第九咲 決着花
やっと最終章だよ!長い!
[Ash]
その頃、ナポリでも異変は起きていた。
研究所では、ネヴィルとジェヒョンが、いつも通り『Psyche』宿泊棟を掃除していた。もっとも、掃除自体はロボットがしてくれるので、彼らの仕事は整頓に近いのだが。
5階、4階、3階と、順番に片付けていき、1階のキッチンまで来る。
直後、2人は、部屋の異常に気付いた。
まず目が向いたのは、鍋から噴きこぼれて床に広がったスープ。
そして、ちらりと覗く、床に倒れた人間の手――。
「危ない!」
2人同時に駆け出し、ネヴィルはクッキングヒーターを止め、ついでにジェヒョンを手伝って倒れた人間をキッチンの外に運び出した。
「じゃ、ジャクリーヌさん!?」
ジェヒョンの腕に抱かれたジャクリーヌは、体中が痙攣をおこし、四肢には紫斑が現われ、脂汗を滲ませていた。肩を叩いても呻くのみだ。キッチンには、スープに混じって緑色の吐瀉物が撒き散らされていた。
「どうしましょう、先輩!」
「とりあえず、あそこの病院に運ぼう。アッシュには……後から知らせてもいいだろう」
「そうですね」
2人は、モップと上着で即席の担架をこしらえると、病人を運んでいった。
アッシュが息を切らせて病院に飛び込んできた時には、ジャクリーヌはICU(集中治療室)のベッドに、酸素チューブをあてがわれて寝ていた。
「ジャッキー……」
彼は、ICUの大きい窓に張り付いてぼろぼろと涙をこぼす。
するとそれに気付いたのか、中から医師が出てきた。
「先生!彼女は……ジャッキーは大丈夫なんですか!?」
胸元にすがりつくアッシュに、医師は俯いて首を振る。
「それが……髪からヒ素が検出されましたので、解毒剤としてジメルカプロールを投与したのですが、筋肉注射なので薬効が早く出るはずだというのに、どういうわけか、効果がほとんど現われないのです。ヒ素に直接くっついて毒性を無くす薬ですので、薬効と患者さんの体質とはあまり関係ないと思われるのですが……。さらに言いますと、血液検査をしたところ、薬とくっついていないヒ素の数が、ほとんど減らないのです。まるで、体のどこかから定期的に出ているかのように……。明らかにおかしい状況ですので、準備が出来次第精密検査を行なう予定です」
「お願いします……!彼女を、助けて下さい……!」
医師は、自分の手を握り、ぺこぺこと頭を下げるアッシュの肩を優しく抱いた。
「もちろんです。責任を持って、出来る限りの治療を行ないます」
その時だった。
「――あれ?」
犬並み、あるいはそれ以上に敏感なアッシュの鼻が、妙な匂いを嗅ぎ取った。
医師もそれに気付いたようで、少し困った顔をしている。
「香木、ですかね。良い香りではありますが、患者さんがおからだが弱って鼻が敏感になっていらっしゃいますから、花も含めて、強い香りは病院ではご遠慮いただいているんですがねぇ……」
しかしアッシュは、それ以上のものを嗅ぎ取っていた。
香りの正体が、彼自身も1回しか嗅いだ事がないので自身は無いが、おそらく沈香であろうという事を。
そして、その芳しい香りの中に、鉄臭い、血独特の臭いが隠れている事を――。
[Louisa]
さて、ここは病院は病院でもナポリ新市街中央病院。
産婦人科病室の個室の1つ、201号室では、ルイーザが、3日前に生まれた赤ん坊をベッドから半身起こして抱き上げていた。
薄いピンク色のベビー服にくるまれた小さな女の子は、母親の腕の中ですやすや眠っている。母親も、柔らかな目で娘を見守っている。夫も、傍らで子供の寝顔を見つめている。かつては息子が元殺し屋で前科者の女と交際するのに反対していた彼の両親も、彼女の人柄と殺し屋になった事情を知った後は彼女を受け入れ、今では嫁が産んだ初孫を温かく見守っていた。ルイーザの両親は居合わせていない。顔すら知らない。そもそも、生まれた直後に旧市街のスラム街に捨てられるなんて事がなければ、彼女が夜の世界の住人になるなんて事はなかったのだから。
「あー!可愛いなぁ!!この口元とか茶色の髪とか、君そっくりだね!」
「でも目の色はあなた譲りよ」
「きっと美人になるわ、この子!」
「しかし問題は胸だな。お母さん似ならふっくらしているだろうが、おばあちゃん似なら悲惨だぞ?」
「ちょっとあなた!どういう意味よ!いや、そもそもお嫁さんをなんて目で見てるのよ!」
「いや、それは……」
(ちょっと!父さんも母さんも大きい声出さないで!赤ちゃんが起きちゃう!)
夫が制止するも、赤ん坊はぐっすり寝ている。ルイーザはというと、呆気にとられる夫も他愛無い口喧嘩に熱中する義父母も何だかおかしく思えて、肩を揺らして笑っている。
さて、そんな折、ドアの方からノック音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します」
訪問客を見るなり、皆色めき立った。ドアの向こうから現われたのが、2人の警察官だったのだ。赤ん坊も、気配に気付いたのか、パチッと大きな目を見開いて周りをキョロキョロ見渡している。
しかし、最も焦りそうなルイーザが一番平静だった。
「スカルラッティ警部、お久し振りです」
私服警官の方が、破顔一笑した。
「久し振り。出産おめでとう」
戸惑ったのは、夫一家だ。
「知っているのかい?」
「ええ。この人はステファーノ・スカルラッティ警部よ。私、逮捕された当時、出生届も出されていなくて名前すら無かったんだけど、それじゃ不便だというので、戸籍を作ってくれて、名前もこの人につけてもらったの」
「ご安心下さい、旦那さん……でよろしいですかね。別に彼女を逮捕する気はありません。ただ、情報を頂きに来ました。紹介が遅れましたが、この制服を着た彼は、巡査部長のベルンハルト・モルゲンシュテルンです」
巡査部長と紹介された若い男が続けていう。
「今日はルイーザ・ブレンターノさんに、貴女と関わりのある大手軍需会社、『Ultrasonic』の内情についてお話して頂くために参りました。……申し訳ございませんが、お話が終わり次第お呼び致しますので、ご家族の方は、病室外でお待ち頂けますでしょうか。3人でお話ししたいので、よろしくお願い致します」
「え、ええ……」
夫一家が戸惑いながらも病室を出ると、巡査部長が警察手帳を開いて言う。
「あ、そうだ。今回のルートヴィヒ・カンナヴァーロ君――彼は私の部下ですが、あの子の監視の件は、今からさせて頂く質問に答えて下されば不問にする、という事です」
「という事は、それよりも『Ultrasonic』の方が危ない、と」
「ええ」
最近、ナポリ市警は困っていた。この街、特に旧市街の犯罪があまりに多過ぎて、刑務所がパンパンになってしまっているからだ。そこで市警は、軽犯罪で再犯の可能性が低いと考えられる場合は、ある条件をクリアすれば不問あるいは軽い罰金で済ますようにしているのだ。
「あの会社は、噂では、宗教団体と癒着している、ヘルメスベルガー家の御息女、シャルロッテ嬢を監禁している、アメリカの大富豪サザーランド家に私情で武力による弾圧を行なっている、フォン・メンデルベルグ社長の妹カロリーネ嬢を殺害した、さらにはセントマイケル帝国に協力している、などの疑いがあり、本社があるアメリカのFBIやロサンゼルス市警、そして『Ultrasonic』に関係しているとされる事件が多数起こっているというナポリの市警も、捜査に躍起になっているんです」
一気にまくしたてるモルゲンシュテルン巡査部長の声には熱がある。
(もしかして、当事者なのかしら)
彼女の疑問を見透かしたかのように、警部が言う。
「彼は当事者だよ。さっき言ったように、あの会社によって部下が誘拐されかかったし、社長が作った『鋼鉄花』、『Athena』と対立している『Psyche』の元リーダー、イレーネ嬢の夫でもある」
「えぇ!?」
「そ、そんなに意外だったかい?……さて、ここから本題だけど、このモルゲンシュテルン君は先日、ヘルメスベルガー家の使者だという『鋼鉄花』、『Dysnomia』と遭遇したみたいなんだけど、君も会ったんだってね。ほら、長身の男みたいな女性と、美形の日本人と、小さな男性だ」
「あー……」
彼らの事なら覚えている、いや、あんなキャラの濃い連中、忘れられるわけがない。しかし、彼らがアンドロイドだったとは。そしてあのでかいのが女だったとは。道理で、少し胸が膨らんでいたわけだ。
「やっぱり会ったみたいだね。その3人が、どうも君から、社長の目的が、自分と新興宗教団体、『福音の家』との密談を聞いてしまったルートヴィヒ君を始末する事だと聞いたらしいけど、本当かい?」
「ええ」
「では、なぜ社長が『福音の家』と密談していたか、知っているかい?」
一瞬びっくりした。彼女自身もよく知らなかったからだ。ただ、知り合いの情報屋から、確認できていない「売れない情報」として教わった事はある。
「知り合いの情報屋の売れない情報なんですが、その教団の正体がセントマイケル帝国の『福音庁』だと聞いた事があります。その任務というのが、銀虫と呼ばれる寄生虫に感染した人を操る電波を流す事らしいんです。ほら、あの教団が進出してきた地域で、政治家が次々と暗殺される事件があったでしょう?あれにも関わっているみたいで」
「そうか……。この件は、帝国と対立している『Olive Branch』のメンバーがモルゲンシュテルン君の知り合いだというから彼らに一応確認を取っておくとして……なるほど、そんなことにまで絡んでいるとは……。そこで、だ。他の――例えばシャルロッテ嬢監禁などの件は本当なのか、知っているかい?」
