表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
主者選択 ― この命に、意味を刻む  作者: シロイペンギン
未知に試される者 ― 少年編
15/32

幼き先陣 ― アーシェの決断

はるか昔、白銀の神ティルザは人に選ぶ力を与えた。

道を分かつとき、右か左かを選べるように。

手を伸ばすとき、誰の手を取るかを決められるように。


けれどティルザは、こうも告げたという。


選ばぬ者、選ばれぬ者。

その歩みは道より外れ、

意味なき空白となる。


人は選ぶことで道を得る。

選ばぬことは、存在そのものを空白にする。

それが、ティルザが定めた理であった。


そして今も、人は誰もが――選択の只中に立たされている。


――『白銀記はくぎんき』断章より

見張り台から降りたあと、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。


でも、それで十分だった。


並んで歩きながら、胸の奥で、何かが静かに形になっていくのを感じていた。


シアナと一緒に部屋へ戻り、布団に身を沈める。


あんなにも心がざわついていたはずなのに、すぐに眠れた。


きっと、シアナのおかげだ。


手を引かれて見た景色が、またひとつ、心の奥に灯った。


その光だけを胸に抱いて、僕は静かに目を閉じた。



……気づけば、そこにいた。


忘れていたはずの部屋だった。


書類と本が積まれた机。

物の少ない棚。

カーテンの閉じた窓から、わずかに街の光がにじんでいた。


前の世界。

前の人生。


僕はすぐに思い出した。


ここは、白井悠真の部屋だ。


灰色に沈んだ空間の中、男がひとり、窓辺に立っていた。


皺の寄った白シャツに、乾いた髪。

無表情のまま、じっとこちらを見ていた。


名前を出さなくても、わかっていた。

あれは――僕だ。



「意味はなかった」


静かな声だった。

感情が削れて、ただ事実だけを口にするような声。


「ただ流れて、終わった」

「気づいたときには、何もなかった」


僕は黙って聞いていた。


「選ばなかった。

意味を持てなかったからだ」


「選ぶには、理由がいる。

信じられるものがいる」


「お前は、持て」

「何でもいい。

それが選べる理由になる」


「それがあれば、意味は残る」



男はそれ以上何も言わなかった。


机の上に目を落とし、

ゆっくりと背を向けて、

そのまま、輪郭ごと、すっと消えていった。



……風の音がした。


まぶたの裏に、朝の光がにじむ。


僕は、ゆっくりと目を開けた。


木の天井。

ユレッタの詰所。


胸の奥に、あの声だけが、まだうっすらと残っていた。


でも――もう、迷いはなかった。



「アーシェ、おはよう」


朝が苦手なはずのシアナが、もう起きていた。


「おはよう」

僕もそう返す。


僕の顔を見て、彼女は何かを察したようだった。

特に何も言わず、少しだけ笑ってうなずく。


「準備ができたら、ロイスさんのところへ行こう」


「……わかった」


簡単に身支度を整えて、僕たちは並んで歩いた。


詰所の廊下を歩く足音が、朝の静けさに溶けていく。


執務室の前に立ち、ひと呼吸おいてから、扉をノックした。


すぐに返ってきた短い声――


「どうぞ」


中では、ロイスがすでに資料を広げて待っていた。


「おはようございます」

僕がそう言うと、ロイスは静かに頷いた。


「おはようございます、ロイスさん」

シアナも隣で声を添える。


ロイスは背筋を正し、

「おはようございます、アーシェ様、シアナ様」

と丁寧に言葉を返した。


それ以上、何も言わなかった。

けれど、それだけで十分だった。


ロイスがゆっくりと立ち上がった。


「では、町長のもとへ参りましょう」


「はい」

僕もそれに続く。


シアナと三人で、詰所をあとにした。


外に出ると、ユレッタの朝が広がっていた。


昨夜、シアナとふたりで歩いた静かな夜とはまた違って、

