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第二章 ものさしと緑(5)

 数日後、中央教会から届いた草案を見て、カラムに口語訳してもらったノリコは眉間を押さえた。


「文字の長さから察しはついたけど、やはり長いわね、とても長い」


 開口一番、それだった。領館の書き机には、ドミニクスの若い書記が持参した羊皮紙が広げられている。文面は丁寧で、格式もあり、いかにも教団らしく隙がない。だが同時に、村の誰が聞いても一度では頭に入らなさそうな言い回しが幾重にも重なっていた。


『月嘴鳥の季においては、女神の理により北東白崖の周辺は聖域と見なし、石柱以北の地に住居・納屋その他の建築を禁ず。加えて雪解け水の乱れが土地を侵す折には――』


「長いな」


 オーダも同じ感想を返した。


「でしょ」


 ノリコは羊皮紙を指先で弾いた。


「これ、村長なら頑張って覚えるかもしれないけど、来年には半分抜けるわ。三年後には『鳥の季節はなんかダメ』だけ残る。私たちの苦労は大水で流されちゃう」


 向かいでカラムが必死に写しを取っていた手を止める。


「でも、正式な文言としては必要ですよね」


「必要よ。看板としてはね」


 ノリコは頷いた。


「でも、看板だけじゃ残らない。前に一度それで失敗してるんだから」


 窓際で腕を組んでいたクレイが鼻で笑った。


「つまりまた、測量屋の仕事が増えるってわけだ」


「あなたも当事者でしょうが」


「俺の担当は石と泥とフンだと思ってたんだがな」


「最後の一つはまだ黙ってて」


 ノリコが即座に返すと、クレイは肩をすくめた。


 オーダは草案と、ノリコが北東村で描いた絵図を見比べていた。石柱、波、鳥、高みへの矢印。文字の読めない者にも伝わるように描いた簡単な図だ。線は粗いが、粗いなりに必要なものだけが残っている。


「ドミニクスの文面は残す。これは教団に読ませればよい」


 オーダは言った。


「だが村へ返す言葉は別に要る。短く、忘れにくい形でだ」


「短く、ね」


 ノリコは小さく復唱した。


 紙に書けば残る。けれど読める者が限られる。領館や教会の棚にしまわれた紙は、村の子どもを増水から逃がしてはくれない。必要なのは、冬の囲炉裏端でも、畑の往復でも、孫へ口伝でも残る言葉だった。


「石柱より先に建てるな。春の水が来る。鳥の季は入るな。高みに逃げろ」


 カラムが指を折りながら並べる。


「……意味としては、この四つでしょうか」


「うん。その四つ」


 ノリコは頷いたが、すぐに首を捻った。


「でも、それだけだと固いわね。命令の束って感じ。覚えにくい」


「命令なんだから命令でいいんじゃねえの」


「良くないのよ。命令は嫌われるし、嫌われた言葉は残りにくいの。命令の類がいつも右から左へ綺麗に抜けるクレイには分からないでしょうけど」


 クレイが少しだけ感心したような顔をする。


「ほう。測量屋にしては、人の頭の中をよく分かってるじゃねえか」


「私のいた所では津波の避難標語、ってものがあったの」


 そこまで言って、ノリコは少しだけ口をつぐんだ。今はまだ、その先を詳しく語る気分ではなかった。代わりに、机の端へ新しい紙片を引き寄せる。


「……難しい理屈より、短くて、口に出せて、子どもが覚えるものの方が強い時が要るわね……」


 オーダが目を細めた。


「そうだ、童唄わらべうたにしましょう」


 カラムは目を丸くし、クレイも低く唸る。理屈を紙に閉じるのではなく、歌にして村へ返す。いかにもこの領地らしいやり方だった。測って、書いて、それでも最後は人の口へ預ける。


「では二つ作るか」


 オーダが言った。


「一つは教団と領主の正式な文言。もう一つは村に根を張るための唄だ。村長に渡すのは両方。片方は看板、片方は種だ」


「うまいこと言うじゃない」


「領主だからな」


 ノリコは苦笑しながら単調に唄ってみた。


 いしばしら さきはみず

 はるのかわ いのちとる


「暗い」


 クレイが即座に言う。


「うるさいわね、まだ叩き台よ」


「でも方向は良いと思います」


 カラムが珍しくすぐ賛成した。


「石柱と春の水が、一度で繋がる」


「問題はその次だな」


 オーダが絵図の鳥を指で叩く。


「禁足の理由を、鳥と水の両方で残す必要がある。どちらか一方だけになれば、また痩せる」


 ノリコは息を吐き、もう一枚の紙を引き寄せた。


 石柱の先は春の水。

 月嘴鳥の季は足を入れるな。

 水が来たなら高みに上がれ。


 意味だけならこれで十分だ。だが『十分』では足りない。十分な言葉は忘れられる。残るのは、もっと口に乗るものだ。


 その時、廊下の向こうでぱたぱたと軽い足音がした。給仕の少女が盆を抱えて顔を出す。湯気の立つ茶と、焼き菓子の欠片が載っている。誰の差し金かは察しがつくがバターピーナッツも小皿に盛ってある。


「失礼します。ヴィル様が、北東の村長への使いは明朝出せると」


「ありがとう」


 ノリコは礼を言いかけて、ふと少女に尋ねた。


「ねえ。子どもが覚えやすい歌って、どんなの?」


 少女はきょとんとした顔で、それから当たり前のように答えた。


「短くて、同じ音が多いやつです。あと、手を叩けると覚えます」


 ノリコは、クレイとカラムとオーダを順に見た。


「……だそうよ」


 クレイが吹き出した。


「よし、決まりだ。領主さま、測量屋、書記、それから山師。いい歳した大人四人で、明日の朝までに子どもの歌をひねり出そうじゃねえか」


「嫌な会議ね」


「でも、必要な会議だ。やるぞ」


 オーダは真顔で言った。


 窓の外では、秋がゆっくりと深まっていた。北東の村に雪が来るまで、そう長くはない。その前に、石柱をただの石へ戻してはならない。理由を持ったまま、誰の口にも乗る形で返さなければならないのだ。