「それも、売れない情報になってしまうんですけどね。令嬢誘拐については、彼女が社長と接触した日から行方不明になったそうです。で、社長の妹殺害の件は、前から兄妹仲が恐ろしく悪く、さらに社長の奥方と愛人の争いに妹さんが介入しそうになった時に事件が起こったそうです。なので、どちらの事件も、社長が犯人である可能性はかなり高いでしょうね」
警官2人が、苦い顔を突き合わせた。
「……分かりました。質問は以上です。ご協力ありがとうございました。では、ご家族をお呼びしますね」
巡査部長に呼ばれて、夫一家が入ってきた。
「な、何聞かれたんだい!?ルイーザ!」
「『Ultrasonic』の事よ」
「だ、大丈夫だったのか?」
「特に変な事は無かったわよお義父さん」
男性陣がオロオロする中、義母はのほほんと笑って、「良かったらどうぞ」と警官達に缶コーヒーを手渡していた。
「ご迷惑をおかけしましたが、おかげ様で良い情報を得られました。ご協力ありがとうございました。では、失礼致します」
警察官は、アイスコーヒーを手に病室を後にした。
残された4人が、ボソボソと話す。
「それにしても、生まれたばかりの赤ちゃんがいる所に駆けこんでくるとは、よっぽど重要な用事だったんだろうね」
「犯罪かしら」
「そうみたいですよ」
「しかし、会社のガードは堅いだろうから、捜査しにくいだろうなぁ」
赤ん坊は、眉にしわ寄せる両親と祖父母を、キョトンとした目で見上げていた。
「――それにしても、世界中で『Ultrasonic』包囲網が敷かれているね」
同じ頃、パトロールカーの車内で、スカルラッティ警部がぼそりと呟いた。
隣に座るモルゲンシュテルン巡査部長が頷く。
「ですね。帝国と関わっていると分かれば、放置できないでしょう」
実際、世界中の警察が、この軍需会社の捜査を始めていた。イレーネ、平八郎、信乃、そして『Psyche』と、会社をよく知る者達から情報を集め、支社への立ち入り調査も行なわれた。犯罪行為に及んだ社員や関係者の逮捕も相次いでいる。
『Ultrasonic』は、確実に包囲されつつあった。
[Caroline]
さて、空の上にも、『Ultrasonic』を追う者達がいた。
ヘルメスベルガー家の自家用ジェットに乗り込んだカロリーネ達だ。
彼女と同行したのは、事故後の精密検査を受けるなりナポリ行きを決意したクリストフ、『Dysnomia』のスナイパー、ペトリと少人数だ。ルートヴィヒと他の『Dysnomia』は屋敷の警護のために残った。シャルロッテは、昼頃に姿を消してしまった。
「――で、どうします?クリストフさん。ナポリに着いたら即敵陣に突入しますか?」
ジェット機の中、3人は作戦会議を開いていた。
「ちなみに、私の電池残量は危ないです。ここ、このパネルに電池型のランプがありますでしょう?これが赤になってしまったら、もう戦えるような状態ではなくなってしまうんです」
カロリーネが、右手首の蓋を開き、赤い電池残量ランプを一目見て苦笑い。それを見て、2人も渋い顔。
「すぐにでも助けに行きたいのはやまやまだけど、ベストコンディションでないとね。救出しに突入したのに殺されたりしたら、元も子もない。……それで、君は?」
すると、ペトリは少し困った目で電池残量を示す。オレンジランプ。これも、赤ほど危なくはないが充電しないといけない。ちなみに、青ならほぼ満タン、緑ならまだ十分稼働可能、という意味だ。
「うーん……。どうも、休憩を取った方が良さそうだな。『Ultrasonic』潜入は夜にしよう」
「そうして下さると助かります。弾薬を仕入れたいので」
スナイパーが、自分の相棒である古い小銃を念入りに手入れしながらボソリと呟く。
「そうですね。いくらあの傭兵の女の子――エリザベス、でしたっけ?彼女から社内の地図を拝借したとはいえ、社内の間取りを知り尽くしている相手に挑むには、それなりの用心が必要でしょうね。私も――」
と言いかけたカロリーネの携帯電話が、着信音を鳴らした。
「あ、メール。ガウェイン――『Psyche』の一員、仲間からです。なになに?…………お、やった!」
「どうした?」
尋ねるペトリに、彼女はドヤ顔で携帯電話の画面を見せつける。
「『Ultrasonic』潜入作戦、『Psyche』のみんなも参加してくれるみたいですよ!」
本当かい!?
クリストフの表情がパッと華やぐ。目の色以外滅多に表情を変えない寡黙な狙撃手も、片頬を上げる。
「具体的な作戦は、『Psyche』の宿泊棟に招待しますので、そこで考えましょう。友人の知り合いがやっている武器屋にも案内します」
「そうしてくれると助かるよ。じゃ、ナポリに着くまで休憩しようか。コンセントは、自由に使ってくれ」
「ではお言葉に甘えて」
アンドロイドの2人、うなじから電源コードをコンセントまで伸ばし、座席にもたれかかって目を伏せた。
虚ろな意識の中、カロリーネは思った。
ついに、『Psyche』と『Athena』の戦い、そして自分と兄の戦いに、終止符が打たれる時が来たのだと。
[Ludwig]
所変わって、こちらはヘルメスベルガー家の屋敷。
カロリーネ達が機内で眠りに就いたのとほぼ同時刻、フランツが搬送された病院からルートヴィヒが帰って来た。
「お帰りなさいませ」
「お仕事お疲れ様です」
門に常駐する警備員が敬礼したので、敬礼返しする。
「旦那様の御容態はいかがでしょうか」
「峠は越しましたが、まだ目は覚めていません。今は母が看護しています。……あ、そうだ。母が言っていたのですが、シャルロッテは帰って来ましたか?特に生身の人間の方です。結婚式までには帰ってくるという約束だったようですが……」
「まだ帰って来られていません。それどころか、ビスマルクさん曰く音信不通のようです。あの方です、もし遅れて来られるのなら、電話して下さるはずですが……何かあったのでしょうか……」
「んー……。先日、ヴィーラントとかいうメンデルベルグ家の長男に捕まってしまったという事があったそうですが、まさか、ねぇ……」
警備員と話しながら、門内に入る。扉の前まで来ると、警備員が扉を開けてくれた。
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
エントランスに入ると、そこではミルズとヨハネ神父が待っていた。
「お帰り、ルッツ。フランツさんの調子はどうだった?」
神父が、ニコリと笑って彼を迎える。
「まだ意識不明だ。峠は越したらしいが、安心は出来ないなぁ。……で、あれ?カルロとあの子、エリザベスは?」
するとミルズが、1階にある2つのゲストルームの方を示した。
「カルロ様は北側のお部屋、エリザベスさんは南側の外から鍵がかかったお部屋にいらっしゃいます」
「あれ?あの子、地下に入れなくていいのか?」
地下とは、屋敷の地下にある座敷牢の事だ。東西戦争の時、カロリーネやヴィーラントも一時期収容されていた。ちなみに、散々暴れて煉瓦壁にくぼみを作ったりしたカロリーネと違って無抵抗で、腹の中が読めないヴィーラントと違って聡明でドライながら人好きのするクララとその母親は、ゲストルームに収容されていた。
「完全に戦意喪失しているので、そこまでする必要は無いでしょう。武器も、桜木さんとビスマルクさんが、えと、言いにくいんですが……こう、下着をめくって、その、お尻の穴まで、確かめたようなので、ええ、大丈夫でしょう」
「し、尻まで?」
ちょっとひいてしまった。
「し、仕方無いでしょう!あの腹黒い事で有名な社長の事です!彼女が、捕虜になる事前提で送り込まれたハニートラップあるいは暗殺者という可能性は無きにしも非ずだったんですから!幸いその疑いは晴れましたが。……ですが、辛かったですよ。クリストフ様のご命令とはいえ。彼女、部屋の外まで聞こえる程泣き叫んでいまして……。嫁入り前の娘さんに酷い事をしてしまいましたね……。そこで、若様にお願いがあるんですが……」
「え!?」
いきなり名指しされて仰天するルートヴィヒに、鍵が手渡された。
「彼女、泣いている間ずっと若様に助けを求めていたんです。ですから、若様なら彼女を落ち着かせられるかもしれません。おそれいりますが、私からもお詫びは致しましたが、今一度、若様自ら彼女の様子を御覧になって下さいませんでしょうか」
慌てたルートヴィヒが、耳まで真っ赤にして手をブンブン振る。
「いやいやいやいや!!俺にそんな事言われても!確かに、可愛い子だと思っているし、気に入ってもいるが、そんな大それた事は出来ないぞ!」
すると神父が、彼の肩にポンと手を置いた。
「頑張って来なさい、ルッツ」
「ええええええ!!?」
「んもー!分かりましたよ!行きますよ!」
真っ赤な頬を膨らませてエリザベスの部屋に向かったルートヴィヒの背中を保護者2人は意味深な笑みを浮かべて見送っていた。
「惚れてますね」
「あれは惚れてますね。しかしあの子、奥手ですからね。なかなか進展しないでしょうね」
本人がいなくなると、2人ボソボソ囁き合う。
「しかしあの方、本当に落ち着きましたね。今回、若様に斬られた中で死者は1人もいなかったそうです。ですが、あの体力と技術でしたら、幼い頃の暴走具合だと全員死んでてもおかしくありません。やはり、小さかった頃から、闘争本能を抑える訓練をさせてこられたのですか?」
「いえ、むしろ逆です」
「逆、とは?」
不思議そうなミルズに、神父はニコリと笑いかけて続ける。
