意味の泉
僕は――死んだ。
どこに向かっているのかはわからない。
ただ、どこかへ向かって――闇の中を進んでいた。
地面の感触もない。
だが、足音のような音が確かに響いていた。
それが、僕という存在をかろうじてこの世界につなぎとめているようだった。
……なぜ死んだのだろう。
思考の断片が、ぼんやりと浮かぶ。
おそらく――症状としては、脳出血。
側頭葉か、あるいは脳幹出血だったかもしれない。
僕は、医者としての癖のように自分の状態を分析していた。
まるで、自分の死を“観察対象”にしているようだった。
次々と仮説を立て、原因と結果を並べた。
もしかしたら、他の誰かの身体だったなら、僕はこの手で救えたかもしれない。
だが、僕は死んだ。
誰かに助けを求めることさえしなかった。
それが、僕という人間の“生き方”そのものだったのかもしれない。
◇
この空間で、なんとなくだが理解した。
死とは――虚無に帰ること。
この道は、きっとその“終着点”へと続いているのだろう。
僕の人生は、常にレールの上を進んできた。
医師の両親の次男として生まれ、育った。
物心ついた頃には、進む道はすでに決まっていた。
それは誰もが「安全で正しい」と言った道だったはずだ。
歳の離れた兄がいた。
兄は、彼が十八のとき、僕の前から消えた。
最後に見たのは、父と激しく言い争う兄の背中。
僕は、あの姿を見て――彼は“何かを選んだ”のだと、幼いながらに理解していた。
兄は翌日には、もう家を出ていた。
あの瞬間から、父と母は、僕により期待と重しを乗せた。
そして、続く道は一本に絞られた。
疑う余地もなく、ただ“医師になる”という道だけが残っていた。
どこかに他の世界に対して、情熱のようなものが――なかったわけではない。
けれど、その小さな火は、燃え上がる前に、いつも消えていた。
いつからか、進むレールの外を見ようとしなくなった。
選ばなかった――いや、“選ぶ意志”がなかった。
だから、“選ぶ理由”を知らぬまま、僕の人生は終わっていた。
そして――自分は、何ひとつ選ばずに終えた。
この人生に、意味はあったのだろうか。
いや、そもそも、これは本当に“自分の人生”だったのだろうか。
どれほど歩いたのだろう。
闇が、少しずつ“虚無”に近づいているように感じた。
もう――終わりが近いのかもしれない。
ふと目をやると、闇の奥に――泉のようなものが見えた。
僕の三途は川ですらなかった。
何も存在しない世界の中で、そこだけが、“形”を持っていた。
底の見える、浅く小さな泉。
その泉は、殺風景で、枯れていた。
まるで――僕の心のようだった。
この枯れた泉こそが、白井悠真という存在そのものを、象徴しているように感じた。
名前のない感情が、
静かに胸の奥で生まれた気がした。
僕は、その泉を見つめていた。
こんな、無意味な存在を、どれほどの時間、見ていたのかは分からない。
だが、いつか――この行為そのものが無意味だと感じ、僕は立ち去ろうと、歩みを始めた。
それでも。
どうしてだろう。
去り際に、もう一度だけ、その泉を振り返った。
すると――枯れた泉の底に、かすかな光があることに気づいた。
小さな、小さな光。
だが、それは一つではなかった。
蒼、赤、金、灰、紫、そして――白銀。
その輝きは、まるでホタルの群れのように、闇の中を静かに漂いはじめた。
気づけば――手が伸びていた。
けれど、触れようとした瞬間、光はすり抜けるように消えていく。
青も、赤も、金も、灰も、紫も。
淡い残像だけを残して、闇へと溶けていった。
そして――最後に残ったのは、白銀の光だけだった。
その銀色は、僕という命に残された――たったひとつの“意味”だったのかもしれない。
白銀の光の奥から、微かな意識に“映像”が浮かび上がった。
――あの六日目の当直。
もし、あのとき、何かを“選んで”いたら。
何度も思い描いた“選択の続き”が、ぼんやりと現れては滲んでいく。
どの選択の先にも、結末は見えなかった。
すべてが霧のようにぼやけ、指先からこぼれ落ちていく。
そして――最後に、あの少年の顔が浮かぶ。
その瞬間、はっきりと理解した。
僕は“決断”から逃げたのだ、と。
胸の奥から、抑えきれないものがあふれ出す。
怒り。責任。後悔。悲しみ。
それらすべてが渦を巻き、やがて――熱へと変わっていく。
そのとき、手のひらに――ひんやりとした感触があった。
気づけば、僕は――銀の光に触れていた。
それは、鉄のように冷たかった。
けれど、不思議と――不快ではなかった。
そ静寂の中で――かすかな“せせらぎ”の音が聞こえた。
泉に目を向ける。
さっきまで“なにもなかった”はずの場所に――
水が、湧いていた。
不思議な光景だった。
そう思った次の瞬間、手の中の光が強く脈打ちはじめる。
世界が――銀色の光に包まれていった。
意識が――消えていく。
記憶が――ほどけていく。
名前も、年齢も、職業も、責任も。
白井悠真という輪郭さえ、静かに、音もなく消えていった。
そして、僕は――
“僕ではなくなった”。
白銀の光は、やがて揺らぎ、形を帯びていく。
新しい世界の幕が、静かに――上がろうとしていた。




