18章
◇
「もう陽が落ちかけてるが、まだ描くか?」
「やっ! びっくりさせないでっ」
水平線に陽が近づいてきたころ、ヘルメスは急にクリスの背に現れて、声をかけてきた。
「どうだ?」
と、覗きこもうとするのを、クリスが手でさえぎったところで、画の大きさはクリスの背の半分ほどもある。
丸見えだ。
「ずっと描いてたのか?」
「ううん。暗くなってきてからは、海を見てたの。この今の海の色も綺麗よ」
「あぁ……そうだな」
海へ沈んでいく太陽が、やけに大きい。
「のこりは、明日描くわ」
「まだ完成してなかったのか? それで出来上がってるようにみえるぞ」
「まさか。こまかいところがまだよ」
いいつつ、クリスは片付けをはじめた。
「送るから、荷物はまとめるだけでいいぞ」
「まだ早い時間だから、歩いていくわ。それに、買い物もしなくちゃいけないし」
と、断ってからクリスは荷物量をみて、口を閉じ忘れた。
自分の絵と、ヘルメスが出してくれた道具の量は、背負いきれるものではない。それに加えて、食料を買おうとしたクリスだ。
「間抜けな奴だな」
ヘルメスの声は、完全に馬鹿にしている。
「悪かったわね。その通りよ」
「だな」
ヘルメスは笑いながら道具を見た。
「俺がこれを送ってやるから、買い物しろよ」
「あ……ありがとう……」
「よし、礼は絵が完成した後、俺についてくるってことで帳消しにしよう」
「ちょ、ちょっと、無理やり描かせたのはそちらでしょう。その条件はおかしいわ」
慌てて、クリスが道具に手をかけた。
「いい、自分でもっていくわ」
「おいおい、冗談くらいわかれよな」
ヘルメスは面白そうにクリスの背を叩いた。
「冗談じゃないくせに……」
本当に、どんな会話の中で、約束させられるか油断ならない。
「今回は無報酬でやってやるよ。じゃあ、また明日」
ヘルメスは一方的に別れを告げ、クリスに軽く手を挙げて、荷物ごと綺麗に消えた。
「あ……」
クリスは慌てて周りをみた。そんな非人間的な去り方をして、気づかれたら大変だ。
幸い、近くには誰もいなくて、気づかれなかったようだ。
あの神に、親切という言葉はない。
今度会ったら、物事すべてに貸し借りをつけるもんじゃないと、説教してやろうと心に誓った。
それから、腰紐の金袋に手をやった。
大丈夫。まきつけてあるのだけで、何とか今日の分は買えそうだ。
クリスは、星が一つ、二つ輝きだした空を見上げながら、歩き出した。
5
クリスはその夜、なつかしい夢を見た。
母が、淡い光に包まれて、家の台所で立っている。
しばらくして、得意料理の魚の煮物を持ってきた。
「ほら。冷めないうちに食べてね」
なつかしい声。恋しい声は、そう、こんなに優しい声だったと、クリスは母を見る。
母は目尻にしわを作って、娘を見ていた。
料理をいつもの台所の机に運ぶと、淡い草色のすそを持ち、クリスの対に座った。
「大きくなったのね……」
母がなつかしそうに、三日月の深緑の目を細めた。
言われて、クリスは自分の目を見た。
爪先にわずかに今日の絵の具が残る、十七歳の手。まぎれもなく、今の自分だ。
同時に、これは夢であることに気づいてしまった。
咄嗟に、顔をあげて母をみた。
母は、自分が幼かったころに見ていた母だ。
母は、そっと微笑んだ。
「どう、おいしい?」
「あ……」
言われて、クリスは魚に手をつけた。
そう、この味付け。自分が再現できない、この味。
思わず、涙がでそうになる。
美味しいと言いたいのに、声がでない。
目の端に涙を浮かべ、口を動かしながら、クリスは何度もうなずいた。
「うれしいわ、クリス……。いい子に育ったのね……」
母は、料理に手をつけずに、話かける。
「お母さん、貴方を元気な子に産んでよかったわ」
元気だけがとりえだが、それのどこがいいのだろうかと首をかしげたが、母は尚も続ける。
「絵も、沢山描いてるのね……」
母の視線は、クリスの背の絵の束へいく。
クリスもつられて振り返った。一番前に、
今日描いた海の絵がある。これだけ色をつけてあるので、やけに目立つ。
クリスはその下手さかげんに気恥ずかしくなり、裏返そうとして腰を上げた。
が、立てない。
不思議そうな顔のクリスに、母が笑いかけた。
「自分のものだから、隠さなくてもいいのよ。その髪も同じ。大事な、お父さんの髪の色なんだから」
琥珀色の髪の母とは違う、この色は、クリスが見たことのない父の髪の色なのだと、教えてもらった時のことを思い出した。
いつの間にか、クリスの頬には涙が伝わっていた。
「外の絵を、まだ描くの?」
クリスは一瞬考えて、言葉の意味を理解した。クリスは、描く構図がなくなるほど、家の周りの森を木炭で描きつくしていた。季節を変え、角度をかえて、沢山。
最近、夢で見た画像を絵にするようになって、ようやくそれから離れたところだった。
ううん。とクリスは首を横に振った。
「そう……。そういえば、母さんを描いてもらったことがなかったわね。……今ね、きれいなお花があるところにいるの。今度、お花と一緒に描いてね」
母は可愛らしく首を傾けた。それは、クリスもよくする仕種だ。
どこにいるの、と口を動かして質問するが、声にならない。
母は、それでも言葉を返した。
「貴方の思うところ、どこにでもいるわ。遠いところでも、近いところでも。クリス、いつまでもここに居ては駄目なのよ。ここは、貴方がするべきことをしてから戻る場所。外には沢山の景色があるのよ……」
突然、声が宙にかき消えるかのように、小さくなった。
行ってしまう!
直感したクリスが声をかけて手をだすが、やはり言葉にならない。
「外に、出てね……」
母は立ち上がってゆっくりと扉へ近づいた。
扉が開くと、そこはいつもの庭でなかった。
赤や、黄色や、白。色という色が集まってできたかのような花畑。そこでたたずむ母は、その中で揺れる一つの花のようだ。
母は、微笑んだまま、花の中へ消えた。
その花畑の中で、クリスはなぜか先ほど食べた魚のにおいをかいだ。
その違和感に振り返ると、夢は覚めた。
◇
 