「あの子には、暴走しても大事に至らないようにする方法をアドバイスしただけです。私達も、欲望を完全に抑えることは出来ませんが、それを有意義な方へ持って行く事は、意識すれば出来る。それと一緒です」
「ですが、それも大変だったのでは?」
「それはもちろん、生傷が絶えませんでしたよ。さらに、その傷に反応してまた暴走、なんてことはざらでした。ですが、それもあの子の将来の為と思えば痛くはありませんでした」
神父の笑顔には、曇り一つない。
「どうやら、旦那様の判断は、結果的には大正解だったようですね。……あれ?」
ふとミルズは、自分の主人が女の子の部屋の前を行ったり来たりして、明らかに怪しい人みたいになっているのを目に留めた。
「若様!こういうのは思い切りが大切ですよ!」
「そんな事言ったって!」
彼はブーブー文句を言いながらも、意を決して部屋に入った。
保護者2人、またも顔を見合わせる。
「ね、奥手でしょう?」
「ですね」
ノックしたそばからなぜかそろーっとドアを開けたルートヴィヒの目に飛び込んできたのは、メイド達がシャルロッテから(無断で)借りた水色のワンピースを着たエリザベスだった。ショートのボブのさらさらした金髪とカチューシャのせいか、人形みたいだ。
顔を真っ赤にした訪問者に、逆に驚いたのは彼女だ。
「あれ!ど、どうされました!?」
彼は慌てて顔を手で覆う。
「えと、何て言うか、君、軍服のイメージが強くてさ。で、んと、か、可愛いな、とか思っちゃったりして……」
「に、似合います?」
彼女も、頬をほんのり染めてはにかむ。
「ああ、似合うよ……」
ルートヴィヒは、彼女が座っているソファーの端に腰掛けた。
「そうだ。俺今さっき帰って来たばかりなんだが、皆想像以上にのんびりしているな。もう君の隊は撤退したのかい?」
「ええ、身体検査を受けている時に隊長から連絡がありました。『12時までに帰って来なければ死んだものとする』ですって」
「という事は、君は既に死んだ事になっているのか」
「ええ。入院している隊員も、ですかね。おそらく、家族にも近々連絡が入ると思います。早く連絡しないと、葬式の準備されかねません」
「そうか、君にも家族がいるのか……」
彼は罪の意識に苛まれていた。今さっきまで、この少女がいつまでも近くにいてくれたら、と淡い期待を寄せていたのだ。自分が勝手に彼女を閉じ込めているのにもかかわらず、だ。
それを知らない少女は、ニコリと笑って話し始めた。
「私、家の改築の為に働いていたんです。実家がアメリカにあるんですが、そこが半年前竜巻で半壊してしまって崩壊寸前なんです。ですから、少し汚れていますがたくさん稼げるあの会社に入ったんです。家の改築のついでに一人部屋が欲しい、なんて下心もありますし」
「いや、良い事だと思うよ」
「そうですか?」
「そうだよ」
ルートヴィヒが、エリザベスに少しにじり寄った。
「残念だが、連絡の許可は俺では下ろせない。だから、お兄様が帰って来次第相談しておく」
「お願いします」
彼女は、ホッと息を吐いた。
「軍人さんの家だから、拷問とかそういう酷い目に遭うかと思っていましたが、皆さん優しいので良かったです」
「父上は分からないぞ」
「えええええっ!!?」
「ハハハ!冗談だ。きっと父上もそんな酷い事はしないだろう。だから泣くな」
その時、ルートヴィヒはビクッと固まった。自分の手が、無意識的に、涙目のエリザベスの滑らかな金髪を撫でていたからだ。
「あ、ご、ごめん!」
「え……」
彼が慌てて手を払い除け、エリザベスが名残惜しそうに手を伸ばす。
瞬間、彼と彼女の手が重なり合った。
「あ、れ?」
「え?」
2人は、偶然触れ合った手と手を、まるで他人のもののように、呆気にとられて見つめていた。
「…………えー、オホン、では俺は帰るぞ」
先に手をのけたのは、耳まで赤いルートヴィヒだった。
「夜7時にビスマルクさんが夕食を運んで来るから、その時にはくれぐれも着替えたりするなよ。お兄様曰く、薄着あるいは裸の女の子と2人きりになったら、例え相手が主人のシャルロッテであっても平気でいたずらするらしいからな」
「えええええっ!!私父や2人の弟以外の男性に触れる事すら、今の今まで無かったのに!」
「気を付けなよ。本当はクララさんも盗撮魔らしいから危険人物だが、今の所いないから、とりあえずビスマルクさんには隙を見せるなよ」
「分かりました」
「分かったな。なら、帰るぞ」
彼はソファーから立ち上がると、ドアに歩み寄る。そしてノブに手を掛けた、その時だった。
「――待って下さい!」
びっくりして振り返ると、頬を紅潮させたエリザベスが、潤んだ目で彼の腕にしがみついていた。
「ど、どうした……?」
「る、ルートヴィヒさん……。あ、明日もまた、来て下さいますか?」
「……っ!」
もはや理性は限界だった。彼は、恥じらいも忘れ、彼女の体を目いっぱい抱きしめる。
最初は固まっていたエリザベスも、やがて彼の背中に腕を回した。
「もちろんだ。明日も明後日も、絶対に来る。夜に来るのは恥ずかしいが、日中には必ず会いに来る。心配するな」
エリザベスが満面の笑みを浮かべる。その瞳には、屈託は何一つとして無い。
「ほ、本当ですか?」
「ああ。だから、待っていてくれ、な?」
「はい!」
ルートヴィヒは微笑み、彼女の頬に口づけし、部屋を後にした。
残されたエリザベスは、頬に手を添え、うっとりと眼を閉じた。
さて、部屋を去ったルートヴィヒは、ふと我に返り、耳まで真っ赤になっていた。
(な、なんて事だ……!話するだけのつもりだったのに、ハグした上キスしてしまった!ど、どうしよう……。絶対スケベ野郎って思われてる……!)
頭は良いはずなのに鈍感な彼は、少女の恋心に気付いていない。無用な自己嫌悪に苛まれながら、次はカルロの部屋へ向かう。
ドアを開けると、ベッドに横たわっている、包帯をグルグル巻きにされた青年の姿が目に入った。
「ルッツ、久し振り」
カルロは、ある意味自分が半死半生にされた原因である友を咎めようともせず、ただいつも通りに笑った。
ルートヴィヒには、それが逆に苦しかった。
「カルロ、ごめんな……。こんな事に巻き込んでしまって、怪我までさせてしまって……。けれど、生きていて良かった……」
カルロは一瞬目を丸くし、すぐにプッと噴き出した。
「まさかお前に謝られるとは思ってなかったよ!むしろ、せっかく傍についていたのにお前を守ってやれなかった僕の方が怒られたっていいくらいじゃないか!そうセンチになるなよ。僕はこの通りピンピンして……痛っ!!いってぇ……」
「ハハハ!そんな急に動かしたらそうなるって!」
テヘ、と舌を出す親友に、ルートヴィヒは久し振りに大声を出して笑う。
「しっかしここの家の女の子は狙い甲斐がありそうだな。ビスマルクさんみたいな活発な人も、桜木さんみたいな頭脳派も良いしな、特にシャルロッテちゃん、だっけ?『鋼鉄花』の状態でも十二分に可愛いじゃないか。ぜひ本人にお目にかかりたいね!」
「あんまり甘く見るとヤケドするぜ。この家では最弱扱いらしいが、話を聞けば、そんじゃそこらの男連中よりずっと強い」
「だろうな。お前の妹さんが弱っちいわけがない」
元気に笑い、ルートヴィヒに手渡された、水差しに入っていたキンと冷えた水を、コップ一杯一気に飲み干す。
「ぷはぁ!おいし!あ、そういえばここのコックさん、腕すこぶる良いな。昼飯美味しかったよ。行くとこ行けば三ツ星も夢じゃないぞ」
「そりゃそうだ。元々はパリの三ツ星レストランのコックだったんだ。経営難で店が潰れた時に父上が引き抜いたらしい」
「お前のお父さん、人を見る目が良いみたいだな。女の子以外でも、みんな良い人ばっかりだ。お前の執事のミルズさん、主人の依頼が無くとも、嫌な顔一つせず世話してくれているよ。クリストフさんも、しゃんとした紳士じゃないか」
「ただし、男女関係なく尻が大好きらしい。挨拶代わりに尻を触るのが日課なんだとさ」
「僕も触られたよ。男にしては柔らかいんだってさ。それって太ってるってことか?」
「や、大丈夫、だと思うぞ?」
「そっか。なら良かった」
ふと、枕に顔をうずめたカルロが、小さく呻いて目をこすった。
「眠いか?」
「だな。夜通し車移動だったし、騒ぎすぎて疲れた。伯父さんはよく持ち堪えているよ」
「いや、きつそうだったぞ?夕方まで俺の部屋のベッドを貸す気でいる」
彼は微笑み、うとうとしだした親友の頭に手を置いた。
「7時の夕食まで寝てなよ。怪我治すには寝るのが一番だ。ミルズには、様子見の時には静かにしてくれって頼んでおく」
「ん……」
間もなく、ベッドからは静かな寝息が聞こえてきた。
「まったく、寝付きが早いんだから」
ルートヴィヒは、彼の頭から手を離し、そろりと部屋を後にした。
彼は背伸びし、大きくあくびをした。どうやら、養父と友人につられて睡魔がやってきたらしかった。
[Mikhail]
一方、高野工具店で店番をするミハイルも、眠気に襲われていた。
「ハァー。早く石原さん帰って来て交替してくれないかなー」
店長である石原は、仲間であるカテリーナの一家のレストラン、『Cucina di Bronzano(ブロンツァーノ家のキッチン)』へ行っている。
本業である武器屋の客は決して少なくないはずだが、今日は、カモフラージュである工具はおろか、武器もほとんど売れていない。
椅子にどっともたれかかってあくびしていると、店の扉が開いた。
まず入ってきたのは、香木らしき芳しい香り。
(いい匂いだ。しかし何だろう。アッシュなら分かるかもな)
その芳香の主は、30歳くらいの、チャイナドレスを身にまとった東洋美人だった。
(綺麗な人だ。中国人か?)
