第一章 2
「ありがとう、すごく助かる」
ここへ来て初めて誰かに感謝を告げられたと、どこかぼんやり美希は思っていた。それから授業が始まるまでの数分間、改めてお互いの自己紹介を終える頃には、美希の緊張も解れてきて、美希からもいくつか質問をする。
休み時間があっという間だと感じるのもいつぶりだろうか。些細な事だけれど、それでも授業中にも思い返す位、美希には大きな出来事だった。
授業が終わり、すぐに席を立つ美希とは対照的に、隣の席では、美希が覚えたばかりの名前が何度も呼ばれている。一言、声をかけてみようかと逡巡したものの、結局口からは何も出なかった。
挨拶すら躊躇う自分にまた、湧き上がる嫌悪の気持ち。それを振り切るように歩き出す。
学校と予備校の中間点に家があって、学校へも予備校へも自転車で十分に移動できる距離。そんな狭い範囲でしか生活していない自分とは向き合えず、道を覚える気がないからとたった数駅でも路面電車を使う。ラッシュはあるとはいえ、以前に乗っていた路線の混み具合に比べればたいした事ない。
唯一、東京よりマシなところかも、と心の中でつぶやいていると、今度は背後から声がかけられた。
「若槻さん、つれないなー。さっさと帰っちゃうなんて」
「柏木……君」
振り返った美希の目には、名前を呼んだ柏木だけでなく、彼と同じ学校の制服をきた男女が数名立っている。
「若槻さんの制服って、この辺りじゃ見たことないし、どこの学校なんだろうって皆で話題になっててさ。俺らこれからファミレス行くけど若槻さんも行かない?」
思わぬ提案に、言葉よりも先に、美希の首が縦に揺れて肯定を伝えた。
人数分のドリンクバーと申し訳程度のポテトが並ぶテーブル。押されるがままに一番奥の席に座った美希の隣は、授業同様、柏木がいて、更にその隣には坊主頭の男の子。反対側は男女比が逆で、女の子二人と男の子が一人、腰を下ろした。
こんな景色も久しぶりだとどこかぼんやりしながらも、美希は次々と浴びせられる質問に答えていく。ファミレスまでの道中で、柏木以外の四人とも自己紹介を終えていたものの、馴れ馴れしく名前を呼んでいいのかと頭を悩ませていた美希には、この方が楽でよかった。
「えぇ、美希ちゃんってあの女子高通ってるの?」
美希の向かい側に座るショートカットの女の子が、信じられないと言わんばかりに目を丸くする。
「藍、そんなマジマジと美希ちゃん見たら失礼でしょ」
目を丸くしたままの藍の隣で藍の肩を軽く叩いた女の子の名前は確か、遥だったと浮かびつつも、確信とまではいかない。
「うん。でも正直制服可愛くないし、アレンジももってのほかって感じだから、予備校行くときは前の学校の制服着てる」
とりあえず、名前を出すのは避けて話せば、今度は坊主頭の彼、里中が被せ気味に会話に加わる。
「あー、そりゃ見た事ない訳だ。それにしても、藍の言う通り、本当、意外だわ。美希ちゃんがあの学校通ってるなんて」
「微妙な時期だし、急にこっちに来る事が決まったから」
あの学校が合わないから、他の学校ならばよかったのにと。初めてこの地に降り立った時からの嫌悪感は、そんな考えを美希に思いつかせず、ただ沸き上がるままに、全てを否定していた。
だから余計、今に戸惑う。こうやって過ごす時間が嬉しくて、でも、自分が否定していた中にそれがあった事を認めたくない。
ただ、どれだけ認めないようにしても、帰り際にアドレスを交換した頃には、自然と綻んだ顔を隠すなんて出来なかった。