 ノリコは深く考えたのち、もう一度ゆっくり唄った。


 いしばしら さきはみず

 はるのかわ いのちとる

 とりがくる こえひそめ

 しろいがけ ちかよるな


「……これならどうかな、へへ」


 耳まで赤くなったノリコが一同を振り返ると皆唖然としている。反応に困っているようだ。


「まあまあ悪くないんじゃないの?」


「実際に童らと唄ってみる必要があるのではないか」


 その時、ドアがノックされ、お茶のお代わりを片手に給仕の少女が再びやってきた。


「メイドさん、メイドさん、ちょっとお力をお借りできるかしら」


「は、はい、何でしょう?」


「今から一緒に童唄を歌いましょう」


「えっ、ここでですか。少し恥ずかしいです……」


「いいのよ、お姉さんはもっともっと恥ずかしいから、それに、ここに居る領主さま含めて皆で歌うから大丈夫よ」


 男性陣一同は、やられた、という表情を浮かべたが外堀は埋まっている。従うほかなかった。しばらく領館ではこの「教え歌」が何度か手拍子とともに歌われ続けていた。


 冬のあいだ、教え歌は領館で磨かれ続けていた。そして雪がゆるみ、南山脈の山肌の白が崩れ始めた頃、オーダ一行は再び寒村への道を取った。村長へ教団の文言を届け、教え歌を根付かせ、雪解けの大水をこの目で確かめるために。クレイにとっては、錫と鉛の聞き取りもまた外せぬ用だった。


「なるほど。教団はここまで我々のことを気にかけてくださっていたんですな……ありがたや……」


 最初の課題である儀礼的な伝達事項は済ませた。これで教団への貸し借りは無しだ。村の者に聞けば、雪解けの大水までは例年通りであればまだ数日はかかると言う。それまでノリコは子供らと「教え歌」を歌い、クレイは錫と鉛の手がかりを聞き取るために村人達に聞き込みを続けていた。オーダとカラムは近隣村長まで含めて陳情詰めだ。


 春の陽気が数日続いた日、この村に来てからというもの、毎朝営巣地で鳥を眺めていたカラムが血相変えて戻ってきた。


「急に月嘴鳥が居なくなりました。一羽残らず居ません!」


 クレイが思い立ったかのように皆に声をかける。


「大水の兆しに違いねぇ。大急ぎで湿地を抜けて高台へ向かうぞ、ほらほら急いだ急いだ。村長の爺さんや村人も幾人か連れて行くぞ、証人だ」


 禁足地入り口の石柱前に人々が集まった。オーダが簡単に説明する。


「おそらくこれより先の禁足地で雪解けの大水が出る。今からかもしれないし、明日かも知れない。危険を伴う行為だ。無理にとは言わんが、そこの石柱の秘密が明らかになる時でもある。気になる者は付いてこい。そして子、孫の代まで語り継ぐのだ。無理に付いてこいとは言わん」


 十六代目ヴィルが太めの長縄を持ち出してきた。


「これから現地へ向かうものは身体をこの縄に繋いでから向かう。命綱というやつだな。あまり時間が無い。急かすようで申し訳ないが、己の命は自分で守って欲しい」


 ヴィルを先頭にクレイ、ノリコ、カラム、オーダ、村長、村の若者数名が縄に身体を委ねた。


「それでは早足、駆けて参ります。皆様ご注意なさいませ」


 ヴィルがそう言うや否や、残りの全員が引っ張られる。村長が最後尾になるが、村の若者達に抱えられ強制的に引っ張られている。湿地を抜け、その北にある痩せた高みへ到着した。


「ふう、間に合いましたな。皆さんお疲れ様でした」


 ヴィルは全員を繋いだままの縄を近くの木々に強く結わえるながら汗を拭った。


「……ヴィル、貴方その身体にどれだけの力を忍ばせてるのよ……」


 息が上がり寝転んで空を仰いでいるクレイは言葉も出ない。ここまで来ると春の陽光ですら暑く感じる。その時だ。最初に来たのは、音だった。


 遠雷とも違う。風とも違う。山の奥で何か巨大な獣が喉を鳴らしているような、低く濁った唸りが、足の裏から這い上がってきた。高みにいるはずなのに、地面そのものが細かく震えている。寝転がっていたクレイが跳ね起き、ノリコも反射的に白崖の向こうへ目をやる。


「……来る」


 誰の声だったか分からない。


 次の瞬間、湿地の北――まだ雪の残る谷筋の奥で、白いものが跳ねた。いや、白ではない。濁った水飛沫だ。その下から、土色の塊が一気に膨れ上がる。細い流れではなかった。谷そのものが、水の形をしたままこちらへ崩れ落ちてくる。


「立て! 全員、立って見ろ! 目を逸らすな!」


 クレイが怒鳴る。


 轟音はみるみる太くなった。水が走る音ではない。水と石と泥と、折れた木と、冬の名残の氷までまとめて噛み砕きながら落ちてくる、山の咆哮だった。白崖の手前で流れが一度ぶつかり、跳ね、砕け、そして湿地へ向かって何本もの腕に分かれて広がる。


「う、うわ……」


 カラムが喉の奥で潰れた声を漏らす。


 湿地は抵抗する暇もなかった。さっきまで葦の穂が揺れていた黒い地面へ、大水が横から殴りつける。泥が爆ぜ、去年の枯れ葦が一斉になぎ倒され、茶色い波頭が白い泡を噛んで南へ南へと駆け下っていく。流木が一本、まるで小枝みたいに持ち上がって回り、石柱の見えるあたりをかすめて流れた。


「石柱……!」


 村長が叫ぶ。石柱は立っていた。だが、その足元まではあっという間に水が舐めた。渦を巻いた濁流が石の根元へ噛みつき、引き、またぶつかる。あれより先へ家を建てればどうなるか。言葉などなくても分かった。家は流れる。納屋も流れる。人も牛も、一緒くたに攫われる。


 ノリコは息を呑んだまま、目の前の地形を頭の中でなぞっていた。秋に書いた線が、今まさに生きた水で塗り直されていく。あの窪地はやはり深い。流れは一度そこで太り、石柱の南で勢いを散らし、それでもなお低い場所を選んで走る。白崖の下から押し出された泥水は、湿地の古い流路を迷いなく拾っていた。土地が、水の来る道を覚えているのだ。


「……ここまで来るのね」


 ノリコの声は、自分でも驚くほど小さかった。


「だから石が立ってたんだよ」


 クレイが低く返す。いつもの軽口は無い。


 大水はまだ終わらない。第二波、第三波とでも呼ぶべき濁流が、少し遅れてさらに谷から吐き出されてきた。最初の一撃で湿地を耕し返したところへ、今度はもっと重たい泥が流れ込む。水面の上を、枝、枯れ草、鳥の羽、どこかの朽ちた板切れが次々と流れていった。遠くで何か大きなものが折れる鈍い音がする。見えない場所で、立ち枯れた木が根元から持っていかれたのだろう。