と思いつつも、背筋を正してニコリと笑う。
「いらっしゃい――」
その時、彼の背筋に、ゾクリと悪寒が走った。
ほぼ無意識で護身用の鉄棒を取り、降りかかってきた何かを受け止める。それは、刃渡りの大きい鉈だった。
「……チッ」
東洋風の女は忌々しげに舌打ちし、飛び退って床に降り立つ。
「おいおい、どういうつもりだ?」
ミハイルは整った眉を吊り上げ、女に棒の先を突き付ける。よく見ないと分からないが、これの先には穴が開いており、そこから麻酔薬が塗られた針が飛び出し、敵を眠らせる事が出来る代物なのだ。
(こいつで眠らせて、警察に突き出してやる!)
しかし、
「――無理だな」
女は棒の先端を見るなり、そう英語で呟き、紅を引いた口元に嘲笑を浮かべた。
「そんな細い針は効かない。私は『Athena』だからな」
「『Athena』……!」
彼の顔色を察知してか、彼女はフフン、と鼻で笑う。
「その顔は、知っているらしいな。しかも敵と思っている。ということは、アッシュ・クロードを知っているのか?」
彼は必死で平静を装った。しかし女は満足そうに高笑いする。
「そうか!知っているのか!ま、仲間らしき連中がここにいると知ったから来たんだがな。奴はどこだ?早急に探さないといけない」
ミハイルの白い首筋に、冷たい光を放つ鉈の刃が添えられる。
彼は迷った。仲間の居場所を言いたいわけが無い。だが、この女と本気で戦えばまずいと、先程のパワーとスピードから察していた。
(さて、どうする?)
だが相手は、考える時間すら与えてくれなかった。
「もう私には時間が無い。教えてくれないのなら他を当たる。それじゃ、証拠隠滅のために消えてくれ」
女は冷たく言い放ち、ミハイルの首筋に斬りかかる。
彼は棒で受けようとし、気付いた。鉄棒が既に敵の手に渡っていた事に。
(いつの間に……!)
彼が指を失う事覚悟で、素手で女の手首をつかみにかかろうとした、その時だった。
「――あぐっ!」
涼しかった女の目がカッと見開かれ、美貌が醜く歪む。
その手から、鉈がこぼれ落ちる。
ミハイルは、彼女の右手を見てハッと息を呑んだ。銃弾がかすったと思われる傷から、鮮血が噴き出していたのだ。
「このっ……!」
女が眉を吊り上げ、振り向きざまに棒を叩き込もうとしたが、その手がピタリと止まった。それもそのはず、彼女の白い手首は、背後にいた男の痩せた手でつかまれていたのだ。
その男を一目見るなり、ミハイルがホッと溜め息を吐いた。
「遅いですよ、石原さん」
「いやはやすまない。話が長引いてしまってな……」
石原は、右手に持った拳銃の硝煙を吹き消して片頬を上げた。
「……で、この娘さんは誰だ?お前にいきなり斬りかかっていたから、昔の癖で奇襲してしまったじゃないか。アッシュを捜していたようだが、何でだ?」
「さぁ。本人に聞いて下さい」
「……というわけだ。吐け。おっと、その前に名を名乗ってもらおうか。ちなみに、俺は石原剛だ。元日本空軍のパイロットで現武器商人。不公平だから名乗った」
女は再び舌打ちし、顔を顰めて口を開いた。
「私の名は姫梅扇。中華王国連邦XX王国第2王女にしてOO王国第1王子の内縁の妻、そして『Athena』リーダー、オグナの祖だ……!」
ポカンとするミハイルに引き換え、石原は顔面蒼白だ。
「ほ、本当か?ニュースでは、侵略してきた隣国の将校達を策略を駆使して殺した後、敵国の援軍に追い詰められて自害したと聞いたぞ?」
「確かに、自分で腹を掻き切ったはずだった。しかしよりによって敵軍の連中によって生かされ、略奪された上、王子なのに30歳になって独身だった第一皇子に差し出された。当初は拒絶していたが、最近ではかなり良い関係になっているよ。子供も出来た。戦争自体はまだ終わっていないせいで未だ捕虜扱いだがな。ただ今は、2年半ぶりに解放されている。私を元に作られたオグナを始末するためだ」
「やはり『Athena』だってのはハッタリか。しかし、そいつを殺るのとアッシュを捜すのとは関係があるのか?」
「ある。どうやら、その男が奴に狙われているらしい。だから、そいつを餌におびき寄せて殺すつもりだった」
ハァ、と石原が溜め息混じりに頭を掻いた。
「そうならそうと早く言え。そうすればこいつもすぐ喋っていただろうし、お前さんも右手を痛めずにすんだはずだ。……さて、アッシュに事情を伝えるか。ミハイル、その娘さんの手、手当してやってくれ」
「……ん?呼んだ?」
「うおっ!!アッシュ!!」
突然店の扉の隙間から顔をひょっこり出したアッシュに、さすがの石原も飛び上がる。
「あーびっくりしたー!こちとらもう年なんだから、驚かさないでくれるか?」
「えへへ、ごめんなさい。ちょっと血の臭いが混じっていない沈香の香りに誘われて」
「……はい?」
目をパチクリさせる3人に、彼はにこにこしながら続けて言う。
「実はさっき、沈香に血が混じったようなにおいを嗅いだんですよ。もしかしたらヤバい奴がいた証かな、と思ってそのにおいをたどっていたんですが、今度は混じりっけなしの沈香の香りがしたんで、あれ?と思って入ってきたんです。……あ、この女の人からする香りです」
彼はまるで磁石に引き寄せられるかのように、メイシャンに歩み寄った。彼女は驚きを隠せないようだ。
「ねぇお姉さん、これと同じ香りのする人に会いませんでしたか?少し鉄臭いにおいの人です」
「……もしかしたらオグナかもしれない。『Athena』のリーダーでな、私とは違い、染み付いた血の臭いを消すためにこの香りを付けている。好戦的で、お前を狙っているらしい。私はその女を止めに来た」
「えええっ!!僕、狙われてるのぉっ!!?」
アッシュの元々色白い顔面から、さらに血の気が引いていく。
3人も苦い顔だ。
「どうもそうらしいな。問題は、どう対処するかだ。お前が自分自身を餌にしておびき寄せて倒すか、それともその女を見つけて倒すか」
メイシャンは腕組みして考え込む。
「後者は、難しいな……。あいつ、ずる賢いから、罠を張ってくるだろうからな。むしろ、前者の方がリスクは少ないだろう」
「――あ、アッシュ・クロードみっけ」
「ゲッ……!」
一同声のした方を見やり、ギョッとした。窓に、メイシャンと瓜二つな血まみれの女が張り付いていたのだ。
「何を話していたんだ?混ぜてよ」
女は、まるでガラスを鷲掴みするかのように右手を窓にめり込ませ、窓に穴を開けると、その穴を、両手でガラスをバリバリ割って押し広げ、滴り落ちる鮮血にも構わず、工具店の床に降り立った。
同時に、沈香の深い香りと血液の鉄臭い臭いが鼻を突く。
メイシャンが、顔面蒼白で後ずさる。
「オグナ……!」
「あ、オリジナルさん久し振り。聞いたよ?3ヶ月あの王子に孕まされた子供産んだんだって?よく産んだねー。どう?元気に育ってる?頼んでくれたら、いつでもあの男を殺してあげるからね!」
「その提案はお断りだ。で、子供だな、まあ可愛い盛りで――」
と、相手の言葉が終わらぬ内に、オグナと呼ばれた女が急に目を輝かせた。
「ねえねえ!そういえば『Ultrasonic』の連中をちょっと殺した時にさ、こんなおもちゃが手に入ったよ!」
そういって取り出したのは、軽機関銃。
「ちょっ!お前なんて物持っているんだ!しまえ!」
「これでアッシュをグズグズの肉片にしてあげるんだ!ネチョネチョでベトベトでミンチみたいにな!いいだろう!?」
「良くないよ!!」
さすがのアッシュも、たまらず声を荒げる。
「さっきから黙って聞いていたら、勝手な事ばかり言って!なんで僕が君に狙われないといけないんだい!?君の所の社長の差し金!?」
「――ハッ!あの坊ちゃんの差し金、だって?」
目を吊り上げて睨み付ける彼を、女は鼻で笑う。
「お前が面白そうだったからだ。面白そうなお前が悪い」
「……それって、密猟者が、高く売れるものを体にひっつけている動物の方が悪いっていうのとあまり変わらないような……。それに、僕の方には戦う理由無いし」
すると、彼女がニタリと嫌らしい笑みを浮かべた。
「いいや、お前は戦わざるを得ない。お前が戦わなければ、お前の愛しい恋人は死ぬ」
瞬間、アッシュの顔色が青くなった。
「ど、どういう事?」
オグナは、目に一抹の同情も交えずに冷たく言う。
「お前の恋人に亜ヒ酸を盛ったのは私だ。さらに言うなら、心臓近くの血管に、定期的に一定量の毒を注入する装置をぶっ刺しておいた。皆が寝ている間にな。どうも医者はその仕掛けに気付きそうだが、あの装置は今から2時間後、今度は即効性のコブラ毒を注入する。クレオパトラを殺した毒だ。美女を殺めるには最適だろう?さて、いくら名医でも、2時間以内に、密集する血管をかき分けて心臓というデリケートな器官近くの装置を摘出することが出来るかな?」
アッシュは唇を噛みしめ、震える声で口をこじ開けた。
「……つまり、ジャッキーを助けるには、君と戦わなくてはならない、ということか……」
