あの続き――異世界の“医師”
一人の医師が、
異世界に転生してから――十六年。
銀の髪、灰の瞳の青年は、
魔道士として。
そして――医師として、
もう一度、選び直す。
僕は、選んだ。
そして――ここにいる。
この世界に、“医師”はいない。
だから。
この選択の先で、僕は人を救う。
緑銀の光が、
目の前の若い獣人を包んだ。
その傷は、静かに閉じていく。
「……これで、大丈夫だと思います」
そう言って、手を離す。
「念のため、調合した薬草を出しておきます。
毎晩、飲んでください」
男の獣人は、礼を言い去っていった。
……前の世界でも、
同じような光景を見ていたのかもしれない。
違うのは――
この世界には、“医師”という概念がない。
――だから。
その役割を担えるのは、
僕しかいない。
金を稼ぐだけなら、
ギルドで高ランクの依頼を受けた方がいい。
効率は、そっちの方が上だ。
魔術にも、自信はある。
それに、
優秀な騎士がついている。
シアナ――この世界での姉。
それでも。
僕は、この場所で――
“医師のようなこと”をしている。
ただ――
こうしていることが、
僕の中へと沈んでいく白井の、その続きのように思えた。
彼を、なかったことにする。
――それだけは、
選んではいけないと思っていた。
開かれた窓から、
春の風が吹き込む。
この建物は、
人里から少し離れた場所にある。
小さな建物だ。
――とはいえ、
前の世界でいうなら、開業医ほどの規模はある。
どこか。
アーシェとして少年時代を過ごした、
ファルナの屋敷に似た佇まいだった。
診療所の奥は、
そのまま僕たちの住まいになっていた。
◇
あの儀の後、セレストリアを出て、この大陸に渡ってきた。
その四人で、生活を共にしていた。
シアナも、もう十八だ。
すっかり、大人になった。
ヴァンも、色々と動いてくれている。
……そういえば、彼の正確な年齢は、知らないままだった。
レアノールの病も、落ち着いていた。
彼女の白脆の病は、リメアが外界に過敏に反応することで起きる。
――いわば、アレルギーのようなものだ。
この大陸は、マナが少ない。
そのせいか――
大気に満ちる“意味”もまた、薄い。
それが、彼女の体調を安定させていた。
だが――
彼女には、セレストリアへ戻る理由がある。
だから、僕たちは今も――
この病の治療法を、探し続けている。
――ルーメンは、あのとき言った。
『拒絶の大地でなら、
治療の糸口が見つかるはずだ』
僕たちは、その言葉を信じた。
シアナとヴァンは、
日々、情報を集めるために動いている。
それは――
僕たちが、選び背負った責任だ。
◇
僕はそのまま椅子に腰をかけ、薬草の匂いが染みついた部屋で、魔筆を走らせる。
――コン、と。
ドアを叩く音が響いた。
「アーシェ、今日の診療は終わりましたか?」
透き通るような声が、扉越しに、静かに届く。
そして――
高貴な育ちを思わせる、規則的な足音が近づいてくる。
振り返る。
揺れる金の髪。
すらりと伸びた四肢。
そして――
吸い込まれるような、緑の瞳。
――レアノールだ。
彼女も、もう十六。
――そして。
僕もまた、その歳になっていた。
「はい。やはり、魔物の被害が多いようで……
無響病の方も、ちらほら」
「……そうですか。ご苦労様です」
レアノールは、わずかに目を伏せた。
「魔物も大変ですが……
無響病は、アーシェにしか治せないので」
その言葉が、静かに落ちる。
「……あまり流行ると、
皆様、困ってしまいますね」
彼女は、悲しそうに呟いた。
無響病。
原因不明の症状に、
そう呼び名を与えているだけに過ぎない。
当然……すべてを、治せるわけじゃない。
だが。
原因が見えるものなら――
手を打てることも、少なくはない。
魔法の精度には、因果が強く影響する。
……それは。
イレナに教えられたあの頃よりも、
今の方が、はっきりと実感していた。
あの世界で得た知識は――
ほんの少しだけ。
この世界の人々を、助けている。
