逢瀬
その日は雪乃にとって、一年で最も大切な日だった。雨が降っていようと、体調を崩していようと、必ずある場所へと出向くことが、雪乃の中での決め事だった。
健には何も言わず、彼が仕事に出かけてから家を出た。
いつものように勤務先に向かうのではなく、マンションから歩いて三十分ほどの場所にある小さな霊園へ向かった。雪乃の肩に下げられたクリーム色のトートバックの中には、小さな花束と線香が入っている。花束は近所の花屋さんで見繕ってもらったもので、菊やコスモスが小綺麗に束ねられている。
頭の中で、彼女と何を話すか考えながら歩いていると、すぐに目的地に着いた。
彼女は、小さな霊園の奥で静かに眠っていた。霊標の一番左端には、『平成二十六年十月十八日 凛 14才』と刻まれている。命日の上には、何やら小難しい字が並んでいる。その小難しい文字が、亡くなった後に授かる名前だということを、雪乃は祖母が亡くなったときに母親から教わった。
墓前に花を手向け、線香に火をつけると雪乃は墓石の前にひざまづいた。心の中で、彼女への懺悔を唱える。地面に着いたままの膝が、動かしてもいないのに微かに震え出した。それと同時に、身体の奥底に封じ込めていた記憶が重い蓋を押しのけて溢れ出してくる。刺激的な臭いが鼻を衝くような感覚に襲われる。瞼の裏に、青色の風景が鮮明に浮かぶ。慌てて目を開き、辺りを見回して安心する。雪乃がいるのはプールでも、更衣室でもなく、静まり返った平日の霊園だった。
何度か深く息を吐いて、雪乃は立ち上がった。線香の火を消してから、彼女に背を向けて歩き出す。
向かい側、霊園の入り口の方から微かな足音が聞こえる。雪乃は、視線を下に向けて、歩みを速める。足音の主とすれ違った途端に、聞こえていた足音は止まった。雪乃は構わずに歩みを進める。
「雪乃ちゃん?」
呼びかけられて、雪乃は歩みを止めた。錆びた機械のようにぎこちない動きで振り返ると、黒いワンピースに身を包んだ女性が、雪乃に柔和な笑みを向けていた。
「雪乃ちゃん、すっかり大人っぽくなったねえ」
そう言って、彼女は目の前のアイスティーに口をつける。乳白色のストローに、うっすらと薄桃色の跡が残る。彼女は微かに眉間にしわを作りながら、その跡をペーパーナプキンで拭う。
「大人っぽい、ですかね。自分ではそうは思わないですけど」
「そう?」
子首を傾げて悪戯っぽく笑う天野真紀を見て、彼女の方が余程大人っぽいと雪乃は感じた。九年前、明るい茶色だった髪は、闇夜を思わせる深い黒色に染まっていた。胸元には一粒のパールが、レストランの
照明を反射して輝いている。
「毎年、来てくれていたの?」
「はい」
雪乃は俯く。迷惑だっただろうかと、心の中で不安が頭をもたげる。
「毎年、妹の命日に行くと花が手向けてあるから、誰かなと思っていたの。雪乃ちゃんだったか」
ぱっちりとした大きな目が、細められる。笑った顔は彼女にそっくりだった。
「お姉さんも、毎年お墓参りに?」
「ええ。昔は家族で来ていたけど、最近は私一人だけ。父は足が痛いとか言って来てくれないし、母もお盆に行くだけで十分だって。それらしい理由をつけてはいるけど、父も母も、もう忘れたいんだと思う」
「忘れたい、ですか」
雪乃が真紀の言葉を反復すると、真紀は困ったような表情を浮かべる。
「いなくなった人のことを考えるのって、結構体力使うから。姉の私でも辛いのに、親の二人は尚更だと思う」
真紀は、窓の外に目を向けた。立ち並ぶ建物の隙間から微かに覗く空を見つめている。
「それでも私は忘れたくないし、凛のことを考え続けたいって思うよ。だって、生きているうちに何もしてやれなかったから」
「そんなこと、ないと思います」
生前、凛は真紀の話をよくしていた。彼女にとって、姉が大切な存在であったことは、まぎれもない事実だと雪乃は断言できる。
真紀の大きな目が雪乃の顔を見据える。思わず雪乃が目を逸らすと、真紀は脱力するようにふっと息を漏らした。
「雪乃ちゃんは優しいね」
真紀はぎこちなく笑う。その笑みが徐々に剥がれ落ちて、悲しげな表情に変わる。
「でも、私は姉失格なの。だって、あの子が何を苦にして向こう側に行ったのか、行ってしまうまでわからなかったから。あの子が苦しんでいることを、気づいてあげられなかった。助けてやれなかった。あの子がひどい目に遭っているなんて、想像すらしていなかった」
真紀の顔が苦しげに歪む。
真紀の言葉を聞いて、雪乃は息苦しさを覚える。うまく体に空気を取り込むことができなくなる。雪乃は間抜けに口をポカンと開けて一生懸命に空気を体内に取り込もうとする。異変に気付かれていないか、真紀の方に視線を向ける。真紀は窓の外を注視しており、彼女の目は雪乃をとらえてはいなかった。
真紀に何も言葉をかけられないまま、時間が流れていく。
「変なこと言って、ごめんね。反応に困ったよね」
苦痛に満ちた表情を無理やりに取り繕って、彼女は微笑んだ。雪乃はぎごちない微笑みを返すばかりで、彼女に言葉をかけることはできなかった。
真紀と別れてから、雪乃は暗澹たる思いを抱えながら家路についた。
凛がこの世を去ってからすぐに、更衣室で行われていたいじめはすぐに白日の下に晒された。学校や加害者の少女たちに待っていたのは世間からの厳しい糾弾だった。少女たちは転校を余儀なくされ、学校は再発防止に努めることとなった。
しかし、天野凛が虐めに遭う前にも、少女たちによるいじめ行為が行われていたこと。それが天野凛に対する虐めの原因となったことは、当事者以外に知られることはなかった。
もし、真紀に雪乃が隠している真実を話したら、彼女はどうしただろうか。雪乃を糾弾しただろうか。それとも哀れむだろうか。
考えただけで涙が出そうになって、雪乃はほんの少しだけ上を向きながら歩いた。
天野凛の通夜が行なわれた日に、真紀や彼女たちの母親に向かって、真実を話せていたら人生はどう変わっただろうか。少なくとも、今ほど醜い自分ではなかったかもしれない。
鋼のように重苦しい虚しさを抱えたまま、雪乃は家に向かってただひたすらに歩みを進めた。