本物
遠征五日目の夜。
沈みかけた陽が、砂丘の向こうへと溶けていく時間だった。
先行していた斥候から、伝令が届いた。
――意味刻みと遭遇。
それだけで、空気が変わった。
この罪の砂漠に巣食う存在。
事前に、情報は聞いていた。
だが、その正体は曖昧だった。
刻まれた“意味”も、詳しくは伝わっていない。
少し先で、父やロイス、エルミナ――
そして、おそらくは本家から派遣された者たち、《責の灰》の使いが、低い声で言葉を交わしていた。
砂に吸われるような声だった。
だが、その輪の内側の空気だけが、重い。
かつて、この儀に挑んできた王族たちは、
その存在を、権威に群がる力で退けてきた――
それだけが、記録から読み取れる事実だった。
何を刻まれていたのか。
何を試されたのか。
何を失ったのか。
そこまでは、残されていない。
だが――
あの緑の瞳の王女に従う者たちは、圧倒的に少ない。
これまでの王族たちのように、
権威に群がる大軍がいるわけではない。
数で押し潰すことは、できない。
それでも、僕の脳裏によぎったのはあの白炎だった。
砂をも焼き尽くす、澄んだ光。
エルミナが――姉がいれば、問題はない。
理屈ではなく、確信に近い感覚だった。
僕は、それほどまでに彼女を信頼していた。
「アーシェ様」
先ほどまで父たちと話していたロイスが、静かに歩み寄ってきた。
その表情はいつもと変わらない。
だが、その目の奥に、わずかな緊張があった。
「我々は、本家とともに《罪翼》の討伐に向かいます。 アーシェ様も、その攻撃隊に加わるよう、隊長から伝令がありました」
命令だった。
問いではない。
選択でもない。
僕は、一瞬だけ父の方を見た。
ガイルは、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
「わかりました」
迷いは、声に出さなかった。
「アーシェ様、期待しています」
ロイスの声は穏やかだった。
だが、その言葉は、夜の砂漠に溶けることなく、胸に落ちた。
◇
夜の砂漠に、討伐隊が集められた。
松明の火が、風もない空気の中で、静かに揺れている。
ロイス。
ミリア。
父。
ヴァン。
シアナ。
見知った顔が、三十ほど。
そして――
本家から派遣された一団が、さらに三十。
先頭に立つのは、オルロ。
総勢、六十。
かつての王族が動員した軍勢に比べれば、あまりにも少ない。
それでも、誰も口には出さない。
僕には違和感があった。
数ではない。
空気でもない。
もっと、単純なこと。
――エルミナの姿がなかった。
「エルミナ姉さんは、出撃しないの?」
僕は隣に立つシアナに、小さく問いかけた。
だが、答えたのはヴァンだった。
「エルミナ様の隊は、《責の灰》と一緒にレアノール様の護衛に回るらしいぜ」
軽い口調だった。
いつも通りの声。
だが、その言葉は、胸の奥にわずかな引っかかりを残した。
護衛。
それは、当然の配置だ。
王女の命は、この遠征の中心。
最も強い戦力が付くのは、ただ理にかなっていた。
「おいおい。《罪翼》に出くわすなんて、とことんツイてねぇよな」
いつの間にか、オルロがすぐ近くに立っていた。
本家の一団を率いる男。
口元は笑っているが、目は笑っていない。
「だがよ」
肩をすくめる。
「この数で、もしもあの魔物を討てたなら――」
一瞬、視線がこちらを射抜く。
「第四王女も、一気に“本命”だな?」
軽い笑い。
「……ま、それまで命がもてば、の話だが」
「ほんと、嫌な奴ね」
シアナが、僕の耳元で小さく囁いた。
吐息が、冷えた砂漠の空気に溶ける。
「……この状況で、責任者として逃げないだけ、すごい人だと思う」
僕は、静かに呟いた。
オルロは嫌味だ。
打算も隠さない。
だが、それでも。
《罪翼》と聞いてなお、本家を背負い前線に立つ。
それは、軽くできることではない。
シアナは、少しだけ目を瞬かせた。
「……ただの嫌な奴よ」
シアナは、あっさりと言い切った。
そこに、迷いはなかった。
僕は、わずかに息を吐く。
もしかしたら、彼女の方が正しいのかもしれない。
正しさと、強さは、必ずしも同じではない。
そして――
夜の砂漠は、あまりにも静かだった。
風が、止んでいる。
ただ、胸の奥には、名を持たない何かが、沈んでいた。
◇
しばしの沈黙のあと、出撃の時がきた。
最前線に立つのは、父――ガイル。
砂漠の夜を背に、その姿は揺るがない。
低く、よく通る声が響いた。
「責を負うは、我らの誉れ。
罪を刻むは、我らの誓い。
ネフィルの加護があらんことを――
出るぞ」
その言葉は、砂に吸われることなく、
確かに隊の胸へと落ちた。
――あの瞬間だけは。
それまでガイルに抱いていた、歪な感情が、消えていた。疑念も、反発も、わずかな苛立ちも。
ただ、そこに立つ“将”の姿だけがあった。
あの姿は、本物だった。
ユレッタの広場で、
僕が“演じた”それとは、決定的に違う。
言葉を掲げるのではなく、
言葉に背を押されるでもなく。
責を背負い続けてきた者の背中だった。
責を語る声ではなく、
責を背負ってきた声。
父は――揺れていない。
冷気を孕んだ砂漠に、六十の馬の脚音が響く。
乾いた砂を蹴り上げ、夜を裂くように進む。
ふと、後方へ目をやった。
王女の天幕が、遠くに小さく灯っている。
あの、緑の瞳が脳裏をよぎった。
僕は、何のために戦うのだろう。
少なくとも、周囲の兵の多くは、決められたレールの上を歩いている。
王女のために戦い、王女のために死ぬ。
前方では、オルロが。
隣には、シアナが。
それぞれの背中が、闇に溶けていく。
いや――
本当に、そうだろうか。
皆、それぞれの思いで走っているのかもしれない。
前を行く父の姿が、闇の中に浮かび上がる。
背は揺れない。
手綱を握る腕も、迷いがない。
父が、何のために戦っているのか――
僕には、想像できなかった。
王家のためか。
アルヴェインの名のためか。
それとも、ただ“責”という言葉のためか。
分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
物語の中でしか見たことのないような、
猛々しい“将”の姿が、そこにあった。
それは演じられた英雄ではない。
誇示でも、虚勢でもない。
背負い続けてきた者の背中だった。
そんな思いを胸に抱えたまま、
僕は砂漠を進んだ。
夜は深く。
砂は冷たい。
六十の兵の脚音だけが、
この遠征が現実であることを告げている。
父の背中。
王女の緑の瞳。
そして――罪を刻む翼。
すべてが、同じ夜の中で、静かに絡み合っていた。