「そうとも。もちろん、お前が私と戦う見返りも用意してある。このペンダントのスイッチを押せば、装置は停止する。当然、もう出てしまった毒は戻らないが、透析すれば取り除けるだろう」
「……分かった。受けて立とう。戦いは、今からかい?」
「もちろん。場所はこのナポリ全部。ペンダント関係なく、どちらかが死んだ時点で終了だ。ただし、ペンダントを操作しているときには、私は攻撃しない」
「いいだろう。早くしないとジャッキーが死ぬ。早速始めよう!」
言うなりアッシュは、先手必勝とばかりに、拳銃を敵に向けて発砲した。
しかし相手は、逃げるどころか自分の鋼鉄の体を盾にして突進し、彼の頭に、容赦なく鉈を振り下ろす。
「ゲッ!」
アッシュは本能的に逃げた。脱兎のごとく逃げた。だが敵は、持っている軽機関銃をめったやたらに撃ちまくってきた。
「危なっ!」
彼は辛うじて転がって避け、再び走り出した。
「えー!もう終わりぃ!?」
オグナは口を尖らせ、もはや瓦礫の山と化した店の外へ、何とか銃撃から逃れた3人には目も向けずズンズンと足を進める。
「アッシュー。出てきなよー。出てこないと撃っちゃうぞー!」
アッシュは、路地裏のごみバケツの中、迫りくる沈香の香りに体をガタガタ震わせてうずくまっていた。
(何あれ!?今まで遭った敵の中でもこんなの見たことがない!これなら、3年前のネヴィルさん10人に追いかけられている方がまだいい!)
絶望的な気分だ。
(僕は一体、どうすればいい?)
[Klara]
私が車に替わって乗せられた『Ultrasonic』のヘリがナポリ支社に止まったのは、午後3時頃だった。
厚く高い塀の中、ヘリから降ろされ、男達に引っ立てられながら、白で統一された直線的な社屋へ入る。中も白か黒ばかりで、社員のネクタイや女性の化粧、小さな観葉植物くらいが、辛うじて色味を足している。社員達はただ前をぼーっと見てせかせか歩き、会社内でウェディングドレスを着ているというだけでも明らかに異様な私にさえ目を向けない。
「人も含めて無機質だな……」
入り口で猿轡と縄を外されると、思わずそう呟いた。すると、兵士の中でも一番若いであろう男が答えた。
「軍隊というものそれ自体が、人を無機質的にすることを目的としているようなものでございます。新人こそ人間的な個性を残しておりますが、年数を経るごとに戦いに慣れ、身体的な個性はともかく性格的な個性は無くなっていきます」
「あの人ら皆軍人か?」
「いいえ。大方事務、ですから、我々兵の運用に当たっております。……では、こうしているのもどうかと思うので、社長室にご案内致します。……すまない、テリー、社長に警備を解いて下さるよう連絡してくれ」
「分かった」
兵士の1人が受付で何やら電話し、私達は先に廊下を進む。
「ここの警備は厳しいのか?」
「ええ。特に社長室近辺には、本社だけでなく支社にも様々な仕掛けを用意しております。我が社では、侵入者は全て生け捕りにします。生かしておけば、兵士にするなり新兵器の的にするなり、色々と使えますよ」
ぞくっと、背筋が凍った。クリストフなら、私を救いにここに乗り込みかねない。もしその時、ここの警備に引っかかったら……想像するのも辛い。
「……もし仮に、ヘルメスベルガー家の子息が罠にはまったら、どうなる?」
「…………分かりません。ただ、二度と自分の屋敷には帰れないでしょう。私だって、ストリートチルドレンだった時期にロシア支社に盗みに入って捕まった身なのですが、社長に信頼していただき、執事までさせていただいている今でも、故郷へ帰る事を許されないのですから」
まさかの被害者がいたよ。
「面白いな、あんた。名前は?」
「エヴゲーニー・ペトリャーコーフでございます。社長夫人の姓をお借りしております。社長にはオイゲンとドイツ語発音で呼んでいただいております。あの方、奥様の事も、カタリーナ様とドイツ語読みしていらっしゃいます。……さ、到着致しました」
見上げると、廊下の突き当たりに、バラやツタなどの装飾が施された、近代的な建物に似合わぬゴシック調の豪華な観音開きの木扉があった。
「それではご案内致します。少々お待ち下さいませ」
深々とお辞儀すると、ドアノッカーで、ゆっくり扉をノックした。
中から若い男の声がする。兄様だ。
「連絡はあったが、念のため聞こう。何者だ」
「オイゲンでございます。テリー・ブラック、ホセ・ベラスケス、パトリス・ロートレックと共に、クララ様をお連れしました」
「ご苦労様。入ってくれ。鍵は持っているだろう?」
「はい。失礼致します」
今時ファンタジーの中でしか見ないような古めかしい金メッキの鍵で扉が開かれるとそこには、かつてのメンデルベルグ家邸宅の母屋にあったような、暖炉、大きなシャンデリア、細やかな刺繍が入ったソファー、丸いコーヒーテーブル、ステンドグラスのようなランプシェードを持つライトスタンド、それがのった黒檀製のダイニングセットと、高級な調度品に彩られた大きな部屋があった。
さらに言うと、ダイニングセットの椅子2つにそれぞれ人物が腰掛けていた。
「久し振りだな、クララ。似合っているじゃないか、そのドレス」
1人は当然兄様。そしてもう1人は――
「く、クララお義姉様!どうしてここに!?」
行方不明とされていたシャルロッテだった。メタリックブルーのサテンのドレスを着ている。丁寧な化粧のせいもあってか、5年前に見た時と比べてずっと美しく成長している。特に、赤いルージュを引いた肉感的な唇は生唾ものだ。ただ、その黒い瞳は憂いを帯びている。
「家じゃ、音信不通だって皆騒いでいたが、ここに監禁されていたのか……」
彼女は、俯きながら小さく頷いた。
「さあ君達、これで任務完了だ。ゆっくり休んでくれ。ただし油断はするな。……おっと、オイゲンの部屋はここだったな。一緒に妹歓迎のお茶会を楽しもうじゃないか。このドレスに相応しい服装に着替えてきなさい」
「畏まりました。では、先にクララ様をお席にご案内致します」
彼は、椅子を引いて私を座らせてくれると、丁寧に頭を下げ、部屋の奥にある扉の向こうへ消えていった。
「……それにしても、その服装は、さてはヘルメスベルガーの長男との結婚式の最中だったんだな?」
「ご名答。おかげで台無しだ。もっとも、ルートヴィヒさんが家に馴染むきっかけともなったようだがな」
「お、お兄様!?」
それまで死んだ魚のような目をしていたシャルロッテちゃんが身を乗り出してきた。
「ど、どんなお方でしたか!?私、2歳になるかならないかの時にお兄様がいなくなってしまわれたので、よく覚えていないんです!」
「良い人だったぞ。聡明で強くて、それでいて少し不器用だな。多分、すぐ仲良くなると思うぞ」
「良かった……」
彼女はほっと溜め息を吐き、どっと椅子にもたれた。
「失礼致します」
エヴゲーニーさんが、執事服をまとってドアの向こうから出てきた。折り目正しくお辞儀するその姿は、とても元ストリートチルドレン兼泥棒とは思えない。
「では、今日ご用意できるお茶をお持ちしますので、少々お待ち下さいませ」
彼が持ってきたのは、透明な筒に入った数十種類の茶葉だった。産地も様々、ハーブティーなんかもある。
「今日のお茶請けは何かな」
「ザッハトルテでございます。シャルロッテ様が甘い物がお好きだと伺ったので。クララ様は、甘い物は苦手でありませんでしょうか」
「大好きだ。辛党でもあり、甘党でもある」
「夜は出来るだけ多くの酒を用意してくれ。こいつ、ジュース感覚でスクリュードライバー喉に流し込む奴だからな」
「畏まりました。……ですがクララさん、私は19でまだお酒が飲めないので、社長を酔い潰れさせて逃げる、なんてことは出来ませんよ」
「ちぇっ……って、19!?物腰からして20代半ばだと……!」
計画があっさりばれた事より、そちらの方が驚きだ。
「私、そんな老け顔ですか……?」
「違う違う!大丈夫大丈夫!」
ま、少なくとも、老けて見られて落ち込む様は少年らしい。
「え、それで、お茶の話だったな。私はアールグレイを頼む」
「私もそれで、砂糖多めでお願いします」
「なら私はダージリンをストレートで頼む。砂糖はいい」
「では、用意致しますので少々お待ち下さい」
エヴゲーニーさんは、茶葉を手に、湯桶室らしい所へ消えていった。
「いい執事ね。うちの執事長もきっとびっくりするわ」
シャルロッテちゃんがぼそりと呟く。
「彼は私が教育したんだ。最初は泣いて怯えていてね、安心させるだけでも苦労したよ。今では、私の方が苦労をかけているな。ハハハ」
場に似合わぬ和やかな空気が流れるが、私は2つ違和感を覚えていた。
なぜ兄様が、あれほど嫌っていた宿敵の娘に色目を向けているのだろうか。……いや、これは、父様譲りの女好きがなす業だろう。
