幼き先陣 ― アーシェの決断
はるか昔、白銀の神ティルザは人に選ぶ力を与えた。
道を分かつとき、右か左かを選べるように。
手を伸ばすとき、誰の手を取るかを決められるように。
けれどティルザは、こうも告げたという。
選ばぬ者、選ばれぬ者。
その歩みは道より外れ、
意味なき空白となる。
人は選ぶことで道を得る。
選ばぬことは、存在そのものを空白にする。
それが、ティルザが定めた理であった。
そして今も、人は誰もが――選択の只中に立たされている。
――『白銀記』断章より
見張り台から降りたあと、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。
でも、それで十分だった。
並んで歩きながら、胸の奥で、何かが静かに形になっていくのを感じていた。
シアナと一緒に部屋へ戻り、布団に身を沈める。
あんなにも心がざわついていたはずなのに、すぐに眠れた。
きっと、シアナのおかげだ。
手を引かれて見た景色が、またひとつ、心の奥に灯った。
その光だけを胸に抱いて、僕は静かに目を閉じた。
⸻
……気づけば、そこにいた。
忘れていたはずの部屋だった。
書類と本が積まれた机。
物の少ない棚。
カーテンの閉じた窓から、わずかに街の光がにじんでいた。
前の世界。
前の人生。
僕はすぐに思い出した。
ここは、白井悠真の部屋だ。
灰色に沈んだ空間の中、男がひとり、窓辺に立っていた。
皺の寄った白シャツに、乾いた髪。
無表情のまま、じっとこちらを見ていた。
名前を出さなくても、わかっていた。
あれは――僕だ。
⸻
「意味はなかった」
静かな声だった。
感情が削れて、ただ事実だけを口にするような声。
「ただ流れて、終わった」
「気づいたときには、何もなかった」
僕は黙って聞いていた。
「選ばなかった。
意味を持てなかったからだ」
「選ぶには、理由がいる。
信じられるものがいる」
「お前は、持て」
「何でもいい。
それが選べる理由になる」
「それがあれば、意味は残る」
⸻
男はそれ以上何も言わなかった。
机の上に目を落とし、
ゆっくりと背を向けて、
そのまま、輪郭ごと、すっと消えていった。
⸻
……風の音がした。
まぶたの裏に、朝の光がにじむ。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
木の天井。
ユレッタの詰所。
胸の奥に、あの声だけが、まだうっすらと残っていた。
でも――もう、迷いはなかった。
⸻
「アーシェ、おはよう」
朝が苦手なはずのシアナが、もう起きていた。
「おはよう」
僕もそう返す。
僕の顔を見て、彼女は何かを察したようだった。
特に何も言わず、少しだけ笑ってうなずく。
「準備ができたら、ロイスさんのところへ行こう」
「……わかった」
簡単に身支度を整えて、僕たちは並んで歩いた。
詰所の廊下を歩く足音が、朝の静けさに溶けていく。
執務室の前に立ち、ひと呼吸おいてから、扉をノックした。
すぐに返ってきた短い声――
「どうぞ」
中では、ロイスがすでに資料を広げて待っていた。
「おはようございます」
僕がそう言うと、ロイスは静かに頷いた。
「おはようございます、ロイスさん」
シアナも隣で声を添える。
ロイスは背筋を正し、
「おはようございます、アーシェ様、シアナ様」
と丁寧に言葉を返した。
それ以上、何も言わなかった。
けれど、それだけで十分だった。
ロイスがゆっくりと立ち上がった。
「では、町長のもとへ参りましょう」
「はい」
僕もそれに続く。
シアナと三人で、詰所をあとにした。
外に出ると、ユレッタの朝が広がっていた。
昨夜、シアナとふたりで歩いた静かな夜とはまた違って、