 村の若者の一人が、青い顔で呟いた。


「……あそこに小屋を建てたら、ひとたまりも無ぇ」


「小屋どころか、村ごと持っていかれる年もあるでしょうね」


 ノリコは言い切った。もう迷わなかった。その時、村長がへたり込むように膝をついた。老いた両手で帽子を握りしめ、濁流から目を離せないまま何度も頷いている。


「本当だった……本当に、水だったんだな……祟りじゃない、脅しでもない……」


 オーダがその隣に立つ。声は静かだったが、轟音の中でも不思議とはっきり届いた。


「脅しではない。警告だ。だから残す」


 村長は答えず、ただ何度も何度も頷いた。下ではまだ大水が湿地を洗っている。葦原は半ば沈み、白崖の裾では濁った泡が生き物みたいに渦を巻いていた。月嘴鳥の姿は一羽もない。あれほど騒がしかった営巣地が、今はただ、水の緩衝地となっている。


 カラムが震える手で板を取り出した。


「お、オーダ様……これ、書きます。全部書きます。どこまで来たか、どう曲がったか、石柱の足元まで何度噛んだか……」


「書いて貰わねば困る。このためにアペルティア領をくまなく歩いたといっても過言ではなかろう」


 オーダは即座に答えた。


「今日見た者が死んでもなお残るように、多少は大袈裟に書いても目を瞑る」


 クレイが鼻から大きく息を吐く。


「これでもまだ、童唄が大袈裟だなんて言う奴ぁいねえだろ」


 ノリコは濁流を見たまま、小さく唄うように口を動かした。


 いしばしら さきはみず

 はるのかわ いのちとる


 今度は誰も、暗いとは言わなかった。


 村外れの湿地帯を襲った春の大水が引ききるまでまだ時間があった。オーダとクレイはなにやら小声で話し込んでいる。村長をはじめ村人はまだ大水に釘付けになっている。カラムは何かに取り憑かれたかのように一心不乱にペンを走らせ続けている。


「村長よ、少々よいか。といっても水が引くまで我々はこの丘で立ち往生せざるを得ないわけだが……」


「は、はい。いやもう呆気にとられるばかりです。毎年この有様なのだと思うと、我が村はこの先どうなるんでしょうか……」


「有事でも村を案じるのはよい心がけだ。そこでこの村だからこそ豊かになれる秘策がある、と言えば聞きたくはないかね?」


 村長は、まだ濁流から目を離せないまま唾を呑み込んだ。


「……聞きたくは、あります。ありますが、今この有様を見せられた後で、豊かになるなどと言われても、とても……」


「もっともな反応だ」


 オーダは頷いた。


「だからこそ今、目の前で見せた。石柱より先に家を建てるなという話だけでは、村人は守れても豊かにはならぬ。だが、守り方を間違えなければ、この村には他所の村にない恵みがある」


 村長がようやくオーダへ向き直る。村の若者たちも、不安と好奇心を半分ずつ顔に貼り付けたまま耳をそばだてていた。


「恵み、ですか……?」


 オーダは答える前に、白崖の方を見た。大水はなおも湿地を洗っている。濁った流れの向こう、崖肌の一部だけが、奇妙に白く浮き上がって見えた。


「そこの白崖だ」


 村長はきょとんとした。


「しろい、崖……?」


「貴殿らはあの崖をそう呼んでいたな」


「え、ええ。昔からです。近寄るなと言われてきただけで、特に深い意味も無く……」


 クレイがいつもの口調で説明する。


「あの白いのは全て、月嘴鳥どものフンだ。気の遠くなるような長い時間、あの崖で巣を作って、食って、騒いで、出すもん出してきた。その積み重ねがあの白さだ」


 沈黙のあと、村人たちの間にざわめきが走った。白い崖。聖鳥の営巣地。禁足の場所。そこへ突然『鳥のフン』という身も蓋もない真実を叩きつけられたのだ。信仰心と現実感覚が喧嘩している顔が並ぶ。


「……いや、ちょっと待ってください」


 村長が額を押さえる。


「では何ですか。あの崖は、昔からずっと、鳥の……」


「そうだ」


 オーダがあっさり肯定した。


「ただし、ただの汚れではない」


「言い方を変えるか。あのフンはよく砕けば肥料になる。しかもとびきりのやつだ。俺がこの地に来てからずっとご領主さまにおねだりし続けたけどよぉ、それでも手に入らなかった代物だ。領内のここよりちょっと南や東の方では大枚叩いてでも欲しがる農家が幾らでも居るだろうよ」


 村長の隣にいた若者が思わず身を乗り出した。


「じゃあ、あの崖を削って持っていけば……」


「馬鹿言うな、気が早い。話には続きがある、よく聞け」


 クレイが即座に一喝した。


「だからこその《《禁足地》》なんだよ。営巣期に荒らしゃ鳥が消える。鳥が消えりゃ白崖も死ぬ。欲張ったら一代で食い潰して終わりだ」


 その言い方に、村人たちははっとしたように口をつぐんだ。オーダが静かに後を引き取る。


「この村が豊かになる道は二つの掟を守るしかない。一つは、石柱より先を『住む場所』ではなく『水の来る場所』として受け入れること。もう一つは、白崖を『聖鳥の巣』であると同時に、『荒らさず守れば実りを返す場』として扱うことだ」


「……つまり、近づくなと言いながら、使うのですか」


 村長の問いは、戸惑い半分、警戒半分だった。


「その通り」


 オーダは少しも揺れない。


「年中誰でも入ってよい、ではない。春秋の営巣時期には完全禁足にする。季を外した後、私と村長の許しのもとで、掘る。崖を壊さぬ。巣を荒らさぬ。鳥の子を脅かさぬ。守れるならば、この村だけが持つ肥やしになる」


 村長は唸るように息を吐いた。


「そんなことが、本当に……」


「だから今、カラムが狂ったように書いている」


 ノリコが横目で示すと、全員の視線がカラムに集まった。書くのに夢中でカラムは何も気づいていない。


「大水の後の崖の様子、水のかかり方、流れ着く泥の量、近づくならどこからが安全か、採るならいつ頃か。今のうちに見とかなきゃならんことは山ほどある。カラムが今やってんのは夢見話じゃねえ。手順書の下書きだ」