だが、なぜあの兄様が、自分の会社、ひいては自分の身が危険に晒されているというのに、こんなにも清々しいのだろうか。
私は悟った。兄様は、既に死を覚悟しているのだと。
[Ash]
一方その頃、ナポリの別の場所でも、不穏な動きがあった。新興宗教団体『福音の家』で、だ。
そこには2人の男がいた。1人は、30代と思われる金髪碧眼でスーツ姿の美男子。そしてもう1人は、華美な真紅の飾り布が垂れる白いローブを着た、50代前後の怪しげな眼鏡男。2人共、外見にまるで類似点が無い……いや、1つある。その目のぎらつきが。
「――やはり、『Olive Branch』は我々の正体に勘付いているようです」
スーツ男が忌々しげに舌打ちする。
眼鏡男も、眉を吊り上げて歯ぎしりする。
「由々しき事態だ。もし一般人に悟られたら新たな信者が入らなくなる。金が入らなくなるぞ、ウィリアムズ!」
スーツの男――ウィリアムズは知っていた。この眼鏡――『福音の家』イタリア支部長にして福音庁イタリア支部長、ピエトロ・ヴァレンティーノが、福音庁の資金となる寄進金をピンはねしていることを。しかし、密告する気はなかった。何のことはない。自身も同じ穴の貉なのだ。
「上の方に聞いてみたら、『何をやってもいい』とのことで。どうします?福音流します?」
「当たり前だ!ついでに、メンデルベルグの坊主が言っていたオグナとかいう脱走者も始末してやろう。これで、支部の敵はいなくなる!一掃してやるぞ!邪魔者め!!」
「畏まりました。では、早速流します」
立ち去るウィリアムズも残ったヴァレンティーノも、ニタリと黒い笑みを浮かべていた。
「アッシュー。まだ逃げるの?早く戦いたいよー」
「無茶言わないでよ!トイレの掃除道具入れからマシンガン持って出てきたら誰でも逃げたくなるよ!」
一方、アッシュは未だに、黒い笑いを浮かべて追ってくるオグナから必死で逃げていた。傍らには、石原がサポートにと寄越したメイシャンがいた。
「こんなことをしていたら、ペンダントも奪えずに時間だけが浪費されていくぞ!」
「分かってますよ!ですが、この状況一体どうしろって言うんですか!」
戦いが始まってからというもの、ずっと相手に不意を突かれっぱなしだ。ゴミバケツから出てきたところで上から植木鉢を落とされそうになり(ちなみに当たったら致命的)、道を走っているとマンホールの中に引きずり込まれそうになり……、とやられ放題だ。さっきも、用を足し終わった途端、彼女に襲われた(用を足すまで待っていてくれただけ良心的か)。
「どうしよう……。どうも拳銃は効かないみたいだし、他の武器を調達しないと……」
開始から30分。残り時間はあと1時間30分。こんな事をあと3回繰り返していたらジャクリーヌは死ぬ。いや、ヒ素は彼女の体に定期的に注入されているのだ。1時間半持ちこたえられる保証はどこにもない。
アッシュは腹を括った。
「……すみません、あなたの鉈、貸して下さいませんか?」
「えっ……!?」
いきなりそう言われたメイシャンが目を丸くする。
「別にいいが、お前さん、使えるのか?慣れない機関銃は小銃にも劣るぞ」
「僕、一応元アメリカ軍士官ですよ!?ナイフ術は習ってます!」
彼は、プッと膨れてしまった。
「いや、別にお前さんを馬鹿にする気はない。しかし、こいつはナイフと勝手が違う。元々は薪割りにも使う代物だから、重さで斬るんだ。だから慣れないと逆に振り回される。それでもいいのか?」
「もちろんです!迷っている時間なんてありません!」
その目に、躊躇は無かった。不要なプライドも無かった。
「……分かった。しかし、振り回されそうになったら迷わず捨てろ。慣れる時間はない」
放り投げられた得物の重みが、ズシリと腕に響く。
瞬間、アッシュは、逃げの体勢から一変、踵を返してオグナへ突進した。
「そうだ!それを待っていたんだ!」
彼女は楽しそうに高笑いするなり、マシンガンを口に咥えて(!)、鉈を振り上げアッシュに肉迫する。
同時に、2つの刃がぶつかり、火花を散らす。
「ぐっ!!」
「おぉ……これは……」
互いの得物に弾かれ、2人は後ろへ飛ばされるも、なんとか踏みとどまった。
「なるほど……初めてにしては上出来、だなっ!」
「うっ……!」
反動も物ともせず突進してきたオグナに一瞬たじろぐも、彼は反射的に振り下ろされた刃を鉈で受ける。
大型刃物2つ分の自重に相手の剛力が加わり、腕が悲鳴を上げる。
「ぐっ!!」
しかしなんとか耐え、鉈の重みを利用して女に一撃浴びせようとするも、いとも簡単に片手で受けられてしまった。
「力の入りが弱い。オリジナルの言っていた通り振り回されているじゃないか」
「うるっさい……!」
それからというもの、斬っては受けられ、斬られては受けの繰り返し。ただ火花の光が削られた鎬の破片に反射してきらきらと輝くだけ。
ただ、アッシュは、自身の体力がかなり消耗されてしまっていることを自覚していた。
(このままじゃらちが明かない!ペンダントを奪えないどころか、その前に殺されかねない!)
彼の心に焦りが芽生え始めた。
だが、事態はさらに彼を追い詰める。
「うぅ……」
道を歩いていた1人の男が、呻き声を上げたと思うと、頭をかきむしって崩れるようにしゃがみ込んだ。1人だけではない。老若男女、何一つとして共通点が無さそうな通行人達が、何の前触れもなく苦しげに呻きだす。
(まさか……これは!)
アッシュは、3年前に死んだ兄、デヴリンの事を思い出し、妙な胸騒ぎを覚える。
オグナやメイシャンも違和感を感じたのか、既に逃げの体勢をとっている。
その時だった。
「――標的確認、任務開始します――」
最初に倒れた男の口から、まるで血の通っていない機械的な声が漏れる。
それを皮切りに、
「――標的「標的確認「標的確認、任務「標的確認、任務開始……
気が付くと、3人は通行人達に囲まれていた。
オグナが、苦い顔でアッシュに目配せする。
(とりあえず、今のところは休戦だ。まず、こいつらを蹴散らすか)
(彼らは一般人です。逃げましょう。犯人は分かっています。仲間に倒してもらいます)
(なるほど。なら、その犯人退治が終わり次第、ヌオヴォ城で落ち合おう)
彼らは迫り来る敵の合間を縫うようにすり抜け、蜘蛛の子を散らすようにナポリの迷宮のような路地へと消えていった。
[Go]
その数分後、木っ端微塵になった「高野工具店」の電話が鳴った。
「なんでこんな時に……」
明らかに機嫌を損ねている石原が、重い溜め息を吐いて電話を取る。
「はい、高野工具店です。……おお、アッシュか。そんな荒い息して、どうした?」
テレビ電話の画面には、ゼエゼエ息を切らしたアッシュが映り込んでいた。
「い、石原さん……。『福音の家』がついに動き出しました……」
「何!?」
いつも冷静沈着で余裕綽々な武器商人が目を剥いている。
「もしかして、今も銀虫の宿主に追われているのか?」
「そうなんです!あの女の人も狙われているみたいで、らちが明かないから、1回休戦して逃げているんです!」
フー、と再び深く嘆息し、頭を抱える。
「……それじゃあ、あの連中のアンテナを破壊すればいいんだな?」
「そうですそうです」
「分かった。グウェンにも協力してもらう。久しぶりの出撃だ。喜んでやってくれるだろう」
「お願いします――あー!!またなんか来たー!切ります!」
「捕まるなよ」
通信が切れるなり、石原は壁に掛けてあったフライトジャケットに腕を通す。
「ミハイル、聞いてたろ。用事が出来た。すまんが瓦礫を片付けておいてくれ」
ミハイルは嫌な顔1つせず頷き、黙々と作業している。
石原が壁の残骸をまたいだ瞬間、そこにポカンと立っていた1人の青年と鉢合わせた。
「おお、キース君じゃないか。久しぶり」
「こんにちは。ご無沙汰しております。私は『Adam』の一員であるウィリアム・クラーク・ハリソンさんの部下であるキース・ハッチソン、2009年生まれ24歳でございます」
異様に折り目正しい挨拶に、空気が冷える。
「あのな、初対面じゃなければ、自己紹介はいらないぞ。『こんにちは、ご無沙汰しております』で十分だ」
「そうですか。では次回からそうします」
「あ、キース!」
ミハイルの顔がパッと輝く。
「いやー、さっき店壊されてな、ちょっと手伝ってくれ」
「手伝い、とは具体的にどのような事をすればいいですか?」
キースが再びポカンとしてしまう。
「あ、そうか。お前、アバウトな言葉が大の苦手だったな。とりあえず、俺がこの瓦礫を片付ける。お前は俺が発掘した武器を修理してくれ」
「分かりました……ところで僕、今日はハリソンさんから伝言を預かってきたので、今から読みますね」
「ん?え、ああ……」
少々どころかだいぶ戸惑いながらも、平静を取り戻す。
するとキースは、テープを再生しているかのようにつらつらと語り始めた。
「『久しぶりだな、剛。お前とは、手紙のやりとりすら半年ぶりだな。元気だったか?