空気は澄み、建物の影もやわらかい。

ただ、耳に届く人々の声には、どこかそわつく調子が混じっていた。


箒で石畳を掃く音、荷を積む馬の蹄の響き、

暮らしを刻む音が街に流れている。

そのなかにほんの僅か、不自然な揺らぎがあった。


それでも、初めて見る町の朝の姿は新鮮で、

胸の奥が少しだけほどける。


やがて、町長の屋敷が見えてきた。


昨晩と同じ使用人が門前に立っていて、僕たちに気づくと一礼し、

静かに屋敷の中へと案内してくれる。


廊下に差し込む朝の光が、床に長い影を落としていた。


そして――


屋敷の玄関を抜けようとしたとき、

ロイスが足を止め、僕のほうを見た。


「ここからは……どうか、アーシェ様が先頭を」


それは、命令でも助言でもなかった。


ただ、“そうあるべき”という、ごく自然な言葉だった。


「……わかりました」


初めて、ロイスの前を歩く。


廊下の向こうに続くのは、町長の部屋――

昨夜、話を聞いたあの部屋だ。


扉が近づくたびに、足音の響きが、ほんの少しずつ強くなっていくような気がした。


扉が開かれ、昨日と同じ応接室へと通された。


中ではすでに、町長オルドンが席に着いていた。


「おはようございます、アーシェ様。ロイス様、シアナ様も」


「おはようございます」

僕たちはそれぞれに頭を下げる。


朝の光が部屋に差し込んでいる。

昨晩と同じ場所なのに、空気の印象がまるで違って見えた。


「……対応について、お考えはまとまりましたか?」


町長がそう問いかけたのは、ロイスに向けてだった。


声の調子は穏やかだったが、

その表情には、どこか急ぎたい気配がにじんでいた。


ロイスは一礼し、


「いえ。私からの判断ではございません」


オルドンが少しだけ眉をひそめる。


「……と、申しますと?」


ロイスはすっと姿勢を正し、

ゆっくりと言葉を継いだ。


「本件につきましては、アーシェ様が決定なさっております」


町長の目が見開かれる。


一瞬、言葉を失ったように口が止まり、

続いて僕を見て――それから、再びロイスに視線を戻した。


ロイスは黙ってうなずいた。


けれど、その横顔には、ほんのわずかに、

僕のことを気遣うような気配が宿っていた。


僕はゆっくりと前を向いた。


背後、斜め後ろから――シアナの視線を感じる。


何も言わない。けれど、わかっていた。

たとえ何を選んでも、彼女は僕の背中を支えてくれる。


その確かさが、胸の奥で静かに言葉へと変わっていく。


「……アーシェ・アルヴァインの名の下に」


正しい判断なのかは、わからない。

危機の規模も、選択の重さも、今の僕には掴みきれない。


もしかしたら、本家に援軍を要請したほうが、

正しくて、確実だったのかもしれない。


それでも。


僕は、あの夜の町を――忘れることができなかった。


通りに灯る、かすかな明かり。

路地の片隅で交わされる、何気ない言葉のやりとり。

高台から見下ろした光は、凛とした静寂の中で、ほの白く、淡く揺れていた。


そこには、誰かが確かに“生きている”という気配があった。


それを、ただの景色として通り過ぎることが――僕には、できなかった。


だから。


「ユレッタの危機回避を目的に、

旧ラドゥスを拠点とする魔物の群れに対し――

明朝、討伐隊を出す」


声は落ち着いていた。

けれど、その静けさの裏には、確かな覚悟があった。


誰も言葉を挟まなかった。

空気が、わずかに張り詰める。


それでも僕は、はっきりとわかっていた。

今、ひとつの“選択”が、確かにこの場で成されたのだと。



……きっと僕は、わかっていなかったのだ。


世界には、想像よりもずっと多くの選択があって。

小さなことも、大きなことも、

そのすべてに――誰かの、意味が宿っている。


それを、少しだけ。

今、ようやく“知る”ことができた気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