「手順……」


「そうだ。俺みてぇな山師はな、欲に負けた連中の末路を山ほど見てきた。だから最初に縄張りをする。いつ入るか。どこまで入るか。どれだけ持ち出すか。誰が見張るか。それを決める前に『宝だ』と叫ぶ奴ぁ、だいたい全部、宝ごと滅ぶ」


 珍しく真っ当なことを言うクレイに、ノリコは少しだけ感心した顔をした。


 濁流の音はまだ止まない。だが、先ほどまでその音に飲まれていた村人たちの顔に、別の色が差し始めていた。恐怖だけではない。恐怖の先に、初めて具体的な明日の形が見えた時の顔だ。村長はゆっくりと白崖を見た。


「すると……我らは、あの場所を守ることで生きるのですな」


「正確には、守りながら少しだけ恵みをいただく」


 オーダが言う。


「聖域だから手を出さない、でもない。肥やしだから掘り尽くす、でもない。その間だ。人間は大抵、その間で揺らぎながら暮らす」


 村長は長く黙っていたが、やがて膝の上の帽子を握りしめ、小さく笑った。


「なるほど……これはまた、難しい話ですな。だが、ただ怖がって蓋をして逃げ続けるだけよりは、ずっと腹に落ちます」


「腹に落ちたなら十分だ」


 オーダは頷いた。


「まずは歌だ。石柱の意味を戻し、子孫代々残そう。次に春の水を毎年見張る。それから白崖をどう扱うか、村と領館で決める。一足飛びにはやらぬ。村の者よ、約束できるな?」


 村の若者が、濁流からオーダへ向き直して告げる。


「しますとも。旅商人も寄りつかない寒村で終わる運命じゃなかったんだな」


 その言葉に、村長が目を細める。


「終わりどころか、ようやく始まりかもしれんな」


 クレイが鼻で笑った。


「そう来なくちゃ困る。俺らがここまで歩いてきた甲斐が無ぇ」


 ノリコは白崖と濁流、その手前の石柱を順に見た。水は来る。鳥も来る。だから境界を忘れてはならない。だが境界の向こうは、ただの死地ではない。理由を知った者だけが、少しだけ恵みを受け取れる場所でもある。女神とやらはとんだイタズラ好きなのだろうと思った。


 領館へ戻ったのは、その翌々日の夕刻だった。春先の道は帰りもぬかるみ、荷は増えていないはずなのに、北東で見た大水の重さまで背負ってきたような疲れが一行の肩に残っていた。門をくぐるなり、下働きの少年が慌てて駆けてくる。


「オーダ様! ダリオ様が、畑から戻られてお待ちです。すぐに見てほしいと……」


「戻るなり土の話か」


 クレイが鼻を鳴らす。


「この領地、ほんとに暇をくれねえな」


 執務室へ入ると、ダリオは椅子にもたれずに立ったままだった。机の上には、掘り上げたばかりらしいジャガイモの株が何本か並べられている。葉はくたびれ、ところどころ不自然に紫がかっていた。


「ダリオ、待たせたな、戻ったぞ」


 ダリオは挨拶もそこそこに株を指した。


「見てください。初期から植えてる区画のジャガイモなんですが…。寒さにやられたわけじゃない。芽出しも揃ってた。だが伸びが鈍く、葉が紫に寄ってる」


 ノリコが身を屈める。


「……ほんとだ。傷んでるっていうより、色が沈んでる感じね」


 クレイは無言で葉を裏返し、茎を爪で割り、土を指先で揉んだ。いつもの軽口が消える。嫌な予感を嗅いだ犬みたいな顔になった。


「なるほどな」


「何が分かった」


 オーダの問いに、クレイは即答した。


「土が腹を空かせてる。たぶんリンだ」


 ダリオが眉を寄せる。


「リン?」


「作物の根張りと初動を支える気難しい肥料だよ。足りねえと芋は伸び悩む。葉が紫に寄ることもある」


 ダリオは机に置いた手をゆっくり握った。


「……つまり、今の土では回しきれなくなってきていると」


「そういうことだ」


 クレイは白崖を見ている時と同じ目をしていた。


「堆肥だけじゃ押し返せる限界が来る。豆で窒素は少し繋げても、リンは別腹だ。しかもジャガイモは正直だからな。足りねえもんは足りねえって、葉っぱの色で殴ってきやがる」


 ノリコが小さく息を呑む。


「じゃあ、もしかして白崖の……」


「そうだ」


 クレイが振り向く。


「寝かせとくには惜しいどころじゃない。北東村だけの話じゃなくなった。領内全体の土の話になってきたぞ」


 部屋が静まった。北東の大水、石柱、童唄、禁足。ようやく一つ結んだと思ったら、今度は領地の土そのものが次の問題を突きつけてきたのだ。まったく、土地というものは黙って褒められてくれない。オーダはしばらく紫がかった葉を見つめ、それからダリオへ問うた。


「どの程度広がっている」


「いま確認できているのは、春先に最も早く手を入れた区画です。だが同じ傾向は西回りでも出始めてます。まだ軽いけれど見過ごしてよい雰囲気でもありません」


「分かった」


 オーダは頷いた。


「ならば、先送りにはできぬな」


 オーダはヴィルへ向き直る。


「馬を出す。領司祭邸へ行く」


「今からですか」


「今からだ。北東の結果報告もまだ終えておらぬ。ドミニクスには、石柱の件と合わせて白崖の扱いを詰める必要がある」


 クレイが低く尋ねる。


「教団へ、鳥のフンの話をするのか」


「する」


 オーダは淡々と言った。


「ただし、宝のありかを教えるような言い方はせぬ。禁足を守るからこそ恵みになる、という順で話す。順を違えれば、あれはただの奪い合いになる」


「それで、あの司祭が素直に飲むかな……」


 ノリコの問いには、わずかに疲れが滲んでいた。


 クレイが鼻で笑う。


「飲むさ。飲ませる。向こうだって、聖鳥の営巣地を守る看板は手放したくねえし、領民全員の飢えが天秤に乗っかってる。だったらこっちはそこへ、布施と許可の縄を巻いてやりゃいい」


 ノリコが目を細める。


「ずいぶん嫌な言い方するわね」


「事実だろ。聖域ってのは、たいてい縄と財布でできてる」


「品がない」


「土とフンの話に品を求めるなよ」


 オーダはそのやりとりを遮るように立ち上がった。


「行くぞ。 北東の村では、禁足を理由ごと返す約束をした。こちらでは、その禁足をどう守らせ、どう使わせるかを決める。守るだけでは痩せる。使うだけでは壊れる。間を作るのが領主の役目だ」