……さて、早速本題に入る。良いニュースと悪いニュース、そして依頼だ。
まず良いニュースだ。《福音の家》ロンドン支部長が、鼻の良いロンドンのポリ公に捕まった。次に悪いニュースだが、それに腹立てた教団が、西ヨーロッパの支部の内《Olive Branch》と関係のある所で大規模に福音を流すらしい。もしかしたら、キースが着く頃には流れているかもな。
そこで依頼だ。どんな方法でもいい。連中の根城をぶっ潰してくれ。場所はキースに覚えさせている。半ば《平和省》に作られた俺が、連中の暴走を見過ごすわけにはいかない。3カ所だから大変だろうが、頼む。俺はアメリカの本社の方をやる。
あと、《Ultrasonic》も防御網を強化するらしい。しばらくはちょっかいかけない方がいいだろうが、いずれあっちも頼む』……だそうです」
「元よりそのつもりだ。……それで、標的はどこだ?」
「えっと、これです」
キースが取り出した物は、プラスチックの板に描かれた構造式。
「……何だこれ。俺化学は苦手なんだ」
「俺も文系です」
「これはアネトールといいます。アニスやフェンネル……ウイキョウですね、それに含まれます。アニサキス幼虫に対して殺虫剤として働きます。これのメトキシ基をナポリに、ベンゼン環をローマに合わせます。ベンゼン環とこのC、炭素の部分が今回の標的です。それぞれ、ローマ、リヨン、フランクフルト、そして今回潰されたロンドン、となります」
「分かった。行ってくる」
短く言い残すなり、石原は車を走らせた。
[Caroline]
カロリーネがカヴァリエーリ研究所に着いたのも、それから間もなくのことであった。
「ここが研究所です!大きいでしょ!」
「研究所でこの規模はすごいや!」
「……俺の実家くらいか」
「あれ?君って農家の子じゃなかった?」
「畑も入れてです」
「どっちにしろいいとこの子じゃないですか!」
警備室からは、怪訝そうなセルジオとエカテリーナの顔が覗く。
「リーネ!今までどこほっつき歩いていたんだ!?それでその2人は誰だ!?」
セルジオは物凄い剣幕で3人に詰め寄る。
「それは、ヘルメスベルガーを滅ぼしてお姉様を連れ戻そうと……」
「いないじゃないか」
「『Ultrasonic』にさらわれてしまったの。だから助けに行こうと……」
早くも、相手が落ち着いてきた。元々あまり声を荒げるのは好きではない性分なのだ。
「なるほど。いや、ガウェインから聞いちゃいるが、お前本人に聞いておいた方がいいと思ってな。偽物が出来ていても不思議じゃないからな。それで、こいつらが同行者か。何者だ?」
「こっちはクリストフ・フォン・ヘルメスベルガーさん、お姉様の許嫁。そしてこっちがペトリ・ツオネンさん、一流の狙撃手よ」
「……ちょっと待て。何で敵の人間と一緒にいるんだ?」
「お姉様を助けるって、利害が一致したのよ。大丈夫、この人も手練れよ」
「そうか。お前がいいってんならいいよ。……さて、会議にしても、こんな所では出来ない。中に入ろ――」
門前でけたたましいクラクションが響き渡ったのは、その時だった。
「石原の車だ」
そう言うと、エカテリーナは、10年は使っているだろうボロボロの灰色のカローラに近寄った。
窓が開いて姿を現したのは、やはり石原だった。
「すまない。今すぐグウェンを呼んできてくれ。急ぎの用事だ」
「え?あ、はい」
彼女は何か聞きたげではあったが、相手の切羽詰まった様に、全力疾走して宿泊棟へ駆け込む。その間に、車は門内の広場に停車して運転手が降りてくる。
3分も経たない内に、エカテリーナに連れられてグウェンがやって来た。まだ要件を言ってもいないのに飛行服に着替え、目は爛々と輝いている。
「出撃か!?出撃だろ!?出撃だよな!!」
「気が早えよ。しかし、まあ出撃だな。……今、現在進行形で『福音庁』が動いている。銀虫の宿主が暴走し、アッシュがそいつらに追われている。そこで、だ。今からローマに、奴らのシロを潰しに行く。それだけじゃない。フランスのリヨン、ドイツのフランクフルトのシロも動き出す危険性が高いから、そいつらも叩く。どうだ?」
「乗った!面白そうじゃないか!しかし、何で今になって活発になったんだ?」
石原は困った顔で息を吐く。
「ロンドン支部長がおナワになってな、それにいきり立ってるんだとよ。だから、『平和省』関連の組織は気が荒くなっている。『Ultrasonic』も、『Athena』を久し振りに送り込んでくるかもしれない。きわめて危ない状況だ。しばらくは様子を見ていた方がいい」
カロリーネたち3人は、顔を見合わせた。
「まさか、会社を叩くつもりだったのか?やめておけ。ただじゃ済まない」
「そんな!」
クリストフが悲鳴を上げる。
「奴らに、クララ――僕の婚約者がさらわれたんです!妹ももしかしたら手に落ちたかもしれない!それなのに、手をこまねいてじっとしていろとおっしゃるんですか!?」
「残念だが、諦めてクララが止めてくれているのを祈るしかないな。お前さん、話を聞くにヘルメスベルガー家の次期当主だろう?考えてみろ。世継ぎのお前さんが死んだ時の一族の損失の大きさを」
「……っ!」
彼は、唇を噛んで押し黙ってしまった。
「ちょっと待って下さいよ!」
そう食ってかかったのはカロリーネ。
「さっきから、私達が負ける前提で話してますけど、要は全員死ななけりゃいいってことでしょ!?そこは大丈夫です!万が一の事があっても、私が盾になりますから!それに、どうせしばらく行けないんなら、警戒態勢が完成しきっていない今に行くしかないでしょう!?」
「……困ったなぁ……。お前さんはいくら説得しても聞かないからなぁ……」
石原は、苦笑いして頭を掻く。
「仕方ない。好きにしろ。俺たちも好きにするから、おあいこか。行くんなら、俺んとこの商品持っていけ。店、物理的に潰れちまってるから、まともなのが残っているか分からんがな。今日はロハでいい」
カロリーネとクリストフの顔が紅潮する。
「ありがとう石原さん!」
「礼は帰ってきてから言うんだな。…………さて、待たせたな、グウェン。行くか」
「本当に待ったぞ。今日は後部機銃手頼んだぞ」
「おいおい急降下するのかよ。早死にさせる気か」
2人のパイロットは、悠然と武器倉庫の扉を開ける。
中から現れたのは、緑色の機体輝くJu-87。
「それじゃ、行ってくる」
2人が乗り込むと、プロペラが激しく回転し、周りの空気を揺らす。
やがて機体が陸から浮くと、猛スピードで夕焼け空へと消えていった。
[Ash]
「んもー!いつまで追ってくるのーっ!?」
アッシュは、不平を言いながら、茜色の光に照らされた路地裏を全力疾走していた。後ろからは数十人の人間達が、軍隊訓練かのように足並み揃えて追ってきている。
「早くしないとジャクリーヌが……!」
ただ、苛立ちだけがつのる。
このままでは、オグナと戦う前にタイムリミットを迎えてしまう。さて、追っ手を蹴散らすか、ラスボスと先に勝負をつけるか。どちらにしろ、リスクは山積みだ。
「ま、とりあえずこいつらやっつけちゃおっかな!」
振り向きざまに鉈を背後に向け――硬直した。
切っ先の向こうにいたのは、幼稚園バッグを肩から掛けた幼い女の子だった。
いつ、どのような経緯で銀虫に寄生されたかは分からないし、どのような事情があろうと間違いなく敵だ。しかし、だからといって年端もいかない子供を殺めていいものだろうか。
女の子だけではない。その傍らには女がいる。手をつないでいるあたり、母親なのだろう。神経を支配されていてなお母親らしくあろうとするのは驚きに値するが、さて、女児を助けたところで、この女性を殺してしまったら、正気に戻った時、一体どうなってしまうのだろう。
アッシュは得物を振り下ろす事が出来なかった。『Olive Branch』に入る前、いや、入った後リーダーとなってからでさえ生じなかった感情が、彼に武器を振り下ろさせなかった。銃ではなく、命を奪う生々しい感覚が直接響く凶器を手にしたせいだろうか。
敵にも家族はいる。友人もいる。恋人だっているかもしれない。その人生が、この鉈を振り下ろすだけで全て無に帰すのだ。果たして自分に、そんな事をする権利などあるだろうか。
敵が迫る。アッシュはその中で、武器を捨て、生身の体でぶつかっていった。
