20章
クリスは、改めて筆を握った。そして、集中して仕上げに入る。
幸い、天気は昨日と変わらず、海と空は同じような色でつながっている。
かもめものんびりと飛行していて、とてものどかだ。
集中しだすと、時を忘れるのは、なにもクリスに限ったことではない。が、クリスはその度合いが高い。
描き始めてからすぐに、もう周りの音も、気配も感じなくなっていた。クリスのそばに子供が二人近づいているのさえ、気づかないでいる。
クリスの周りで、男の子と女の子は、踊るように騒いでいた。体型から五、六歳くらいだ。女の子はもっと小さいので、兄弟かもしれない。
二人はクリスの絵を指して、何か言っている。
そのとき、遠くから呼びかけるような声が子供たちの耳に入った。
「あーっ、お母さん、こっちこっち!」
幼い声で手を振りながら、市場から走ってくる母を、手招きして誘導する。
すぐにやってきた母は、いきなりかん高い声で叱りだした。
「もう、あんたたちは! 動きまわっちゃ駄目って言ったでしょう! ここから落ちたら、死んでしまうのよ!」
母は息を切らしながら、崖を指さした。
クリスは、その母の声でようやく三人の存在に気が付いた。
ほぼ同時に母もクリスに気づき、一瞬目が合った。
「あら……」
「ねえ、きれいでしょ。うみと、おそらなのよ」
女の子は、自分が描いたかのように自慢する。
「え……」
母は、絵をみて、そしてクリスを見て、再び視線が合った。
クリスは母に軽く会釈したが、相手はクリスの頭に目をやり、わずかに身を引いた。
「あ。ほら。危ないから、降りるのよ」
母は、そう注意して子供たちの手を取った。
「ねえ、あれ、きれいだからもうちょっとみたいっ」
「みるーっ」
二人とも絵を指してだだをこね、動こうとしない。
「駄目よ。お姉ちゃんの邪魔になるのよ」
上下茶色の服を着た母は、最もらしい理由をつけて、それとなくクリスから距離を置こうとする。
クリスはあえて無視して、再び絵に向かった。
「いいの、みるっ」
「駄目よっ!」
母の声がまた高くなってきた。
「あ、いやっ」
幼い抵抗は力づくでねじ伏せられ、母は二人をひきずるようにして市場に戻ろうとする。
そのとき、市場の方から男がやってきた。
さっきの釣男だ。
男は前方で奮闘する親子に気づいた。
「お。ムハトさんとこの奥さんでないかい?」
「あら、ユルクさん。今から捕りますの?」
「おお。朝一番ででかいの捕ったんだけどな、もう一稼ぎと思って」
ユルクと呼ばれた釣男は、すでに魚を入れる箱を軽そうにもっていた。
穴場は違うところにあると言っていたが、もう一度ここで捕るつもりだろうか。
「どうしたんだい? 海を見にきたのかい?」
「いいえ、この子たちが勝手にこっちまで来てしまって……。帰ろうとしませんの」
母は、困惑顔をユルクに向けた。
クリスはそんな会話を耳にしながら、細い筆で仕上げにかかろうとしている。
ユルクは、しゃがんで、じっと子供たちを見た。
「ここで遊んでるとな、こういう怪我をするんだぞ。痛いのが嫌だったら、早く降りな」
と、大きく血筋のはしる手のひらと、血のにじむ包帯をまいた腕を見せた。
「やぁん、いたいー」
女の子は、目を背けて小さい手で顔を覆った。
「まあ、大丈夫ですの?」
「あぁ、いつものことさ。でかいのを捕る代償ってやつさ」
「ほらね。お兄さんもこう言ってるでしょう。それにね、黒い髪の人には近づいたらいけないって教えてたでしょう?」
一瞬、クリスの呼吸がとまった。
控えめな小さな声であったが、風向きのせいか、ちゃんと聞こえてしまった。
ユルクは何も言わなかったが、クリスをちら、と見て、それから、ぽん、と手を叩いた。
「そういえば、旦那さんがすぐ下にいたぞ」