 ダリオは机の上の芋株を見下ろした。紫がかった葉は、黙っていても何かが足りぬと告げている。


「……では、私も参ります」


「来い」


 オーダは短く言った。


「土の窮状を語るなら、畑を見てきた者の口が要る」


 夕暮れの日が窓の外で細くなっていた。領司祭邸へ向かうには遅い刻限だ。だが遅いからこそ、今日のうちに布石を打つ価値がある。


 ノリコは立ち上がりざま、机上のジャガイモをちらりと見た。石柱の向こうでは水が命を取り、白崖には鳥が肥を積む。こちらでは、畑が静かに飢えている。全部が別々の話に見えて、根っこではちゃんと一本に繋がっていた。


 約束もなかったが、領司祭邸はオーダたちを例の立派な応接間へ通してくれた。


 茶が運び込まれ、ここまで息つく間もなかったので、一行は文字通り一息つく。やにわにドミニクスが書記を伴って現れた。一行は席を立ち、挨拶し、着座を勧められる。


「急なご用件と聞いて驚きましたよ。いったい今日はどうなさいました」


「ああ、二件の要件を済ませに来た。一件目は北東の村の件だ。我々の予定通り、禁足地に雪解けの大水が押し寄せてきた。村長もその光景を見たので、教団側の教えは長らく守られることになるだろう」


「そうでしたか。ご足労いただき恐縮でした。これも女神の御心。北東の村にこれからも女神の加護があらんことを」


 ドミニクスは大袈裟に祈る。


「して、二件目のご用件が本題なのではありませんか? いかにも旅帰り、畑帰りという出で立ちです。火急の内容だとお見受けしました」


「お察しが早くて助かる。ときに、領司祭殿は夕餉は済まされましたかな?」


「ええ、先ほど女神へのお祈りとともに頂きました」


「献立は覚えておられるかな?」


「ええ、茹でダイズとトウモロコシ粉のポタージュ、黒パン、そしてジャガイモを……」


「そのジャガイモで喫緊の問題が発生したのでその報告に来たと言ったら?」


「はて? それならば報告書でもよいではありませんか。話が見えませんね」


 オーダは、机上に置かれた茶杯へ手も伸ばさず、代わりにダリオへ目配せした。


「では、報告書で済まぬ理由を見せよう。ダリオ」


「はい。失礼しますね」


 ダリオは傍らに抱えていた布包みを机へ置き、慎重にほどいた。出てきたのは数本のジャガイモの株だった。葉はしおれてはいない。だが濃い緑であるべきところが、どこか暗く、ところどころ鈍い紫を帯びている。


 ドミニクスは眉を上げた。


「……ジャガイモ、ですか」


 ダリオは簡潔に答えた。


「春先に最も早く手を入れた区画で、こういう株が目立ち始めました。寒害でも病でもありません。芽出しも揃っていた。水も日も足りています。にもかかわらず、伸びが鈍く、葉色が沈む」


 若い書記が興味深そうに身を乗り出す。ドミニクスもさすがに一度、手元の株へ視線を落とした。


「それで?」


「土が飢えている」


 答えたのはクレイだった。いつもより幾分低い声で、机上の葉を指先で弾く。


「作物が土から食うもんのうち、一つが足りてねえ。根張りと初動に要る餌だ。俺たちの言葉で言やぁ、土の骨みてえなもんだ」


「土の、骨……」


 ドミニクスは怪訝そうに反芻する。


「領司祭殿にも分かる言い方にしましょう」


 オーダが引き取った。


「今はまだ一部の畑だ。だが、放っておけば痩せたジャガイモしか採れなくなる、トウモロコシ、ダイズや麦にもいずれ影響する。つまり、これは一村の不出来ではない。領内全土の生産に波及しうる兆しだ」


「随分と大仰ですな」


 ドミニクスは椅子の背にもたれ、指先を組んだ。


「ジャガイモの葉が少し紫になっただけで、領民が飢えるとまで仰る」


「少し、で済むうちに来たのだ。飢えが目に見えてからでは遅い。飢饉になってから教会が盛況になるのを是とするわけではなかろう」


 オーダの声は落ち着いていた。


「後手に回れば人が死ぬ、という共通の事実を確認しただけだ。北東の村で見た大水もそうだ。土の飢えもそうなる。だから私は、兆しのうちに来た」


 そこでノリコが油紙を卓へ広げた。北東の湿地、石柱、白崖、そして水の走った線。もう見慣れたはずの地図だが、今日は意味が違う。


 ドミニクスはそれを見て、露骨に嫌そうな顔をした。


「またその地図ですか」


「すいません、またなんです」


 ノリコは怯まず言った。


「北東では、大水が来ることを村長が自分の目で見ました。石柱の意味は村に戻せた。次は、その禁足地をどう守り、どう使うかの話です」


「使う?」


 ドミニクスの目が細くなる。クレイが鼻を鳴らした。


「そこだよ、領司祭さま。今日の本題は」


 彼は椅子へ浅く腰かけたまま、片肘をつき、わざとぞんざいな口調で続けた。


「北東の白崖。あの白さは、ただの景色じゃねえ。月嘴鳥が何百年も積み上げたフンだ。これを正規の手続きで寝かせれば、畑にとんでもなく効く」


 若い書記が思わず顔を上げる。


「フン……?」


「そうだ。鳥のフンだ。聖鳥さまも食って出すもんは出す」


「貴様……!」


 ドミニクスが鋭く睨んだが、クレイは肩をすくめるだけだった。


「怒る前に聞けよ。俺たちは『聖鳥の巣を掘り崩そう』なんて言いに来たんじゃねえ。逆だ。『守るからこそ、少しだけ恵みを受けられる』って話をしに来たんだ」


 オーダがそこで静かに頷く。


「年中出入り自由にはせぬ。営巣期は完全禁足。季を外した後、領館と村長の許しのもとでのみ、少量を採る」


「少量?」


「そうです」


 ダリオが初めて一歩前へ出た。


「畑を見て回ってきた者として申します。欲しいからといって無闇に持ち出せば、営巣地は壊れ、来年以降の恵みも絶えます。必要なのは乱獲ではなく、継続です」


 ドミニクスはダリオを見た。


「あなたは農の者でしたな」


「ええ。ですから申し上げます。いま必要なのは、畑を一度だけ派手に救う奇跡ではなく、毎年回せる仕組みです」


 その言い方は、ドミニクスにも少し刺さったらしい。彼は組んだ指をほどき、机上を軽く叩いた。


「……なるほど。話の筋は見えてきました。北東の禁足地を、ただの『近寄るな』で終わらせず、教団と領館で管理しながら使う。そういうことですな」


「話が早くて助かる」


 オーダが返す。


 ドミニクスはわずかに笑った。あの笑いだ。人の好さそうな皮の下で、算盤が鳴っている顔。


「ですが、随分と都合のよいことを仰る。聖鳥の禁足は教団が長年守ってきた。そこへ領主が『理由がある』『肥料になる』と新しい意味を足し、さらに利用まで始める。我らには何が残るのです?」