空気は澄み、建物の影もやわらかい。
ただ、耳に届く人々の声には、どこかそわつく調子が混じっていた。
箒で石畳を掃く音、荷を積む馬の蹄の響き、
暮らしを刻む音が街に流れている。
そのなかにほんの僅か、不自然な揺らぎがあった。
それでも、初めて見る町の朝の姿は新鮮で、
胸の奥が少しだけほどける。
やがて、町長の屋敷が見えてきた。
昨晩と同じ使用人が門前に立っていて、僕たちに気づくと一礼し、
静かに屋敷の中へと案内してくれる。
廊下に差し込む朝の光が、床に長い影を落としていた。
そして――
屋敷の玄関を抜けようとしたとき、
ロイスが足を止め、僕のほうを見た。
「ここからは……どうか、アーシェ様が先頭を」
それは、命令でも助言でもなかった。
ただ、“そうあるべき”という、ごく自然な言葉だった。
「……わかりました」
初めて、ロイスの前を歩く。
廊下の向こうに続くのは、町長の部屋――
昨夜、話を聞いたあの部屋だ。
扉が近づくたびに、足音の響きが、ほんの少しずつ強くなっていくような気がした。
扉が開かれ、昨日と同じ応接室へと通された。
中ではすでに、町長オルドンが席に着いていた。
「おはようございます、アーシェ様。ロイス様、シアナ様も」
「おはようございます」
僕たちはそれぞれに頭を下げる。
朝の光が部屋に差し込んでいる。
昨晩と同じ場所なのに、空気の印象がまるで違って見えた。
「……対応について、お考えはまとまりましたか?」
町長がそう問いかけたのは、ロイスに向けてだった。
声の調子は穏やかだったが、
その表情には、どこか急ぎたい気配がにじんでいた。
ロイスは一礼し、
「いえ。私からの判断ではございません」
オルドンが少しだけ眉をひそめる。
「……と、申しますと?」
ロイスはすっと姿勢を正し、
ゆっくりと言葉を継いだ。
「本件につきましては、アーシェ様が決定なさっております」
町長の目が見開かれる。
一瞬、言葉を失ったように口が止まり、
続いて僕を見て――それから、再びロイスに視線を戻した。
ロイスは黙ってうなずいた。
けれど、その横顔には、ほんのわずかに、
僕のことを気遣うような気配が宿っていた。
僕はゆっくりと前を向いた。
背後、斜め後ろから――シアナの視線を感じる。
何も言わない。けれど、わかっていた。
たとえ何を選んでも、彼女は僕の背中を支えてくれる。
その確かさが、胸の奥で静かに言葉へと変わっていく。
「……アーシェ・アルヴァインの名の下に」
正しい判断なのかは、わからない。
危機の規模も、選択の重さも、今の僕には掴みきれない。
もしかしたら、本家に援軍を要請したほうが、
正しくて、確実だったのかもしれない。
それでも。
僕は、あの夜の町を――忘れることができなかった。
通りに灯る、かすかな明かり。
路地の片隅で交わされる、何気ない言葉のやりとり。
高台から見下ろした光は、凛とした静寂の中で、ほの白く、淡く揺れていた。
そこには、誰かが確かに“生きている”という気配があった。
それを、ただの景色として通り過ぎることが――僕には、できなかった。
だから。
「ユレッタの危機回避を目的に、
旧ラドゥスを拠点とする魔物の群れに対し――
明朝、討伐隊を出す」
声は落ち着いていた。
けれど、その静けさの裏には、確かな覚悟があった。
誰も言葉を挟まなかった。
空気が、わずかに張り詰める。
それでも僕は、はっきりとわかっていた。
今、ひとつの“選択”が、確かにこの場で成されたのだと。
⸻
……きっと僕は、わかっていなかったのだ。
世界には、想像よりもずっと多くの選択があって。
小さなことも、大きなことも、
そのすべてに――誰かの、意味が宿っている。
それを、少しだけ。
今、ようやく“知る”ことができた気がした。