


 砂漠の夜を背に、その姿は揺るがない。


 低く、よく通る声が響いた。


「責を負うは、我らの誉れ。

 罪を刻むは、我らの誓い。

 ネフィルの加護があらんことを――

 出るぞ」


 その言葉は、砂に吸われることなく、

 確かに隊の胸へと落ちた。


 ――あの瞬間だけは。


 それまでガイルに抱いていた、歪な感情が、消えていた。疑念も、反発も、わずかな苛立ちも。

 ただ、そこに立つ“将”の姿だけがあった。


 あの姿は、本物だった。


 ユレッタの広場で、

 僕が“演じた”それとは、決定的に違う。


 言葉を掲げるのではなく、

 言葉に背を押されるでもなく。


 責を背負い続けてきた者の背中だった。


 責を語る声ではなく、

 責を背負ってきた声。


 父は――揺れていない。


 冷気を孕んだ砂漠に、六十の馬の脚音が響く。

 乾いた砂を蹴り上げ、夜を裂くように進む。

 ふと、後方へ目をやった。

 王女の天幕が、遠くに小さく灯っている。

 あの、緑の瞳が脳裏をよぎった。

 僕は、何のために戦うのだろう。

 少なくとも、周囲の兵の多くは、決められたレールの上を歩いている。

 王女のために戦い、王女のために死ぬ。

 前方では、オルロが。

 隣には、シアナが。

 それぞれの背中が、闇に溶けていく。


 いや――


 本当に、そうだろうか。

 皆、それぞれの思いで走っているのかもしれない。

 前を行く父の姿が、闇の中に浮かび上がる。

 背は揺れない。

 手綱を握る腕も、迷いがない。


 父が、何のために戦っているのか――

 僕には、想像できなかった。


 王家のためか。

 アルヴェインの名のためか。

 それとも、ただ“責”という言葉のためか。


 分からない。


 だが、ひとつだけ確かなことがあった。


 物語の中でしか見たことのないような、

 猛々しい“将”の姿が、そこにあった。


 それは演じられた英雄ではない。


 誇示でも、虚勢でもない。


 背負い続けてきた者の背中だった。


そんな思いを胸に抱えたまま、

 僕は砂漠を進んだ。


 夜は深く。

 砂は冷たい。


 六十の兵の脚音だけが、

 この遠征が現実であることを告げている。


 父の背中。

 王女の緑の瞳。

 そして――罪を刻む翼。


 すべてが、同じ夜の中で、静かに絡み合っていた。

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