 オーダは少しも動じない。


「残る、ではない。初めからそこにある」


「ほう?」


「禁足の看板だ。そなたらはそれを持っている」


 ドミニクスの目が細まる。若い書記は意味が分からず、主とオーダの間で視線を往復させている。


「営巣期には誰も入れぬ。これは教団の言葉として残るだろう。村人も従う。だが季を外した後、村長と領館の許しだけで持ち出しを認めれば、必ず欲に駆られる者が出る。ゆえにもう一つ縄が要る」


 そこでオーダは、一拍置いて告げた。


「持ち出しは、教団への布施と誓約をもって許可する」


 応接間がしんと静まった。ノリコは内心で「よし」と言い、クレイは露骨に口の端を上げた。ダリオだけが、ちょっと嫌そうな顔を隠さなかった。まあ当然である。


 ドミニクスは何も言わない。言わないまま、組み直した指先にほんの少しだけ力が入る。


「……続けてください」


「採取期は非営巣期のみ。採取量は事前に決める。崖を削らぬ。巣を荒らさぬ。卵を盗らぬ。採る者は村長と領館の立会いのもとで働き、持ち出しの前に教団へ布施を納める。教団は『聖鳥の季を犯さぬ誓い』を言上させる」


 オーダは淡々と続けた。


「これなら教団は禁足を守る役目を失わぬ。村は白崖を守る理由を持つ。領館は採取量と使い道を管理できる。畑は来年以降も救われる」


 ドミニクスはしばらく黙った。やがて、机上の紫がかった葉へ再び目を落とす。


「……布施の額は」


 ノリコが心の中で吹き出しそうになった。やっぱりそこから来た。この人物、実に分かりやすい。オーダはすました顔で答える。


「高すぎれば密掘りを呼ぶ。安すぎれば禁足が軽くなる。ゆえに、額は村ごとの収穫量と採取量を見て後で定める。最初の年は試行だ」


「額は教団が定める」


「いや、三者で定める」


 即座に返す。


 ドミニクスとオーダの視線が卓上でぶつかった。強くはない。だが一歩も引かぬ種類のぶつかり方だ。


 ダリオがそこで静かに口を開く。


「領司祭殿。私は領内の畑を見て回ってきました。今の土はまだ声の小さい病人です。だが放っておけば、大きな声で倒れます。この話は、領主が儲けたいからではありません。来年もジャガイモを掘り、ダイズを播き、村が年を越すための話です」


 ドミニクスはダリオを見た。今度は先ほどより、少し長く。


「……あなたは正直な顔をする」


「嘘をつく暇がないもので。それに作物も嘘をつきません」


「農の者らしい」


 そこで初めて、ドミニクスは小さく息を吐いた。


「よろしい。全面的に賛成とは申しません。ですが、話を進める価値はある。教団は禁足の看板を持つ。領館は採取と配分を持つ。村長は現地の立会人となる。布施と誓約を付した許可制――そこまでは検討しましょう」


 オーダは立ち上がった。


「では、草案を作ろう。早い方がよい。春のうちに動かなければ、土はまた一季を失う」


「若い書記を一人、明日そちらへ遣ります」


 ドミニクスも立つ。


「ただし、文言は教団にも飲み込みやすい形に整えますぞ」


「好きにするとよい。中身が痩せなければな」


「その台詞、そっくりお返ししたいですな」


 珍しく、ドミニクスが少しだけ笑った。勝った顔ではない。だが、負けた顔でもない。利害がようやく噛んだ時の、人間らしい苦笑いだった。


 領司祭邸を出ると、夜気は思ったより冷たかった。ノリコが吐いた息が、白くほどける。


「……通った、でいいのかな」


「通ったさ」


 クレイが答える。


「こういうのは満点で通るもんじゃねえ。全員がちょっとずつ嫌な顔して、それでも机から立たなかったら上出来なんだよ」


「嫌な合格基準ね」


「現実ってやつだ」


 ダリオは腕の中の芋株を見下ろした。


「でも、これで来年へ、その先へ手が伸ばせる」


 オーダが頷く。


「ああ。北東村には、水の理由を返した。これからは、土へ返す番だ」


 領内北東村、禁足地の奥にある宝の山(リン鉱グアノ)の管理については、採掘量の決定を領館が行い、立ち入り管理と採掘量に比例した徴税を教団側で行う手筈となった。北東村にはなかった教会が新たに建築されることとなり、村長は大喜びだ。大水を警告していた石柱近辺には教団傭兵を置き、みだりな立ち入りや密掘りを防ぐ役目を果たすこととなった。


 北東村には、春の終わりとともに奇妙な賑わいが生まれていた。


 新しく建て始めた小さな教会は、まだ壁の半分も上がっていない。だが石柱の手前には、もう教団の槍持ちが二人、交代で立っている。村の子どもたちはその前を通るたびに、半ば遊び、半ば本気であの童唄を口ずさんだ。


 いしばしら さきはみず

 はるのかわ いのちとる

 とりがくる こえひそめ

 しろいがけ ちかよるな


 歌が先に根を張り、あとから大人が意味を噛みしめる。妙な順番だが、悪い順番ではなかった。


 最初の試し採りは、営巣期が完全に終わったのを見届けてから行われた。

 立ち会うのは村長、教団書記、教団傭兵一人、そして領館から来たクレイとノリコである。彼女は白崖そのものより、石柱の位置と新たに刻んだ目印、崖下へ降りる道筋の角度ばかり見ていた。


 実際に崖下へ降りたのは、村長が選んだ若者二人だった。二人とも腰に縄を巻き、籠と木のへらを持っている。白崖の根元には、冬を越した白い堆積物がまだらにこびりつき、ところどころ大水に洗われて崩れていた。