ユルクは思い出したように母に言った。
「まあ、ほら。お父さんが来てるって。お父さんに怒られないうちに、降りるわよ。ありがとうございます、ユルクさん」
「はぁい」
子供たちはようやく岩場から降りていった。
クリスは筆をおいていた。
ユルクが側にいるのがわかっているのに、海を見ていた。
「どう? 完成したのかい?」
ユルクはクリスの背後から声をかけた。
クリスはゆっくりと振り返って、とりあえず言葉をつむいた。
「後、ちょっと乾かして、細かいところを仕上げます。……でも、お渡しするのはやっぱりやめようかと……」
「え? あ、売るなら、ちゃんとお金で払ったほうがいいかな?」
「いいえ。そうじゃななくて、私みたいなのが描いた絵って、やっぱり不吉ですよね」
「そんなことないさ」
ユルクは、複雑な顔で否定し、あの母、何で本人の前でああいうことを言うのだろうかと、内心嘆息した。
「あの話は、俺は信じてないぜ。誰かが流した、ただのうわさだろ。それに、俺はその絵が気にいったから欲しいんだ。毎日見てる海をこうも綺麗に描き写せるなんて、すごい腕だ」
「いいえ、そんな……。それに、あのお母さんに限らず、黒髪のことはみんな知ってる話なんで……」
クリスは自身の声が揺れているのにきづいた。
「じゃ、今までにお嬢ちゃんの絵を買ったお客さんが、不幸になったからって文句言いにきたことがあったかい?」
「いいえ。そうじゃななくて、私みたいなのが描いた絵って、やっぱり不吉ですよね」
「そんなことないさ」
ユルクは、複雑な顔で否定し、あの母、何で本人の前でああいうことを言うのだろうかと、内心嘆息した。
「あの話は、俺は信じてないぜ。誰かが流した、ただのうわさだろ。それに、俺はその絵が気にいったから欲しいんだ。毎日見てる海をこうも綺麗に描き写せるなんて、すごい腕だ」
「いいえ、そんな……。それに、あのお母さんに限らず、黒髪のことはみんな知ってる話なんで……」
クリスは自身の声が揺れているのにきづいた。
「じゃ、今までにお嬢ちゃんの絵を買ったお客さんが、不幸になったからって文句言いにきたことがあったかい?」
クリスは大きく目をあけた。
「いいえ……。でも、いつもは髪を隠してますので……」
「隠そうが、出そうが、お嬢ちゃんが描いた絵にかわりはないだろうが」
ユルクは厳しい目でクリスに叱責した。
「ええ……」
「なら、悪いことなんて起きないさ。本当によく描けてるじゃないか。魚と交換なんてけちなことは止めるよ。買うことにする。いくら払えばいい?」
ユルクは穏やかに笑った。
「あ……いいえ、お譲りします……」
気づけば、クリスは目元を赤くしてうつむいていた。
「あ、いや……。そんなに渡すのが嫌だったら、無理にはいわないよ」
ユルクは若い女が涙をうかべはじめたので、相当に同様してなにか勘違いをしていた。
慰めるということに慣れていないユルクは、二の句がつげず、助けを求めるかのように、目を泳がせた。
「いえ、ごめんなさい……。ただ、うれしいだけですから……驚かせてすみません……」
クリスは両手で顔を覆い、くぐもった声で弁解した。
「え? 俺は別になにもしちゃいないよな、どうしたんだ……?」
ユルクは、自分の発言がクリスをなぐさめたことなんて一向に気づかないし、クリスの弁解も聞こえてないようだ。
涙を止めようとするクリスは、逆にしゃくりあげてしまった。こうなったら、しばらくはおさまらない。
「いやぁ、困ったなぁ……」
独身のユルクはおろおろするばかりだ。
逃げ出すこともできず、絵を見つめて立ち尽くしている。
すると、石の転がる音が背後からした。
クリスが顔を上げ、ユルクが振り返ると、
二人とものぼってくるそれに視線が釘づけられた。




