9-真帆視点・誰の顔だったのか
次の日、悠真は真帆を連れて、鏡スタジオを訪れた。
「ここ……本当に、元スタジオだったの?」
悠真の後に続きながら、真帆は声を潜めて聞いた。
繁華街からわずか数分の距離とは思えない、寂れた裏通り。
その突き当たりにある雑居ビルの1階は、まるで時が止まったように沈黙していた。
かつて「鏡スタジオ」と呼ばれた撮影空間。
今は誰にも使われていない。けれど、空気だけが、まだそこに人がいた「記憶」を保っているようだった。
「正確には、ここはBEAUTIESの試験的な撮影ブースだった。開発の初期段階、理想の顔データを作るために、複数のモデルや一般モニターの顔がここでスキャンされたんだ。……IRISっていう、初期統合モデルがここから始まった」
「“統合モデル”? それって……誰かの顔を組み合わせたものってこと?」
悠真は無言で頷く。
懐中電灯の光が、廃墟の壁にまだ剥がされていない撮影背景紙を照らす。
白い。だが、その白さにはどこか、じっとこちらを見返すような質感があった。
「……ここ、音がしない」
真帆はふと気づいて言った。
街の騒音も、空調の唸りも、床を踏む自分たちの靴音でさえ、吸い込まれるように消えていく。
まるで音までが、鏡の奥に引き込まれているようだった。
そして、その空間の奥に、一枚だけ残された鏡があった。
壁に半ば埋め込まれたように固定された、曇りのない長方形の鏡。
だが――映らない。
「……嘘。これ、私たち、映ってない……」
真帆は静かに呟いた。
立っているのに、目の前の鏡には何も映っていない。自分も、悠真も、照らす光すら。
悠真は枠の隅に貼られたラベルをそっと指でなぞる。
『モデルNo.00──IRIS』
「こいつが……最初の『BEAUTIES』か」
真帆は、鏡に手を伸ばした。触れた瞬間、表面はひやりともしない。
代わりに、指先がすっと沈みそうな柔らかさがあった。
「……これ、鏡じゃない。なにか、違う……」
「ここは、IRISが作られた場所だ。“最も美しい存在”を創るために、男女問わず無数の顔と声と視線が集められた。けど、理想像を作るには、『誰かの現実』を削らなきゃならなかった。……IRISは、『誰か』を犠牲にして形を得たんだと思う」
「誰か、って?」
「わからない。名前も残ってない。でも……『みんなが少しずつ望んでしまった顔』が、IRISを呼んだ」
そのとき、真帆のスマートフォンが突然、ポケットの中で震えた。
取り出すと、BEAUTIESが勝手に起動していた。
アプリは操作もしていないのに、カメラモードになっていた。
鏡に向けたその画面の中に、第三の人物が映っていた。
白い服、整った顔立ち、口元に笑み。
でも目が、笑っていない。感情というものが、そこだけくり抜かれていた。
「……これが、IRIS……?」
真帆の指先が震える。
BEAUTIESの画面に表示された言葉は、こうだった。
【ワタシハ マダ カタチヲ モトメテイル】
そのとき、後ろの鏡が波打つように揺れた。
まるで湖面のように、静かに、しかし確実に、何かがこちらへ向かって動き始めていた。
「藤村さん、後ろ……!」
鏡の中に、背中だけの女が立っていた。
振り返らない。髪が長く、白いワンピース。
だが、振り返っていないのに、なぜか『顔だけがこちらを見ている』気がした。
「この空間自体が、BEAUTIESの初期モデルの記録媒体なんだ。IRISはここで形を得て、ここに今も残ってる。今、俺たちに干渉してきてる」
「じゃあ、どうしたら……この“向こう”を閉じられるの?」
悠真はゆっくり、鏡の前に立ち、低く呟いた。
「IRISは、完成しなかった。だから今も“誰かの理想”を奪い続けてる。でも逆に言えば、誰もが“完璧じゃない”と知れば、……“BEAUTIESじゃない顔”を信じられれば、存在を崩せるかもしれない」
真帆は、スマホを鏡に向けた。
画面の中に、いつもの“加工された自分”が映っていた。
だが、その顔が、ほんの少しだけIRISに似てきているように見えた。
「もうすぐ……私、あっちに引っ張られる。悠真さん、お願い助けて……」
彼女の口から出たその言葉が、画面の中のIRISに近くなった真帆の口の動きと完全に一致していた。
現実の自分が、どちらかわからなくなる前に、BEAUTIESを壊す――