「そこから先は削るな」


 崖の上からクレイがいきなり釘を刺す。


「表面に剥がれてきたやつだけだ。崖肌そのものを削るな。巣の名残に棒を突っ込むな。下に落ちたもんを集めて、古いやつから順に籠へ入れる。あんまり欲張んな。今日はあくまで試しだ」


 村長は目の前の白く乾いた堆積物を前に、やはり少し目が泳いでいた。無理もない。ついこの前まで「祟りの近づく場所」だったものが、今は村を救うかもしれぬ肥だと言われているのだ。村へ提示された金額も村が年を越せる額を大幅に超えていた。人の頭も忙しい。


 教団書記は鼻の頭へ布を当てたまま、露骨に顔をしかめた。


「……聖鳥はずいぶんと香り高いものをお残しになるのですね」


「ありがたみのある匂いだろ」


 クレイが平然と返す。


「……ただな、鳥のフンを巡って国同士の戦争が起きた例もある。それくらい災いの種でもあり、希望の芽でもあるんだわ」


「なんと……聖鳥を見る目が変わりそうです。我々もなぜ聖鳥と呼ばれているのか分からないままでしたが、そういうことでしたら、何か深い由来まで辿り着けそうですね」


 グアノの試験採掘が終われば、錫と鉛だ。クレイは休む暇がないが、村長にその旨を告げた。


「待ってください」


 村長が、今さらという顔で口を挟んだ。


「まだあるのですか?」


「むしろ、こっから先が俺の本命だ」


 村長の顎が本当に少し下がった。若者二人が崖下から籠を担いで戻ってくるのを待つあいだ、彼は白崖とクレイの顔を交互に見比べている。


「鳥の……その、ありがたい肥やしだけでもう十分腰が抜けそうなんですが」


「腰はあと二回くらい抜けるぞ」


「やめなさいって」


 ノリコが呆れ半分で言うと、クレイは悪びれもせず肩をすくめた。


「最初に沢で見つけた黒い重砂と灰色の欠片の話、まだ尻尾しか掴めてねえ。せっかくここまで来て、白崖だけで帰るのは山師として失格だ」


 教団書記が鼻をつまんだまま眉をしかめる。


「その『山師』というのは、要するに山の匂いを嗅ぎ分ける者、でしたか」


「格好つけて言やぁそうだな。実際は、厄介ごとに鼻が利く職業だ」


 若者二人がようやく崖を上がってきた。白い堆積物を入れた籠は三つ。量としてはわずかだが、最初の試しとしては十分だった。クレイはそれを一瞥しただけで、もう次の方を見ている。


「村長。沢で妙に重い黒砂が溜まる場所、知らんか」


「黒砂……」


 村長は額に皺を寄せる。


「春の水のあと、沢筋に黒っぽい砂が溜まること自体はありますな。だがあんなもの、誰もありがたがりません」


「だろうな。ありがたがる方が変なんだよ」


 クレイは頷く。


「じゃあもう一つ。柔らかい灰色の石だ。爪でも傷がつくようなやつ。子どもが拾って遊びそうなやつ」


 その言い方に、村長の後ろにいた古老の一人が「あっ」と小さく声を上げた。


「それなら知っとる」


 皆の視線が集まる。古老は咳払いを一つしてから、少し気まずそうに続けた。


「西の沢を少し上ったところに、昔からそういう石が出る斜面がある。子どもが削って板に線を引いたりして遊んどった。火に入れると嫌な臭いがするので、女どもには嫌われておったが」


 クレイの口元がにやりと歪む。


「ほら来た」


 ノリコが思わず身を乗り出した。


「本当にあったの?」


「だから言ったろ。山はだいたい、しょうもない噂の中に本体を隠してる」


 村長は完全についていけていない顔だ。


「ま、待ってください。白崖の次は、その嫌な臭いの石ですか? この村、急に宝が多すぎやしませんか」


「宝かどうかは、まだ見てからだ。案内頼むよ」


「え、ええ、それは構いませんが……」


 村長はなおも狐につままれた顔のまま頷いた。


「ただ、そっちはただの沢筋ですよ。白崖のように何か祀られていたわけでもない」


「それで結構」


 クレイが言う。


「祀られてねえ石の方が、よっぽど気楽に触れてありがたいね」


 沢は村の西外れからさらに細い踏み分け道を辿った先にあった。春の水が引いてなお地面は湿り、足元の石はぬらりと光っている。クレイは先頭を歩きながら、ときおりしゃがみ込んでは流れの縁を指で払った。


「……あるな」


 沢の曲がり角、根の張り出した斜面の下で、彼はぴたりと止まった。水際に黒い砂が薄く帯のように溜まっている。その脇の崩れた土には、鈍い灰色の塊が半ば露出していた。


 クレイは腰の小刀を抜き、灰色の塊の表面をこそげた。石は思ったより柔らかく、刃先の通ったところに白っぽい筋が残る。砕けた欠片を拾い上げ、鼻先へ持っていき、次に歯で軽く噛むようにして重さを確かめた。


「ホイ、当たりくじを引いたぞ。鉛だ」


 平然と言った。村長が本日何度目かの絶句を見せる。


「ま……たですか」


「まだだぞ。黒砂の方は錫の匂いがする。だがそっちは今日は尻尾だけでいい。欲張ると山に嫌われる」


 古老が感心したように目を細める。


「その石、そんな名のあるもんだったのか」


「名があるどころか、鍛冶も窯も喜ぶ。それにもしかすると銀を含んでるかもしれない」


「銀ですと……」


 ついに村長はへたりこんでしましった。


「銀が出るかどうかは試してみないと分からんが……」


 クレイは灰色の塊をもう一つ拾った。


「柔らかい。重い。火に癖がある。面白くないわけがねえ」


 ノリコは沢筋と斜面の位置関係をさっと見回し、油紙を膝に当てて書き込み始めた。


「北東村西外れの沢、白崖から……どれくらい?」


「うーん……三Komってとこじゃねえか」


 村長がまだ半分夢みたいな顔で答える。


「まさか村の裏山に、鳥の肥やしと重い石と黒砂が一緒くたに埋まってるとは……」


「埋まってるわけじゃない。たまたまお前さんらが今まで知らなかっただけだ」


 クレイが言う。


「土地はずっとここにあった。石も鳥も水も、何も隠れてねえ。人間が勝手に見てなかっただけだ。そしてたまたま俺が見ちまったんだ」


 持ち帰った灰色の石は、領館の小さな窯場でまず粉に砕かれた。クレイは砕いた灰色の石の粉を、小さな素焼き片の上へ試しに薄く乗せていた。木灰と混ぜたもの、白い土と混ぜたもの、そのままのもの。並びは雑に見えるが、本人の頭の中では順番があるらしい。