再び、魔筆を走らせる。
僕は、この診療のあとの時間を――
前世の知識を書物としてまとめるために使っていた。
棚には、まだ数冊しか並んでいない。
おそらく――
一生をかけて、やり抜く作業だ。
生活に必要な小さなことから、
医術に至るまで。
自然界は、前の世界とよく似ている。
……だが。
ここは、異世界だ。
ふと視線を上げると――
レアノールが、
静かに棚から一冊を手に取っていた。
頁をめくる音だけが、
部屋に落ちる。
彼女は、たまに街へ買い出しに行く程度で、
基本は、この診療所で日々を過ごしている。
……暇なのだろう。
僕のまとめた書物を、
よく読んでいる。
幼い頃から王族として魔術を学んできた彼女は――
その知と魔を重ね、軽い体調不良であれば、
処置できるほどになっていた。
時折、
彼女が僕の代わりに患者を診ることもある。
彼女は、
滅多に他人の目を見ない。
四年間、
共に過ごした僕たちでさえ――
例外ではなかった。
それでも。
患者と向き合う、その時だけは。
あの緑の瞳が――
まっすぐに、
対象を捉えていた。
彼女は、特別に綺麗だった。
――だからだろう。
僕よりも、圧倒的に人気がある。
僕自身も、背は伸びたし、それなりに整った顔立ちにはなったと思う。
それでも。
ほんのかすり傷程度で、
彼女目当てに訪れる者もいる。
当然。
僕にそんな患者はいない。
……少しだけ、悔しかった。
その感情は――
白井にはなかったものだと、
ふと、思うことがある。
◇
そんな日常に――
突然、事件が起きた。
慌ただしい足音が、部屋の前の廊下に響く。
「アルヴェインさん!
助けてください!」
扉が開く。
息を切らした男が、転がり込むように入ってきた。
――トール。
近くの鉱区で働く男だ。
「トールさん、どうしましたか?」
「大変なんです!
鉱区の奥から、大量の魔物が現れて……
怪我人が多すぎて、
町の治癒術師達も来てくれてるんですが――」
「それに――」
トールは、焦るように言葉を継いだ。
「奥には、まだ仲間が取り残されてます。
助けてください」
「シアナさんと、ヴァンさんはいませんか?」
その問いに。
僕は、一瞬だけ言葉を失った。
二人は、自分達の立ち上げたギルドと共に、
依頼へ向かっていた。
数日は戻らない――そう言って。
僕は、少しだけ考えた。
僕が向かえば、
助けられる命があるかもしれない。
だが、レアノールを、ここに一人残していいのか。
――選んだ。
そして。
僕は、緑の瞳を見た。
彼女もまた、
まっすぐに僕を見返していた。
「アーシェ、行って差し上げてください」
静かな声だった。
「それが――
私たちの責です」
優しく、微笑む。
僕は、それに応えるように――
しっかりと頷いた。
「トールさん」
声は、自然と落ち着いていた。
「シアナとヴァンは不在です。
ですが――僕が向かいます
念のため、ギルドへの要請もお願いします」
薬草の匂いが残る部屋に、
僕の声が静かに落ちた。
僕の選択に、
トールは深く頭を下げると、
すぐに駆けていった。
――準備をする。
立ち上がる。
ふと、
金属でできた魔道具に、
自分の姿が映った。
背は、伸びている。
線は細いが――
銀の髪と、灰色の瞳。
その顔立ちは、
どこかガイルに似てきていた。
左腰に、
母からもらった短剣。
後ろの腰に、
レオから託された剣。
黒のローブを纏う。
そして――
師、ライコスから授かった魔杖を握る。
診療所の出口へ向かう。
――そこに、
レアノールが立っていた。
「しっかり戸締りを。
何かあれば、迷わず魔石を使ってください」
口にしたのは、
そんな言葉ばかりだった。
「ええ」
レアノールは、
やわらかく微笑む。
「お気をつけて」
その一言が、静かに胸に落ちた。
「……行ってきます」
短く答え――
僕は、診療所を後にした。
――北の鉱区へ。
また、選ぶために。
※100話からでも読める構成になっています。
気に入っていただけたら、ぜひ第1話からもご覧ください。