棒の一本すら持たず、殴る、蹴る、投げる、ぶつかるなど原始的な攻撃の繰り返し。当然、元軍人であろうとも、凶器を持つ追っ手を相手に無傷でいられるはずもなく、突っ込むたびに鮮血が飛ぶ。それでも彼は、銃に手が触れても振り払った。
包丁片手に迫る主婦風の女を回し蹴りで仕留めたと思ったらカッターナイフが左手の皮膚を裂き、鉄パイプを振りかざすチンピラの懐に入り込んでタックルを食らわせたと思ったら、大男に軽々と投げ飛ばされ、壁に叩きつけられる。しかし彼は、多勢に無勢の中、逃げようともせず、がむしゃらに挑んでいく。
敵に際限はなく、ただいたずらに体力が消耗されていく。だが彼はそんな中で、兵士という兵器ではなく、ただの生身の男に戻っていた。
[Go]
一方、石原はローマ郊外の上空にいた。
「もう少しでポイントだ。グウェン」
「Ja」
パチン、と指を鳴らす音のすぐ後、ドイツ語の返事が耳に入った。
「おそらく、ここでのミッションは楽だ。問題はその後だな。奴らの情報網は幅広い。ここの事もすぐに広まるだろう。だから、リヨン以降は奴らも気が立っているはずだ。もっとも、ローマの方にも予告はしているがな。匿名で。パールハーバーの二の舞はごめんだからな。だがまあ、本気にはしてないだろう」
「要するに、リヨン以降が本当のお楽しみなわけだ」
「そうとるか?怖気づかれるよりはいいが……。……おっと、そろそろお待ちかねのポイントだぞ」
途端、グウェンの声色が躍る。
「やっていいのか?やっていいのか石原!?」
「本当はもう少し様子を見たいが……時間が無い。やってくれ」
「Ja!!」
スツーカが機首を地上に向け、久々の仕事にエンジンを唸らせて急降下する。
「Zusammenbrich(崩れ落ちろ)!」
機関砲が火を噴くや否や、アンテナが爆音を轟かせて崩れ落ちる。
「すげぇ……」
歴戦の猛者であるはずの石原でさえも呆気に取られる。
既に全員逃げてきたのか、様子見の人間もいない。
「この調子で全部壊していいか?」
「いいや、弾丸も時間も無い。フランクフルトのアンテナを破壊するまで我慢しろ。やるんなら帰りにやってくれ」
「……期待していたというのに」
「大人なんだから辛抱しなさい」
「はーい……」
口を尖らせるグウェンに若干どころじゃない不安を抱えつつも、飛行機は進み続ける。
次の目的地はフランス・リヨン。
[Ash]
同時刻、ナポリにも変化が表れていた。
「はぁっ……!……っはぁ……」
日が傾き、闇に染まりゆく小さな路地の辻、アッシュは満身創痍で横たわっていた。
周囲には人影1つ無い。銀虫の宿主達は、何の前触れもなく正気に戻ったかと思ったら、首をひねりながらもどこへとなく去って行った。
もうすぐ約束の2時間後になる。しかし、立つどころか腕を動かすのもやっとなこの状況、オグナを捜すなど到底不可能だ。
その時だ。
「――へぇ、まだ生きてたのか」
ぬっと視界に顔を覗かせたのは、オグナだった。
「それにしてもボロボロだなぁ。そんなんじゃ戦えないだろう?」
どうしてだろう。表情が残念そうだ。
アッシュが、気味悪げに顔を歪める。
「今日は見逃してやると言っているんだ。どうせ殺すならじっくり楽しませてもらってから殺したいしな」
彼女はすっと立ち上がって髪をかき上げる。立って初めて分かったが、全裸だ。白い肌の蠱惑的な肉体が艶めかしい曲線を描いている。
その胸元には、ジャクリーヌの命を握るペンダントが夕日を受けて輝いていた。
タイムリミットはまだ過ぎていない。
瞬間、アッシュの力無く投げ出された手が、ぐっと地をつかむ。
「あのアリ共さえいなければ――」
敵に背を向けた――それが一瞬の隙となった。
その瞬間、アッシュは力を振り絞って踏み出し、オグナの細く白い首を鷲掴みする。
「なっ!どこにそんな力が……!」
いくら彼でも、敵に反撃の隙を与えるほど紳士ではない。すぐさまペンダントを乱暴につかみ、震える指でボタンを押した。
ピッ、と、拍子抜けするような無愛想な音だけが聞こえた。
「はぁ……」
感情の一切無い、ただ息だけが漏れた音と共に、アッシュは崩れ落ちた。
「…………」
オグナは、気を失った敵を前に一人佇む。
「……約束は約束だ」
彼女はバサッと髪をかき上げると、すっかり暗くなった路地の奥へと姿を消した。
[Caroline]
陽が幾何学的なビルに完全に隠され、空は見る見るうちに群青色に染まっていく。
『Ultrasonic』でもそろそろ退勤時刻。スーツ姿の会社員達がぞろぞろと帰路に就く。
彼らは知らなかった。オフィスビルの前、その周辺を行く通行人が、ずっと自分達を観察している事を。
しばらくすると、ベンチで携帯電話をいじっていた若い女がおもむろに通話を始める。
「あ、もしもし?……うん、さっき調べたんだけど、すいてるってさ。…………うんうん、はーい、先行っとくねー。……あーい、じゃあねー」
するとその女は、帽子を深くかぶり直し、会社員の波とは逆走、ビルに向かう。
自動ドアの向こうには受付嬢すらおらず、若い男――エヴゲーニーが片付けに追われていた。
「すみませーん、おトイレ借りたいんですけどー」
彼は忙しいにも関わらず、嫌な顔一つしない。
「申し訳ございません。こちらではお手洗いはお貸ししておりません。よろしければ、近くの公衆トイレもしくはコンビニエンスストアをご紹介致しましょうか?」
「いやいや!そんな余裕無いんです!ちょっとおなかがゆるくて……」
「それでしたら、今回は特別にご案内致しましょう」
案内されたのは、白い廊下の突き当たりにあったお手洗いだった。綺麗。
「さ、どうぞこちらで――」
そう言ってエヴゲーニーが振り返った、その瞬間だった。
「……んむぐぅっ!」
いきなり、女が彼の口を塞いでトイレに引きずり込んだ。
必死で抵抗するも空しく、上着を剥がされガムテープで手足口をぐるぐる巻きにされてしまった。
女が、帽子をとって携帯電話を取り出す。
その顔は、紛れもない、カロリーネだった。
「潜入成功よ。1人確保したわ」
『分かった。俺たちもすぐに行く。挑発するにしても、もう少し深く潜入してからにしてくれ。捕虜は殺すなよ。人質に使えるかもしれない』
「えー!お兄様には人質なんて効かないわよ。殺った方がいいんじゃない?」
『それはやめろ。会社どころか一般人にも嫌われる』
「はーい。そうするわ」
『携帯電話を持っていたら奪っておけ。万が一社長に連絡されたら困る』
「分かった」
カロリーネは携帯電話を胸ポケットにしまうと、エヴゲーニーを掃除道具入れに押し込め、彼の上着から電話をまさぐり出して、何事も無かったかのようにトイレから去った。
[Klara]
「何!?『福音庁』ローマ支部が爆撃されただと!?」
部下の報告に、兄様はひどく狼狽した。
「はい。既に全て博物館行きもしくは廃棄されたはずのJu-87によるものと報告を受けております。こちらが偶然撮られた写真なのですが……」
「貸せ。……ふむ。確かにJu-87だな。……なるほど。犯人はほぼ確定した」
……これって、ひょっとしてグウェンさんの?
「奴は対空砲に弱い。出来るだけ多くの対空砲を用意するよう、リヨンとフランクフルトの支部に伝えろ」
「畏まりました」
どうやら、『Olive Branch』も動き出したらしい。きな臭くなってきた。
「良かったなぁ、クララ、シャルロッテ。近々、『Olive Branch』あるいは『Psyche』が襲撃してくる可能性が高いぞ。もしかしたら、今日来るかもな」
そう冗談めかした兄様は、屈託のない微笑みを浮かべていた。
「さて、まあそれに備えて、準備しておくか」
よいしょ、と腰を上げる兄様を、私とシャルロッテちゃんはポカンとして見つめる。
「どうする?ついて行く?」
「私はこんな状態だから行けませんわ」
彼女は、手錠に繋がれた手を引っ張って見せた。
「じゃあ私が行ってくるよ」
たどり着いたのは、部屋の端にある、壁と同化した隠し扉。
「クララ、お前も見ておけ」
兄様はポケットから鍵を取り出し、おもむろに扉を開ける。
その扉の向こうにあったものは――。
今回も、結構濃密な話になりそうです。気長にお待ち下さい。
ちなみに、作中に出てくる「中華王国連邦」についてですが、本当なら今時新しく王国なんて古臭いものができるとは思わなかったのですが、現在の情勢が、正直言って過去に逆戻りしている感じなので、あえてこうしました。ちなみに、メイシャンとこの国は少数民族系、んで侵略してきたのは漢民族系という設定です。何となく。