「いきなり器全部に塗るなよ」


 彼は窯場の職人へ念を押す。


「まずは試し片だ。溶け方を見る。流れすぎるなら混ぜもんを変える。艶が死ぬなら焼きが足りねえ。毒にも薬にもなる類いの石は、だいたい最初に人を殴る」


「最後の一言で急に不安になるんですが」


 ノリコが言う。


「実際そうなんだから仕方ねえだろ」


 焼き上がりを待つ時間は、妙に長かった。ようやく窯を開けた時、最初に声を上げたのは職人だった。


「……おお」


 素焼き片のうち、二枚だけが明らかに違う顔をしていた。表面がうっすらと溶け、ざらつきが減り、水を垂らせば玉になって転がりそうな光を持っている。完璧ではない。むらもある。だが、今までの焼き物とは明らかに違う一歩だった。


 クレイはそれを指で弾き、にやりと笑う。


「ほらな。まだ粗いが、道は見えた」


「これが鉛の力ですか」


 職人は半ば恐る恐る、半ばうっとりした顔で試し片を見ている。


「全部そのまま鵜呑みにするなよ。配合は詰める必要がある。毒が出るかもしれないから、食器へすぐ回すな。まずは壺や小片で癖を見てからだ」


 慎重なのか乱暴なのか分からない口調でそう言いながら、クレイの目だけは子どもみたいに光っていた。


 ノリコは、その横顔を見て少し笑う。


「忙しいわね、あなた」


「忙しいんじゃねえ。土地が休ませてくれねえんだよ」


 オーダが、試し片と、窯場の片隅に置かれた白崖の肥、それから外の畑の方角を順に見やった。


「北東は守る価値が、また一つ増えたな」


 誰も否定しなかった。春の大水は命を取りうる。月嘴鳥の営巣地は近寄れば荒れる。白崖の肥は畑を救い、灰色の石は窯を変える。そこへ、まだ尻尾しか見えていない黒砂まである。


 北東村の村長が再びこの話を聞けば、今度こそ本当に顎が外れるだろう。だが、そうであっても構わなかった。この領地はようやく、自分の中に眠っていたものを少しずつ喋り始めたのだから。


 それから幾度か春を越えて、季節は夏。北東村の暮らしは少しずつ形を変えていった。


 石柱の手前には低い柵が設けられ、童唄はもう村の子どもなら誰でも口ずさめるものになっていた。白崖へ入る日と入れぬ日は板に書かれ、教団の者と村長とで順を見張る。春の大水は相変わらず来たが、もう誰も石柱の先へ納屋を建てようとは言わなかった。白崖の肥は量を決めて採られ、痩せた畑へ薄く撒き鋤かれ、初めてそれを使った年の秋には、村の者たちが顔を見合わせて笑うくらいには、ジャガイモの出来が変わった。


 夕餉どきの北東村、真新しい家からは、油の匂いが漂う。


 ノリコは竈の前にしゃがみ、鉄鍋の中でじゅうじゅうと鳴るジャガイモを箸で返していた。薄く切ったジャガイモの縁がきつね色に立ち上がり、塩を振る前からもう美味そうだ。卓には、先に炒っておいたバターピーナッツの木皿が置かれている。土間の隅には、水を弾く釉薬のかかった新しい壺が、夕方の光を受けて鈍く艶めいていた。


 夕餉の時間だと言うのに主はまだ帰ってこない。


 どうせまた沢筋か崖下か、あるいは村外れの斜面で、黒砂だの灰色石だのをいじっているのだろう。あるいは村中の畑の土を調べ回っているに違いない。帰ってくる頃には靴も裾も泥まみれで、腹が減ったとだけは一人前に言う。まったく、少しも変わらない。


 戸の向こうから、子どもの笑い声がした。


「おかーさん、お歌うたってー」


 ノリコは揚がった芋を鍋から上げながら、少しだけ笑う。


「どの歌よ」


「いしばしらのうた!」


 外では、ほかの子どもたちも真似するように声を上げる。あの歌はもう、囲炉裏端だけのものではなかった。畑へ向かう道でも、石柱の前でも、手遊びみたいに口へ乗るようになっていたのだ。


 ノリコは火加減を落とし、竈の前で小さく息を吸う。


「いしばしら さきはみず」


 戸の向こうから、すぐに幼い声が重なる。


「はるのかわ いのちとる」


 歌はもう、紙の上にあるものではなかった。石は石として立ち、歌は歌として子どもの口へ乗り、恵みは決まりに従って分けられていく。幾年月を重ねても変わらなければよいのだ……その時、外で戸が鳴った。案の定、泥まみれの足音がした。


 オーダは領館敷地から見える試験農場に目をやった。今日も暑かった。ジャガイモ、トウモロコシ、ラッカセイ、ダイズ、アルファルファ、ヒマワリ――どれも生育は良い。ダリオはまたどこかの村で土を見ているという。先日、惜しまれながら十五代ヴィルが代替わりした。十代目リテアも、そろそろ暇乞いに来る頃だろう。


 東の空には満月が昇り始めていた。月すら欠ける。人は老いる。代替わりし、去っていく。この世界で変わらぬものなど、ひとつもない。――自分を除いては。


 寂しくないといえば嘘になる。北東への短い旅は楽しかった。馬ではなく自分の足で歩き、皆と肩を並べ、同じ釜の飯を食べ、同じ景色を見て笑った。ああいう時間は、永い生の記憶の中でもそう多くはない。


 だが、ふと思う。領主の仕事は、何もかもを抱え込んで永遠に見張り続けることではないのだろう。石が石として立つように。歌が歌として子どもの口へ乗るように。自分が居なくとも、いや、自分より先に皆が去っていく世界でも、理由と境界だけは残るように。そういう「ものさし」を土地に置いていくことこそが、領主の仕事なのかもしれない。


 北東の石柱は、もうただの古い石ではない。白崖も、ただ恐れるだけの場所ではなくなった。土は飢えを告げ、鳥は肥を残し、子どもは歌う。人がそれを受け取り、次の世代へ渡していく。それならば、この領地はもう、昨日までの領地ではない。


 オーダは目を細めた。ものさしは置いた。あとは(えにし)が育っていく。


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