第一章 3
元々躾に厳しくもない美希の両親。引っ越し以来初めて遅く帰ってきた美希に、一言注意をしただけだった。
むしろ、急な転勤の慌しさを理由に、美希の希望を聞かずに学校を決めてしまい、結果、学校が合わず日々表情に影を落としていた美希が、久しぶりに友達という単語を言った事に、安心さえ浮かべている。
ポテトだけでは満たされなかった空腹を、温かい夕飯で埋めていけば、いつもよりも美味しくて、その分たくさん食べていた。
学校での状況は変わらなくても、予備校に行けば一人じゃない。翌朝、メモリの増えた携帯を握りしめて電車から降りる時に頭を占めたのは、嫌いの文字ではなく、そんな思いだった。
いつものように、上級生下級生関係なく浴びせられる侮蔑と軽蔑をない交ぜにした視線と、積極的なクラスメイトからの拒絶。これらがいきなり平気になる訳ではないけれど、今までより楽にやり過ごせる。
そんな手応えすら感じていた美希の耳には、同じ教室で声を潜めて交わされいた話など、聞こえる由もなかった。
美希が、柏木達と予備校内外を問わず一緒に過ごすようになった頃、その会話の中身がはっきりと美希に降り掛かる。
「若槻さん、これはどういう事ですか?」
黒縁の、いかにも身持ちの堅そうな雰囲気を与える眼鏡を触りながら、美希を呼んだ数学教師の目には、怒りとも苛立ちともとれる表情が色濃く表れている。
「なんの事……」
訳が分からない美希にすぐさま返されたのは、今さっきよりも明らかな変化。目を細めた教師が美希の言葉を遮るように、眼鏡から手を離さず、空いている片手でぞんざいに美希のノートを開き、突き付けた。
「やっていないなら、どうして正直に言わないんです?」
状況をすぐに飲み込めず、呆然とする美希に、分かりやすく溜息を落とし、課題の再提出を命じた教師は、ノートを美希に押し付け帰っていく。手の中のノートを開きページをめくっていくと、ようやく、美希は理解した。
誰がみても一目瞭然な、破られた紙の跡。
「真面目なうちの学校の生徒が他人のノートを破る訳ないでしょ、って事ね」
誰にも聞こえない大きさで嘲笑を落としながらも、美希の耳にはしっかりと聞こえていた。
「色目使って、柏木君に近づいてんじゃねーよ、調子に乗るなブス」
「さっさと消えろ」
なんて、真面目で品行方正で通っている女子高生には似合わない汚い台詞が、品のない笑い声と共に。
高尚な教育の賜物なのか、美希に対する嫌がらせは教師の目に触れたら疑われるような、教科書や鞄や靴や制服といったものを壊されたり隠されたりというものはなかった。
しかし、テストで出ると言われた範囲のノートが千切られていたり、ただでさえ心証の良くない美希の評価をさらに貶める、ありもしない出来事を教師に報告したりと、以前よりも明らかに攻撃的で悪質なものへと変化している。
それでも、美希はこの事を柏木達に言う気にはならなかった。いじめられていると告げて、どういう反応が返ってくるのかが怖かったのと、やっと出来た居場所を暗い話で埋めつくしたくはない気持ちが半分ずつゆらゆら揺れていた。
クラスの誰かははっきりしないけれど、この予備校に通っているクラスメイトの誰かが柏木に好意をもっている以上、美希が彼から離れなければ、この嫌がらせはなくならない。
だからといって、美希の天秤では、どんな嫌がらせよりも圧倒的に柏木達が重く、高校卒業までの日々を気にしない素振りでやり過ごすのは変わらない決定事項だった。
夏休み間近の1学期最終授業日。休み時間にかかってきた母親からの電話を取った美希が、電波の悪い教室を出て他愛のないやりとりをする。
卵、買う。
母親の買い忘れたものを携帯に打ち込みながら、後ろ側から教室へ入ったものの、次の一歩を躊躇ってしまった。3列並ぶ3人掛けの机、真ん中の列の黒板側から数えて3番目。美希が座っていた席には、見慣れた制服が映り、その周りも同じ格好が囲んでいる。
学校だけじゃ物足りないの?
あの連中が何を柏木達に吹き込んでいるかは聞こえない。もう退学になってもいいから、一回殴ってやろうと、手の平に爪が刺さるのも気にせず、指を丸めた。
と、その時、編集完了を押し忘れていたままのメモ画面が、振動と共に変わる。
「早く戻ってきて。なんか怖い人に絡まれてる」
泣いている顔文字が添えられた文章は、きつく握った拳も意識せずに食いしばっていた歯からも、力を抜かせてくれた。




