地図には載らないもの ー ユレッタへの旅路
『旅路覚書 第三篇』
筆者:放浪の冒険家 エルダラン
ファルナから北西へ伸びる街道を行けば、ユレッタに至る。
道は整えられていて歩きやすいが、森沿いの区間は油断ならねえ。
ときに獣や魔物が姿を見せ、夜の行軍はとても勧められない。
地図で見りゃ近い距離のはずだが、揺られて進むうちに妙に遠く感じるのがこの道の性分だ。
旅人にとっちゃ、距離より時間が重くのしかかる。
――そうして越えた先に、川辺の町ユレッタが待っている。
朝――
馬車の揺れとともに、屋敷の門がゆっくり遠ざかっていく。
出立は二台の馬車と随行の一騎。
先頭に父の副官ロイスたち。僕とシアナは後方の馬車に並んだ。
ほどなくして、小さな屋敷町ファルナを抜ける。
使用人や衛兵、その家族たちの生活の匂いが背中に流れ、風の通る広い街道へ。
御者席には、見覚えのある若い騎士。記憶の輪郭を追いかけていると――
「坊っちゃん。お久しぶりですねえ。……お嬢ちゃんは寝ちゃってます? 朝はちょっと苦手なんですかね?」
人懐っこい調子に、胸のどこかがひっかかる。
振り返った瞬間、三年前の朝がほどけた。門前で手綱を引いていた、あの騎士。
昔は背負うものばかりが目についたが、今は無駄のない手綱さばき。
――たしかに、あれから三年が経ったのだ。
隣ではシアナがぐっすり眠っている。散歩にでも行くかのような安らかな寝顔。たしか、この姉は朝が苦手だった。
「そういや名乗ってなかったすね。俺、ヴァンっていいます。……坊っちゃんのことはよく存じてるんで、挨拶は省略で」
軽口を叩きつつ、手綱は正確だ。
貴族の子に対して軽すぎるのかもしれない。それでも、不思議と嫌ではない。
「今回の調査で、有望な跡取りに――しっかりツバ、つけさせてもらいますんで」
あまりに直球で、吹き出しそうになる。冗談とも本気ともつかない軽さ。
その空気が、少し心地よい。僕は微笑んでうなずいた。
「坊っちゃん、外は初めてっすよね? シアナちゃんは何度か似た調査に同行してるんすよ」
そういえば、何日か姿を見ない時期があった。けれど彼女は語らない――昔からだ。
「まあ、大丈夫っす。魔物に遭っても、この辺は大したことないんで」
手綱を軽く引き直し、笑う。
「……あーあ、雑魚相手じゃ、坊っちゃんに俺を売り込めねえなぁ」
独り言のようでいて、どこか楽しげだった。僕は黙って彼の背中を見る。
同じ景色が窓の向こうをゆるく流れる。森でも山でもない、平らな時間だけが進む。
地図で見た“近さ”と、体で味わう道のりの重さが、ずれたまま積もっていく。
「……ユレッタには、どれくらいで?」
ヴァンが振り返り、声を弾ませる。
「この調子なら、夕方までには着きますね」
ユレッタ。
父ガイルのヴァルデン領の北西、川沿いの中継の町。地図では“近隣”に属する。
だが、揺られ続ける今となっては――その“近さ”が観念だったとわかる。
距離はわずかでも、体感は遠い。
紙の上の一本線が、こんなにも重かったとは。
前世の冒険譚の一節がよぎる。
旅路に重みを与えるのは、距離ではなく――揺られた時間だ。
世界は少しずつ広がる。
けれど、その手触りには、まだ戸惑いが混じっていた。
――ふと、空が陰った。
顔を上げる。頭上を影が横切る。
鳥にしては大きすぎる。裂けたような翼端、蛇のようにうねる尾。青空を旋回し、獲物を探す軌道。
――ワイバーン。
“想像上の存在”でしかなかった魔物が、今、空を裂いて飛んでいる。
その実在の重みが、胸の内側をざわりと撫でた。
――もし、あんなものに襲われたら。
無意識に前へ視線を移す。
ヴァンは反応を変えない。剣にも手を伸ばさず、空も見上げない。
……人を襲う習性は、ないのだろうか。
この世界の“常識”が、少しずつ輪郭を持ちはじめる。
隣では、シアナが変わらず静かな寝息。
魔物がいようと関係ないとばかりに、陽を頼りに受けて眠っている。
やがて昼頃になり、街道脇で馬を止めて簡単な昼食をとった。
そのときはシアナも目を覚まし、騎乗していた女性兵士と親しげに言葉を交わし、
僕の横ではヴァンが自分の武勇を得意げに語っていた。
だが、再び馬車が進み出すと、シアナはあっさりと身を横たえ、再び眠り込んでしまった。
――確かに、この姉は普段からよく眠る。
やがて陽がわずかに傾きはじめたころ――
道の先、遠い林で、影が動いた。
地を這う低い姿。枝をかきわける小さな影。緑がかった肌、針金のような手足、粗末な武器。
――ゴブリン。
前世の物語で見た通りの魔物が、現実の風景に自然に紛れ込んでいる。
牙を剥き、喉を鳴らし、こちらを威嚇――だが距離は詰めない。
「ここは俺たちの縄張りだ」とでも言うように、存在だけを示す。
ヴァンの背に目をやる。
彼はわずかに手綱を強めた。姿勢は崩さないまま、意識だけが林へ向く。
――警戒はしている。
それだけで少し安心した。だが速度は落ちない。言葉もない。
魔物は動かず、馬車はそのまま林の前を静かに通り過ぎた。
林が途切れ、視界がひらける。
なだらかな丘の上に、小さな町が姿を現した。
連なる屋根と煙突。斜面に家々。小さな畑、家畜の囲い。
――ユレッタ。
太陽は低く、空の端に朱が滲む。
草に落ちる影は長い。風に混じる土の匂いが、町の近さを告げる。
「まもなく到着します。外周が見えてきました」
先頭の御者の声が風に乗る。僕は小さくうなずき、前を見据えた。
遠かった町並みが、いまは手の届くところにある。
「……ついたの?」
隣でシアナが目をこすり、身を起こす。寝ぼけ顔のまま外を眺める。
昼食のあと再び眠っていた彼女は、到着の気配でようやく目を覚ましたらしい。
町の入口が近づく。掲げられた旗――アルヴェイン家の紋章が風に揺れる。
ここが父の治める領地内であることを、静かに告げていた。
馬車は軋みを響かせ、夕暮れの坂をゆるやかに下る。
ユレッタの町が確かな輪郭を帯びて迫ってくる。
……けれど、その光景は、思い描いていたものとどこか違って見えた。
屋根の並びも、通りの配置も、大枠は合っているはずなのに――
人の気配。空気の重さ。風の流れ。
“測れないもの”だけが、妙にざらついている。
この町には、きっと“何か”がある。
まだ見ぬそれが、すでに息を潜めて待っている――そんな感じがした。