不可逆の雨
人との――命の奪い合い。
その強烈な恐怖に、意識が遠のいていく。
……白い部屋。
ここは――オペ室、か?
この雰囲気の夢を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
いや、違う。
最後にこの夢を見たのは、ユーナ、ダルカン、クリオと初めて出会った日だった。
まだ、一ヶ月も経っていないはずだ。
けれど、あれからの時間は濃密で、
まるで何年も経ったように思える。
僕は――確かに変わった。
そして、やはり、そこにいる。
白衣の男。
前世の僕――
白井悠真。
「お前はずっと、作り物の世界にいる」
男の声が、白い空間に響く。
「魔物と人は違う」
再び、その声が重なる。
「お前が俺なら、人の命を奪う選択はできない。
――なぜならお前は、自分の命さえ拾わなかった“俺”だから」
「まだ――本当の意味で“選択”できたのは、
姉を救った、あの一度きりだ」
白衣の男は、ゆっくりと視線を落とした。
瞳の奥には、冷たさと哀しみが混ざっている。
「だが――あの選択さえ、痛みはなかった。
お前は、ただそれを選べばよかっただけだ」
彼は、静かに言葉を続ける。
「ティルザは見せたはずだ。
お前の“他の選択”に、意味はなかったと」
……息を呑む音が、白い空間に広がる。
「今はまだいいかもしれない。
お前の周りには、お前よりはるかに強い者たちがいる。
彼らが守ってくれる。
だが――いずれ後悔する」
その声は静かで、
それでいて、どこまでも深く突き刺さる。
「隣の者が、お前自身が、すべてを失う。
この世界を――さらに受け入れなければな」
白い空間が、ゆらりと揺らいだ。
心臓の鼓動だけが、現実の音のように響いている。
「お前は――誰なんだ? 本当に僕なのか?」
僕の声が、静寂の中に響いた。
白衣の男は、微かに笑った。
「そうだ。俺は――お前だ」
その瞬間、何故か理解した。
――僕に、人は殺せない。
◇ ◇ ◇
「アーシェ! アーシェ!」
ユーナの声が、遠くから響いた。
目を開けたとき、そこはもう白い部屋ではなかった。
夜の灯りが、降りしきる雨粒を淡く光らせている。
地面の感触。血と鉄の匂い。
耳を打つ剣戟の音――現実が、ゆっくりと戻ってきた。
目の前では、蒼い鎧の騎士たちと、ダルカン、そしてクリオが激しくぶつかり合っていた。
剣と槍がぶつかる金属音が、耳を突き刺す。
その奥に――蒼いローブを纏った男の姿が見える。
「アーシェ、大丈夫!?」
ユーナの声が、戦場の喧騒を貫いた。
僕は、ユーナの膝の上に抱えられていた。
視界が揺れる。雨が、頬を叩く。
「……すみません。血が、怖くて」
嘘だった。
僕はかつて外科医だった。血など、見慣れている。
怖いのは、血じゃない。
――“人と人が、命を奪い合う”ことだ。
その現実に、僕の心はまだ耐えられなかった。
「アーシェ、嘘ついてる」
ユーナは小さく息をつき、僕を見つめた。
「ごめんね。アーシェ、凄いから、忘れてた。
まだ――七歳なんだもんね。
こんな場所にいたら、怖くて当然だよ」
彼女の声は、戦場の喧騒の中で、不思議なほど柔らかかった。
そのとき、頬を伝う冷たい感触に気づく。
雨粒だと思っていたそれは――僕自身の涙だった。
その雫を見た瞬間、
ユーナの目つきが、鋭く変わった。
「ダルカンさん、すみません。アーシェと離脱します!」
ユーナの声が響いた。
「ユーナ、待て!」
ダルカンの声が、鋭く空気を裂く。
――焦っていた。
初めて、彼のそんな声を聞いた気がする。
それでもユーナは振り返らず、僕の手を強く引いた。
その手の温もりに、驚くほどの迷いがなかった。
僕は逆らわなかった。
その瞬間、脳裏に姉――シアナの姿が浮かぶ。
あのときも、同じだった。
あの手に導かれた先に、僕は“奇跡”を見た。
この手を――信じて進めば。
「ユーナとガキが逃げましたよ。追いなさい」
ザイアスの声が響く。
「ダルカンさん、まずいぜ!」
クリオの叫びが続いた。
だが、僕はもう振り返らなかった。
喧騒の中で握られたこの手だけが、
唯一、確かな現実だった。
――この手は、きっと正しい方へ連れて行ってくれる。
そう信じてしまった。
雨が、強くなっているのを感じた。
ユーナに手を引かれ、僕も走る。
背後では、まだ剣戟の音が遠く響いていた。
振り返れば、ダルカンたちの姿がかすかに見える。
――僕は、この“人との殺し合い”から逃げられる。
そう思った瞬間、
視界の先に、蒼い騎士たちが立ちはだかった。
三人。
あっという間に、僕らを囲む。
でも――不思議と、怖くなかった。
ユーナなら、これくらい何とかしてくれる。
そう思って、僕は息を整えた。
「アーシェ、目、閉じて。耳、ふさいでて」
ユーナの声は、いつになく静かだった。
僕は言われるまま、世界を遮断した。
――音が消えた。
――風が止まった。
おそらく、二十秒ほど。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
時間とは、不可逆なものだ。
そして――人は、変われないのかもしれない。
彼は言った。
「いずれ後悔する」と。
……いずれ、とは。
こんなにも近いものなのか。
そう。
僕は、また“選ばずに”後悔した。




